反対と決意
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「カイン、この人はエル。怪我が治るまでこの家で私が看病することになったの。お金持ってないみたいだから、代わりにお店や家の手伝いをしてもらうんだ。もちろん、怪我がある程度良くなったらだけど。」
唖然とするカインが何かを言う前に、アトラはエルという男の方に顔を向けて、また話す。
「エル、この人はカイン。私の幼なじみ。私と同い歳なの。」
エルはカインを見、ごく僅かに頭を下に動かした。
カインはこの、目つきも愛想も悪い男を見て、反射的に「こいつは普通ではない」と思った。
普通の人間はこんなくすんだ瞳をしていない。
よほどひどく、不幸な経験をしていない限り。
この男は得体が知れない。
いや、それ以前にーー
「アトラ、ちょっと来い。」
カインはアトラの腕をつかみ、エルから離れ、部屋の隅の方に連れて行った。
「ちょっと、何?」
アトラが少し不満そうにカインを見上げている。
「お前、今年で何歳だ?」
「何、いきなり。18よ、18。あなたと同じじゃない。」
「そうだ、18だ。で、その18の年頃の女が同じくらいの見ず知らずの男を家に置くなんて、何考えてんだ。」
エルは背もたれに背中を当てないように、浅く椅子に座って、そばを離れたカインとアトラのやり取りを見ている。
「何考えてるって…彼は街の方から来てるんだから、ろくに傷が治らないまま帰すわけにはいかないじゃない。」
アトラは表情を変えずに冷静に言った。
「それは…その通りだけどな…お前、ちょっと隙があり過ぎるんじゃないか?それにあいつ、多分普通じゃないぞ。」
「何よ、普通じゃないって。」
「なんというか…あの男の目は良くない。そんな気がするんだ。」
「何それ。」
アトラは不服そうだ。
こいつ、分かってない。
カインはため息をついた。
仕方ない。彼女は冷静に、自身の果たすべき義務についてしか考えられないのだ。
自身に降りかかるかもしれない不確定な危険よりも、今確実に救える患者の方が大事なのだ。
「とにかく、エルの傷が治るまでは、私は彼をこの家で世話する。あなたには迷惑かけないから。」
アトラは迷いのない目でカインを見て言った。
カインは心の中でまたため息をつく。
ーーそうじゃないだろ。
「…分かった。お前の好きにするといいよ。だけどな、俺に迷惑かけるとか、そんなの気にしなくていい。困ったらいつでも呼ぶんだぞ。」
「…分かった。ありがとう、カイン。」
アトラはカインに軽く笑みを向けると、踵を返し、エルの方に行った。
エルの方へ向かう彼女の背中を見て、カインは心の中に薄暗い雲がかかっていくのを感じた。
ずっと、アトラの隣にいるのは自分だけのはずだったのに。
もやもやと浮かぶ嫉妬と同時に諦めの気持ちも広がっていく。
もう、そういうわけにはいかなくなったのか。
ーー自分はアトラを救えなかった。
彼女の心には、カインとは比べ物にならないくらい、大きくて、黒い雲がかかっていて、それが彼女の中で雨を降らせていることをカインは知っていた。
だが、救えなかった。彼には彼女の心に触れる勇気がなく、そして彼女も彼に心を見せなかった。
ならせめて、雲を小さくしてやろうと、ずっと傍にいたのだが…
もう、それだけでは彼女は進めなくなったのだ。
彼女は自ら動き出した。自分を救うために、まず誰かの心を救おうと。
そして、選ばれたのはくすんだ瞳をしたエルだったのだ。
偶然出会ったカインとは違い、エルはアトラ自身が一緒にいることを決めたのだ。
もしかしたらーー
カインはエルを見た。
彼が、何かを変えてくれるかもしれない。
もしそうなら、自分は身を引くしかないのだろう。
彼女の傍にいることよりも、彼女を救うことの方が、ずっと重要だ。
カインは何も言わず、部屋を出て行った。
*****
分かっている。恋人でもない年頃の男の人を家に置くのが、どんなことかってくらい。
「…ろくに傷が治らないまま帰すわけにはいかないじゃない。」
カインの問い詰めに冷静に答えているとき、アトラは自分の口が嘘を吐いているのが分かった。もちろん怪我のひどさと、彼の家がここから遠いということも理由の一つではあるが、本当の理由はそこにない。
『・・・こんな偽善を受けるぐらいなら、死んだ方がマシだ!』
エルの言葉が脳裏によみがえる。
態度では冷静を装いながらも、心の中でアトラは動揺していた。
あの人も、似たことを言っていたーー
それはかつて彼女の愛した人。そして彼女が救えなかった人。
今度は救えるだろうか。
彼を救えたら…私も少しは救われるだろうか。
もう、夜に涙を流さないで済むのだろうか。
愛という名のこの青年を、救えば何か変わるのだろうか。
世界を憎み死を求めるこの青年と、かつて自分が救えなかった者とを重ね、アトラは彼を放っておけないと思ったのだった。
できるかどうかは分からないが、彼を救いたいという気持ちが、彼をこの家にとどめる一番の理由であった。
カインとの会話が落ち着くと、アトラはエルの方に行った。
「話は済んだのか?」
「うん。」
「それで、俺はここにいていいのか?」
聞こえていたのかは分からないが、エルは会話の内容を分かっているようだ。
「もちろん。怪我人だもの。」
「お前の幼なじみは、それでも反対しているみたいだけどな。」
エルはカインが出て行った部屋の扉の方を見て、嫌味っぽく言った。
アトラは苦い笑みを浮かべた。
分かっている。カインがこのことに反対するのも、アトラが心配だからだ。
だから、彼にこれ以上、心配も迷惑もかけたくない。
エルは自分が救うのだ。
アトラは固く決意するのだった。
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