規則
都合のいいことに、今晩、ショーンは遅くなるらしい。彼はその屈強そうな外見からは想像もできないほど気が小さいのだ。つまらぬことでコウに醜態を晒し、顔を合わせるのが気詰まりなのだろう。
それに、赤毛もどこかへ出掛けていなかった。こんなふうに、あの赤毛は時々ふらりといなくなる。
「いつものことだよ」とコウも表面上は心配する様子をみせない。あの赤毛は一年もの間、忽然と行方不明だったのだ。どうやら放浪癖があるらしい。さすがにコウも思い煩うだけ無駄だ、と肚をくくっているのだろう。
僕としては、あの目障りな男がこのまま消えてくれれば――、と願わずにはいられない。が、残念ながら今までのところは、奴は連泊することなく律儀に帰ってきている。コウに長期間に渡って心労をかけたことを反省して、というわけでもなさそうだが……。
ともあれ、久々の三人での夕食だ。キャンプから戻ったばかりのマリーの慰労も兼ねて、コウが腕を振るってくれた。
食卓に並んでいるのは、ピンクや黄色、緑と彩りも鮮やかな、「チラシズシ」というスシの仲間らしい。それに透明のスマシジル。いい香りがする。サラダに、マリーと僕の好物の甘いチキンもある。
コウがこの家に来てくれてから、僕らの食卓はどれほど豊かになったことか!
留学生として日々勉学に励みながら、コウは一切、家事の手を抜かない。少し強迫神経症的な要素があるのではないか、と心配になる。
一度、彼にそれとなく尋ねてみた。彼は笑って、「とりたてて趣味があるわけじゃないからさ、勉強以外の何かをしたくなるんだ。思い立ったらすぐできるだろ、掃除や料理って。これでバランスとってるのかな、って気がするよ」と言っていた。「それに、成果がすぐに出るのも嬉しいのかも。ありがとう、アルビー。いつも、ちゃんと気づいてくれて」とも。
僕も、マリーも見向きもしないような箇所、洗面台の蛇口や、ドアに嵌めこまれた金属のプレートなんかが、いつの間にかぴかぴかに磨かれていたりする。コウがいるだけで、家の中の空気の透明度が上がる。呼吸すら楽になるほどに――。
「アル、おかわりは?」
コウが機嫌よく目を細めている。「もう充分。美味しかったよ」と断り、食後のコーヒーを頼んだ。マリーが頷いて立ち上がる。食事のお礼だ、と彼女はそそくさとキッチンに向かった。
「きみもマリーも、優しいよね」
マリーのいるキッチンへ視線を流し、彼女には聞こえないように小声で囁いたのだが、僕は何のことか判らず首を傾げてしまった。
「おかわり、ドラコとショーンがよく食べるから、気をつかってくれたんだろ? たくさん作ったから平気なのに」
――そんなこと、思いもしなかった! あの二人に気をつかうなんて!
足りなければ自分で何とかしろ、子どもじゃないんだから。と、そんな思考しか浮かばない。だがコウは、こんな些細なことすら善意に捉える。
そもそも僕もマリーも、この場にいない人間のことなど考えはしない。夕食を済ませて帰ってくる彼らのために、わざわざ夜食として取り分けておくことの意味が、まず理解できない。きっと食べたがるに違いないから、とコウは言うのだ。だがそんな連中のために、自分が我慢する理由にはならない。その場で食べる量なんて、あくまで自分の腹具合の問題にすぎないのだから。
「マリーはショーンのこと好きじゃないのに、こんなふうに思いやってくれるだろ。喧嘩したばかりだっていうのに変わらずにさ。そういうところ、すごく尊敬する」
柔らかな吐息を漏らし、コウは顔をほころばせている。彼の「思いやる」という言葉の認識は、かなり歪んでいると僕は思う。
それに、僕たちはついさっきまで、あの二人をいかにして追いだすかの策を練っていたのだ。
これだからコウは放ってはおけない。自分がいいように彼らに利用され、搾取されていることに気づきもしない。
つい絶句して黙り込んでしまったことを、彼が過度に気にすることのないように、微笑んで、曖昧に話しを切り替えた。
「根に持つような子じゃないよ。この家をシェアしているんだしね。それでね、マリーとも話していたんだけど、」と朗らかに言い放ち、彼らに気持ちよく去ってもらうための、新しい規則の原案を提示した。まずは、コウ自身のためになるような事柄からだ。
ソファーに移り、コーヒーを飲みながら三人で額を突き合わせた。あの二人は文句を言うに違いないから、あくまで草稿として、コウに意見を求めてまとめあげた。
「だいたい、こんな感じでいいかな?」
コウに確認を取る。
「うん。じゃ、さっそく二人が帰ってきたら僕から伝えて、」
「ああ、コウはいいんだ。僕が伝える。その方が彼らも反発しづらい」
「反発? なんで?」
「馬鹿ね! あの二人が素直に規則になんて従うわけがないじゃないの!」
「そうかな? すごくいい案だと思うけど……」
不思議そうにコウは首を傾げている。やはり無邪気な彼は、この規則の何が彼らのネックになるのか、気づきもしない。ため息がでるほど純粋な、僕の可愛い子猫――。
きみ以外には、何もいらない。