迷路 5.
白昼夢、のはずがない。むしろ入眠時幻覚だろうか。どうやら起きているつもりでも僕は寝こけていて、ここは夢のなからしい。バニーがこんな声で、こんなことを言うはずがないのだから。しかし、赤毛とバニーが合成されているなんて、僕の無意識はなんていい加減なんだ。自分の夢ながらあり得ないだろ。奴とバニーの間に共通点なんてまるでないのに。
半ば呆れながら鏡のなかのバニーもどきを眺めていた。彼は立ちあがり、「来い。教えてやる」と片腕を高く挙げて僕に向かって手招きする。形はともかく、これはやはりバニーじゃない。そんなことを思っているのに、足は勝手にその手に手繰り寄せられて、鏡の前まで歩いていて――。
向けられたバニーの手を取ろうと手を伸ばしていた。冷やりとした手触りの鏡面が揺れる。そのなかに溶けいるように向こう側に落ちていた。とぷんと水のなかに飛びこんだみたいに。
頭上高くから光が射しこみ、キラキラと爆ぜている。水紋のようにゆらゆらと輪が広がり揺れている。その向こうに見えるのは、歪んで伸びているクローゼットルームか。
「ここは?」
床のうえにしゃがみこむ僕を見おろしているバニーに尋ねた。
「コウの夢のなかだよ」と、バニーがバニーの声で応える。「さぁ、行こうか」
彼はくるりと僕に背中を向けて歩きだす。僕は遅れまいと彼のあとを追う。
水のなかを歩いているように、足取りが重い。わずかに身体を動かすだけで、ゆるりとした抵抗とズンとのしかかる圧を感じる。視界もまた水中でも覗ているように歪んではっきりしないのだ。空気そのものが青緑がかって流れているような。その流れに逆らって、僕たちは進んでいる。
「バニー、コウの心はいつもこんなに圧力を感じているの? 夢のなかでさえ」
「ああ、これは、僕たちが彼の過去へ向かっているからさ」
こんな圧力など感じていないような涼しい顔で彼は応えている。
「ほら、視えてきた」
バニーはどこか遠くを指差している。だけど、僕にはなにも見えない。「どこ?」と彼の腕に触れて注意をひいた。
「気持ち悪! よくそんな奴に触れるな!」
「気持ち悪~!」
「よるなよ!」
とたんに、そんな子どもの声が飛びこんできた。
えっ、と驚いて周囲を見回した。子どものものらしい影が、いくつも蠢いている。そして僕が掴んでいる腕も。バニーじゃない。小さな男の子だ。
コウ――。彼は、コウだ。
いくつくらいだろう。まだとても幼くてあどけない。でもコウだ。彼の愛らしさはそのままだもの。けれど辛そうに俯いている。唇を噛んで、だらりと垂らした腕に拳だけを固く握りこんで。
こんなに小さな子どものコウに、彼らはどうしてこんな酷いことを言うんだ? そしてなぜ、コウはなにも言い返さないんだ?
「黙れ! 彼は気持ち悪くなんかない! なぜそんなことを言うんだ!」
空気を震わせて響いている淀んだ声に向かって、僕は思わず叫んでいた。
声が、ケラケラと笑いだす。その尖った振動が、ねっとりとした密な空間をますますいびつに歪ませる。
「見えないの?」
「それが見えないの?」
「こいつ、人間じゃないだろ!」
「ばけもの!」
「気持ち悪い!」
小さなコウを囲む地面が、どろりとぬかるんでいた。数々の手が彼の周囲を這っている。コウを探しているのだ。捉まえて、内側へ引きずりこもうと。不透明にもかかわらず、僕にはこの地面の内側にあるものがはっきりと判った。この境界に立つコウが迷っていることも。内側よりも外界こそを、彼が異常に恐れていることも。一瞬のうちに僕は理解していた。
僕は彼を抱えて地面から離し、高く抱きあげた。
「渡さない! コウはこれから僕といっしょに生きるんだ。僕に逢って、僕と恋に落ちて、彼の未来は僕とともにあるんだ!」
「誓う?」
小さなコウがガラスのような瞳で僕を見つめて、金属的な声で尋ねていた。
「誓うとも! 精霊の名にかけて!」
いつかコウに教わった呪文のような名前を唱えていた。記憶にさえ残っていない言葉が、スラスラと口から流れでていた。
とたんに小さなコウの身体が燃えあがる。その焔を、僕から伸びでた緑の蔓が包んでいく。だが焔柱も、蔓のように見える緑の輝きも、びっしりと細かな文字群の連なりなのだ。僕には読めない古代文字の――。
それも、瞬く間に蒸発したかのように消えてしまった。水底にも似た意識の底に、僕は一人。
バニーも、コウもいない。
なんて夢だ。これがコウの夢だなんて。悪夢もいいところじゃないか!
無性に腹が立っていた。コウを侮辱するあの声にも、なにも言い返せないまま項垂れていたコウにも。
僕はどんなコウだって愛している。彼の周囲がどれほど騒めかしいものであろうと。僕がこんな連中と同じに彼を貶めるなんて、そんなことをコウは恐れていたのかと思うとがっかりだ。コウは僕がどれほど彼を愛しているかまだまだ解っていないのだ。
僕はもっと、ちゃんと伝えなければならないようだ。
彼が、僕にとってどれほど大切な存在かということを。
 




