土嚢のキモチ
始めまして白機夜航と申します。
この小説は2年ほど前にホラー小説の賞に応募した物を
一部修正した物です。
初めて書いた小説ですのでこんな感じで良いのかわから
ないのですが、少しでも読んで頂けたら幸いです。
眠い・・・
なぜか無性に眠い。
先ほどまで居た一方的にしゃべり続ける看護師から一週間も意識が
戻らなかったと聞いたので、これまで十分に寝ていたはずなのだが・・・
まだ眠い。
眠いと言っても例えるならずっと頭の中に濃い霧がかかってるような感じ。
出来る事であれば今すぐにでも横になり、薄いながらも心地よい布団に
潜りたいのだが、さっきからベットの横に座っている人影がずっと私に
語りかけてくる。
その人影は時には私を脅すように、時には静かに諭すように話しかけて
いるが、今の私は何を言われようが聞かれようがどうでも良い。
私は今すぐにでも瞼を閉じたい。
・・・ほらだんだん頭も痛くなってきたよ。
ねえオジサン達。
さっきからなんだか周りくどい話ばかりしているけど・・・
早く本当に聞きたい事を聞いてくれないかな?
貴方達が本当に聞きたいこと、
貴方達がココにきた理由。
私は眠たいんだ。今すぐ横になりたいんだ。
早く!
急いで!!
また頭痛が酷くなる前に・・・
-私が私であるうちに-
「ただいま~。」
バイトを終えて部屋に帰って来た香奈は、少し疲れた声で
そう言った。
香奈が働く『あ・らもーど』という個人経営の喫茶店は、JR野田駅の
駅前にある小さなテナントビルの4階に入っている昔ながらの素朴な
風味の揚げドーナツが人気のお店である。
バイトを始めた頃はまだそれほど客が来ない店だったので、仕事中で
あっても店長や他のバイト達と話したりしてのんびり過ごしていたのだが、
先月に関西地方の情報を紹介する雑誌になぜかこの店が紹介されてからは
急にドーナツ目当ての客が押し寄せ、今では一日中客足が途絶える事の無い
人気店となってしまった。
雑誌が余計な事をしたおかげで、日曜日であった今日などはお店に入ってから
一度も休憩する事が無く、結局はお昼前から閉店までずっと動き回っていた。
さすがに帰る時にはバイト達から「人が良いだけなのが取り柄」と言われて
いる店長に、一刻も早くバイトの人数を増やすようにお願いしたのだが、
元々それほどバイト代が高くない上にこんなにも忙しいのだから、しばらく
新しい人は入って来ないだろうと香奈は諦め始めていた。
「おかえり~っと♪」
疲れた香奈を労うような言葉が部屋の奥から聞こえてきたが、玄関からでは
その声の主の姿を確認することが出来なかった。
香奈は靴を脱ぐと鞄を机の上に置き、部屋の奥へと向かっていった。
それほど大きくないマンションの1室であるこの部屋は1DKの間取りと
なっており、1つしかない部屋のちょうど真ん中をカーテンによって
仕切られている。
カーテンより北側が、私・・・つまり『大岐 香奈』の
部屋であり、カーテンから南側がルームメイトである『霧島 姫依』
の部屋となっていた。
ここは一部の部屋を香奈達が通う短大が借りて寮として利用している
マンションである。
そのため短大生以外の人達もマンションに住んでいるので、他の寮に
比べると門限なども無く、規律が緩いのが魅力なのだが・・・・・・
残念な事にそれだけが魅力と言う寮である。
規律が緩いのはありがたいが、マンション自体が古い建物なので、
セキュリティ面も緩いのは女子寮としては魅力どころか大問題である。
マンションの正面玄関には管理人が居る部屋こそあるものの、管理人は
平日の昼間しかおらず、また監視カメラも正面玄関しかついていなかった。
そのためなのかわからないが、必ず寮生は1つの部屋に2人で住むことに
なっていた。
また他にもこの寮では過去から続く変わったルールがあり、1部屋に住む
2人の同居人は入寮まで全く会ったことの無い人、そして学部が違う人が
同居する事となっている。
入寮前の説明会では「今まで知らない人と仲良くなることで視野が広がる
ように」と学校は理由を説明していたが、今では仲の良い人が同居すると
夜でも部屋で騒ぐので、他の住人からクレームが来るからなのではないかと
香奈は推測している。
「ありがとう。それにしても今日もめちゃくちゃ疲れたよー。」
そう言いながら部屋を仕切っているカーテンを開けると、香奈がこの部屋を
出かける時に見かけた部屋着のままの姫依がパソコンの前で座っていた。
「お疲れ♪いつも遅くまでよう頑張るね~。」
煙草を咥えながらいつもよりご機嫌な様子で姫依が振り返る。
その様子を見る限り何か良い事があったのだろうとは思われるが、その理由を
聞く前にパソコンの横に置いてあった灰皿の灰が今にも溢れそうになっているのが
気になった。
「一応言っとくけど、寮の規定では部屋の中は禁煙でしょう?
・・・と言っても止めてくれないのはもう諦めたけど、
灰の始末くらいしなさいよね。
火事になったらどうするのよ?」
そう非難すると姫依は少しバツが悪そうな顔をして答えた。
「ごめん。今日はショッピングサイトのイベントデーと『TBT』のコンサート
チケットの販売開始日が重なったもんで、ちょいっと気合い入れて頑張って
たんよ。
それで片付けたりする暇が無くて・・・。」
『TBT』とは、最近Youtubeによるクチコミが元で世界的に人気が上がってきた
イギリスのアイドルバンド「The Bigger Time」のことである。
香奈は洋楽にまったく興味が無かったので知らなかったのだが、姫依はこの
アイドル達が日本で人気が出る前から好きだったらしく、最近人気が出て
きたのが逆に悔しいなどと前に聞かされたことがある。
「ふーん。
あれってたしかイギリスの人達じゃなかたっけ?
いよいよ日本にくるんだ?」
そう言うと姫依は「よくぞ聞いてくれた!」と言わんばかりの笑顔で返事をしてきた。
「そうなのよ~♪
しかもなんと京セラドームでもコンサートをやってくれるから、朝からチケットを
取るためにずっと頑張ってたんだけど・・・。」
「ダメだったと。」
そうツッコむと姫依は驚いた顔をした。
「なんでわかったの!?」
そりゃ言ってる途中でそんなに暗い顔をすれば誰でも結果がわかるものである。
「なんとなく・・・ね。」
「さすが『かなっち』やね。
10時から電話とネットでアタックしまくったんやけど、全然つながらなくて・・・
お昼過ぎまで粘って頑張ってたら、ようやくチケットセンターに繋がったんやけど、
販売終了の冷た~い声しか聞けなかったよ。」
「それは残念だったね。」
そもそもTBTはおろか洋楽にも興味が無い香奈は、あっさりそう言うとシャワーを
浴びる準備を始めた。
「そう、残念・・・だったんだけど、奇跡的にまだ私がコンサートに行ける希望が
ちょっとだけあるんだ♪
そこでかなっちにお願いがあるんだけど。」
姫依が香奈に『お願い』と言う時は大概悪い話である。
まだ姫依と一緒に住み始めて7ヶ月しか経っていないが、それがだんだん
わかってきた。
このままだと悪い内容のお願いを聞く事にもなりかねないので、話を別の方向に
逸らすために神奈は手に持っていた紙袋を前に突き出して言った。
「ほら。『あ・らもーど』のドーナツ。
店長から余り物を貰ってきたから一緒に食べない?」
そう言われた自称「スイーツ女王」である姫依は、言いかけたお願い事を
言うのを止めて、ドーナツの紙袋を掴んだ。
作戦成功である。
「さんきゅう~♪
実は昼から何も食べて無かったから、さっきからお腹が空いてたんだ。
早速食べようよ。」
香奈は早々と紙袋を開けようとしている姫依を抑えるように言った。
「駄目よ。私は先に汗を流したいからシャワーに行ってくる。
私が上がってくるまでにその灰皿とかを綺麗にして、食べる準備をして
おいてね。」
そう言うと香奈は着替えを持ち、浴室へ向かって行った。
その背中からは、空腹状態の姫依が一刻でも早くドーナツを食べようと、
ものすごい勢いで部屋を片付ける音が聞こえた。
姫依と出会ったのは短大の入学式の3日前。
管理人に紹介されてこの部屋の中に入った時には、既に部屋の奥半分を
占領していた。
同居人の私になんの断りも無くである。
何処かの医薬品販売会社の役員の一人娘らしく、親からの毎月の仕送り額は
半端ない額のようでバイトなどをしなくても生活には困らないとの事だった。
親がそれほど裕福ではなく仕送りなどほとんどない香奈にとっては妬ましい
限りである。
とにかく我侭で自分勝手な性格である上にだらしが無いので、同居していると
毎日の様に苛立つ事ばかりなのだが、なぜか異性には人気がある。
よく色んな男から誘われるとの事だが、本人は全く乗り気がないらしく
ほとんどの誘いは断っているらしい。
その哀れな男達も一日で良いから姫依と一緒に住めば彼女の本性を知って
二度とデートに誘おうと思わない筈なのだが…
香奈がシャワーを終えて部屋着で浴室から出てきた頃、姫依は言われたように
煙草の灰を片付けて、お皿とそれぞれのマグカップを用意し終わった所だった。
この子の憎みきれない所は、こう言う素直な所だなと再認識しながら髪を乾かし、
香奈が自分用の椅子に座ると2人はテーブルを挟んで紙袋の中からドーナツを
選び食べ始めた。
香奈にとっては夜食、姫依にとってはおそらく昼食?である。
「今日はお客さんが多かったからいつもより残っていた数が少なかったはず
なんだけど、結構入ってるね。」
そう言いながら香奈は太るかなと思いつつ、気前の良い店長が袋に入れてくれた
大量のドーナツの中から一番甘そうなドーナツを手に取った。
この店のドーナツは閉店後によく売れ残っている事はあるが、とても美味しい
のである。
ちなみになぜ売れ残るのかと言うと、人の良すぎる店長が最後のお客さんで
あっても色々なドーナツから選べるようにと営業時間ギリギリまでドーナツを
切らさないように揚げ続けるからであり、そのおかげで店員達は最後の最後まで
忙しいのだ。
「うおー!今日は抹茶もあるやん。
これ一番好きなんだよな~。ラッキー♪」
そう言って同じく抹茶味が一番好きな香奈に断りもなく、瞬時に口へ薄緑色の
ドーナツを運んだ姫依はご満悦な様子だった。
「あっ・・・
ラッキーと言えばさっきのお願いの話なんだけど・・・。
かなっちにしか頼めない話なんだ。ちょっち聞いてくれる?」
何事もすぐに忘れてしまう姫依がそう言ったので香奈は少し驚いたが、
これ以上無理やり話を切り替えることが面倒になってきた香奈は、
諦めて姫依の話を聞く事にした。
まあろくでもない話なのは間違いないのだが・・・・。
「私にしか頼めないなんてどんな話なの?」
その言葉を待ってましたとばかりに勢いよく姫依が話し始めた。
「さっきの『TBT』のチケットやねんけど、チケットが取れなかったやん。
あまりに悔しかったからTwitterに『チケット取れずに悲しい』とツイートして
みたら・・・」
「みたら?」
「なんとフォロワーの中にチケットを譲ってくれるって言う人が出来きたんよ。」
香奈はTwitterをやった事が無いので仕組みがよくわからないのだが、フォロワー
と言うTwitter上での友達?みたいな人が、東京で芸能関係の仕事をしている
らしく、その人が会社からもらったチケットを譲ってくれると姫依に言ったようだ。
「しかも会社から貰った物やから、タダで良いって言ってくれたんやで♪
こんなにラッキーな事はあるやろうか?
いやあるわけ無い!やっほーい!!」
香奈は無邪気に喜んでいる姫依に悪い気がしながらも、きっと姫依が忘れているで
あろう可能性をあえて言うことにした。
「でも・・・姫依はその人に会ったことが無いんだよね?
どんな人かも分からないのに信用していいのかな?
それにあまりに上手い話すぎて怖いような気がしない?」
どうやらそう言われる事を予想していたらしく、姫依は真面目な顔をして
答えてきた。
「それは私も考えたんだけど、もう半年以上はTwitterで毎日話をしている人やし、
今更私を騙す事は無いと思うんや。
それにチケットの写真を撮って見せて貰ったから、彼が嘘をついていると言う
事も無い…と思うし。」
香奈としては理解できない関係ではあるが、姫依が相手の事をある程度は信用して
いる事が、なんとなく伝わってきた。
「そう思っているなら別に良いんだけど。で、チケットはここに送って貰うの?」
そう言うと姫依は小さく頭を振った。
「それは無いわ。
彼は私の本名も住所も知らないし、私もさすがにそこまで教える気は無いし。
まあ私も彼の本名を知らないんやけどね。」
そう言って笑う姫依に香奈が驚きながら聞いた。
「えっ!じゃあどうやってチケットを貰うの?
まさか会うわけじゃ・・・。」
「そのまさかよ。
彼は東京に住んでるんだけど、たまにこっちに出張に来るみたい。
その時にチケットを貰うって約束したんだ。
ちなみにさっきから彼と言ってるけど、書いてる文章から若い男だと
勝手に私が思っているだけだから、もしかしたら彼女かも知れないん
だけどね。」
どれだけ話を聞いても、いくらチケットのためとは言え知らない異性と会うと
言う感覚が香奈には全く理解できなかった。
「そうなんだ。
目的があるとは言え、全然知らない人と会うのってなんか凄いね。」
「そうかな?
私は興味が無いから行ったことはないけど、オフ会なんて話はザラにあるから、
結構みんな会ってるみたいだけど・・・。
あっ、そうそうここでようやくお願い事なんやけど。」
いよいよ来たか・・・。
出来ればこのままお願い事だけは忘れて話が終わって欲しかった。
香奈は少し身構え直してから続きを促すようにうなづいた。
「実は彼が大阪に来るのが、明後日の火曜日やねん。
で、その日の夕方に梅田で会ってチケットを貰う約束をしたんやけど・・・」
「やけど?」
「さっきオカンから電話がかかってきて、その日に実家に帰ってこいって
呼び出されてん。
オカンの仕事の都合でその日しかアカンらしい。
なんか学校から講義中の態度に対しての電話があったらしくて・・・
まあ要するに怒られに帰らなあかんねん。」
姫依が講義中によく寝ていて怒られているとは聞いた事があったが、きっと学校が
その状況を親に連絡したのだろう。
姫依の母親はとても厳しく、感情的に怒る人だと聞いた事があるので、実家に
帰った時の姫依が少し可哀想に思えた。
「そうなんだ。
でもそれだったらチケットは貰えないよね。
と言うことは明後日は諦めるの?」
そう言うと姫依が目を潤ましながら手を握ってきた。
姫依の手にはまだドーナツの粉がついていたので、力強く握られると砂糖が
少し痛い。
「ぜっったいに諦めたくないねん!!!!
『TBT』も世界中でドンドン人気が上がってきてるから、今回を逃したら
次にいつ見れるかわからへん。だから絶対チケットは欲しいねん!」
出た!姫依の必殺技『超我侭』。
これが出ると周りはかなり振り回され続けるのだが、しかしさすがに今回ばかりは
この技は通用しないと思われた。
「そう言われても・・・じゃあどうするの?」
そう聞かれた姫依は握っていた手を離し、正座をして頭を下げてから言った。
「すいません。
かなっち、いや香奈さん。
私の代わりに『白い水筒』さんと会って、チケットを貰って来てください。」
姫依がお願いしたい事があると言った時点で、最悪な状況を考え、様々な
パターンのお願い事を想定していたが、さすがにそこまでの想定はして
いなかった。
「えっと、何?
それって私にチケットを貰いに行けと言うこと?」
少し声を荒げながら確認すると姫依は迷いもなく頷いた。
「その白い水筒だか封筒だかわからないけど、全然知らない男の人と
私が会うって事?」
また姫依は頷く。
「私一人で?」
最後にそう聞くと姫依は「その通りです。」と言わんばかりに大きく頷いた。
「ありえない!
そんなのありえないよ!!!
なんでそんな訳のわからない外国人のチケットのためなんかに、私が
知らない人と会わなきゃならないの?
全く意味がわかんないだけど?」
香奈が大きな声で反論すると、姫依は泣きそうな表情になり項垂れた。
「やっぱり・・・駄目だよね。
無理なことを頼んでいるとはわかってはいたんだけど、どうしても今回の
コンサートには行きたかったから・・・。
オカンがそんな日を指定してこなければ私が取りに行けたんだけどなあ。」
突然そんな風に悲しまれるとまったく悪くないはずの自分が少し悪いように
思えてきた。
しかしこれまでの付き合いでこれは姫依の得意技である『泣き落とし』である事も
わかっていたので、香奈はなんとか負けないように頑張った。
「そんな悲しい顔をしても無理なものは無理!
やはりなんらかの形で送ってもらうとか、待ち合わせの日を違う日にして
貰うとかした方が良いよ。
うん、そうしよう。」
しかし姫依も負けてはいなかった。
「そう思って色々考えて見たけど、無理だったの。
相手も仕事でこちらに来てるんだし、日程を変えてくれなんて言えなくて・・・。
親友のかなっちだったら、もしかしたら私のお願いを聞いてくれるかなと
思ってたんだけど・・・やっぱり駄目だよね?」
そう言いながらこちらをチラッと見る。
まだ姫依は諦めてないようだ。
こういうモードに入るとこの娘は始末が悪い。
自分が言い出した無茶な話でも最終的には相手が悪いような感じで責めてくる。
しかもしつこくネチネチと何日に渡ってもだ。
面倒な事になったと香奈は思ったが、同時になんとしてでもチケットを手に
入れようとする姫依の気持ちもわからなくはなかった。
ただそれと私が知らない人と会うのは別の話である。
「気持ちは分からなくはないけど・・・
やっぱり無理だわ、知らない人と会うなんて。」
そう言いながら顔を背けた香奈に姫依が近づいて行った。
「かなっち!
私の気持ちが少しでも分かってくれるなら、助けて貰えないかな?
もし今回助けてくれたら必ず恩返しするから・・・
いや何でも言うこと聞くから!!」
姫依はここが勝負所と判断したらしく、涙を流しながら強く訴えてきた。
でもそんな事を言われても、無理な物は無理なのである。
やっぱり恨まれようが何しようがきっぱりと断ろうと思った時、急に頭の中に
髭面で誰が見ても人の良さそうな顔をしている店長の顔を思い出した。
「・・・何でも?
その人からチケットを貰ってきたら、何でも私の言うこと聞いてくれるの?」
今まで完全に閉ざされていた扉が少しだけ開いたのを感じた姫依は泣く演技をやめ、
香奈の言葉に素早く反応した。
「もちろん!!!
炊事・洗濯・マッサージなんでもやりまっせ~!
もし良かったら今から一週間『かなっち王』と呼ばさせて下さい。」
なぜ『姫』とかでは無くて『王』なんだとツッコみたかったが、それで話が
逸れても面倒なので、今回はスルーすることにした。
「いや・・・それはいいんだけど。」
「だけど?」
「その人に会ってチケットを貰ってきたら・・・
来週の三連休『あ・らもーど』のシフトに入ってくれる?」
香奈は店長からシフト的に次の三連休に出て来れるバイトの人数が少ないので、
なんとか姫依に来てもらえないか頼むようにと言われていたのだった。
姫依にはこれまでも何度かバイトの人数が少ない時にヘルプを頼んでおり、
面倒くさがり屋の姫依には、ほとんど断われるのだが、それでも本当に
どうしようも無くなって何度も頼んだ時はしぶしぶ手伝いに来てくれている。
普段はまったく動かないのに、いざ働くとなると黙々と的確に仕事をこなす姫依は、
店長から気にいられているようで、出来ればずっと来て欲しいとまで言われている。
しかし当の本人はその言葉にまったく心が動いておらず、続けて店に行く気は
無いらしい。
おそらく姫依は彼女なりに同居人の顔を立ててたまに来てくれているのだろうが、
それでもこれまで2日と続いて働きに来たことは無かった。
「えっ!
三連休って事は3日続けて仕事って事?」
「そうよ。
しかも1日8時間労働。
それで良ければ私も協力するわ。」
「3日で8時間・・・と言う事は合わせて24時間?
それは絶対ありえな~い。」
香奈はぐずりだした姫依を突き放すように言った。
「ありえない依頼をされているのは私の方よ。
私は別に店長に頼まれただけだから来てもらわなくても良いし。
・・・じゃあこの話はやっぱり無かったと言う事で。」
そう言われた姫依は慌ててぐずるのをやめた。
「う~ん、う~~~~~ん。
じゃあ三連休にドーナツを揚げまくります。
頑張りますので、それでよろしくお願いします。」
この条件であれば働くのが嫌いな姫依はきっと断るだろうなと思っていた
香奈は、条件を飲むと言う姫依に驚いた。
「いいの?
だって三日連続だよ?
24時間だよ?
本当にいいの?」
「うん。いいよ。
だってコンサートのためとは言え、かなっちには知らない人に会って欲しいと
お願いしているんだからそれくらいはしないとね。
・・・と言う事で交渉成立♪
やったー!!!」
確かにそれくらいはして貰わないと割が合わない気はするが、最初からこの条件を
すんなり飲まれると思っていなかった香奈は、自分の方から条件を出してしまった
ので、既に「知らない人と会う」事を自分が了承してしまっている事に今更ながら
気がついた。
更に姫依がバイトに出て、お店は助かるかもしれないが、姫依がどれだけ働いた
ところで自分は何も得しない事に気づき失敗したと思ったが、最終的にはたまには
店長に恩を売っておくのも良いかと割り切ることにした。
「・・・まあ仕方ないか。
これを餌に店長にはご飯でも連れて行ってもらおうかな。」
そう言って無理やり納得している香奈の手を強く握りながら姫依が感謝の言葉を
述べた。
「かなっち、いや『かなっち王』ありがとうございます。
王様、なにとぞこの哀れな平民の為によろしくお願いいたします。」
「だからなんで『姫』とかじゃ無くて『王』なんだ!」
-今思えば、この時にしっかり断っておけば良かった-
次の火曜日の夜、香奈は学校が終わった後に一度部屋に戻りシャワーを浴びた。
知らない人とは言え、(おそらくは)異性と会うのである。
汗臭いままでは会いたく無かった。
ただ知らない人と会うので念のために、顔がはっきり見えないよう普段はかけない
伊達眼鏡をかけ、帽子を深めに被ってから待ち合わせ場所である梅田の東通りの
喫茶店へと急いだ。
最近の梅田は駅や百貨店を中心に開発が進み、まるで別のような街に変わって
きている。
しかしなぜかこの東通り周辺はまだ目立った開発が行われておらず、古き良き
梅田の街が残っている感じがして、香奈は好きだった。
しかし今日はそんな街並みを楽しんでいる余裕は無かった。
知らない人と会うことだけでも憂鬱なのに、今日は姫依になりきらなければならない。
今朝になって急に「私が行くことになっているからよろしく♪」とか言われても困る。
言われた事を理解するだけでも時間が掛かってしまった。
再度断ったのだが今更相手に断る手段が無いと言われてしまってはどうしようも
無い。
結局、待ち合わせ時間よりわざと5分遅れて姫依に聞いた古びた感じの喫茶店に
入った香奈は、入店してきた客を接客するために近寄ってきた可愛らしい感じの
女性店員へ周りに聞こえない程度の小さな声で聞いた。
「あの~。
『白田さん』と言う人が先に来ていると思うのですが・・・
その人がどの人なのか教えて貰えませんか?」
そう聞くと店員は怪しい物を見るような目つきで香奈を見始めた。
確かにバイト中に不自然な眼鏡と帽子を深めに被った人間からそんな事を
聞かれたら香奈でも怪しむだろう。
「すいません。
なぜそのような事を聞かれるのでしょうか?」
その言葉で店員が香奈に対して完全に警戒し始めたのがわかったので、事情を
簡単に説明する事にした。
「実は友達から白田さんに会ってくるように言われたのですが、私は白田さんと
お会いしたことがないので、どんな人なのかわからないんです。」
事情を聞き、なんとなく合点がいったのか店員は小さく頷きながら言った。
「わかりました。
そういう事ですね。
え~っと、お連れ様待ちの白田さんはレジの奥にあるあの木に一番近い席に
座られてます。
・・・もう30分くらいお待ちになられてますよ。」
親切で言ったのだろうが最後の一言は余計だと思いながら店員越しにレジの
奥の席に居るであろう白田こと『白い水筒』を見た。
もちろん白田というのは便宜上の偽名である事は姫依から聞いている。
実は香奈は店の入口から相手に気づかれないままどんな人か様子を伺い、
『白い水筒』が少しでも怪しい人物であったら、姫依には悪いがそのまま
逃げるつもりだった。
念の為にすぐにでも逃げられるような体制を取りながら、店員に教えられた
奥の席を見ると、白い水筒と思われる男性?は文庫本のような本を片手で
持ちながら熱心に読んでいた。
本が邪魔をしてここからは顔が確認できないが、どうやら見た感じは姫依の
予想通り若い男のようである。
そして出張中とは聞いていたがきちんとスーツを着ており、遠目で見る限りは
それほど怪しい人には見えなかった。
「あれなら大丈夫そうか。」
「えっ?」
「あっ、いや。
助かりました。」
それにしても我ながら超我儘なルームメイトと人の良すぎる店長のために
知らない人と会うなんて・・・・
「私もかなりのお人好しなのね。」
そう呟きながら奥の席に向かおうとしたら、先ほどの店員に引き止められた。
「あの…」
「はい?」
「あの方をお友達に紹介して貰って良かったですね。
とても羨ましいです。」
「はあ?…あっ、ありがとう。」
どうやら店員は私が友達に男の人を紹介して貰ったと思っているようだが、
店員が言った「良かったですね」の意味が全く分からなかった香奈は、
思わず間の抜けた返事をしてしまった。
気を取り直して奥へゆっくり進んだのだが、それほど大きな店ではないので
思っていたよりも早く奥の席に着いてしまい、心の準備をする暇もなかった。
まだ香奈が自分の近くまで来ている事に気づいていない白い水筒に対して、
あるだけの勇気を振り絞って話しかけた。
「あの、白田さん・・・いや白い水筒さんですよね?」
そう言うと白い水筒らしき男は読んでいた本を慌てて机の上に置き、香奈の
顔を見て少し微笑みながら返事をした。
「そうだよ。
始めまして『まよりん』。
君に会いたかったよ。」
その時香奈は先ほどの女性店員が言った「良かったですね」の意味がわかった。
白い水筒は予想通りの若い男性であり・・・そして格好良かったのである。
「は、初めまして。
『まよりん』です。」
椅子に座った香奈が少し緊張気味で挨拶すると白い水筒は優しそうな笑顔を
して言った。
「どうも。『白い水筒』です。
いつも色々とありがとう。
今回の出張では、君に会えると思うと仕事がまったく手に付かなかったよ。」
香奈達よりも少し年上で素敵な男性にそんな事を言われて嫌な気持ちになる
わけがない。
「あ、あ、ありがとうございます。」
香奈は自然と自分の顔の温度が上がってきたのがわかったが、よく考えるとそれは
自分に言われている言葉ではない事に気付き、少しだけ複雑な気持ちになった。
「何か飲みませんか?」
そう言いながら目の前に差し出されたメニューを白い水筒から受け取った。
長く悩んだ挙句、興味津々にニヤニヤした表情で注文を聞きに来た先ほどの
店員にいつも飲むロイヤルミルクティーを頼んだ。
するとその注文の様子を見ていた白い水筒は何かに気づいたらしく、一度
小さな溜め息をついてから聞いてきた。
「あの・・・いきなりで悪いんだけど、一つ聞いても良いかな?」
「なんでしょうか?」
「君は誰なんだい?」
白い水筒の顔からは今までの笑みが消え、まっすぐ香奈を見つめながら聞いてきた。
「はい?私はまよりん・・・ですけど?」
もう相手にバレている嘘をつくときの演技ほど白々しいものはない。
一応とぼけてみたものの、相手の目を見て完全に気づいている事を確信した香奈は
諦めて早々と降参する事にした。
「すいません。
そうです。
私は残念ながらまよりんではありません。
実は彼女のルームメイトなんです。
今日は彼女に頼まれて代わりにやってきました。」
そう言うと白い水筒は溜息をつき、激しく落胆した表情を見せた。
「やはりそうでしたか。
郵送で送るのは難しいと言われたので、出張の時に会おうと言ったのですが・・・
やはり彼女の方は私と会うのが嫌だったみたいですね。
こんな事ならば言わなければ良かったな。」
そう言い完全に落ち込んでしまった白い水筒を見ていると、自分は悪くないはず
なのに凄く申し訳ない事をしたような気持ちになってきた。
「本当に申し訳ありません。
彼女も最初は来るつもりだったみたいなんですが、急に実家に帰らなくては
ならない用事が出来てしまったみたいで。
今日来なかったのは決して貴方の事が嫌いだからとか言う事では無いんです。
・・・7ヶ月も一緒に暮らしている私が言うんだから間違いないです。」
何故か香奈はまよりんこと姫依を弁護していた。
別に姫依が彼に嫌われようがどうしようが構わないが、彼が悲しそうな顔をして
いるのが辛かったからだ。
「ありがとう。
君は優しいんだね。」
そう白い水筒にほほ笑みかけられたとき、香奈は顔だけで無く全身が熱くなって
行くのを感じた。
これが『蛇に睨まれた蛙』という状態?
いや、あれは蛙が蛇を怖がっているから動けないわけで、彼の事怖く無いし・・・
香奈は完全にパニックに陥っていた。
今まで異性と話していてこんなに落ち着かない気持ちになった事が無いからだ。
そんな状態の香奈を横目で見つつ、白い水筒は会社員らしい黒色の鞄の中から
白い封筒を出して机の上に置いた。
「はい。どうぞ」
そう言うと封筒を香奈の前に押し出してきた。
それにしても白い水筒が出した白い封筒って非常にややこしい話である。
「これは?」
「『TBT』のチケットだよ。まよりんに渡しておいてくれるかな?」
そう言われて香奈はビックリした。
自分がまよりんでは無いと知られた時から、この話は無かった物として
チケットは貰えないと思っていたからだ。
「いいんですか?」
どうやら香奈の驚いた顔が面白かったらしく、白い水筒はくすっと笑うと
またあの優しい笑顔で話しかけてきた。
「いいんだよ。
本当はまよりんが来なかったら渡すつもりは無かったんだけどね。
ルームメイト思いの君の優しさに負けたよ。」
どうやらお情けで貰えたようだがそんな事はどうでも良かった。
・・・と言うよりチケット自体がもうどうでも良かった。
「ありがとうございます。」
「おっ、良い笑顔だね。
最初は緊張していたようだから、こちらにも緊張が移ってきちゃったけどね。」
「すっ、すいません。」
いつもなら人にからかわれると嫌な思いのする事が多いのだが何故か今日は
嬉しかった。
「そう言えばなぜ私がひ・・・じゃなかった、まよりんじゃないとわかったん
ですか?」
香奈は会ったことが無いはずなのにすぐにバレてしまった事を不思議に思っていた。
「それは簡単さ。
まよりんはコーヒー党で紅茶は飲まないといつも言ってたからね。
それに君の言動を見ていると、まよりんと同じ人とは思えなかったんだ。」
なるほど確かに姫依はいつもコーヒーばかり飲んでいて、彼女が紅茶を飲んで
いる所を見た事が無かった。
結果的にチケットを貰えたので良かったが、正体がバレた事で貰えなかったら
姫依に何を言われるかわからない所だった。
「あっ、そうだ。」
そう言うと白い封筒は鞄の中からペンと紙を出してきた。
そして紙の裏に何かの文字を書き始めた。
「はい。
これ、俺の名刺。
ここに書いているのが俺の携帯番号とアドレスだから、もしチケットで何か
不具合があったりしたら連絡してね。」
香奈は目の前に差し出された名刺を受け取ると、まずは名前を確認した。
「佐内 瑛士さんとおっしゃるんですか。」
すると佐内はサラリーマンが名刺交換を行う時のような口調で自己紹介を
し始めた。
「始めまして白い水筒こと、佐内です。
これも何かの縁だと思うので、これからよろしくお願いします。」
「佐内さん、こちらこそよろしくお願いします。」
そう言って香奈が深々と頭を下げると佐内は、またクスッと笑って言った。
「君は本当に良い人だね。
ところで君をなんと呼べば良いのかな?
いつまでも君と呼んでるのはとても失礼だろうし。」
事前にもし相手に名前を聞かれた時のためにすぐ言えるようにと偽名を考えて
用意していたのだが、この時の香奈はそんな事をすっかり忘れていた。
「香奈・・・香奈と呼んでください。
『大岐 香奈』が私の名前です。」
「香奈ちゃんか。
可愛い名前だね。
それでは香奈ちゃん今日はそろそろ引き上げようか?
チケットは確かに渡したし、何かあったらそこに連絡くれればいいから。
今日は来てくれてありがとう。」
そう言いながら店を出るために動き始めた佐内を見ながら、香奈は悩んでいた。
このまま席を立ったら、きっともう佐内とは会えなくなる。
「ここが勇気の出し所じゃないの?」
自分の心にそう訴え、勇気を振り絞って佐内に声をかけた。
「あの?」
「本当に申し訳ない。
香奈ちゃんに貴重な時間を取らせてしまってすいませんでした。」
「いえ、そうでは無くて。」
「はい?」
「出来れば、もう少しだけでもお話しませんか?」
「えっ?
それは構いませんが。」
少し不思議そうな表情をしながらこちらを見ている佐内に、香奈は意識して
作った笑顔を見せながら言った。
「ほら、まだ私が頼んだロイヤルミルクティーも来てないですし。
ここを出るのはそれを飲んでからでも良いですか?」
佐内はそう言われてからしまったと言う顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「そう言えばまだ飲み物も来てなかったですね。
それは失礼いたしました。
私でよろしければ飲み物が届くまでの間、お相手させて頂きます。」
そう言いながら笑う佐内の顔を見ながら、ほっとしている自分に香奈は
気づいていた。
その後、一時間くらい2人でお互いの事を話し合った。
白い水筒こと佐内は元々兵庫県の西宮市の出身だったが、大学受験で東京の大学を
受験したため、それ以降東京に住むことになった。
元々は関西弁だったらしいが今はもうほとんど標準語になってしまったとの
事だった。
年齢は26歳。
小さい芸能事務所の営業をしているらしく、普段は東京のテレビ局に事務所に
所属するタレントの売り込みに行っているが、関西や東海、九州のテレビ局にも
営業に行くらしい。
今回の出張では事務所が押している新人タレントの売り込みを行うために、
関西のテレビ局を周りに来たとの事だった。
「関西のテレビ局に新人を売り込むのは難しいんですよ。
こっちには笑いに根付いた大手の芸能事務所がいくつもあるからね。
結局今日もほとんどが門前払いでしたよ。」
そう言って笑う佐内の顔を思い出しながら香奈は環状線の電車に揺られていた。
香奈としてはもっと話していたかったのだが、バイトの時間が迫ってきたので
仕方なく帰ってきたのだった。
その後のバイトではいつもよりも集中力が無く、何回かミスをしてしまったが
今日だけは仕方ないと自分でも諦めてしまった。
上の空だった勤務時間が終わり部屋に帰ってからドアを開けたら、珍しく玄関先に
姫依が座っていた。
しかも正座である。
「お帰りなさい。かなっち、いえ香奈王、アルバイトお疲れ様でした。」
と姫依が頭を深く下げながら言ってきたので思わず苦笑してしまった。
「ただいま、ってこんな風に姫依が出迎えてくれるなんて初めてじゃない?」
「そっ、そうかな?
まあそんな事よりどうだった?」
「何が?」
姫依が玄関先で正座までして待ってた理由は当然わかっているのだが、佐内に
会うまでにあれだけ悩んだのだから少しは意地悪がしたくなった。
「何がって・・・・あの、コンサートのチケットはどうなりましたか?」
「ああっ、あの件ね。」
香奈は少しニヤリとしながら白い水筒、いや佐内から渡された白い封筒を
前に出した。
「えっ!これは?」
「そう。
さ・・・白い水筒さんから貰ったものよ。」
「ほっ本当に?」
そう言いながら封筒から中身を取り出し、それがチケットである事を確認すると、
もの凄い勢いで飛び跳ねた。
「ありがとう!
流石かなっち!!
やった~~~~♪」
「いや~。少し大変だったけど私にかかればこんな物よ♪
あっ、これで次の三連休の出勤は決定だからね。
さっき店長にも言っといたからもう逃げられないよ。」
そう言うと姫依は少し複雑そうな顔をしたがすぐに諦めたようだった。
「あっ、う・・・ん。それがあったね。
もちろん私も約束は守るよ。
本当にありがとう。」
「いいよ。
まあ、実際は思ってたよりもそんなに大したことはなかったから。
じゃあ私はシャワー浴びて来るね。」
ここままだと姫依に感謝の言葉をずっと言われ続けられそうだったので、
香奈は逃げるように浴室に向かっていった。
その背中に向かって姫依が話しかけてきた。
「そういえばかなっち、
白い封筒さんは私の読み通りやっぱり若い男の人だった?」
その問いに対して振り返らないまま香奈は答えた。
「ああ、あの人?
姫依の予想どうりだったよ。
サラリーマンの男性で確か26歳って言ってたかな?
名前は佐内さんって言うらしいよ。」
「ふ~ん。
さないさんって言うんだ。
で、あの・・・どんな感じの人だった?」
「ん?もしかして気になるのかな?」
「いや、そう言うわけじゃあないんだけどね。」
「スーツを着ていて、いかにも真面目なサラリーマンって感じの人だったよ。
・・・それにあまり格好良くなかったし。
そんなに話も弾まなかったからチケットを貰ったらバイトがあるからって、
すぐに帰ってきちゃった。
そう言えば私がまよりんじゃない事に気づいたみたいだけどチケットは
くれたよ。
後でTwitterでもなんでも良いからお礼言っといてよ。」
「うわー、やっぱりバレたか。でもありがとう。」
今日の事を思い出すだけで顔の温度が上がってきた香奈は、姫依に自分の顔を
見せないように、そのまま振り向かずに浴室へと向かっていった。
それから香奈は何日か置きに佐内にメールを送るようになった。
最初のうちはまよりんこと姫依にチケットを渡しましたなどの報告だけを送って
いたが、そのうちに自分の近況などを送るようになっていった。
「・・・と言うことで今日も学校帰りにバイトだったので疲れちゃいました(。-_-。)
そろそろ寝ますね。お休みなさい☆GOODNIGHT☆(;д;)」
最近ではこんな感じのメールを寝る前に必ず送る事にしている。
あれから佐内が大阪へ出張に来る事が無いので会えてはいないが、日が経つごとに
会いたい気持ちは募っていった。
人に会いたいなんて、こんな気持ちになったのは初めてである。
スケジュールアプリを見て、梅田の喫茶店で佐内と出会ってからもう3週間も
経つんだなあと思いながら布団に潜ろうとしたタイミングで携帯電話にメールが
来た。
そのメールは佐内からの返事で、内容は・・・いつも通りの内容だった。
「今日もお疲れ様でした。お休みなさい。素敵な夢を。」
最近は香奈からのメールに対する返事はいつもこんな感じである。
もしかしたら私は嫌われているのだろうかとも思う時もあるが、もし嫌われて
いるのなら返事もくれないだろうしと無理やり自分を納得させている。
どうせならもう少し違う事も書いてくれたら良いのに。
そう思っていると今夜の返信の文章はいつもよりも長い事に気づいた。
「来週の火曜日から大阪へ出張に行くことになりました。
もし良かったらまよりんと3人で会いませんか?」
何気ない一文だったが香奈は嬉しさのあまり大声で叫んでしまった。
「よっしゃあ!!!!!」
「えっ!何?」
突然発せられた大声にカーテン越しの向こうで寝ていた姫依が驚いたようだ。
「なっ、なんでも無いよ。
・・・うん、なんでも無い。」
そう言いながら暗い部屋の中で佐内からの返信メールをずっと眺めていた。
その週の日曜日の仕事は、いつにも増して過酷だった。
先週から入ってきた新しいバイトの娘は、結構見込みがあると思って仕事を
教えていたのだが、突然前日の晩に辞めるとの電話がかかってきたらしい。
その話を出勤当日である日曜日の出勤時に店長から聞いた香奈は顔が青ざめた。
元々今日はシフトがうまく組めなくていつもよりバイトの数が少なかったのだが、
その娘が居なくなると今日は店に店長と香奈しか居ない事となる。
慌てて最後の頼みの綱である姫依にも電話したが、今日が例の『TBT』の
コンサートの日らしく、無理だとあっさり電話を切られてしまった。
まったくこんな肝心な時に限って役に立たない薄情な奴である。
仕方なく今日は店長に厨房を任し、香奈は接客を全て一人で行うことにした。
日曜日ということもあって、開店直後から客は一切途切れなかったので、
当然店長と香奈はトイレに行く暇も無く、閉店までただただ機械のように
動き続けた。
そのせいもあってか中には接客が遅いと怒る客も居るには居たが、なんとか
この最悪な一日を乗り切ることが出来た。
ただ最後の客を送り出し、片付けが終わった時には2人共崩れ落ちるように
床に座り込んでしまった。
「香奈ちゃんありがとう。
おかげでなんとか終わったよ。」
感謝の言葉を述べる店長に心身ともに疲れきっていた香奈は苛立ちながら
店長を責めた。
「店長!
なんなんですか今日の状況は!!
確かにあの娘が急に辞めたのが原因なのはわかってますが、なぜ今日に
なって私以外に 誰もいないことを言うんですか!
店長はいつも少し遅いんですよ!」
そう言われた店長は立ち上がり、真面目な顔をして深々と頭を下げて謝った。
「香奈ちゃん、本当に申し訳ない。
昨夜辞めると言う電話が掛かってきたのが閉店後だったんで、それから
バイトの子達に連絡したんだ。
でも結局今日はみんな来れなかった。
お客様に迷惑もかかるから今日は閉めようかとも思ったんだけど、それも
なかなか判断出来なくて・・・。」
人の良さそうな店長を責めても仕方ないことは分かっていたのだが、何かは
言っておかないと気がすまなかったので言っただけだったのに、謝られると
こちらが困ってしまう。
「もう・・・良いですよ。
すいません、店長は悪くないですね。
もし昨日連絡貰ってたとしても、私もどうしようも無いですし。」
香奈も立ち上がりながら言いすぎたことを謝罪した。
「今日は本当にお疲れ様でした。
出来ればまたこんな事になるのは嫌だから、早めに次のバイトを
入れてくださいね。」
そう言いながら着替えようと控え室に行こうとする香奈を店長が呼び止めた。
「あの・・・ちょっと良いかな?」
「なんですか?
今日は疲れてるんだから手短にお願いしますね。」
そうふざけて言いながら振り返った時、店長がこれまで見たこと無い様な
真剣な眼差しで香奈を見つめている事に気づいた。
「香奈ちゃん、こんな時に言うのはなんなんだけど。
君の事が好きなんだ。
俺とその・・・付き合ってくれないか?」
店長からの突然の言葉に香奈は驚いた。
確かに店長とはバイトを始めた時からなぜか性格が合い、何かと話が
しやすかった。
ただ今まで店長がそんな素振りも見せたことは無かった。
「えっ、店長・・・
本気ですか?」
香奈は緊張感に耐え兼ねて聞かなくても良いことを聞いてしまった。
当然その問いに対する回答は無い。ただ真剣に香奈を見つめてくるだけである。
「どうかな?」
店長は逆に香奈に回答を促してきた。
香奈はどのように返答するか悩んだが、どれだけ悩んでも頭の中には
佐内が笑っている映像が再生されるだけだった。
「ごめんなさい。
いつもお世話になっているし、尊敬しているけど・・・
好きとかそう気持ちは無いです。」
そう言うと店長は目に見えて落胆しながらも明るい口調で答えた。
「そうか・・・。やっぱりそうだよね。
ありがとう。疲れている時に更に嫌な思いをさせてしまってごめんね。」
「いえ・・・
すいません。
じゃあ私、帰りますね。」
香奈がそう言うと店長は慌てて言った。
「ああ。
今日は本当にありがとう。
気をつけて帰ってね。
あっ、こんな事を言っておいてあれだけど・・・
明日もお店に来てくれるかな?」
「はい。
もちろんです。
・・・お疲れ様です。」
今夜の帰り道はいつもよりも遠く感じそうだ。
ただでさえ今日は疲れきってるのに・・・。
「店長、だからいつも少し遅いんだって。」
「やっぱり今回も来れなかったんだ。」
姫依が来ないと知ると佐内は落胆を見せた。
その様子を見て予想はしてたものの、姫依に対して激しい嫉妬を感じてしまう。
「今回はこの前のコンサートのお礼も言うから、一緒に来るように強く
言ったんですが、お会いするのがちょっと恥ずかしいらしくて・・・。
すいません。」
実際には姫依には今朝「佐内さんが今度大阪に来るらしいから一緒にお礼に
行かない?」とは誘ったのだが「もうチケットを貰ったし、興味無いから」と
言われたのですぐに話を打ち切った。
勿論、今日会いに行くとは一言も言っていない。
「いや、香奈ちゃんは全然悪くないよ。
変な事を頼んだ俺が悪いんだ。
どうやらTwitterではともかく、現実では彼女に嫌われてるみたいだね。」
「本当にごめんなさい。
きっとそういうわけでは無いと思うんだけど。」
そう言うと佐内はまたあの優しい笑顔で微笑みかけてきた。
そんな佐内を見て自分はこの笑顔にやられたんだなと再認識することが出来た。
「そうだと良いんだけどね。
あっ、まよりんが来れないなら先に電話で言ってくれたらよかったのに。
香奈ちゃんも忙しいだろうし。」
そんな事をしたら貴方はきっと私に会ってくれないでしょ?
そう思うと更に姫依に対して嫉妬を感じてしまった。
「今日はバイトも元々休みだし、2人で来ると約束したのに来れなかった
から、せめて私だけでもと思って・・・。」
「そうなんだ。
ありがとう。
気を使わせてしまって申し訳ないね。」
実はバイトが休みと言うのも嘘だった。
今日は元々バイトの日だったのだが、佐内と会える日が今日だけ
だったので慌ててシフトを変えてもらったのだ。
「それにしても香奈ちゃんだけでも来てくれて嬉しいよ。」
そう言って寂しそうに笑う佐内を見て、その言葉はあくまで社交辞令で
本心では無いと分かりながらも来て良かったと思えた。
それからまた一時間ほど2人で話した。
話の内容は前回同様お互いの仕事の話や昨日見たテレビの話などたわいの
ない物であったが香奈はとても幸せだった。
ただ楽しい時間は過ぎるもの早い物で、彼女にとっての『シンデレラ
タイム』は終わりに近づいていた。
腕時計を見た佐内が突然話を止めたからだ。
「香奈ちゃんごめん。
もうお客さんの所へ行く時間なんだ。
久しぶりに大阪に来たから呼び出しがかかってしまって。」
「えー!!そうなんですか。
もう少し話したかったのに残念です。」
そう言うと佐内は少し困った顔をした。
「ごめんね。
今日も楽しかったよ。
あっ、そうだこれを。」
そう言うと佐内は机の横に置いてあった大きな紙袋を香奈に渡した。
「えっ?
なんですかこれは?」
「香奈ちゃんには前の時に迷惑をかけているから、せめてものお礼にと
思って。」
全然想像もしていなかった突然のプレゼントに香奈の心は踊った。
「嬉しい♪
本当にこんな大きな物を私がもらっても良いんですか?」
「もちろんだよ。」
「やったー!
中を見ても良いですか?」
香奈は佐内がうなづくのを確認してから紙袋の中を覗き込んだ。
「ああ♪
ヒバックマのぬいぐるみじゃ無いですか。
しかもこんなにも大きい~。」
「喜んでもらえて良かったよ。
仕事の関係で少し安く買えるチャンスがあったんだ。
でも実はちょっと思っていたより大き過ぎたので後悔していたんだけど
大丈夫?
帰りの荷物が重くなってしまってごめんね。」
「重いなんてそんな事ないですよ。
本当にありがとうございます。
凄く大切にします。
あの・・・また私と会ってもらえますか?」
それは佐内に対して暗に次は最初から2人で会いましょうと言う勇気を出した
メッセージだった。
「もちろんいいよ。また大阪に来るときには連絡するね。ただ・・・。」
「ただ?」
「出来れば次はまよりんも連れてきてほしいな。」
メッセージの内容に気づかなかったのか、気づいていて敢えて言ったのか
わからないが、どちらにしても香奈の思いは佐内には届かなかったらしい。
思わず涙が溢れそうになったが、ここで泣いてしまうとまるで姫依に負けた
ような気がして悔しかった。
香奈は佐内と別れるまで溢れ出そうな涙を我慢した後、涙が止まるまで近くに
あった百貨店のトイレの中で過ごす事になった。
少し気持ちが落ち着いてから、香奈は佐内から貰った紙袋を携えて環状線に乗った。
ぬいぐるみはとても大きいからか若干重かったが、なんとか香奈でも持てる
重さだった。
梅田の隣駅の福島駅で降りて5分ほど歩き、自分の部屋に入って紙袋から
ぬいぐるみを取り出した瞬間、今までの嫌な気持ちが吹き飛んだ。
前から思っていたが、やはり私は単純な精神構造をしているらしい。
ぬいぐるみを部屋のどこに居ても見えるようにタンスの上に置き、幸せな
気持ちで眺めていたらコンビニの袋を下げた姫依が帰ってきた。
「ただいま~。
あれ?
何あの大きなぬいぐるみ!
タンスの上にヒバックマちゃんが居てるやーん。
かなっち買ったん~?」
佐内に貰ったヒバックマを羨ましがってる姫依を見て、少し優越感が
湧いてきた。
たださすがに佐内に貰ったという訳にはいかなかったので小さな嘘を
つくことにした。
「あっ、あれは店長が買ってくれたのよ。
この前、日曜日に店長と2人だけでお店をまわす事になって、めっちゃ忙し
かった時があったって言ってたでしょう?
あの時のお礼だって言われて貰っちゃった。」
「え~!そうなんだ。
あの店長さんほんまに優しいね。
私も何かねだろうかな~♪」
そう言いながら姫依はヒバックマをタンスから下ろして、勝手に抱きしめた。
我が家に可愛く大きい住民が来てから3週間ほど経った。
ただこの住民はどうやら姫依もお気に入りらしく、よく触っているようである。
その証拠にバイトなどから部屋に帰ってきたら位置が変えられて、若干姫依の
部屋寄りに動いている時が何度かあった。
本人に注意しようとしたが、注意した所で聞く人でも無いので、何度目かの移動が
あった後からはもう元の位置に戻すことも諦めた。
寒さが本格的になってきたある日、昨夜くらいから少し気だるさを感じていた
香奈は熱を測ってみた。
「37度5分か・・・。」
おそらく実家に住んで居れば根性論が大好きな親達にそれくらいなんでも
無いから学校に行ってこいと言われるくらいの体温である。
しかし幸いにしてここには親が居ない。
さらにラッキーな事に今日は『あ・らもーど』も休みの日なのでバイトの
心配も無い。
そう言えば昨日も珍しく文句を言わずに姫依が『あ・らもーど』へバイトに
行っていた。
あの突然新人が辞めて地獄のような忙しさを味わった『ブラック・サンデー』事件
(ブラックマンデーを真似して香奈が勝手に命名した)があってから、まだ次の
バイト希望者が来ないのでシフトが回らなくなる時があり、その時は姫依に頼んで
来てもらっていた。
『ブラック・サンデー』の時に自分がコンサートに行っていて助けに来れな
かった事を負い目に思っているのか、今のところ断らずに助けてくれている。
あくまでも次のバイトが見つかるまでという条件付きなのだが店長は姫依が
そのままシフトに入ってくれることを密かに願っているようである。
結局このまま学校に行っても何も出来なさそうなので、今日は学校を休んで
完全休養日とすることにした。
学校の後にデートに行くとのたまう姫依を送り出し、学校に休む事を連絡した後で
市販の風薬を飲み布団に潜った。
そして眠りに着く前に佐内に励ましてもらいたかったのでメールを送る事にした。
「佐内さんへ
今日は熱っぽかったので学校を休むことにしました。
最近忙しかったのでちょっと疲れたのかも?(; ̄д ̄)
佐内さんはお仕事頑張ってくださいね♪」
入力した文章を確認し送信ボタンを押した後、薬が聞いてきたのか香奈は
眠りについた。
・・・ここはどこだろう。
どうやら真っ暗な闇の中のようで、何も見る事が出来ない。
しかし周りを見渡してみると一箇所から光が漏れている事に気がついた。
あそこから出れるかも知れない。
最悪でも外の様子が分かるかも知れない。
そう思い光の射す方に向かった。
光が漏れているのは小さな穴。
ここから出ることは出来ないだろうが、取り敢えず外の様子を見ることは出来る。
その穴に顔を近づけようとした時、闇の中から囁くような声が聞こえてきた。
「本当はもう気づいてるんだろ?」
声がしたと思われる方向を見るが、そこには何も無い。
再度顔を穴に近づけようとすると、先ほどより少し大きな声が話しかけて来た。
「それ・・・見ないほうが良いんじゃないかな?
今までも見ないようにしてきただろ?」
また声がした方を見てみたが、やはりそこには誰も居ない。
言われている事は気になったが、目の前の穴から見える光景も気になる。
結局、香奈は声の静止を無視して穴の中を覗き込んだ。
そこは何処かの玩具売り場であった。
とても大きな売り場らしく様々な種類の玩具やぬいぐるみが売ってあった。
そしてそこにはその場所には似つかわしくないスーツ姿の佐内が立っていた。
「あっ、あれは。」
これは間違いなく佐内が香奈に渡すためにぬいぐるみを買った時の
様子なのだろう。
可愛いぬいぐるみ達の中で佐内は怖いくらいの眼差しでぬいぐるみを
選んでいた。
香奈は佐内がこんなに真剣に選んで買ってくれたのかと思うと胸が
熱くなった。
「本当はもう気づいてるんだろ?」
また背後からそんな声がした。
しかしまた香奈は無視することにした。
佐内は長時間悩んだ挙句、ヒバックマのぬいぐるみの中で一番大きな物を選び、
レジへと持っていった。
そしてプレゼント用の包装紙に包んで貰ったぬいぐるみを持った彼は外に出た。
するとそこは見慣れた東通りのあの喫茶店であった。
佐内がしばらく待っていると一人の女性がやってきた。
彼はとても喜んだ様子でその女性にぬいぐるみを渡す。
その女性はぬいぐるみを手にお礼を言う。
「ありがとう。
私がヒバックマが好きなの覚えていてくれたんだ。」
・・・何か違う。
これは私がもらった時の様子とは何かが違う。
更に穴を除く香奈の目にようやくその女性の顔が見えた。
その女性は香奈では無く姫依であった。
・・・そう言えば彼女はヒバックマが好きだった。
「違う!!!!!」
そう叫びながら目覚めた香奈は全身から汗が吹き出していた。
今まで気づいてはいたのだが、あまりに自分が惨めすぎて気づかないふりを
していた現実を夢に突きつけられて、気分はかなり重かった。
最悪の目覚めである。
時計を見るともう夜の9時を少し過ぎていた。
部屋の中がとても静かであり、姫依がまだ帰って来たような様子は無い。
そう言えば今夜は学校に行ってからデートに行くと言ってたっけ?
どうせまた新しい男を見つけて来たのだろう。
そんな事をしているからこそ大事な時に親から呼び出しをくらうのである。
ルームメイトがこんな状態なのに、のんきに男と遊んでいる姫依を想像して
しまい、余計に気持ちが落ち込んで行った。
このままでは姫依が帰ってくるまでずっとこんな調子で落ち込んで行くだけの
ような気がしたので、気分を変えるために外へまだ食べていない晩御飯を
買いに行くことにした。
それにしても身体がだるい。
熱のせいであるのは間違いないのだが、少なからずさっきの夢も関係して
いるのだろう。
歩いて5分のコンビニまでの道のりがやけに長い。
更に行きよりも帰りの道の方が長く感じてしまい、あまりの辛さに途中で
立ち止まってしまった。
しばらく止まって息を整えていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「スペシャルマン最高だったね♪
あの迫ってくる感覚は、初めてだったから感動したよ。」
その声は間違えなく『あ・らもーど』の店長の声だった。
挨拶をしておこうかとも思ったが、昨夜からお風呂にも入っていない上に
全く化粧もしていない今の格好を知り合いに見られるのはさすがに避けた
かったので、結局は見つからないように自動販売機の影に隠れてしまった。
「確かに面白かったけど、店長さっきからそればっかやん。」
その声を聞いた時、寒さとは関係なく身体が凍りついた。
なぜ店長と姫依がこの時間に2人で居るのか?
姫依は「今日はデートだ」と言って出かけて行ったのだが・・・。
「店長。
いや中嶋さん、次はどこ行くの?」
「ああ、この先に行きつけのトルコ料理屋があるから、そこでご飯でも
どうかなって?」
「トルコ料理?
めっちゃ美味しそうやん♪」
2人はそんな会話をしながら楽しそうに香奈の目の前を歩いて行った。
「なんであの娘ばっかり!!」
香奈は部屋に帰ってくるなり勢いよくソファーを蹴り上げた。
すごい音がしてソファーが動いたが、今は下の階への迷惑なんてどうでもいい。
「第一、あの馬鹿店長は私に好きだって言ったばかりじゃないの!
私に許可なく、何勝手に乗り換えてんのよ!!」
正確に言うと香奈は店長からの告白を断っているので、別に誰と付き合おうが
問題は無いのだが、その相手があの娘・・・いや「アイツ」だと言う事が
なにより腹立たしかった。
「くっそ!
姫依め!
あの女、私の周りの男ばかりに色目使いやがって!
なにがデートよ!!
なにが役員の娘よ!
なにが・・・まよりんよ!!」
そう言いながら手に持っていたコンビニの袋を振り回した後、放り投げた。
すると袋は姫依のタンスに当たり力なく落ちていったが、その時に封筒らしきものも
一緒にタンスの上から落ちてきたのが見えた。
「なに私に許可なく勝手に落ちてんのよ!」
まだ怒りが収まらない香奈はそう毒づきながら、その封筒のようなものを拾った。
拾った封筒を元の位置に戻そうとしたが『第634回近畿地域宝くじ』と言う文字が
薄い封筒の中に入っているのが見えた。
そう言えばコンサートのチケットを取りに佐内に会いに行った時の交換条件として、
姫依に三連休全ての日で仕事をして貰った。
その時は店長が大喜びしていたのを覚えている。
「ああ・・・あの時からか。」
そういえばあの時から店長に姫依がシフトに入れるか聞かれることが更に多くなった。
その時は単純に使えるバイトを確保するために聞いていたと思っていたのだが・・・。
その三連休でのバイトの最終日、疲れながら姫依と一緒に帰った時に、たまたま
見つけた宝くじ売り場で、なぜか金額を半分づつ出しあってくじを10枚買った。
なぜ2人で一緒に宝くじを買ったのか、よく覚えてないのだが、おそらくは
連休中のいつもよりハードな仕事で疲れていて、冷静な判断が出来る状況では
なかったのだろう。
「あの時のくじか・・・。当たってるかな?
まあどうせ外れてるんだろうけどね。」
独り言を言いながら少し冷静になってきた香奈は、持っていた携帯電話でくじの
当選番号が載っているはずの銀行のホームページを表示し始めていた。
あれから数分後、香奈は部屋に立ち尽くしていた。
くじの当選番号を確認した結果、10枚ある宝くじの内、8枚はただの
紙切れだった。
そして残り2枚の内1枚は200円になるらしい。
そして最後の1枚は15000000円・・・。
「千!五百万!!!」
周りに誰も居ないのにも関わらずそう叫んでしまった。
何度も何度も確認して、間違いなく1等が当たっているのを確認した香奈は
喜んだ。
「やったー!!!
これで何買おうかな♪
やっぱりまずは旅行かな♪
ハワイ、いやヨーロッパ一周なんてのもいけるよね♪」
ようやく実感が湧き始めて、突然手に入った千五百万もの大金をどう使うのか
考え始めた。
現金なもので、くじが当たったとわかった時から、あれだけしんどかった
身体のだるさはどこかに飛んでしまっていた。
「旅行に行ったらやっぱり鞄は買っとかないとね♪
でも旅行も良いけど、ここを出て一人暮らしをしてみると言うのも・・・」
そこまで想像が膨らんで来た時に思い出した。
この宝くじは2人で買った物なのである。
姫依に当たったと言えば、おそらく賞金は等分に分ける事になるだろう。
更にもしかしたら姫依は自分が買うと言い出したから当たったなどと言い出し、
もっと分け前を寄越せなどと言い出すかもしれない。
いや、絶対言い出す。
それだけは絶対許さない。
あの「人の男」ばかり盗む盗人に金まで渡すなんて。
姫依が居なければ・・・
『アノオンナサエイナケレバ』
そう思った時、頭の中で「カチッ」と何かのスイッチが入ったような音が聞こえ、
自然と顔に不気味な笑みが浮かんで来た。
店内から窓ごしに外を見ていると予報通りだんだん曇ってきた事がわかる。
「好都合かな?」
そう言ってニヤリと笑っていると携帯電話に電話が掛かってきた。
「かなっち、こちらは手続き終わったよ~。
今どこにいるの?」
「今、『あ・らもーど』。
これから出るから、今朝言ってた場所で会おうね。」
そう小声で話した後に通話を切ったが、まるでまだ話しているような素振りを
見せながら店長の近くへ寄って行った。
「そうなんだ~。
姫依、運転気をつけてね。
ではまた数日後に♪」
そう言ってから通話を切るフリをした。
「姫依ちゃんどっかに出かけたの?」
姫依の動向が気になる様子の店長が予想通り食いついてきた。
「そうみたいです。
なんか急に福井の東尋坊を見たくなったので、これから行くって言って
ました。
今から出かけて数日後に戻ってくるからって、ちょっと突然すぎますよね。
今朝は何も言ってなかったんだけどな~。」
「そうなんだ。
・・・・で、姫依ちゃん誰と行くのかな?
きっと一人だよね?」
店長は姫依がどこに行くかというより誰と行くのかと言う方が気になるらしい。
「さあ?
そこまで話してくれなかったのでわからないですね。
そう言えば少し前に梅田で姫依がサラリーマン風の男と一緒に
歩いてる所を見たことがあるからその人かも知れないですね。」
そう言って虐めると店長は少し焦った顔を見せたが、すぐに元通りの
顔になった。
姫依に対する気持ちを香奈に気づかれないようにしている所が面白い。
「ま、まあ彼女が誰と旅行しようがいいんだけど、無事に帰ってきて
欲しいね。」
「そうですね。
無事に帰ってきて欲しいですね・・・ブジニネ」
そう嘯く香奈の表情は、少し歪んでいた。
もう後戻りは出来ない。
でも今ならまだ・・・自分の為に始めた計画なのに、香奈にはまだ迷いが
あった。
新梅田シティの古き良き昭和時代のような街並みを再現した地下街にある
トイレで、いつもなら着ない様なボーイッシュな格好に着替えた後、
ホテルの横の道路に停まっている車に声を掛けた。
「お待たせ。」
「かなっち、ちょっち遅いよ~。
あれ?
なんかいつもと感じが違うね?」
その車の運転席には姫依が座っていた。
香奈から遠くまでドライブに出かけようと誘ったのだが、2人とも車を持って
無かった。
そこで姫依にレンタカーを借りてきてもらったのである。
「ごめん。
店長がなかなか放してくれなくてさ。
今日はせっかく2人で出かけるから、ちょっと服の感じを変えてみたんだ。
どう?」
「たまにはそういう格好も良いと思うよ。」
わざと店長と言うフレーズを出して、姫依の様子を伺ったが、姫依の表情に
大きな変化は無かった。
「ありがとう。
それにしても今日の姫依が着てるピンク色のニット可愛いね。」
「そう?ちょっちお気に入りのニットなんだ。ありがとね。」
そう言いながら姫依はハンドルを握り、サイドブレーキを外した。
「それにしてもかなっちが旅行に誘ってくれるなんて嬉しいね~♪
こんな事、今まで無かったんやない?
でもなんで急に東尋坊なん?」
久しぶりに車を運転する姫依はかなり緊張していたが、車が高速道路に乗った
頃には慣れてきたようで気持ちにも余裕が出てきたらしく饒舌に話すように
なってきた。
「前にも行った事があるんだけど、東尋坊と言うよりその近くの岬にとても
綺麗に星が、見えるところがあってね。
そこにまた見に行きたいなと思ったんだけど、1人で行くのはちょっと
怖くて。」
香奈が話す『嘘』にまったく気づいていない様子の姫依は、その理由で
納得したらしい。
「そうなんや~。
それは是非とも見てみたいな。
でも今夜は遅くなればなるほど天気が悪くなるかもって言ってたけど
大丈夫かな?」
「う~ん。どうなんだろう。
まあ行ってみたら天気が良くなって来るかも知れないし、きっと大丈夫だと
思うよ。
さっきも言ってたけど、なんと言うかこれまで2人でどこかに出かけた事が
無かったじゃない?
だから実は星なんかどうでも良くって、とにかく2人で出かけたかったの。」
香奈がそう言うと姫依は喜んだ。
その様子を見て少し気持ちが揺らいだが、今走っている高速道路と同じで、
もう後ろに戻る事は出来なかった。
大阪から福井までは「名神自動車道」から「北陸自動車道」と高速道路を使って
いけば、それほど遠くは無い。
少し頑張れば日帰りで行けるほどである。
今日は2人で東尋坊の近くの岬で星を見てから近くにある旅館に止まり、明日は
福井県を観光して、名物のソースかつ丼を食べてから帰る・・・とのように
姫依には言ってある。
高速道路を下り、一般道を走り始めたころには太陽は完全に沈んでいた。
「かなっち、こう言う機会やから、ちょっと聞きたかった事を聞いてもいいかな?」
そう言われて横を見ると姫依が珍しく真面目な顔をしていた。
「何?」
「何か私に隠してる事ない?」
突然そう言われて思い当たる節の多い香奈は慌ててしまった。
「かっ、隠してる?
何を?
そんな事ある訳ないよ。」
そう反論しながらも香奈の頭の中には宝くじの事が浮かんでいた。
完全に挙動不審となっている香奈をチラリと横目で見てから、姫依は言った。
「彼から教えてもらったんだけど、佐内さんとあれから何回か会ってるでしょ?
確かに最初は私が彼に会ってくれとお願いしたから偉そうな事は言えないけど、
何回も会ってなんてお願いしてないわよ。」
宝くじの事を言われると思っていた香奈は意外な方向の質問に少し戸惑った。
確かに佐内と会っている事も姫依には言っていない。
そして佐内にも口止めはしていないと言うより出来ないので、いつか言われる日が
来るとは思っていた。
「佐内さんとは2・3回喫茶店で会ったわよ。でもただそれだけ。」
「どうして私に彼と会ってるって言ってくれなかったの?」
自分の依頼で会った男とその後何度か会っただけなのに、問い詰めてくるような
口調で責めてくる姫依に少し苛立ちを感じ、強い口調で反論した。
「どうして?って、なんであんたに私が誰と会ってるかなんて報告しなきゃ
いけないの?
別に良いじゃん私が誰と会おうと!何?あんたは私の保護者なの?」
突然の反撃に驚いたのか、姫依は少しトーンダウンしてきた。
「・・・今は保護者とか別に関係ないやん。
私はかなっちと佐内さんを会わせるきっかけになったのが自分やから心配なんよ。
何かあったらアカンと思って。」
何かあったらと言う言葉に引っかかった。
私が佐内と会っていて一体何が起こると言うのだ。
自分の方こそ好き勝手やってるくせに!
そう思うとこれまで抑えていた感情が吹き出してきた。
「何かって、何よ!!
あんたは佐内さんを犯罪者か何かと思ってるわけ?
それに第一、あんたこそ私に黙って店長と会ってたじゃないの!
しかもよりによって私が熱を出して寝込んでる時に!
一体どんな神経してんのよ!!」
「えっ!!!
なんでそれを!?
それは、あの・・・えっと・・・。」
店長の話をした瞬間、姫依の勢いが完全に止まった。
私が知らないとでも思っていたのか激しく動揺しているようだった。
しばらくの間、沈黙が続いた後、姫依が呟くような声で言った。
「アイツハヤバインダヨ」
続いていた沈黙が車中の雰囲気をどん底まで冷やした状態で予定地に着いた。
と言っても駐車場なども無い所なので、とりあえず道の端に車を止める。
この道には外灯も付いておらず、自分達の車以外全く何も見えないくらいの
暗闇が辺りを支配していた。
昼間はともかく夜は誰も来ない場所であることを改めて再認識した。
「・・・なんだか怖い場所だね。」
沈黙に耐えかねた姫依が息を吐き出すような声で言った。
「そう?
今は晴れてるから月の光もあるし、懐中電灯もあるから大丈夫よ。」
香奈はそう言って上着を着始めると姫依が謝ってきた。
「さっきのはごめんなさい。私の言い方が悪かった。
ただ少し心配だったから、彼とはあまり会って欲しく無かったから・・・。」
この後に及んでまだそんな事を言うのか!と心の中で怒りが湧き上がって来たが、
ここで揉めるとこの後の計画に支障が出てくる。
怒りを無理やりに押さえ、ぎこちない笑顔で姫依に向かって言った。
「わかった。心配してくれてありがとう。
せっかくだからひとまず休戦して雨が降ってくる前に星を見に行きましょう。」
香奈はそう言って少し重たい懐中電灯を持って車から降りて行った。
2人は寒空の下、月の灯りが木の隙間からしか見えてこない薄暗い道を
歩き始めた。
月の光が遮られた林道の中では手から照らされる科学的な光だけが輝いていた。
先ほどの車での事があったので、2人はほとんど会話をしなかった事が
更に姫依を不安にさせたかもしれない。
この暗い道を歩き始めてからずっと「引き返そう」と訴えていた。
しかし香奈はその度に「もうすぐだから」と言ってかわしていた。
しばらく歩くと今まで遠くに聞こえていた波の音が大きくなってきて、
少しづつ海が近づいていることがわかった。
そして先ほどから『足元注意』・『立入禁止』などと書かれた看板が
並べられている。
「やっぱり、引き返さない?
さすがにここはちょっと怖すぎやで。」
さっきから同じような言葉を繰り返すだけの怖がりな女。
やはり馬鹿で無知な女だ。
香奈は心ではそう貶しながらも、姫依が逃げ出さないようになるべく
優しい口調を心がけながら言った。
ここで逃げられては計画が台無しである。
「大丈夫。もうすぐ暗い道も終わるよ。
あっ、もうそこで終わりだから。ほら。」
そう言って指差した道の先は確かに木が無くて明るかったが、そこは
尖った岩が敷き詰められた険しい崖だった。
香奈は嫌がる姫依を連れて崖の先の方に立ち、空を見上げた。
「ほら。とても綺麗でしょう?」
そこには先程までの曇空が嘘のような星空が広がっていた。
「たっ、確かに綺麗やけど。
ちょっとここは危なすぎるんちゃうかな?」
そう言って足元を見ている姫依の後ろに香奈はそっと周り、持っていた
少し大きめの懐中電灯を振り上げた。
そこまでの行動に一切の迷いは無かった。
「そうね・・・。
危険だね。
こんな場所だったら・・・・・・
オチテモミツカラナイカラネ!!」
香奈の異変を感じた姫依は振り向こうとした。
しかしその前に香奈は持っていた懐中電灯で姫依の後頭部を殴りつけた。
『ガンっ!!』
音は一瞬だったがその効果は絶大だったらしく、姫依はそのまま前に倒れた。
受身を取らなかった、いや取れなかった姫依は顔を尖った岩に強く打ち付けた。
その額からは血が流れており、瞼は激しい痙攣を起こしていた。
そんな姫依を見ながら香奈は何かから解放されたかのように高らかに笑った。
「あはははは♪
姫依、何こんな所で倒れてんのよ。
風邪ひくよ?
大丈夫?
大丈夫な訳ないよね?」
そう言って更に高らかに笑いながら、うつ伏せで倒れている姫依をまるで
土嚢を動かす時のように崖の先に向かって全力で押していった。
崖の上の尖った岩場を無理やり移動させられる距離と比例して、姫依の傷は
深くなっていき、皮膚だけで無く肉すらも岩で裂かれて行った。
その痛みで姫依は目覚めたようだが、どうやら話す事すら出来ないらしく、
口をパクパクさせるのがやっとのようだった。
どれだけ姫依が血を流そうが涙を流そうが香奈は気にしなかった。
姫依の嘘泣きや我儘にはもう付き合っていられないのである。
そして崖の先まで姫依を押し続けた香奈が最後にドンっと強く押すと
傷だらけの土嚢・・・
いや姫依の身体は目の前から消えていった。
呆気ないものである。
姫依はまったく声を出さないまま崖の下へ吸い込まれていった。
そしていつの間にか激しい雨が降ってきた崖の上に残ったのは、壊れた
懐中電灯とそれを握り締める壊れた香奈だけだった。
それにしても自分の懐中電灯はともかくとして、姫依の懐中電灯まで壊れるとは
予想していなかった。
おかげで崖から車の置いてあった道路に戻るまでかなりの時間を要してしまった。
レンタカーの中に自分の物が無いのを確認すると、香奈は更に激しさを増して
降ってきた雨の中、ゆっくりと南に向かって歩き続けた。
どこかのホテルに泊まったり、タクシーに乗ったりすると、なんらかの形で
「足」がついてしまう恐れがあるのでそれは避けたかった。
今夜の事はあくまでも自殺、もしくは何らかの事件に巻き込まれたと言う形に
なってもらわなければ困る。
当然香奈は何も知らない。
その為に姫依1人でレンタカーを借りに行ってもらったり、いつもは絶対に着ない
男とも見れるような服装を着てわざわざ人目のつかない所で合流したりしたのだ。
雨は夜通し降リ続けていたが、香奈は黙々と歩き続けた。
そして始発の電車が動き始めた頃、香奈は昨夜居た崖よりも数駅南に離れた聞いた
ことも無い無人駅にたどり着いていた。
駅のトイレでレインコートを脱ぎ、タオルで髪を乾かした後、ちょうどホームに
入ってきた電車に乗り込んだ。
その後、数回乗り換えを行い、無事に大阪に着く頃には既に昼前になっていた。
昨日出て行った時のように監視カメラの無い、マンションの裏口から入っていった
香奈は自分の部屋の鍵を開け、中に入った。
こういう時に寮のセキュリティーの甘さが助かった。
そこで深呼吸をした後、気が緩んだからなのか急激に立っていられないくらいの
眠気に襲われ、倒れるように自分の布団へ入って行った。
眠い・・・。
まだ眠い。
こんなに私が眠いと言うのに無理やり起こそうとするのは誰?
姫依?。
もう今日は体中が痛いし学校は休むよ。
えっ、何よそんな怖い顔して。
私は何も持ってないわよ。
何も盗んでなんかないわよ。
だから「カエシテ!」なんて言わないでよ!!!
香奈は夢の中で叫んだ勢いで飛び上がるようにして起きた。
急いで周りを見渡すが、先程まで怖い顔をして立っていた姫依は居なかった。
「姫依?姫依~!」
呼んでみるが当然返事は帰ってこない。
「そう言えば・・・もう居ないんだね。」
自分でそうしておきながら、返事が無い事が少し寂しかった。
その日は午後から『あ・らもーど』で働いた。
昨夜の事で寝不足であり身体も精神も疲れてはいたが、ここでバイトを休んで
いては後で何かあったと思われる可能性があった。
あくまで私は今日はいつもどおりの日曜日を過ごした。
周りからはそう思われないといけない。
結局、注文を間違えたりなどいくつかの失敗はしてしまったが、その程度で
あれば誰からも私が姫依の失踪に関与しているなどとは疑われないだろう。
その日も閉店までドーナツを揚げ続けた香奈は、へとへとになりながら
帰ろうとした所を店長に呼び止められた。
また姫依が何処に行ったのか教えて欲しいと言う。
おそらく姫依の電話に電話しても繋がら無かったからだろう。
もちろん繋がる筈は無い。
姫依の電話は姫依とともに崖から落ちて行ったのだから。
「だから、昨日も言いましたが彼女は福井の方に旅行に行ってるみたいです。
それ以上は私もわからないです。」
少し冷たく言うと店長は少し項垂れて言った。
「せめて誰と行ったか・・・あっ、ごめん。
やっぱり良いよ。
引き止めてごめんね。」
これ以上言うと自分が姫依の事をどう思っているのかバレてしまうと思ったのか
急に店長は聞いてくるのを止めた。
もうバレているのだから今更一緒なのだが・・・。
「別にいいですよ。それではお疲れ様でした。」
内心は店長や姫依に対して苛々していたが、それをバレないように抑えながら
挨拶をして店の出口に近づいていった。
そこで何気なく店の中から窓越しに外を見た時、視界に見覚えのある派手な色が
見えた。
「姫依?!」
香奈は思わずそう叫んでいた。
窓の外にピンク色の服を来た女性が立っていたからだ。
しかし姫依はもう居ない。
私が落としたから・・・
私がコロシタからだ。
自分の目を疑い、目を擦って再度その場所を見た時には、その女性は
居なくなっていた。
今のは一体なんだったのだろう。
「姫依ちゃん?
姫依ちゃんがどうしたの?」
急に大きな声で姫依の名前を叫んだので、店長が何事かとこちらに向かって来た。
「いや・・・。
そこの窓の外に姫依が立ってこちらを見ていたような気がして・・・。
他の人と見間違えたんだと思うけど。」
そう香奈が言うと店長は不思議そうな顔をして言った。
「姫依ちゃんは今、旅行中なんでしょ?
だったらそこに立っている筈は無いじゃない。
それにここは・・・4階だよ?」
確かにここは4階で、姫依じゃなくても誰も窓の向こうに立てる訳は無いのである。
何かと見間違えたのは間違いないのだが、香奈は何か釈然としなかった。
部屋に帰り、シャワーを浴びてから、居住者が1人となってしまった部屋を
眺めていた。
改めて見ると1人で住むには大きな部屋であることがわかる。
「さすがにこれだけ広いと持て余すわね。」
誰からも返事のない独り言を言った後、寝る前に歯を磨こうと少しフラつきながら
洗面所へと歩いて行った。
鏡で自分の顔を見てみるといつもより顔色が悪い事がよくわかった。
昨夜は朝まで寝ずにずっと歩いていたのもあってか、目元にクマも出来ている。
鏡を見ながら歯を磨いていると突然前触れも無く部屋の照明が全て消えた。
「えっ!」
急に灯りが無くなったので目の前が真っ暗になったが、しばらくするとまた一斉に
照明が付いた。
香奈は何が起こったか解らずに歯ブラシを咥えながら鏡の前で立ち尽くしていたが、
短い停電が起こったのだというのが理解出来るとようやく気持ちが落ち着いてきた。
「どこかに雷でも落ちたのかな?
もしそうだとしたら季節外れも良いところね。
まあ直ぐに治ってくれたから大丈夫だったけど・・・あっ!」
そう言いながら向かった先は先月購入したばかりのブルーレイレコーダーだった。
ちょうど今は楽しみにしているドラマの最終回が放送されているので、録画して
後日おちついた時にゆっくり見るつもりだった。
「良かった。ちゃんと録画が続いている。
最近のレコーダーは停電しても復電したらまた録ってくれるのね♪」
安心したので歯磨きの続きを行うために洗面所に戻っていった。
洗面所で歯磨きを終えると次は顔を洗い初めた。
大分顔が熱くなっているようで流水を両手の掌で貯めてから顔を洗ってやると、
とても気持ちが良かった。
もう一度洗おうと掌の水に顔を近づけると、また部屋の照明が一斉に消えた。
「えー!また?」
さっきとは違い二度目となると流石に灯りが無くなっても多少は冷静に対応出来る
ようになっていた。
それにしてもこんな短い間に二度も停電になるとは酷い話である。
たとえ雷のせいだとしても許すことは出来なかった。
しばらくするとまた照明に灯りが戻ったので、また顔を洗おうとしたが・・・。
「うっ・・・うわあああああああああ!!!」
復電した照明が明るく照らす鏡の中の部屋には香奈だけで無く、香奈の後ろに
もう1人、顔が誰かわからないくらい血まみれの女性が立っていた。
気を失いかけながら香奈は気づいてしまった。
その女性がピンク色の服を着ていたことを。
香奈は朝を知らせる雀たちの声で目が覚めた。
いつもは布団の中で目覚めるのだが、昨夜はあのまま気を失っていたらしく、
鏡の前のフローリングの上で倒れていた。
おかげで身体のあちこちが痛くなっている。
それにしても昨夜のは一体なんだったのか?
突然の停電の後に鏡に映ったあの少女は?
・・・悩む必要は無かった。
崖から落ちていった時の姫依の服装はピンク色のニットだったからだ。
結局、その日は学校を休んだ。
さすがにこんな気持ちのままでは、学校どころか出かけられる事すら出来無い。
まず鏡を見ることすら出来ないので出かける用意すら出来なかった。
このまま家に居る事も怖かったのだが、外に出かけて先輩や先生に見つかっても
後で面倒なので、どうしようか悩んだ挙句しばらく布団に潜っておくことにした。
遠くで波の音が聞こえる。
でも目の前は暗くてはっきり見ることが出来なかった。
まるで姫依を落とした後に灯りが無くて手探りで帰っていったあの道のようだった。
すると目の前に派手なピンク色のニットを来た姫依が恨めしそうに立ちはだかった。
「カエシテ!」
そう言うと姫依の顔の皮が少しづつ剥がれていった。
「何を?」
「カエシテ!」
更に姫依の顔の皮が剥がれ、中の肉が見えてきた。
「わからない。何をよ?」
「カエシテ!」
一言言うたびに姫依の顔が酷く崩れて血が吹き出してきた。
しかしどれだけ言われようとも何を返さなければならないのかがわからない。
「宝くじ?
それとも佐内さん?
何よ!
わからないわよ!!
何を返して欲しいのかはっきり言いなさいよ!!」
そう言うと血まみれで顔が全くわからなくなってしまった姫依は、血が混じった涙を
流しながら香奈の首を強く絞めてきた。
「ワタシノ・・・カラダ!!!!」
「ぐはっ!」
強く首を絞められたような気がして、息苦しくなった香奈は飛び起きた。
いつの間にか布団に潜っている間に眠っていたらしい。
時計を見ると4時となっており、既に部屋に差し込む日差しが夕暮れの鮮やかな
オレンジ色に変わっていた。
その綺麗なオレンジ色で染まった部屋を眺めていると、太陽の光が強く当たって
いるのか、何故か壁の一箇所だけが赤く見えた。
「赤?」
不思議に思いながら赤くなった壁の方をよく見てみると、それは太陽の光などでは
なく、壁全体が赤い液体で濡れていることがわかった。
「うわあああああ!!」
香奈は大声で叫びながら布団から飛び出し、ドアの方に向かった。
何が起こっているのかはわからないが、もうこんな部屋には居たくない。
一先ず外に出ようと、外に出るためにドアノブを握った時にドアノブが何かに
濡れているようなヌルっとした触感を感じた。
「な・・・何よこれ!」
ドアノブには先ほどの壁とおなじような赤い液体が塗られており、そのドアノブを
握った手にも赤い液体がベットリと付いていた。
完全にパニック状態になってしまった加奈は赤い液体のついたドアノブを狂ったかの
ように何度も回し、最後はドアに体当たりをして無理矢理に外へ出た。
その時に香奈は聞いた。
間違いなく聞いてしまった。
部屋の中に居る、いや今やこの世には居ない人から自分にかけられた言葉を。
「カ・エ・シ・テ!!!!」
「誰か・・・」
声が出ない。
部屋の外まで出れたので、大声を出して早く助けを呼びたいのにそうも出来ない。
いつもはあんなに簡単に出る声があまりの恐怖のせいなのか出なくなって
しまっている。
このままでは自分の身が危険だと判断した香奈は壁を伝いながら何とか玄関口にある
管理人室へ入っていった。
管理人室に転がるように倒れてきた香奈に管理人は驚きながらもお茶を飲ませて
くれたりして落ち着かせてくれた。
さすがのヤツも人の居る所には出てないだろうと、なぜか自分の都合の良いように
勝手に思った香奈は次第に落ち着きを取り戻し、声が戻ってきた。
「か、管理人さん!
幽霊が・・・部屋に幽霊が出たんです!」
悲壮な表情をして真剣にそう訴える住民に対して、もうすぐ今日の仕事時間が終わる
管理人は面倒くさそうな顔をして答えた。
「幽霊??
あのね、大岐さん。
それはきっと見間違えか何かじゃないですか?
それかお昼からお酒か何か飲まれてるとか?」
あからさまに香奈の言う事が信じられないと思っている管理人に少し苛立ちながらも
更に香奈は訴えた。
「管理人さん、信じてください。
本当なんです。
さっき起きたら壁一面に血がかけられていて・・・
あっ、そしてドアにも血がついていました。」
そう言われた管理人は小さく溜息をついてから言った。
「そんな事・・・ある訳ないじゃないですか。
もしあったとしても霧島さんか誰かの悪戯ですよ。
ここに来る前に霧島さんに確認されましたか?」
香奈はどれだけ訴えても信じてくれない管理人に苛立ちをぶつけた。
「違います!
姫依はこんなことを出来ない、いや今は出来る訳がないんです!!」
管理人は不思議な顔をした。
「出来る訳がない?」
「あっ!
すいません。
それはともかく、一度私の部屋を見てください。
お願いします。」
管理人はやれやれという表情をしながらもようやく重い腰を上げて
動き出した。
香奈は部屋に戻るのが怖かったが、どうしても管理人が1人では行かないと言うので
2人で自分の部屋へ戻った。
部屋の中に入るといつもよりも少し寒いような気はしたが、ドアはおろかあんなに
真っ赤だった壁までも赤い血は一滴もついて無かった。
「一体・・・・
これはどういう事ですか?」
完全に呆れた表情をしながら少し嫌味っぽく言ってくる管理人に対して、香奈はただ
謝る事しか出来なかった。
さっきのは私が寝ぼけて見間違えてしまったのだろうか?
香奈は何度も自問自答するが答えは必ず「NO」であった。
やはりさっきは壁に血のような赤い液体が塗られていたのは間違いない。
しかし、今はその血が一滴も残っていない。
壁に塗られた血の痕跡が短時間で消えるなんて事があるのだろうか?
その質問に対する自分の答えももちろん「NO」であったので、考えれば考えるほど
頭の中がおかしくなってしまいそうになるのであった。
夜になり少しずつ暗くなってきている部屋に居た香奈は、このままこの部屋に居ると、
また何か起こりそうな気がしてきて、ひとまずここから出ようと決断し準備を始めた。
昨夜の事があるので出かけるにしても鏡はなるべく見たくないのだが、鏡を
使わなければ化粧をする事も出来ない。
恐る恐る鏡に近づき鏡を覗いた瞬間、電話の着信音がけたたましく鳴り始めた。
香奈は突然鳴り始めた着信音に思わず腰が抜けそうになり、その場にへたり込んだ。
しばらくしてから部屋の電話が鳴り始めた事に気が付き、あわてて通話ボタンを
押した。
「はい。」
「霧島様のお宅でしょうか?お忙しい所、大変申し訳ございません。
福島駅前にあります『大和レンタカー』なのですが、姫依さまは
御在宅でしょうか?」
レンタカー!
その言葉を聞いた香奈は手に汗をかきはじめた。
福井県に行くのに自分が行った事の痕跡を残さないように、姫依に一人で車を
借りてくるように言ったのだが、きっと返却時間になっても車が帰って
来ないので催促の連絡をして来たのだろう。
そういえばあの時の車は、まだ崖の近くの道路に止めたままである。
レンタカーを借りて福井へ向かう計画を立ててから、この連絡があることを
予期していた香奈は、落ち着いて対応をすることが出来た。
「霧島・・・ですか?
霧島は一昨日から出かけておりますが、どうされましたか?」
今の自分の演技に対する評価は50点。
中学時代に演劇部に居たわりにはとても白々しい演技だと自分自身で
反省した。
「実は一昨日のお昼から霧島さまに当社の車を借りて頂いております。
一泊二日のご契約でしたので、昨日の晩にはお返し頂くはずだったの
ですが、まだこちらのほうにお返しに来られなくて。」
少し回りくどい言い方だがようするに期限が過ぎているから車を返せと
言う事なのだなと認識し、返事をした。
「そうなんですか!
実は私は姫依・・・いや霧島さんのルームメイトです。
長い間出かけるとは聞いていたのですが車を借りるとは聞いて
ませんでした。
彼女の携帯には電話されましたか?」
「はい。
今朝からずっとしているのですが、電話に出られないのです。
それで念のためにお聞きしていた家のほうに電話させて頂いたの
ですが・・・。」
姫依は電話に出たくても出れないわよ。
・・・これからずっとね。
そう思いながらもレンタカーショップには「知らない」の一点張りで
突き通した。
こういう時にいらないことを言えば言うほど自分が不利になるのは
ミステリー小説を読んでいれば誰でも気づく事である。
レンタカーショップは最終的に「霧島さんと連絡が取れなかったらまた
電話します。」と言って電話を切ってしまった。
「ふう~。」
どうやら関門の一つ目はどうやら無事突破出来たようである。
これから何回かこういう事があると思うが今日みたいに知らぬ存ぜぬで
通せば大丈夫。
きっと決定的な物理的証拠は一切残していない筈である。
先ほどの突然の電話で邪魔されてしまったが、再度恐る恐る鏡に向かい、
ゆっくり鏡を覗き込んだ。
そして自分以外に誰も写っていない事を確認し安堵した。
ドライヤーを取り、髪のセットをしようととした時、また部屋に大きな音が
鳴り響いた。
「もう。一体なによ!!」
慌てて落としてしまったドライヤーを元の位置に戻してから、自分の机まで戻り、
充電中だった自分の携帯電話を手に取った。
どうやら相手は公衆電話から電話をかけてきているようだ。
少し悩んでから香奈は通話ボタンを押すことにした。
「はい。」
「香奈ちゃん?
こんばんは、佐内です。」
電話越しとは言え久しぶりに聞けた佐内の声を聞いて、今まで我慢していた
香奈の張り詰めていた気持ちが解けていった。
すると自然と涙が溢れてきて頬を伝って落ちて行った。
口を手で塞ぎ出てきそうになる嗚咽を一生懸命抑えるのがやっとだった。
「どうしたの?
なんかいつもと違うような感じだけど。
もしかして何かあった?」
その優しさが余計涙を溢れさせる。
しかし佐内に今の状況を話すと言うことは、姫依が死んだ事を気づかれる
ような気がしたので、話さないようにすることにした。
「ううん。なんでも無いです。」
「そう。
ならいいけど。
何かあったら遠慮なく言ってね。」
佐内から発せられる言葉は社交辞令だとはわかっていたがやはり嬉しかった。
「ありがとうございます。
ただ本当に何も無いですよ。
それより佐内さんから電話なんて始めてじゃないですか?
どうかされたんですか?
もしかしてまた大阪に来られるとか?」
最後の言葉は香奈の希望的観測が大きく入っていた。
「いや、最近は少し忙しくて、なかなかそちらには行けそうに無いよ。」
「なんだ。
そうなんですか。」
「またそちらに行くことがあったら連絡するよ。
・・・それより聞きたい事があるんだけど良いかな?」
佐内は急に声のトーンを変えて質問してきた。
「なんですか?」
「まよりんの事なんだけど。彼女に何かあったのかな?」
「マ・ヨ・リ・ン?」
佐内からその言葉を聞くと、激しい頭痛が始まり、全身を怒りによる震えが
駆け巡った。
「・・・香奈ちゃん?
どうしたの?
やっぱり彼女の身に何かあったの?」
香奈は怒りと震えを無理矢理抑えこみながら何とか平静に答えた。
「まよりんですか?
彼女は今、タビニデテマスヨ」
「旅?
どこに行ったのかな?
一昨日から急に彼女がTwitterに顔を出さなくなったんだ。
これまでは用事があろうが体調が悪かろうが毎日のように顔を出して
いたのに、3日間も何もツイートしないなんて事はなかったから
ちょっと心配になって・・・」
心配?
あんな女の事が心配?
そんな事よりも私の心配をしてよ。
「さあ?
行き先までは聞いてませんから。
彼女、前からたまにふらっと出かけてしばらく戻らない事があって、
今回も一昨日出かけたきり戻らないんですけど、きっと今回も
そうじゃないかって思ってるんですよ・・・
それよりも佐内さん♪
私一度でいいからスカイツリーを見てみたいんですよ。
今度の連休で東京に行こうかと考えてたんですが、良かったら少しでも
会えませんか?」
いつまでもまよりんだなんて言ってても、もうあの子はいないのよ。
だからこれからは私の事を見てもらうためにもっと積極的にアプローチして
行かないと。
そう思い勇気を出して誘ってみたのだが佐内からの返事は冷たいものだった。
「東京?
スカイツリー?
ルームメイトと連絡が取れないと言うのに何をのんきな事を言っているんだ!
一体君はどういう神経をしているんだ。」
それから直ぐに電話は切れた。
電話が切れてからの香奈は荒れた。
今まで外に出かけようとしていたことも、この部屋にいる事が怖くて仕方が
無かった事も忘れ、ただ手当たり次第に物を投げては叫んでいた。
「姫依!
あの馬鹿女ー!!
この私がせっかく崖から落としてやったのに!
もう居ないのに!
あの女は死んでからもまだ私を苦しめる気なの?
ちくしょー!ちくしょー!ちくしょーー!!!」
これは『夢』なんだ。
そう『夢』。
悪夢という名の『夢』。
夢から覚めるならどうすればいいのか?
それは簡単、早く目覚めればいい。
目覚めるにはどうすればいいのか?
童話のように王子様のキスが必要じゃないかな?
それで目覚めれば最高だけど、私の王子様は崖の下に
落とした魔女に虜にされてるまま。
大変。早く助けなきゃ。
私じゃなければあの魔法は解けない。
他の人じゃ絶対解けない。
でも私は『夢』の中。
つまり誰も王子様を助けられない。
・・・そして私を誰も助けられない。
目覚めた時、香奈は天井を見つめていた。
寝ている間も頬を涙が伝っていたらしく、頬が冷たくなっていた。
どうやら部屋で暴れている間にいつの間にか寝ていたらしい。
ふと部屋の中を見渡すと、暗い部屋の中に一つだけ明るく光る場所を見つけた。
今のような暗闇の闇の中から救い出してくれる光。
藁をも掴むと言うのはこう言う心境なのかなと思いながら香奈はその光を掴んだ。
光の正体は携帯電話に着信が有ったことを教えてくれるランプだった。
慣れた手つきで電話を操作して着信履歴を見ると、同じ電話番号から5回着信が
来ている事がわかった。
そして更に一通のメールが届いていた。
どれも佐内からのものであった。
香奈は少しためらった後にメールを開いた。
「香奈ちゃんごめん。
さっきは俺も気が立っていたのでキツい事を言ってしまった。
香奈ちゃんは何も悪くない。
ただやはり『まよりん』がルームメイトに何も言わずに出かけて
ずっと戻らないというのは気になるんだ。
そしてやはり香奈ちゃんにも何かあったんじゃないのかい?
いつもの様子と何か違ったよ。
『まよりん』もだけど君の様子が気になるので急遽明日大阪に行きます。
だから会ってくれますか?」
香奈は嬉しかった。
佐内が自分を心配してくれてわざわざ大阪まで来てくれる。
普段であれば騒ぎたくなるくらい嬉しい事なのに今はなぜか心から喜べない。
「結局は『まよりん』なのか・・・」
先ほどの電話での佐内の様子からはそう思える。
「まあ、今はまだしょうがないか。
そのうち諦めるだろうし。」
暗闇に向かってそう呟きながらゆっくり立ち上がった。
不貞腐れた気持ちのままで寝るのは姫依に負けたようで嫌だったし、何より
明日は佐内が会いに来てくれると言うのだからせめて汗くらいは流して
おこうと浴室へと歩き出した。
シャワーを発明した人に感謝したい。その人は偉大である。
今夜の加奈は本気でそう思った。
シャワーで汗を流すのと共に嫌な気持ちも少しづつ薄れていった。
浴槽から出てきた時には先ほどまでのモヤモヤした気持ちは小さくなり、明日
佐内に会える楽しみが勝っていた。
それでも一応なるべく鏡を見ないようにしながら髪を乾かし、冷蔵庫から冷えた
レモンティーを取り出すと一気に飲み干した。
壁に掛けてある時計を見ると短針は『5』の数字に限りなく近づいている所だった。
「佐内さんがいつこちらに来てくれるかわからないし、今から寝るのは危険ね。」
普通に考えれば東京に住む佐内が始発の新幹線や飛行機に乗ったとしても、ここに
着くのは早くて10時近くなる。
それはわかっているのだが、一刻も早く佐内に会いたかった。
もうすぐ夜も明ける。
夜が終わればさすがの幽霊も少しは出て来にくくなるかしら。
そう思ったときに昔誰かに言われた嫌な言葉を思い出した。
『幽霊は夜明け前に一番出てくる』
本当か嘘か真偽はわからないが、どちらにしても今思い出したのは致命的だった。
急に部屋に居るのが怖くなって来た香奈は、いつでも外に出れるように部屋着から
外着に着替え始めた。
外着に着替え終わり、少し気持ちが落ち着き始めた頃に眠気が襲ってきた。
もうすぐ夜が明ける、佐内がやってきてくれる。
そう思いながら眠気に耐えていたら、姫依の部屋の方が急に明るくなった。
思わずそちらの方に振り返るとこの数日間使われた事が無いはずの姫依の
パソコンのディスプレイに電源が入っていた。
香奈は念の為に何があっても良いように自分の携帯電話と部屋の鍵を持ってから
ゆっくりとパソコンへと向かった。
近づいて見るとディスプレイは真っ白になっており、何も表示されていなかった。
「・・・おかしいなあ。
確かこの前確認した時は電源は切れていたハズなんだけどな。」
そう呟きながらパソコンをシャットダウンしようとマウスに触れた瞬間、白一色
だった画面が歪み始めた。
そしてしばらくすると画面の真ん中あたりから黒く歪んだ文字が浮かんできた。
『なぜ?』
なぜ?
そう問われる理由が香奈にはわからなかった。
いや、気づかないフリをしていた。
しばらくすると画面の文字はまた歪んでいき、しばらくすると新しい文字が
表示された。
『私を?』
この時点で次に何が表示されるかなんとなく想像がついた。
だからこのままマウスに触れずにパソコンの電源ボタンを押してパソコンの電源を
落としてしまおうと考えた。
しかしなぜかまるで誰かが香奈の手を掴んでクリックさせているかのように香奈の
指はマウスのボタンを押していた。
その瞬間、画面が白から黒へと徐々に変わっていった。
そしてパソコンのスピーカーからは誰かの笑い声が流れ出した。
真っ黒に変わった画面のの真ん中には蛇に巻き付かれた骸骨の絵が表示され、
その下には赤く大きな文字で・・・
『殺したの?』
と書かれてあった。
香奈は部屋を飛び出した。
部屋の鍵をかけたかどうかも覚えてないくらい何も考えずに息の続く限り走った。
全力で走ってたどり着いたのはJR福島駅。
ちょうど始発が動き始める時間帯で、改札口にはまばらに人が集まってきていた。
香奈はそこで走るのを止め、後ろに『何か』が部屋からついて来ていないか
確かめた上で鞄から携帯電話を取り出した。
「も、もしもし、佐内さんですか?あの、あの、助けてください!
早く助けに来てください!!!!」
始発前の駅の改札口前で泣きながら助けを呼ぶ女性。
そのあまりに異常な光景を駅へ向かう人達は好奇な目で見ていた。
結局、佐内は午前中はどうしても東京でやらなければならない仕事があったらしく、
昼から大阪へ向かうとの事だった。
そうだとすると夕方くらいにこちらに着くことになる。
香奈としては一刻も早く来て欲しかったが、仕事だと言われたら何も言えなかった。
結局、夕方に大阪駅近くにあるホテルのロビーで待ち合わせることになった。
香奈は夕方になるまでなるべく人の多い百貨店や交差点に居ることにした。
一人になったらいつあの女が襲ってくるかわからない。
そうこうしている内に時間は過ぎていったが、夕方に近づけば近づくほど香奈の
心境は複雑になっていった。佐内が来てくれるのは嬉しい。
出来れば彼に今の自分の状況を全て話して助けて欲しい。
でも・・・私はどこまで彼に本当の事が言えるのだろうか?
ホテルのロビ-で佐内に会った時、安堵した気持ちと嬉しい気持ちが混じりあい、
涙が止まらなくなった。
何を言っても泣き止まない香奈に困った佐内は自分が泊まる部屋に香奈を連れて行った。
本来ならこんな風に好きな男の人が泊まっている部屋に行くとなると嬉しさと
恥ずかしさで心が踊るものなのかも知れないが、今の香奈にはそんな余裕はなかった。
ただ泣いている間、佐内がずっと横に座って肩を抱いていてくれたことが嬉しかった。
そのおかげで自分が思っているより早く、涙が止まってくれた。
「・・・ありがとうございます。
ようやく少し落ち着いてきたみたいです。」
「そうか。
それは良かった。
では出来ればそろそろ何があったのか教えてくれないかな?」
佐内の優しい声にまた涙が出そうになってきたが、なんとか抑えながら答えた。
「実は・・・最近、部屋に幽霊みたいなものが出るんです。
急に壁が血まみれになったり、鏡に変なものが写ったり、誰も触っていない
パソコンに文字が出たり・・・。
もうあの部屋には戻りたくないです!」
「血まみれ?
鏡?」
急に幽霊の話を聞いたからか佐内は少しの間悩んでいた。
「部屋に幽霊が出てきたなんて、それは怖いね。
もしかしてそれが嫌で『まよりん』も部屋を出て行ったの?」
香奈は顔を横に振りながら言った。
「それは違うと思う。
どうやら部屋に出て来ている幽霊が・・・姫依、
いや『まよりん』みたいなんです。」
そう言われて佐内は理解できないような表情をしたが、すぐに何かに気が
ついたらしく真面目な顔に変わった。
「という事は『まよりん』、いや姫依さんは既に死んでいるという事かい?」
「それはわからないです。
ただ居なくなった日に彼女はレンタカーを借りてるの。
私や他の友達にも行き先も言わなかったからどこに行ってるかわからないん
だけど、友達が言うにはその日に新梅田の方で若い男の人と一緒に居た姫依を
見たらしいんです。」
最後の方はもちろん嘘である。
もし若い男の人と一緒に居るのを見た人が居るとすれば、その人が見たのは
量販店で買ったデニムのパンツにネルシャツを着て、野球帽を深くかぶった
香奈であった。
「つまり彼女はその男とどこかに行ったということか。
しかしそれだったら彼女は旅行に行ってるだけで、幽霊になって出てくると
言うのはおかしいんじゃないか?」
「だから死んでいるかどうかはわからないの。
でも先日、鏡に映っていた幽霊は・・・間違いなく姫依だったの。」
そう言うと佐内は少し困ったような顔をした。
「う~ん。
よくわからないね。
無いとは思うけどもし『まよりん』が何らかの理由で死んでしまったとしても、
部屋に化けて出てくるのってやっぱりおかしくないかい?
・・・それとも彼女に恨まれるような事を何かしたのかい?」
最後の方は優しくは言っているが何か刑事ドラマの尋問のように感じられた。
「そんな事は何も無いです。
あの子から感謝されるような事はあるけど、恨まれるような事は何もありません。」
返答を聞いた佐内は口元を右手で覆うようにしながら、難しい顔をして部屋を
ウロウロ動き始めた。
おそらく彼が考える時の癖なのだろう。
部屋の中をゆっくりと5周した後、佐内は急に立ち止まった。
「あの・・・提案があるんだけど?」
「はい?どんな提案ですか?」
「今の状況を整理すると『まよりん』、いや姫依さんは数日前から行方不明に
なって連絡が取れない。
そしてそれから香奈ちゃんの部屋で怪奇現象が起き始めた。」
香奈は肯定の意味を込めてうなづいた。
「香奈ちゃんとしては理由はわからないが怪奇現象の犯人が姫依さんだと
思っている。
そしてこの怪奇現象を止めて欲しいし、止まらない限り部屋には戻れない。」
理由以外はまったくその通りなのでまたうなづいた。
「そこで僕からの提案なのだが、香奈ちゃん今夜はこの部屋で泊まらないかい?」
あの何が起こるかわからない部屋に帰るくらいなら、このホテルにいる方が
当然安心出来るので香奈は即座にうなづいた。
・・・が、その後、この部屋に泊まるということは佐内と一緒に夜を過ごすという事に
なるのに気付き、急激に顔の温度が上がってきたのが感じられた。
「あっ、あの、それってもしかして・・・」
一緒に寝ようと言うことですか?と言おうと思った時に佐内が先に話しかけて来た。
「そうだ。
香奈ちゃんがこの部屋で休んでいる間に僕が香奈ちゃんの部屋に行って怪奇現象の
正体を探ってくる。」
なんだ一緒に寝るんじゃないのか。
少しホッとしたような残念な気持ちになった後、佐内の提案がとんでもない事で
あることに気がついた。
「それは駄目ですよ。
駄目です。
絶対にダメです!」
そう言うと佐内は不思議そうな顔をした。
「なぜ駄目なんだい?
このままじゃあ君は一生あの部屋に帰れなくなる。
今の所、僕以外その怪奇現象の正体を探れそうな人は居ないと思うけど。」
「えっ、まあそうかもしれませんが・・・。
あの部屋に行くなんて危険ですし、第一佐内さんに申し訳ないです。
それにまずはマンションの管理人さんに見てもらうとか、警察に頼んで
調べて貰うとかの手段もあると思いますし。」
そう言うと佐内は呆れたような顔をした。
「管理人には壁が血まみれになった時に馬鹿にされたと言ってたじゃ無いか。
そんな人にまた言った所で、門前払いされるのが関の山だよ。」
確かにそうだった。
恐らく管理人に言っても部屋を見てもらえ無いどころか話すら聞いてもらえないだろう。
「それにこういう時には警察も当てにならないよ。
今の所、特に事件が起こっている訳では無いし、心霊現象が出ているから調べて
くれなんて言っても相手にされないよ。
だから、やはり僕が行くしかないんじゃないかな?」
全て佐内の言う通りだった。
今の状態で頼れるのは彼しかいない。
それがわかっているからこそ、今朝部屋から飛び出した時に彼に電話をしたのだから。
「じゃあ、それで決定だね。
思いたったら吉日とも言うし、早速動こう。
申し訳ないけど、まずは家の前まで連れて行ってくれるかな?」
そう言いながら外出の準備を始める佐内。
「えっ!これから行くんですか?もう夜になりますし、危険ですよ!」
そう言うと佐内がまた呆れたような顔をしてきた。
「この提案をした時から危険な事なのは覚悟しているよ。
それに夜の方が怪奇現象は出やすいだろ?
現象を調べるんだったら夜じゃないとね。」
そう言われても佐内の身が心配だった。
昨夜のような事が彼が部屋に居る間に起こればと思うとやはり彼を止めるべきだと
思われる。
「あ、あの・・・やはりあの部屋に行くのは止めませんか?
私、佐内さんに何かあったらと思うと怖いんです。」
そう言うと佐内はまた優しい声で諭すように言ってきた。
「大丈夫。
俺、昔から悪運強いから、きっと危険な事は何も起きないよ。
もし心配なんだったら一時間おきに香奈ちゃんに電話するようにするよ。」
そう嘯く佐内に先程から聞きたかった事を聞いた。
「佐内さんはなぜそこまでしてくれるんですか?」
そう言うと少し照れたような表情で彼は言った。
「なぜ?
そんな事を聞くの?
それは・・・香奈ちゃんの事が大切だからだよ。」
その一言だけで香奈は心が救われ、舞い上がるような気持ちになった。
結局、佐内を香奈達の部屋の前まで連れて行き、彼だけ中に入ってもらった後、
香奈はホテルの部屋に戻ってきた。
昨夜自分が暴れまくったせいで部屋の中は酷い状態となっていたが、部屋を
荒らしたのも幽霊のせいと言う事にしておいた。
それでも荒れまくった自分の部屋に好きな人を上げなければならない苦痛は
あったが、背に腹は変えられないので我慢するしか無かった。
佐内が部屋に入ってから4時間ほど経つが、部屋ではまだ何も起こって無いようだ。
佐内は最初に少しだけ部屋を片付けて落ち着ける場所を確保した後、ずっと
部屋でテレビを見ているらしい。
今終わった一時間の連続ドラマが始まる前に定期連絡があったので、もうすぐ
次の連絡があるかな?と思っているとちょうど佐内から電話が掛かってきた。
最近のスマートフォンではお互いのスマートフォンに付いているカメラで話す相手の
顔を見ながら話が出来るので、こういう時は相手や部屋の様子がわかるので便利である。
まあこう言った機能が進歩していく分、どんどんプライベートという物が無くなって
来ているのだろうが・・・。
「もしもし、香奈です。
ありがとうございます。
あれから何かありましたか?」
そう聞くと相手は目をこすりながら眠そうなで声で答えてきた。
「今のところは相変わらず何も無いね~。
まああったと言えばさっきのドラマの急展開過ぎる話にはビックリしたけどね♪
それにしても犯人が実は探偵でした、みたいな話ってアリなのかな?」
部屋に入ったばかりの佐内は画面越しにでも伝わるくらい緊張していたがさすがに
数時間もそこに居ると慣れてきたようだ。
「そうですよね。
あそこで探偵の助手の人が昔の事件の犯人だと告白してきたのも驚きましたね。」
香奈も最初は佐内が緊張しているのがわかったので無理にでも明るく話すように
勤めていたが、徐々に普通に話せるようになってきた。
「あれも確かに驚いたね。
そしてあの犯人を崖へ-」
その瞬間、スマートフォンの画面が真っ暗になった。
最初はスマートフォンの画面の電源が切れたのか、ネットワークが切れたのかの
どちらかだと思ったのだが、音は聞こえるのでそうではないらしい。
ということは画面が暗くなった理由で残された理由は一つしかない。
佐内が居る部屋の照明が消えたのだ。
「佐内さん!大丈夫ですか?」
焦りながら聞いた香奈と対照的な落ち着いた声で返事が帰ってきた。
「香奈ちゃん。
大丈夫だよ。
照明だけで無くテレビも切れたからどうやら本物の停電みたいだね。」
そう言うと画面が少しだけ明るくなり、暗闇の中に佐内の顔がぼんやりと
見えてきた。
「こういう事もあるかと思って電池式のランタンを持ってきておいたんだ。
それにしても急に停電になるなんてなんでだろう?
確か前にもあったって言ってたね。
ブレーカーでも落ちたのかな?」
香奈は落ち着くように自分に命じながら佐内を怖がらせないように言った。
「そうかも知れませんね。
しばらくしたら電気が付くかも知れませんので電気が着いたら一度外に・・・」
そう話していた時、佐内の後ろにピンク色の物体が一瞬横切ったように見えた。
「うん?
どうした?
なんか電波も悪くなって来たみたいだから一度外に出るよ。」
そう言って立ち上がり、外に出ようと動き始めた佐内の背中にピンク色の何かが
立って居るのがはっきり見えた。
「佐内さん!
早く!
逃げて!!」
「えっ?
あっ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
佐内がそう叫んだ瞬間また画面が真っ暗になり、おそらく佐内と思われる男性の
断末魔のような叫び声が聞こえてきた。
「佐内さん?
大丈夫ですか?
・・・佐内さーーん!!!」
予想よりも遥かに長かった叫び声が終わってから数秒後、またスマートフォンに
佐内が居る部屋の様子が写った。
どうやら復電したようである。
スマートフォンの画面ごしに佐内の様子を確認しようとした香奈が見た物は
絶望的な光景だった。
照明に照らされて部屋に立っていたのは佐内では無く、返り血のような血を
浴びたピンク色のニットを着た人間だった。
慌てて通話を切ろうとしたが切れる前に女性のような声が聞こえた。
「ユ・ル・サ・ナ・イ」
駄目だ。
もうダメだ。
私はなんて事をしてしまったのだろう。
佐内さんをあの部屋に行かせてしまったがために、こんな事になるなんて!!
香奈は激しい絶望と混乱が同時に訪れた頭を掻きむしりながら戸惑っていた。
どうすれば良いのかわからなかった。
どうすれば佐内さんを助けられるのかさえも。
しばらく悩んだ挙句、香奈はマンションに戻る決意を固めた。
今更私が行ってどうなるかはわからないが、佐内さんがどうなったかは自分の目で
確認しなければならない。
・・・元々は私のせいなのだから。
それからの行動は早かった。
ホテルを出た所でタクシーに乗り込みマンションへと急いだ。
今回はマンションの表玄関から堂々と入っていった。
もう逃げることもごまかす事もしない。
姫依から佐内を取り戻す。
たとえどんな形になっていようとも-
部屋に着くとドアの鍵は空いていた。
佐内は中に入ってからもすぐに逃げれるように鍵を開けたままにしておくと
言っていた。
ゆっくりドアを開けて中の様子を伺うと一部の照明が消えて薄暗くなっている
部屋の中には・・・誰もいなかった。
香奈は昼間に24時間営業の量販店で買っておいた妙に可愛いペンギンのマークが
書かれた包丁を手に持ち、部屋の中に入っていった。
「佐内さん!
どこ?
どこなの?!」
そう叫ぶが部屋からは返事が無いばかりか、音すらも聞こえない。
目を凝らして見るが部屋の中には血の流れたような痕跡すらも無かった。
この部屋に居ないとなると佐内は奥の浴室かトイレに居るのかもしれない。
二つの内のどちらに佐内が居るかはわからなかったが、どちらにしても
香奈には部屋の奥に向かうしか選択肢が無かった。
包丁を両手に持ち、ゆっくりと部屋の奥に進み、浴室のドアノブに手を
掛けたのと同時に携帯電話にメールの着信を知らせる着信音が鳴り響いた。
香奈はその音に驚いて包丁を床に落としてしまった。
慌てて包丁を拾った香奈は携帯電話をポケットから出した。
実は居なくなった佐内がこの部屋から無事に逃げ出していて、どこからか
メールを送ってくれたのでは無いか?
そんな自分でもありえないとわかっているような淡い希望を胸に受信した
メールを確認したが、メールの送信者は香奈が知らないフリーのメール
アドレスだった。
「なんでこんな時に!」
よくある出会い系サイトへの誘致と判断した香奈は本文を見ずにメールを
消そうとした。
しかしその時に件名が少し見えてしまった。
件名には「かなっちへ」と確かに書かれていたのであった。
私をかなっちと呼ぶのは奴しかしない。
少し躊躇った後、香奈はメールを開いてしまった。
「かなっちへ
どうしてあんな事をしたの?
私は今どこに居るの?
佐内さんは連れて行くね。
だから、私に会いに来てね。
姫依」
全身を寒気が襲った。
そして目眩がして立っているのも困難になってきた。
姫依は佐内を連れて行ったのだ。
でもどこに?
会いに来いって、もしかして・・・。
調べてみたが既にこの時間からでは福井県行きの電車は無かった。
更に姫依は持っていたが、香奈は車の免許を持っていなかったので、車を借りて
運転して行く事も出来なかった。
ここからタクシーとなると膨大なお金が掛かることになるが、バイトの給与前で
ある今の香奈にはそんなお金はない。
かと言って始発まで待ってから行けば佐内はどうなるのか・・・。
悩んだ挙句、 香奈は電話をかけることにした。
今の状況で唯一香奈をあの崖まで連れて行ってくれそうなあの人物に。
「香奈ちゃんさっきから黙ってばかりだけど、それじゃあわからないよ。
姫依ちゃんが大変な事になっているというから、飛び起きて来てみたら
急に福井県に行けだなんて。」
文句を言いながらも香奈を車に乗せて名神高速を走っている辺りは他のバイトの
女の子達から『人が良いだけが取り柄』と揶揄される理由かも知れない。
「すいません。
私も良くわからないんです。
ただ姫依の携帯電話の電話番号から電話が掛かってきて、知らない男の人から
姫依が居なくなったから一緒に探して欲しいと言われたんです。」
「さっきも聞いたけど、その男の人ってもしかしたらこの前聞いた姫依ちゃんと
梅田で会ってたと言う人かい?」
「それは・・・わかりません。」
そう言えば店長にはそんな嘘を言っていた事をすっかり忘れていた。
「それにしても何故姫依ちゃんが・・・。
警察には電話したのかい?」
やはりその質問が来たか。
そう思いながら店長が来るまでに用意していた理由を説明した。
「その男の人が言うには警察には言ったんだけど相手にされなかったようです。
どうせ旅行中に喧嘩が始まって、相手が嫌になって家に帰っただけじゃないかと
思われたみたいだと言ってました。」
「そうか・・・。
警察は事件が起こるまでは動かないって聞くからそんな物なのかも知れないね。
ではまずは我々だけで探すしかないのか。」
その言葉に頷く香奈。
それから2人はそれぞれの想いに浸り、現地に着くまで車中には沈黙が溢れていた。
数時間後、前に姫依と訪れた崖の近くの道路までたどり着いた。
暗い道路の脇に止められている姫依が借りた車の後ろに車を止め、車の状態を
確認したが、車はあの時のままだった。
ここに車があると言う事は、まだレンタカーショップや警察がこの場所を
つきとめていない証拠だった。
「この車はもしかして?」
香奈は振り返りながら答えた。
「そう・・・。
この車は姫依が借りた車らしいです。
電話を掛けてきた男の人はここに車があるのを見つけたらしいのですが、
ここから姫依が何処に行ったのかわからないらしくて・・・。」
「そうなのか。
それにしても香奈ちゃんよくこんな誰も来なさそうな場所なのに、
場所がすぐにわかったね。
前にこの辺りに来た事があるの?」
そう言えば焦るあまり、高速を降りてからここまで一直線に来てしまった。
疑われる可能性もあるのだから、他の場所を少しうろついてから迷ったふりを
すれば良かったかと後悔したが、早く佐内を助けたかったのでそこまで頭が
回らなかった。
「この近くに住んでた事があって・・・この辺りには詳しいんです。
男の人から大体の場所を聞いた時に多分ここだろうと思って・・・。
そんな事より早く姫依を探しませんか?
この辺りは断崖絶壁の崖も多いので、もしそちらに行っていると彼女が危険です。」
店長に少し疑われてしまったかも知れないが、後で何とでも言い逃れはできるだろう。
今は佐内の安全が第一である。
「そんなに危険な場所だったのか。
それなら直ぐに探さないと。」
幸い店長も姫依の事で頭がいっぱいの様なので助かったようだ。
「それでは店長はあちらの崖に続く道の方が彼女が居る可能性が高いので、
あちらを探してきてもらえませんか?
私はこちらの道の方を探してみます。」
「ああ。
わかった。
じゃあ何かあったらこれで連絡するから!」
手に握った携帯電話を見せてから、店長は香奈の指示した方向へ走っていった。
店長が走っていった違う崖への道は、緩やかだが長い坂道が続くので行って
帰ってくるまでには走っても20分程度かかる。
店長が見えなくなったのを確認してから香奈は姫依を落とした崖へ一人で向かった。
本来ならばあんな人の良いだけの店長でも居てくれた方が心強いのだが、こんな
状態であっても昔好きだった事のある異性には本当の事は話せなかった。
まだ見覚えのある暗い林のような道を走り抜け、崖まで辿りついたがそこには誰も
おらず、ただ波の音がするだけだった。
「姫依!
香奈よ!
ここまで来たわよ!!」
海に向かってそう叫んでからしばらく経ったが誰からの返答も無く、ただ波の音が
大きくなるだけだった。
どうして良いのかわからなくなった香奈は姫依の落ちていった崖に近づいて行った。
崖の先に立ち、下を見たが夜なので当然暗くて何も見えない。
姫依の言う『会いに来て』と言うのはここでは無かったのか?
そう思っていると携帯電話の着信音が鳴ったので、ディスプレイで相手を確認して
から通話ボタンを押した。
「はい。」
「俺だけどこちらには居なかったよ。
だから一度車に戻る。
そっちはどうだった?」
当たり前である。
店長が向かった崖の方には何もないし、誰も居ない事なんてわかっていた。
「こちらも何も無いです。
私もしばらくしたら一度戻ります。」
香奈はそう言って通話を切った。
それにしても佐内さんは何処に連れて行かれたのだろうか?
姫依は佐内をどうしたいのだろうか?
佐内の事を思うと悲しくなってきた。
やはりあの時に部屋に行ってもらったのは間違えだったんだ。
そして、そもそも姫依を殺したのは間違えだったんだ。
今も姫依が居るはずの崖の下を見ながら、香奈は始めて懺悔の言葉を
口にした。
「ごめんなさい。
最初はあなたを殺すつもりは無かったの。
ただ、ただ・・・。
許して下さい・・・。」
その時、自分の背後に誰かがいる気配を感じた。
「許す・・・わけ無えだろ!!」
そして間もなく後頭部に激しい痛みを感じた。
その痛みに耐え兼ねて崩れ落ちるように岩場に倒れながら香奈は後ろを
振り返った。
そこには鬼のような形相をした佐内が血のついた木刀を持って立っていた。
「なぜ、なぜ?」
そう思いながらも声が出ない。
さっきから意識ははっきりしているのだが身体に力が入らない。
佐内は香奈を崖の先へ押していった。
尖った岩場に引っかかっている香奈の身体を佐内が無理やり押していく度に、
香奈の皮膚や肉が少しづつ剥がれていった。
「痛い!
止めて!
とても痛いんだよ!!」
そう叫びたいのだが一向に声は出ない。
おそらく私の口は声こそ出ないがパクパクと動いているのだろう。
・・・あの時の姫依のように。
全身に走る痛みに気が遠くなりそうになっている香奈に向かって、佐内は罵声を
浴びせ続けていた。
「このブスが!
下劣な女が!
俺の愛するまよりんに手をかけやがって!
お前なんか最初から相手にしてねえんだよ!
お前の役目はあの部屋にカメラを仕込む事!
ただそれだけしてりゃあ良かったんだよ!!」
ブス?カメラ?香奈にはもう何がなんだかわからなかった。
ただわかったことは、佐内は香奈の事なんか最初からどうでも良かったと
言うことだった。
「まよりん。
今からこいつをそちらに送るから。
後は気が済むまで煮るなり焼くなりしてくれ。
・・・愛してたよ。」
そう言って佐内は更に強く香奈を押した。
香奈は自分が崖から落ちていく視界の中で、佐内に飛びかかろうとしている店長を
見た。
「馬鹿・・・。
やっぱり、いつも少し遅いのよ。」
そう呟きながら意識が遠のいて行った。
『バキ、バキバキバキ!』
このまま意識が無くなるかと思った矢先に全身に更なる痛みが走って目が覚めた。
崖の下の海まで加速していきながら一気に落ちると思っていたのに突然途中で
ブレーキがかかったようだ。
目を開けても真っ黒な暗闇の中で自分の身に何が起こったのかわからなかったが
時間が経つに連れて次第に視界が開けてきた。
どうやら崖の途中にある木に引っかかって、崖の下まで落ちなかったようだ。
その代わり身体の何箇所かに太い木の枝が刺さっている。
特に右脚に刺さった枝は完全に太腿を貫通しており、自分では抜けそうにない。
その枝を恨めしそうに見ていると佐内に殴られた後頭部の痛みが更に激しくなってきた。
自分では見ることも出来ないがおそらくは血も出ているだろう。
頭の痛みが増すと共に強烈な眠気も襲ってきた。
その眠気に耐え切れずに瞼を閉じそうになるのを堪えていると、視線の先に見覚えの
あるピンク色が見えた。
「姫依、なんだここに居たのか・・・。」
その言葉を最後に香奈の意識は途切れた。
それから一週間後、私は警察病院の病室で目が覚めた。
どうやらあれからずっと意識が戻らなかったらしい。
私は太腿からの出血も凄かったのと、何よりも後頭部を殴られた時の傷が酷かった
らしく、その手術には8時間も掛かったと聞かされた。
目が覚めてからすぐに訪れてきた刑事達に佐内さんが私を襲った理由を聞かされた。
彼はネットストーカーの常習犯であり、過去にも何人もの女性に対して酷いストー
キング行為をしていた。
今回もTwitterで知り合ったまよりんこと 姫依の書く文章を気に入り、実際には
どんな人なのか知るためにチケットを餌に接触しようとしたらしい。
以前、香奈が佐内にもらったぬいぐるみにはビデオカメラが仕込んであり、ネット
経由でずっと姫依の日常を覗き見ていた。
また2人が部屋に居ない間に部屋の鍵を盗んで合鍵を作っており、その鍵を使って
何度か部屋に入ってはカメラのバッテリーを変えたり、ぬいぐるみの位置を姫依が
映りやすい位置へと変えていたようだ。
姫依が居なくなった時も2人で旅行に行く計画を話しているのを佐内は
カメラ越しに見ており、姫依の失踪に香奈が関与しているのはすぐに
わかったので、様々な手法で部屋に心霊現象を起こさせて香奈を怖がらせ、
姫依の居場所を吐かせようとしたとの事だった。
結局は姫依は香奈に崖から落とされて殺されたのだと確信し、逆上した佐内が
姫依と同じように香奈を崖から突き落とした所で店長が佐内を押さえつけ警察に
通報した。
その後、崖の木の上に引っかかっていた私と・・・姫依は地元消防署のレンジャー
部隊が苦労して引き上げたらしい。
そこまでの事情を話した後、年配の刑事がようやく彼らがおそらく一番聞きた
かった事であろう質問を香奈に問いかけてきた。
「あなたが姫依さんを殺したんですよね?」
その問いに対して答えようとした時、また強烈な眠気が彼女を襲った。
まるで誰かに無理やり上から押さえつけられているような激しい眠気に襲われ
ながらも、かろうじて口を開いた。
「はい・・・。
私が彼女を崖からおと・・・・。」
そう言いながら自分の意識が急激に薄れていくのがわかった。
強く頭を横に振り、なんとか目をこじ開けて刑事達を見た時、その先に思わず
笑ってしまう物が見えた。
「・・・してません。
私は姫依を殺してなんかいません!
だって、だって・・・
彼女はさっきから貴方達の後ろに立ってるじゃないですか!!!」
この刑事達は一体何を言っているんだろう?
私がこんなに眠たいのにも関わらず、さんざん周りくどく説明した後に
聞いてきた最後の質問がこんなにくだらない事だなんて。
久しぶりに腹の底から笑いがこみ上げてきた。
それにしても面白い。
こんなに笑った事は・・・あの部屋に住み始めてからあったっけ?
「駄目でしたね。」
香奈の病室を出た若い刑事が溜息をつきながら言った。
状況証拠しか無く、決定的な証拠が出て来ないので、容疑者からの自白があればと
思って、やってきたが、あの状態ではそれも無理だろう。
落ち込んでいる刑事に向かって年配の刑事が言った。
「彼女からちゃんとした話を聞くのは無理そうやな。
自白を取れると思ってた課長には悪い報告になるやろうけど、
これからは証拠を出来るだけ集めるしかないやろう。
まあ、なんとかなるって。
がんばろうや。」
2人は病院を出て、車に乗り込んだ。
鍵穴にキーを差し込み、上司に報告をするために署に戻り始めた所で若い刑事が
話し始めた。
「ところでおやっさん。
悪い報告で思い出したんですが、今回の件でちょっと嫌な話があるんですけど、
言って良いですか?」
「嫌な話?
どうせお前の事やからワシがアカン言うても言うんやろ?
なんや?」
そう言うと年配の刑事は煙草を咥えて火をつけた。
「すいません。
ここに来る前に佐内を取り調べしてた奴から聞いたんですが、佐内の
供述によると、あいつは霧島さんが行方不明になったのに気づいてから、
大岐さんが何か知っていると思って、前に部屋に入った時にネット経由で
操作出来るようにしていたパソコンを動かしたりして色んな怪奇現象を
起こしたらしんですよ。」
「なんかそんな事言うてたな。」
「と言うことはあいつが事を起こし始めたのが早くても霧島さんが殺されて
から2日後の夜からと言う事になりますよね。」
まだ今ひとつ若い刑事が言いたいことが伝わって来なかった年配の刑事は
続きを促した。
「そんで?」
若い刑事はゆっくりと一呼吸置いてから言った。
「マンションの管理人や喫茶店の店長から聞いた話では、霧島さんが亡く
なった次の日から大岐さんは『部屋が血まみれになった』とか『4階の
窓の外に霧島さんが歩いてる』とか訴えたりしとったらしいんですわ・・・。
それって佐内が動き出す前の話しなんですよね。」
「それは・・・嫌な話やな。」
「・・・やっぱり嫌な話ですよね。」
話を聞いた定年間近の年配の刑事は、署に戻ってから息子ぐらいの年齢である
自分の上司にどう説明するか考えただけで頭が痛くなり、渋い表情で煙草の
火を消した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
少しでも心に残ったのであれば嬉しいです。




