赤子の声を聞いた話
赤子の泣く声を、聞いた気がした。
無論、私の住まいに、赤子は疎か、童の居る余地はない。
狭い畳敷きの部屋に、畳が見えぬほどの雑誌と紙屑、煎餅布団。そして申し訳ばかりの文机。童を置くどころか、足の踏み場さえ危うい。
ならば隣家の声かしらんとも思ったが、右隣の家は家主の没して五年になる空家であり、左隣はといえば、家すら立たぬ、竹林である。
仕事に追われての気の迷いが、在りもせぬ声を産んだのだろうと、私は再び文机に正対した。
カリカリと原稿用紙にペンを走らせるも、湿りを帯びた陰鬱な空気に用紙が歪む。ペン先が、紙に引っ掛かる。
私はささやかな癇癪を起こして、破れた原稿用紙をクチャクチャに丸め、屑籠目掛けて叩きつけた。
紙玉は、軽い音を立て屑籠の縁に当たり、明後日の方向に向かって跳ねた。
うんざりと、私はペンを文机に投げ転がした。
外した紙玉を拾うと、今度こそはと力いっぱいに屑籠に叩き込み、気晴らしとばかりに窓を開け、外を眺めた。
外は、夕方から降り始めた雨が、いまだにぼそぼそと降り続いている。
厚い雲が空を覆い、月もなければ星もない。
だのに、空が不気味に赤く明るかった。
遠く離れた街のネオン灯の灯が、雲に映じて空を照らしているのだ。
道程にすれば、精々数キロメートルの隔たりながら、夜の闇、赤い雲を介して眺めると、厭に遠くに思えた。この寂しい片田舎に、ぽつねんと取り残されたような気分だった。
不意に、また赤子の泣き声を聞いた。
何処かと窓より身を乗り出して眺め回したが、動くものは雨の滴と水溜りの水面ばかり。
午前一時を過ぎた今となっては、家の灯さえも碌々見当たらぬ。
今、赤子の声のする余地など、私の住まいばかりではなく、この寂れた町においても在ろう筈はない。
ならば、声の主は猫であろうと、私は勝手に見当をつけた。盛りのついた猫共が、雌でも巡って争っているのだろう。
締め切り間近の仕事を片すべく、私はそう結論付け、窓際から離れようとした。
すると、また赤子の声。
シトシトともポツポツともつかぬ、途切れぬ雨垂れの音を抜けて、明らかに甲高い、むずがるような声が、私の耳に届いた。
響いて来るのではない。より確かに、より明瞭に、赤子の声が聞こえてくる。
流石に気味が悪くなり、私はもう一度、窓の外を眺め渡した。
赤黒い空と止むことのない雨の音。そのほかには何も無い。何も、在る筈はない。
私は窓を閉め、しっかりと鍵を掛けた。何故、そうしたのかは分からない。
だが、何か薄気味悪いものの気配を感じていたのだ。
その気配の主が、鍵などで侵入を阻めるものとは思えなかったが、人智の及ぶ者ならば、鍵が幾らかは役を為すだろう。
そう考えることで、それが人智の及ぶ者であると、信じたかったのだ。
私は文机の前に座り、新しい原稿用紙を広げた。再びペンを取り、其処に文字を奔らせようとした。
赤子の声がした。
今度は、すぐ側で聞こえた。
頬を蟲が這うような感覚を覚え、私はそれを撥条仕掛けのように払った。手の甲には、べったりとした脂汗が貼り付いている。
何かが、私以外の何かが、この部屋の中に居る。
何が起こるか分からない。何が起こっても不思議ではない。
何をされるか、見当もつかない。
私は、その異様な空気の中で、身動き一つとれなくなった。
額から頬を流れた汗が顎から滴り、びたりと、文机の上に落ちた。その音が、厭に大きく響いて聞こえた。
赤子の、声がする。
私は、錆びたブリキの人形のような緩慢さとぎこちなさで、文机から身を離した。
赤子の声は、文机の下から聞こえた気がしたのだ。
痛いほどに激しく脈打つ心臓を抱えながら、私は、そっと文机の下を覗き見た。
卓上の白熱灯に切り取られた、深い深い闇の中から、赤子の声がする。
赤子の、嗤う声がする。
猫の声ではない。瞭然たる赤子の声がする。
私は、その声の出所に視線を杭打たれたかのように、離すことが出来なくなっていた。
その文机の下の濃い闇の一角が、ぼこりと急激に膨らんだ。
それは嗤い声を上げながら、段々と這い進んでくる。
明かりの下に這い出したそれは、青白い赤ん坊だった。
私は、声も出せずにそれを見つめていた。既に腰を抜かしていたのかもしれない。
赤ん坊は頭を擡げると、にやと嗤った。
その口腔は、丹を注いだように赤かった。
総毛立つ。毛の根も太る。全身から血の気が引き、冷や汗が噴き出す。
赤子が飛び掛ってくる時、生きたまま裂かれる猿のような叫びを聞いたが、あれは私の声だったのか。
そこで、私の記憶は、プツリと途絶えた。
朝ぼらけて、私は文机の前でひっくり返った状態で目を覚ました。
すっかり雨も上がった様子で、窓の外は明るい空色が覗いていた。
仕事に疲れて寝落ちして、悪い夢でもみたのだろうと机の上を見ると、書き上げたはずの原稿用紙さえくしゃくしゃになり、インクで汚されている。
慄然として原稿用紙を払いのけると、文机の上には、インクに塗れた、夥しい数の赤子の手形が残っていた。
私は間もなく、この住まいを引き払った。それに際して近隣の者に赤子が死んだ話だの、水子の塚はあるかなどと尋ねたが、そんなものはないとの答えだった。
私のような余所者に語るべきことではないと口を噤まれたのか、あるいは本当にそんなものはなかったのか、今となっては全く知る由もない。
あの雨の夜、私は赤子の幽霊に弄ばれたのか、狐狸狗猫の類に誑かされたのか。何一つ分からぬままの出来事であった。
ただ、あの手形のついた原稿用紙の束は、捨てるに捨てられず、未だ後生大事に仕舞ってある。
(了)