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夏の扉を開けるとき  作者: 萩尾雅縁
第四章
110/219

此岸 4.

「やぁ、おはよう、先生(ドクター)


 食事を終えて残るコーヒーを飲みながら、ぼんやりと庭の白薔薇(アイスバーグ)に見入っていたときだった。背後から聞こえた声に、反射的に胃がぎゅっと縮こまっていた。緊張で神経が逆立つのが判る。意識は奥底に退避して、鎧を身につけるように皮膚が張り詰める。


 一呼吸おいて、おもむろに立ちあがった。唇を大きく横に引きあげて。


「おはようございます、アイスバーグさん。ご厚意に甘えさせていただきました。ありがとうございます」

「なあに、かまわないよ。ロンドンからは遠いからね、そんなこともあるさ」


 スミス夫人に心底感謝した。彼女は僕たちの急な訪問を、三か月おきのいつもの面談だと彼に説明してくれていた。その道中に、僕の助手のコウが体調を崩し、到着が大幅に遅れて遅くなってしまったので、昨夜から泊まってもらっているのだ、と。


 彼は当たり前に僕の向かいの籐椅子に腰かけた。良かった。機嫌はよさそうだ。今の僕では、上手く彼の相手ができるとは思えない。下手なことを言って余計な刺激を与えてしまわないうちに、適当な理由をつけて退出すべきだろう。


 だがすでに、彼はとうとうと喋り始めている。内容は彼の妻(アビー)のこと。

 彼女は早起きで、もうとうに朝食を終えて庭を散歩している。そのうちここにも姿を見せるかもしれない。僕のことは話してあるから、彼女が来たら少し相手をしてやってほしい。

 そんな、いつもと変わりばえのない報告だ。退出の機会を得損なわないように、僕はいつも以上に真剣に耳を傾ける。


「どうも最近、家内には心にかかることがあるようでね。よくおかしなことを言いだすんだよ」

「お子さんのことでしょうか?」


 そろそろいつもの発作が始まるのだろう。

 これは自分たちの子どもじゃない、そう言って人形を叩き壊すのだ。自ら作った人形(夢の子ども)を、自らの手で。そしてまた、いちから作り直すのだ。

 繰り返し、繰り返し、壊れたプレーヤーのように、偽りの永遠を軋んだ夢が廻り続ける。いつか本物の永遠が、彼のうえに慈悲の帳をおろすまで――。


「それが、違うんだよ、先生。子どもは子どもでも、もっと大きな男の子のことなんだよ」


 ドクン、と心臓が大きく脈打っていた。彼との会話のなかで、男の子、という単語がでてきたのはこれが初めてなのではないだろうか――。


 彼のなかで、赤ん坊の認識に変化が起こったのだろうか。もしかすると、前回のコウの訪問や彼との会話が、なんらかの影響を彼におよぼしたのかもしれない。トクトクと脈が走る。緊張で手が震える。彼は、思いだしかかっているのではないか――。


 彼が彼の妻(アビー)の棺に叩きつけた、赤ん坊(ぼく)のことを――。



 だが、彼の話すその「男の子」は、どうやら僕ではないようだった。それは僕よりも、コウのように思えた。おそらく前回の訪問が、彼の意識のなかに取り込まれ変容しているのだ。


 彼の話では、彼の妻(アビー)は、時々訪れる黒髪の少年の世話に夢中らしい。きっと、彼女は男の子が欲しかったからだ、と彼は吐息を漏らして言った。


「おかげであれだけ夢中だった人形から意識が逸れているのはいいんだがね。どうも複雑な気分だよ。人形とはいえ自分の子どもだと思っているはずなのに、そっちはほったらかして、よその子に夢中になっているように見えてねぇ」

「あなたは、その子どもにお逢いになられたのですか?」

「私には見えないんだよ。あれの妄想にすぎないからね」


 彼は肩をすくめて苦笑した。



 妄想――。


 彼の抱える妄想の妻は、失った子どもを忘れ、新しい妄想に夢中だという。僕はこれをどう解釈すればいいのだろうか。


 だがこれは、彼が僕という人間を初めて認知したとき以来の変化だ。僕が大学に入学した(とし)から8年もの間、とりたてた変化も進展も生じることはなかったのに――。


 そういえば、あの時の変化もとうとつだった。13の年からずっと僕は空気だったのに。息子という存在はどこまでも空気のように、彼に認知されることはなかったのに。

 臨床心理学科の学生になったことで、僕は役割というひとつの形を与えられたのだ。ボランティアの一環として、この世には存在しない、心を病んだ彼の妻に心理療法を施す心理士という名目で――。

 これも彼の主治医の発案だった。そして、僕が認知を得られたことで、彼の治療は進展を得たと捉えられた。スティーブは大いに僕に期待した。親友の息子は自らの存在で彼のなかの喪失を埋め、彼の心を癒して、彼の魂をあるべき此岸(しがん)に呼び戻すに違いないと――。


 こんなことで、彼自身は、なにも変わりはしなかったというのに。


 彼は僕という人間を認識できたわけじゃない。心理士見習いをひとり、認知したにすぎない。彼に映る僕には顔なんてない。のっぺらぼうの記号にすぎない。


 僕にとっての他者が、僕の空漠を埋めるための享楽という感覚記号にすぎないのと同じように、彼には、アビーを生かす妄想世界をより円滑に動かす材料としての記号が必要なだけなのだ。





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