疑惑 8.
「やっぱり我慢できない! アル、あの馬鹿、追い出して!」
「どっちの馬鹿?」
菫色のベッドカバーの上に突っ伏していたマリーは、僕の顔を見るなり跳ね起きて、案の定、食ってかかってきた。
彼女の頭を引きよせ抱えてあげた。可愛いマリー。いつまでたっても甘ったれの可愛い僕の妹――、のような子。きみが本当の妹だったら、それこそどんな願いでも叶えてあげる。空にかかる月だって取ってきてあげるのに。
でも、そんな彼女の願いを叶えるわけにはいかない。彼女は僕の妹じゃない。
幼い頃から一貫性のないマリー。この部屋のように。几帳面に並べられた彼女の大好きなものたちは、統一性のないカラフルな雑貨、ちぐはぐなポップアートのポスター、菫色の壁に躍る原色たち。眩暈を起こす混沌。昔は僕の真似ばかりしていたのに、いつのまにか、こんなにもかけ離れたところに彼女はいる。
今の彼女は、その時々の自分を一つにつなぐことができないのだ。そして、途切れる度に僕にすがる。今みたいに。でも、そういつもいつも、彼女のトラブルを僕が解決してあげるわけにはいかない。彼女は、僕の庇護から離れて自分で人生を歩いていかねばならない、一人の自立した女の子なのだから。
「両方!」
苛立ちを押し殺す声音で、マリーは答えた。
だから、そう――、建前はね。つまるところ、利害が一致する場合は別だ。僕も彼ら二人には出ていってもらいたい、心からそう思っているからね。
「話は聞いたよ」
小声で応えながら、彼女の豊かに流れる川のような金髪を撫でてやる。柔らかく波打つ光の糸だ。マリーは僕の首筋にしがみついて、肩に頬をもたせてくる。子どもの頃からの彼女の癖。こうしていると彼女は安心するんだ。こうやって、僕の呼吸に合わせて、冷静さを取り戻すまで――。
「不愉快な思いをしなくてすむように、生活のルールを決めよう。守れないなら、出ていってもらう、ってことでどう? そして、その後の同居人は募集しないこと」
もともと、あの二人をこの家に受け入れなくてはならなくなったのは、マリーのせいだ。僕がドイツに留学したら友人に部屋を貸したい、なんて言い出したから――。それ自体には特に反対する気もなかったけれど、誘ったという相手がマズい。よりによって、あのミランダ・パリスだ! 年から年中、男を追いかけ回している、マリーの友人の中でも最高に頭の悪いビッチ! あれを、コウと一緒にこの家に住まわせるなんて、冗談じゃない!
おまけにあの女、僕の大切なコウを侮辱したそうじゃないか。小学生だとかなんとか……。確かにコウの見た目は幼いけれど、思考も幼いけれど、彼は誰よりも大人びた寛容な心を持っているのに――。
初めから彼にいい感情を持っていないと解っている相手を、一つ屋根の下に置くわけにはいかない。甘ったれで我がままなマリーは、そんなことには気が回らない鈍感な一面がある。もしも、コウがこの家から出ていくなどと言いだしたら、一番困るのは自分のくせに……。
実際のところ、友人である自分よりも男を優先するミランダを、彼女は許せないだけなのに。その怒りはミランダにではなく、すべてショーンに向けられている。彼が、自分を犠牲にしている友人の恋に、誠実に応えようとしないからだ、と。満たされないから、彼女は自分をもないがしろにするのだ、と。
だが、それも僕からすれば当然だ。彼女は誠実さに値するような人物じゃない。そこがマリーには見えていない。ショーンがコウを選ぶように、彼女にも、自分を一番に尊重してもらいたいだけなのだ、と子どもっぽい願望を持っている自分自身のことすら洞察できない。
本当のきみは、ショーンが妬ましくて堪らないんだ。でも、気づかなくていいよ。気づけば、きみのその理不尽な想いは、コウに向けられることになる――。
「解ったわ」と、意外にもマリーは素直に頷いた。顔を起こし、拗ねた瞳で僕を見上げ、唇をアヒルのように突きだして。なんだか調子が狂うな。素直なマリーなんて。
「なによ。解っているわよ。ミラと一緒に住みたいなんて、もう言わないわよ。ミラに部屋を貸したら、もれなくあの下半身馬鹿男もついてくるじゃない! それじゃ、なんのために追いだすのか解んなくなるもの」
「ご明察」
マリーにしては、よくできました。にっこりと笑って、彼女の頭を子どもにするみたいに、くしゃくしゃっと撫でてあげた。彼女は、にっ、と唇の端を上げる。そしてまた僕の首に抱きついて、頬に唇を押しあてる。
「アル、計画を立てましょ。絶対にあの二人、追っ払ってやるの! アルがいなくたって、コウと二人で平気。一年くらいすぐだもの」
コウとマリー、二人きり……。
それはそれで不安が募る。やはり安心できる誰かに住んでもらえないか――、などと考えても無駄だと解っている。同居人がコウに決まるまでの一年間、誰一人として気に入る奴になんて出遭えなかった。
ショーンが色ボケたままでいてくれるなら、彼でも良かったのに。だがもはや論外だ。あの男のコウへの執着は、日に日に顕在化してきている。早めに手を打つに限る。
それにマリーも納得しない。とにかく彼のことが何から何まで気に入らないと思い込んでいる。だから、取るに足らないことばかりを大袈裟に騒ぎ立ててはあげつらう。その度にコウが間に入って……。
まったく、気が休まる間もないじゃないか――。
「アル――」
マリーが不安げに僕を見ていた。気持ちが落ち着くと、こうして即座に反省できるのは彼女の美点だ。効率的でない思考にいつまでも囚われているなんて、愚の骨頂だもの。
「お茶にしようか。それからまず、」
「解ってる。コウに謝れ、でしょ? アルも、ごめんなさい。わざわざ帰ってきてもらって――」
軽く肩をすくめ、マリーはまた僕にもたれかかってきた。首に回した腕が小麦色だ、とその時ようやく気がついた。
「日に焼けたね」
「そんなに焼けてる?」
「うん。いい感じに」
マリーはお日さまの匂いがする――。
匂い、といえば……。
「マリー、僕はいつもと違う臭いがする?」
「どういう意味?」
「汗臭いとか……。昨夜は仮眠室だから――」
「いつもと変わらないわよ! コウが神経質だからって、気にしすぎなんじゃないの?」
バニーの臭い――。
カマをかけられたのか、赤毛に……。それにあいつ、また訳の解らない言葉を口にしていた。コウに――。いや、ショーンにでも訊ねてみなければ。
面倒くさい――。
あの赤毛が来てからというもの、たわいもない日常が、こんなにも猥雑で面倒なものになるなんて。コウとすごせる日数は、もう二か月を切っているというのに――。