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キシモ

作者: 付焼刃 俄

 子供の頃に怪談好きの母から悪影響を受けて見た悪夢を思い出して書きました。


 父方の実家は地方の山奥にあって、周りをぐるりと山で囲われた盆地にある。

 半年ほど前から両親の仲が悪くなり、ついには離婚という運びになったので、子供の僕は親権争いの中心にされて心の底から荒んでいた。

 もとは父親の浮気が原因だったので、僕は母と一緒に暮らしたいと思っていた。ですが父は学校が夏休みに入るのを見計らって、なかば誘拐するように僕を自分の実家へと連れてきてしまったのだ。

 これまで一度もあったことのなかった祖父と祖母に僕は笑顔で迎え入れられたものの、父は終始祖母から罵声を浴びせられ続けていた。

 僕を祖父母にあずけて父は逃げるように車で行ってしまった。

 一つ屋根の下、他人と三人で暮らすことが不安で、僕はどうしたらいいのか分からなかった。しかし、祖父も祖母も優しい良い人達だったので、そんな不安はいつの間にかなくなってしまった。

 近くに山も川もあったので遊び場に事欠くこともなく、日ごと日焼けを濃くしながら楽しい夏休みを過ごした。

 その日も山へ虫取りへ行こうとする僕に祖父は一言忠告してきた。

「神社の奥だけは行っちゃダメだからな」

 そう言って小指を立てる祖父と指切りをしてから僕は出かけた。

 しかし、なぜかその日はどこへ行っても蝉もトンボもカブトムシも捕れなかった。みんな子供の僕の背ではとどかないとこでじっと止まったまま動いてくれず、達成感のない汗にまみれてうんざりした。

 祖母に持たせてもらった水筒の麦茶を喉に流し込んでいると、見上げた空に大きなカブトムシが飛んでいるのが見えた。

 真っ直ぐ飛んでいくその先に、幾本もの大木で山のふもとの森が大きく盛り上がったところが見える。

 神社だ。

 あそこなら虫が捕れるかもしれない。祖父との約束を思い出したけど、神社の奥に行きさえしなければいいとしか言われていないし、大丈夫だろうと思った。

 その神社は山のふもとにあり、よくある高い階段を上がる必要がなかった。森が少し開いたところに鳥居があって石畳が敷かれている。そこを真っ直ぐ行けばお社があるのだ。

 石畳に足を踏み入れた瞬間、風が吹いてあたりが葉擦れの音に包まれた。よいんを残して木々が静まると一匹のカブトムシが頭の上を飛んでいった。

 よし、まずはあれから捕まえてやろうと思った僕はカブトムシを追いかけた。お社まで飛んでいったカブトムシは支柱の一本に止まった。

 僕はそろそろと足をゆるめて近づいた。

 あと半歩で虫取り網の範囲に入るというところでカブトムシはまた飛び出してしまう。お社を回り込んでその先の森へと飛んで行ってしまった。

「奥に行っちゃいけないんだよなぁ」

 そう独り言を言っても諦める気になれなかった。

 だいたいどこからが奥かなんて分からないよな。

 そう自分に言い訳をして石畳を降りて森に入り込んだ。何度かお社を振り返り、迷わないようにだけ気をつけてカブトムシを探した。

 けれども、それほど虫取りに慣れていない僕に森の中で小さなカブトムシを見つけることなんかできなかった。

 しかたなく諦めて来た道を戻ろうとした時――、


 パキッ


 背を向けた森から変な音がした。

 普通は怖がるところなのだろうけど、僕の頭に浮かんだのはカブトムシだった。

 意外と近くにいたのかな? 樹液を吸うために木の皮を剥がしてるのかもしれない。

 僕は虫取り網を握りなおして音のした方へと足音を忍ばせた。


 パキパキ


 また音がした。近い。たぶん目の前にある木の反対側だ。

 回り込もうと顔を突き出してさらに一歩すすむ。


 パキッメキッグチッ


 後の音が水っぽくなったのに気付いた僕は足を止めた。祖父が晩酌で食べているスルメを噛んでいる音に似ている。

 今やその音はグチャグチャという咀嚼音になっていた。

 木の向こうに何かいる。

 しだいに息づかいが聞こえてきた。怒っているような苦しんでいるような低くくぐもった息だ。息づかいの高さから考えて僕と同じ背丈か少し低いくらいの生き物がいるらしい。

 猿かな? それとも……。

 途端に怖くなったけど、同時に興味も湧いてしまった。この木を挟んで向こう側にいる生き物はどんな奴なんだろう。

 怖いという気持ちがあるのに、僕はあまり考えもせず木の陰を覗き込んでいた。

 丸く見えるほど見開いてこっちを見上げてきた目と目が合った。

 水気のないバサバサな赤い髪をして、脂っこい浅黒の肌に汚れた布を巻きつけた人が、さっきのカブトムシを口を開けたまま噛みつぶしている。無惨に白と茶色に擦り潰されたものが口の端から滴って落ちた。

 ものすごい顔に驚いてその場に尻餅をついた。痛いほど心臓が胸の中で跳ね上がっている。

 立ち上がったその人は手や足が変な形で細長く、異様に関節が盛り上がっていた。

 頭の中が恐怖に塗り潰されて何も考えられないでいると、そいつは男とも女ともつかない金切り声をあげた。

 次の瞬間、腕を振りかぶって僕を捕まえようとしてきた。

 けれど、今の金切り声を聞いて僕は動けるようになっていた。すんでのところで立ち上がりながら弾かれるように駆け出した。

 僕を捕らえそこねたからか、怒りのこもった吠え声がすぐ後ろから追いかけてくる。

 恐怖でパニックになりながら僕は持っていた虫取り網を見えない背後に向かって振った。きっとあっちへ行けと手を振るくらいにしか役に立っていないだろう。

 そう思いつつ虫取り網を振りながらお社を通り過ぎようとした時、虫取り網が手から引き抜かれた。

 一瞬振り返ると、お社の支柱の先に引っ掛かった虫取り網と、病的に目蓋を見開いて目を血走らせた鬼のような形相が追いかけて来ているのが見えた。

 僕はもう振り返らなかった。

 一心不乱に石畳を駆け抜けて祖父母の家へと急いだ。

 家に帰るとすでに夕方だった。そんなはずはないと思った。僕が出かけた時は朝8時も回っていなかったのだ。あちこち虫取りに行っても、神社から家に帰るまでなら2時間もかからない。

 お昼も食べずに遊んでいてはお腹が空いたろう。

 笑う祖母からはお味噌汁の匂いがした。

 なんだ虫取り網壊しちまったのか?

 あとで作ってやるという祖父に神社であったことは話せなかった。

 確かにお腹は空いていたけれど、噛み砕かれたカブトムシが頭を離れなくて全然食べる気になれなかった。

 気掛かりなのが虫取り網だった。あの虫取り網は仲が良かった頃の両親に買ってもらった物で、あんな目にあったというのにどうしても諦めきれなかった。

 箸の進まない夕食をつついているとテレビの横に置いてある黒い電話が錆び付いた鈴の音を鳴り響かせた。

 こちらは防災無線です。

 本日、午後2時頃に南地区で強盗殺人事件が発生しました。犯人は今だ逃走中です。町周辺には警察による非常線が張られましたが犯人は見つかっておらず、付近に潜伏中ではないかと思われます。住民の方はしっかりと戸締まりをし、近所の方と連絡を取り合ってください。ひとりでいて不安な方がおりましたら、避難所へ案内しますので遠慮せずに町内会へご連絡下さい。

 そんなことがもう一度繰り返されて電話がやんだ。

 それから祖父も祖母も緊張した面持ちで忙しそうにしていた。

 祖母はあちこちへ電話をかけて、祖父は針金を使った複雑な方法で窓や扉に戸締まりをしたあと金庫から猟銃を取り出して弾を込めていた。

 重たそうな猟銃を肩に立てかけながら祖父は僕の布団の横に腰を降ろした。

 今日は危ないから電気を点けたままにしておく、寝れなければ起きていてもいいと言われた。祖父は静かで話しかけてもあまり答えてくれなかった。

 いちおう布団に入っていた僕は晃々と光る蛍光灯の下で寝返りを打ち続けていた。

 こんな状況だというのに僕は虫取り網が気になって仕方がなかった。

 両親との思い出とは言え、あんな怖い目にあったのにどうしてここまで虫取り網が気になるのか自分でも不思議だった。

 あいつの怖い顔と虫取り網、噛み砕かれたカブトムシのことをぐるぐると考えていると、いつの間にか眠っていた。

 ふっと目が覚めた。

 時計を見ると夜中の1時を大きく回っている。布団で寝る僕に寄り添うように祖母が寝ていて、祖父は胡座をかいたまま背中を丸めて寝ていた。

 チャンスだと思った。今なら祖父も祖母も寝ているから虫取り網を取りに行ける。なぜか今なら取りに行ける気がした。

 服を着替えて玄関に行く。靴箱の上の懐中電灯をリュックに入れると、祖父の戸締まりした針金を解いて外に出た。

 外は真っ暗だった。ぽつんぽつんと立っている街頭以外に明かりがない。警戒時には家の電気を点けておくのが習慣らしいのに、どの家も玄関か門柱灯にしか明かりがない。パトカーも巡回していなかった。

 神社に行く道を小首を傾げながら歩いた。

 祖母はともかくどうして祖父は寝てしまったんだろう? 祖父はまだまだ元気で力仕事が得意だ。丸一日畑で働いても次の日に疲れが残らない様子だった。祖父の体力は都会のスポーツマン10人分はあると思う。それなのにあの状況で居眠りをするなんてことがあるのだろうか?

 それに僕はどうしてあの針金をあんなにも簡単に解けたんだろう?

 少し考えたが、神社に近づくにつれて、そんなことはどうでもよくなっていった。

 とにかくあの怪物から虫取り網を取り返してやろう。そんな冒険心すら湧き上がってきていたのだ。

 暗い道を懐中電灯で照らして歩く。冒険の主人公になった気分だった。

 神社に辿り着き、鳥居をくぐり抜けて石畳を歩く。

 そこまでは良かった。

 お社の小さな階段を上ったところに虫取り網を見つけて取り上げた途端、急に怖くなった。

 僕はなんでこんな所にいるんだ?

 虫取り網なんかどうでもいい。

 家の布団に戻りたい。


 きりきりっ


 すぐ後ろで変な音がした。

 恐怖で動けなくなる。


 きりきりっ


 音が真上に移動した。

 手が震えて持っている懐中電灯の明かりが小刻みに動いた。


 きりきりっ


 前の方へ移動していくのを最後に音がやんだ。

 僕は震える手で懐中電灯を持ち上げた。あちこち照らしてあいつの姿を探した。

 見るのは怖いけど、見えないのはもっと怖かった。

 お社の方にはいないと後ろを振り返ろうとした時――。

 真横にそいつの顔があった。

 懐中電灯で照らしたせいでまともにそいつと目が合ってしまった。

 ぎぃっと口角を引き吊らせた口の中で歯がぐりぐりと擦れ合うと、


 きりきりっと音がした。


 僕は今まで出したことのない大声で叫びながら逃げ出した。

 そいつは甲高い声を上げながら追いかけて来た。どんどん近づいてくる。声が大きくなってくる。

 耳元にそいつの息がかかってきた。

 大声で助けてと叫びながら走っていると、鳥居の下に人影が見えた。

 仁王立ちに猟銃を構えている姿が目に入る。

 祖父だ。

 耳をふさいで伏せろ!

 柔和な祖父らしくない怒号に驚いて、走る勢いのままその場に屈み込んだ。ざりざりと石畳で膝を削りながら両手で耳をふさいで突っ伏した。

 いきなり肩を痛いほどに掴まれた。ふしくれ立った指が蛇のように巻き付いてくる。

 殺されると思っていると乾いた破裂音が轟いた。

 祖父が発砲したのだ。

 肩を締めつけていた指の力がふっと緩んだ。

 その子はやらん! 代わりに俺のをくれてやる!

 そう言うと祖父は何かを投げよこした。軽い木箱が落ちたような小さな音が僕のすぐ横まで転がってきた。

 そいつは僕の肩から手を離してその木箱のような物をいじくり回しているようだった。

 やがて蓋が開く音がした。

 そいつは長いあいだ黙っていたが、ふいに何かを食べ始めた。くちゃくちゃと何度も噛んだそれをゆっくりと飲み込むと、お社の方に帰って行った。

 大丈夫か? さあ、帰ろう。

 そう言って抱きかかえてくれた祖父の腕の中で僕はずっと泣いていた。

 翌日になっても怒らない祖父に、気が咎めていた僕から謝った。

 祖父は農作業の手を休めると、僕と向かい合って座って話してくれた。

 この土地には人間にとって悪い『キシモ』という女子供を食べる神様が昔からいて、親からの愛情が薄くなった子供の心をだましてしまうことがあるらしい。

 普段は飢えを誤魔化すために虫を噛んで我慢しているが、両親の離婚のさなかにいた僕は目をつけられてしまったそうだ。

 だから虫取り網なんかに気を取られて、あんな怖いところにまた行ってしまったのだという。

 祖父が言うには、昨日の夜に防災無線が入ったのはうちだけだったそうだ。最初は本当に強盗に警戒していたが、僕が突然いなくなっていたのと玄関の針金が解かれていたことで、僕がキシモに呼ばれているとわかった。

 それで祖父は慌てて神社に駆けつけてくれたというのだった。

 僕は最後にあいつに何を投げたのかきいてみた。

 俺の臍の緒だ。

 祖父はそう言って続けた。

 キシモは女か子供しか食べないが、中でも臍の緒は特別に喜んで食べるのだそうだ。

 キシモに呼ばれている僕の身代わりになると思って祖父は持ってきたのだという。

 そのあと、祖父の言った言葉は一生忘れないだろうと僕は思った。

 これからあと百年でもいいから、家族が離ればなれにならずに幸せに暮らせればキシモも飢えて死んでしまうのになぁ。

 祖父は哀しそうに目を細めながら僕の頭を撫でてくれた。

 熱帯夜が続く真夏の夜を少しでも涼しくすごして頂けたらと思います。

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