表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

赤子の声を聞いた話

作者: 朽侘外羽

 赤子(あかご)の泣く声を、聞いた気がした。


 無論、私の住まいに、赤子は(おろ)か、(わっぱ)の居る余地はない。


 狭い畳敷きの部屋に、畳が見えぬほどの雑誌と紙屑、煎餅布団。そして申し訳ばかりの文机(ふづくえ)。童を置くどころか、足の踏み場さえ危うい。


 ならば隣家の声かしらんとも思ったが、右隣の家は家主の没して五年になる空家であり、左隣はといえば、家すら立たぬ、竹林である。


 仕事に追われての気の迷いが、在りもせぬ声を産んだのだろうと、私は再び文机に正対した。


 カリカリと原稿用紙にペンを走らせるも、湿りを帯びた陰鬱な空気に用紙が歪む。ペン先が、紙に引っ掛かる。


 私はささやかな癇癪(かんしゃく)を起こして、破れた原稿用紙をクチャクチャに丸め、屑籠目掛けて叩きつけた。


 紙玉は、軽い音を立て屑籠の縁に当たり、明後日の方向に向かって跳ねた。


 うんざりと、私はペンを文机に投げ転がした。


 外した紙玉を拾うと、今度こそはと力いっぱいに屑籠に叩き込み、気晴らしとばかりに窓を開け、外を眺めた。


 外は、夕方から降り始めた雨が、いまだにぼそぼそと降り続いている。


 厚い雲が空を覆い、月もなければ星もない。


 だのに、空が不気味に赤く明るかった。


 遠く離れた街のネオン(とう)(あかり)が、雲に映じて空を照らしているのだ。


 道程にすれば、精々数キロメートルの隔たりながら、夜の闇、赤い雲を介して眺めると、厭に遠くに思えた。この寂しい片田舎に、ぽつねんと取り残されたような気分だった。


 不意に、また赤子の泣き声を聞いた。


 何処(どこ)かと窓より身を乗り出して眺め回したが、動くものは雨の滴と水溜りの水面(みなも)ばかり。


 午前一時を過ぎた今となっては、家の(あかり)さえも碌々見当たらぬ。


 今、赤子の声のする余地など、私の住まいばかりではなく、この(さび)れた町においても在ろう筈はない。


 ならば、声の主は猫であろうと、私は勝手に見当をつけた。盛りのついた猫共が、雌でも巡って争っているのだろう。


 締め切り間近の仕事を片すべく、私はそう結論付け、窓際から離れようとした。


 すると、また赤子の声。


 シトシトともポツポツともつかぬ、途切れぬ雨垂れの音を抜けて、明らかに甲高い、むずがるような声が、私の耳に届いた。


 響いて来るのではない。より確かに、より明瞭に、赤子の声が聞こえてくる。


 流石に気味が悪くなり、私はもう一度、窓の外を眺め渡した。


 赤黒い空と止むことのない雨の音。そのほかには何も無い。何も、在る筈はない。


 私は窓を閉め、しっかりと鍵を掛けた。何故、そうしたのかは分からない。


 だが、何か薄気味悪いものの気配を感じていたのだ。


 その気配の主が、鍵などで侵入を阻めるものとは思えなかったが、人智の及ぶ者ならば、鍵が幾らかは役を為すだろう。


 そう考えることで、それが人智の及ぶ者であると、信じたかったのだ。


 私は文机の前に座り、新しい原稿用紙を広げた。再びペンを取り、其処(そこ)に文字を奔らせようとした。


 赤子の声がした。


 今度は、すぐ側で聞こえた。


 頬を蟲が這うような感覚を覚え、私はそれを撥条(バネ)仕掛けのように払った。手の甲には、べったりとした脂汗が貼り付いている。


 何かが、私以外の何かが、この部屋の中に居る。


 何が起こるか分からない。何が起こっても不思議ではない。

 

 何をされるか、見当もつかない。


 私は、その異様な空気の中で、身動き一つとれなくなった。


 額から頬を流れた汗が顎から滴り、びたりと、文机の上に落ちた。その音が、厭に大きく響いて聞こえた。


 赤子の、声がする。


 私は、錆びたブリキの人形のような緩慢さとぎこちなさで、文机から身を離した。


 赤子の声は、文机の下から聞こえた()()()()のだ。


 痛いほどに激しく脈打つ心臓を抱えながら、私は、そっと文机の下を覗き見た。


 卓上の白熱灯に切り取られた、深い深い闇の中から、赤子の声がする。


 赤子の、(わら)う声がする。


 猫の声ではない。瞭然(りょうぜん)たる赤子の声がする。


 私は、その声の出所に視線を杭打たれたかのように、離すことが出来なくなっていた。


 その文机の下の濃い闇の一角が、()()()と急激に膨らんだ。


 それは嗤い声を上げながら、段々と這い進んでくる。


 明かりの下に這い出したそれは、青白い赤ん坊だった。


 私は、声も出せずにそれを見つめていた。既に腰を抜かしていたのかもしれない。


 赤ん坊は頭を(もた)げると、にやと嗤った。


 その口腔は、()を注いだように赤かった。


 総毛立つ。毛の根も太る。全身から血の気が引き、冷や汗が噴き出す。


 赤子が飛び掛ってくる時、生きたまま裂かれる猿のような叫びを聞いたが、あれは私の声だったのか。


 そこで、私の記憶は、プツリと途絶えた。




 朝ぼらけて、私は文机の前でひっくり返った状態で目を覚ました。


 すっかり雨も上がった様子で、窓の外は明るい空色が覗いていた。


 仕事に疲れて寝落ちして、悪い夢でもみたのだろうと机の上を見ると、書き上げたはずの原稿用紙さえくしゃくしゃになり、インクで汚されている。


 慄然として原稿用紙を払いのけると、文机の上には、インクに塗れた、夥しい数の赤子の手形が残っていた。




 私は間もなく、この住まいを引き払った。それに際して近隣の者に赤子が死んだ話だの、水子の塚はあるかなどと尋ねたが、そんなものはないとの答えだった。


 私のような余所者に語るべきことではないと口を(つぐ)まれたのか、あるいは本当にそんなものはなかったのか、今となっては全く知る由もない。


 あの雨の夜、私は赤子の幽霊に弄ばれたのか、狐狸狗猫(こりくびょう)の類に(たぶら)かされたのか。何一つ分からぬままの出来事であった。


 ただ、あの手形のついた原稿用紙の束は、捨てるに捨てられず、未だ後生大事に仕舞ってある。


(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ