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にわか雨

作者: 稗田東夷人

 薄暗い杉林の中、下草の羊歯を蹴って信一郎は恵子の手をとって走った。夏のにわか雨は一度は樹幹に落ちて溜まり、そこからびしゃびしゃと容赦なく二人の上に落ちてきた。遠かった雷鳴も背後に迫っていた。恵子の白いワンピースが水を吸って華奢な体に張り付いていた。もとよりこのような山の中には向かない服が水を吸って重く、ひどく走りにくそうだった。にわか雨の雨水は冷たい。さっきまで木々の間にたまった湿気と蒸し暑さでまいっていた体がたちまち冷えてしまった。。信一郎は息を切らしての後からついてくる恵子の小さな手の暖かさが心地よかった。突然林が途切れて、二人は崖に突き当たった。突然立ち止まった信一郎の背中に恵子がぶつかって小さな悲鳴が上がった。そこだけ木が切られて開けたその崖の下に半円形の横穴が口を開けていた。どうやら、掩体壕らしいその横穴に信一郎は恵子の手を引いて駆け込んだ。

 九十九里浜から上陸してくる連合軍に備えて信一郎たち学童まで連日、教練に借り出されていたのは昨年までのことで、終戦から丸一年、この産業といえば漁業と林業しかない海辺の寒村も元の静けさを取り戻していた。ただ買出し列車に乗って背嚢に着物や洋食器などを詰め込んでは食料と交換に来るカーキ色の国民服の人々がまだこの国が混乱のさなかにあることを思い出させるのだった。身近なところでの多少の身辺の変化といえば、中央幼年学校の星の生徒を目指して受験勉強に励んでいた信一郎が受験勉強から開放されたことだった。瑣末なことなならば連合国軍総司令部が矢継ぎ早にやる教育の改変で、自由研究などという聞きなれないものが夏休みの課題に加わったことだった。自分で課題を考えるという慣れない課題に戸惑った信一郎だったが、兄の書架で偶然にシダ類の図鑑を見つけ、いくつか植物の標本を作ってこの課題を済ますことにした。その植物採集についてきてこの災難にあった恵子だった。信一郎は新制中学校の男女共学化に間に合わなかった最後の学年にあたった。

 壕の中に駆け込んだ二人は並んで仰向けにひっくり返ってしまった。べトンで固めたアーチ状の天井に二人のの荒い息使いの音が跳ね返った。気管に唾が入ったのか恵子が小さくむせた。やっと恵子を気遣う余裕ができて、信一郎がよろりと体を起こした。恵子のほうは仰向けになったまま目を閉じていた。外はすさまじい雷雨になって真昼というのに厚い雲の下は暗かった。稲光とほぼ同時に大きな雷鳴が響いた。恵子がおびえて胸の前で両手を握り締め、小さな体を強張らせた。信一郎が恵子の傍らににじり寄り、そっと手のひらを腹の上に乗せた。体に張り付いたワンピースは雨水をたっぷり吸い込んでいたが、その水も恵子の体温で幾分ぬるくなっていた。信一郎の手の暖かさも恵子に伝わったらしく、仰向けに寝て、手は胸の前で握ったままの姿勢だったが、恵子の強張ていた体から力が抜けて、浅く早かった呼吸も穏やかになりつつあった。

 昭和二十年の三月に東京が焼けた。サイパン島を陥落させた連合軍はその飛行場から出撃する爆撃機で日本の都市を人口の順に焼け野原に変えていた。恵子はここに疎開するまでは横浜で女学校付属の学校に通っていたという。この田舎なら尋常科の最後の歳に父親を任地である海軍工廠に残して母子二人で疎開してきた。一目でわかる地元の娘たちとは違う風体に地元の悪童どもは好奇の目を向けた。恵子も無論、周囲に溶け込む努力はした。マッシュルームと言われるように丸く刈りそろえたモダンな髪型もおかっぱ頭に変えてしまった。戦時下だったから、皆と同じように墨染めのもんぺ姿ではあっても、すらりとした細身の体でしなやかに歩く姿はどうしても人目を引いてしまうのだった。学校へ行っても、最初こそ早くなじもうと地元の子が輪になってしゃべっている中に加わろうとしたようだった。ところがこの田舎で『女学生の友』などという雑誌を読む者は一人もなく、話題はまるで合わなかった。半月もすると、休み時間は教室の隅の机に座ったまま一人でたたずむのが恵子の定位置となってしまった。都会的といえば恵子の母もこの田舎の婦人たちとの付き合いは気苦労が耐えなかったようだった。漁師など男が家を空ける仕事の多いこの一帯は昔からかかあ天下で通っていた。女がたくましいのは良いのだが、気が強く、時としてそれが粗雑ともとれるのだった。戦争が敵による一方的な打撃という様相を呈し始めた春、夕暮れになっても恵子の家からは夕食の支度をする煙が上がらないことをいぶかしんだ信一郎の母が勝手に玄関を開けた。道を挟んで向かい同士なのだから田舎ではこれくらいのことは普通だったが、いきなり踏み込まれた都会育ちの母子は大いに面食らったという。信一郎の母は恐縮する母子を半ば強引に自宅に引っ張り込み、家族を同じちゃぶ台を囲んで座らせた。信一郎の実家は大工だったが、兼業農家でもあり、飯に混ぜる芋の量次第でこのつつましい親子の食べる分程度は捻出できた。

 雷鳴は遠のきつつあり、西に向いて口を開いた壕の中も幾分明るくなってきた。壕の奥に膳をしつらえたように木の葉や欠けた茶碗が並べられ、小石の類が乗せられていた。どうやら子供の遊び場になっていて、ままごとをやった跡らしかった。棕櫚の葉の上に並べられた石の中の一つに信一郎は目をとめた。座ったまま体をねじって信一郎がそれを手にとってみると、思ったとおり、見事な石の矢尻だった。後に成田空港建設をめぐって激しい政治運動の舞台になる地域はここからそう遠くない。その近辺に貝塚など遺跡が点在するのだった。造成に使った土砂の中にでも紛れ込んだか、何かの拍子にこの矢尻がここまで運ばれて、村童がままごとに使っていたようだった。この矢尻が作られたころなら、今、信一郎がいるこの場所は海の底のはずだった。この上質な黒曜石は遠く海路で讃岐地方から運ばれてきたという。信一郎はそっとその矢尻の縁を指の腹で撫でてみた。少なく見積もっても二千年は土中にあったその矢尻はまだ鋭さを残していた。

 信一郎の家で夕食をとるようになってから、西の縁側に座って雑誌を読むのが恵子の日課となった。この田舎にまで灯火管制がしかれ、日が落ちれば居間に布の囲いをつけて吊るした裸電球のほか明かりはなくなってしまうのだった。徐々に弱くなっていく西日の明るさを惜しむように恵子は半年も前の雑誌を繰り返し読んだ。この田舎で『少年倶楽部』のような雑誌を置いてある家はまずない。信一郎がそんなものを持っているのは、市ヶ谷台に奉職していた兄が送ってよこしたものだった。戦局の悪化とともに大本営が地下に移り、雑誌を送ってくれなどとねだれる状況ではなくなった。それでも、恵子は男子向けの漫画などを不平も言わずに読み返すのだった。裸電球一個の薄暗い夕飯の席で信一郎は宝塚の話題などを恵子に振ってみた。とたんに恵子の表情が明るくなった。無論、信一郎にとっては雑誌の記事で読んだきりの聞きかじりだった。押し黙ったまま芋が半分ほども混じった飯を食べていた恵子がその日から少しづつしゃべるようになった。帝劇や映画の話など信一郎にとっては聞きかじりの知識を総動員して話を合わせるのがやっとだったが、寂しそうに黙っていた恵子が自分から話し始めてくれただけでも信一郎はうれしかった。恵子が信一郎の言葉に愉快そうに笑うようになるまで時間はかからなかった。恵子は軽く握った拳を口元に当ててくすくすとわらった。笑う姿まで普段から見慣れた娘たちとは違い涼やかだと信一郎は感心するのだった。いつ頃からか、恵子が縁側ではなく受験勉強をする信一郎の後ろで雑誌を読むようになった。勉強の邪魔にならないようにページをめくる音にまで気を使うくらいなら縁側のほうが明るいし涼しいと何度も言おうとした信一郎だが結局やめた。恵子が近くにいるだけで狭い勉強部屋も居心地がよく感じるのだった。

 壕の入り口から光が差した。雷鳴も遠くへ去った。仰向けに寝ていた恵子が薄目を開けると、ちょうどすぐ脇で信一郎がずぶぬれのシャツを脱いだところだった。見ては悪いような気がして恵子は目を閉じた。そんな恵子に気づかず、信一郎は脱いだシャツを絞り、それで坊主頭をごしごしと吹くと、一度はたいてまたそれを着た。ぬれたシャツは気分のいいものではなかったが、恵子の前で裸でいるのがなんとなく気恥ずかしかった。壕の入り口から差し込む光がねむ多様に横たわる恵子の体に注いでいた。張り付いたワンピースは透けて、肌の色が透けていた。細身ではあっても女らしくなりつつあるからだの形がはっきりと見えた。何をしようとした決めていたわけではないが信一郎は思わずそっと手を伸ばしそうになったとき、恵子が突然くしゃみをした。信一郎のあまりの狼狽振りに恵子がころころと笑った。信一郎が憮然とした表情をしたのは無論、照れ隠しだった。恵子はひとしきり笑って目じりにたまった涙をぬぐった。

「ねえ?くしゃみそんなに大きかった?」

恵子が言った。聞かれて正直に答えるわけにはいかず、信一郎は困った。顔を赤くして照れて頭をかいていた信一郎に恵子は微笑んだ。こうして穏やかに笑っている恵子を見るのは好きな信一郎だったが、年下の少女にあしらわれているような気がして、癪ではあった。

「もう少し休んでいこう。」

信一郎はなるべく平静を装って言った。存外素直に恵子は目を閉じた。恵子は女らしい括れができ始めた腹の上で手を組んで、穏やかに眠っているようだった。穏やかな呼吸に合わせてまだふくらみの目立たない胸が上下していた。信一郎はそっと恵子のワンピースの裾をつまんだ。村の悪童の中には娘たちの襟に蛙を投げ込む悪戯などをやる者がいる。やられた娘たちが悲鳴を上げて帯を解いて背中の蛙をとろうとする様を見ては笑うのだった。信一郎はその程度の悪戯のつもりで少し恵子を驚かせる気だった。するするとスカートの裾を持ち上げても恵子はおだやかに寝息のような呼吸をしていた。恵子が飛び起きるとばかり思っていた信一郎はやめるきっかけを失ってついにスカートを捲り上げてしまった。恵子の履いていた下着は馴染みのある提灯のようなズロースではなかった。ぬれて透けていたスカートの上から大体の形は想像できていたが、純白のそれは小さな三角形をしていた。進駐軍が持ち込んで捨てたものの中に下着姿のピンナップ写真はあり、学校で顔を合わせる悪童どもの中にはそれを隠し持ってきてこそこそと見ている連中がいた。そんな悪童どもとは連中で日ごろ付き合いはない信一郎だが、無論、そのようなことに好奇心がないわけではなく、車座になっている連中の背後からそっと盗み見たことは会った。胸を露にした西洋の女が履いていたそれと形だけは同じものを恵子が履いていた。

 玉音放送があった日の晩、電球の傘に吊り下げられていた黒い布が取り払われ、家々の窓から明かりがもれた。街では街灯が点いて光があふれているところだった。家族に軍人がいる信一郎にとっては敗戦はもとより予想していたことだった。そのころには恵子の母も田舎の水になじみ、近所から裁縫の仕事を引き受けて稼ぐようになっていた。この田舎の女たちがもんぺで過ごしているとき、真っ先にスカートを履いたのは恵子だった。母手製のモダンな装いで、ワンピースの裾をひらひらさせて歩く恵子の姿が信一郎にはまぶしかった。戦争が終わった以上、疎開してきた恵子とは別れが近いのだと気落ちした信一郎だが、いつまでたっても恵子の父は家族を迎えには来なかった。恵子の父は海軍の技官だった。工場に来ていた挺身隊の女学生とただならぬ関係になり逃げたのだと妙な噂が立ったこともあった。実のところ、出張先の台湾からの帰途、潜水艦攻撃によって戦死していたのだが、恵子もその母も心無い噂に対して何も言わなかった。信一郎も詮索してはならない事情があると察していた。ずっと後になって、信一郎は恵子の父が関わっていた仕事が特攻専用機、桜花の開発だったと知った。母機から切り離されてからロケットエンジンに点火し、敵艦に突入するよう設計されたこの機体は、占領政策下のプロパガンダもあって、非人道性の象徴になっていた。

 すっかりスカートを捲り上げられてしまっても恵子は無抵抗だった。丸みを帯び始めたばかりの腰からすらりと伸びた白い脚が壕の入り口からスポットライトのように差し込む光に照らされてまぶしいように綺麗だった。信一郎に自分の鼓動が聞こえた。晩生の信一郎とて大人の男女の営みがどういうものか概要ならば知っている。その手の事柄に十分な興味もあった。自分はこの状況に興奮しているのかと、そう思ったと単位信一郎の頭に血が上り、顔が熱くほてって口が渇いた。恵子の体を見て触りたいという衝動が抑えがたかった。信一郎が震える手を伸ばして恵子の履いた小さな三角の下着に手をかけた。震える手でその白い布切れを信一郎はゆっくりとずり下ろしていった。

「信一郎さん・・・?」

突然名前を呼ばれた信一郎がびくりとして手を止めた。恵子が胸の前で手も握り締めて、不安そうに信一郎を見ていた。おびえた恵子の目を見てしまい、信一郎はひるんだ。まわらい頭で信一郎は何か言うべきことを考えた。

「ぐ、軍機につき。詮索無用!」

裏返った声で口走ったのは、日ごろひそかに軽蔑している悪童どもが悪巧みを詮索されたときに使う常套句だった。恵子がこくりと小さくうなずいて、かたく目を閉じた。この健気な恵子にしようとしていることを思えば、信一郎の心にも怯みはあった。それでも信一郎は再び下着に手をかけ、下ろしにかかった。恵子をひどく傷つけかねないことをやろうとしている自分を信一郎は許した。自分にもこんなずるさがあるのかと信一郎は思い、そしてずるくもすぐ忘れた。下着の下、つまり自分のものならば男性特有のあの器官がついている場所を信一郎は初めてはっきりと間近で見た。やわらかそうな膨らみに縦に筋が一本入っただけのその形が綺麗だと信一郎は思った。信一郎がその膨らみに触れようとして伸ばした手が途中で止まった。聞きかじりではあったが、信一郎はその柔らかそうなふくらみの奥、つまり恵子の脚の間にもっと複雑な器官があるとは知っていた。その器官を使って男女が交合するのだとも理解はしていた。そこに思い至って信一郎は急に恐ろしくなってしまった。自分とはまだまだ縁とおいと思っていた男女咬合のこと、その一歩手前まで来てしまっているといまさら気づいた。。これ以上進むのは空恐ろしく、かといって目の前に横たわった恵子に触れてみたい衝動は抑えがたかった。意を決して恵子に触れようと前かがみになったとき、信一郎のズボンの中で強張っているものが何か硬いものと触れた。ポケットに入れておいたあの矢尻だった。すっかりその存在を忘れていた矢尻をポケットから取り出したとき、信一郎がひらめいた。この矢尻で恵子の足の付け根にある柔らかな膨らみにちょっとした悪さをしようと思い立った。罪のない悪戯で恵子に触れられる名案だと信一郎はこの思い付きを気に入った。何か愉快なたくらみをするような心地がして、少しは緊張もほぐれた信一郎がそっとその矢尻を恵子のふくらみの中心にある筋に挟んだ。ふっくらと滑らかな丸みから笹の葉を寸詰まりにような矢尻が生えたようで、抽象彫刻のような面白い造形になった。矢尻を埋め込んだとき、わずかに触れた恵子の体のはすばらしく柔らかで温かかった。指に残ったその感触を楽しみながら信一郎はしばらくそれを眺めた。恵子の手がそろそろと自分の下腹部に下りてきた。恵子は自分の下腹部に何をされたのか恐る恐る確かめようとしていた。信一郎は恵子の手が自分が埋め込んだ矢尻に触れる瞬間を待った。跳ね起きた恵子が、悪童に悪さをされた村の娘のように慌てふためくと思っていた。信一郎はきゃんきゃん子犬が吠えるように自分をなじる恵子の様を思ってほくそ笑んだ。ごく稀に見せる恵子が怒って膨れた顔が可愛らしいことを信一郎は知っていた。

 恵子の指先が硬い矢尻の縁に触れた。

「きゃ!」

乾いた悲鳴を上げてびくりと全身を痙攣させた恵子が熱いものに触れたように手を引いた。すっかり緩んだ表情でいた信一郎の顔から血の気が引いた。かっと見開いた恵子のおびえた目に涙が溜まっていたからだった。緊張したときの癖で恵子は胸の前でぎゅっと拳を握っていた。おびえた目で信一郎を見る恵子の呼吸が浅く速かった。

「うあ!」

大声と同時に恵子は存外な力で信一郎を突き飛ばした。狼狽して尻餅をついたままの信一郎の前で一気に下着を引き上げると、恵子は一気に外へ駆け出した。慌てて後を追おうとした信一郎だが足がもつれて転び、したたかに横面を打ってしまった。立ち上がって壕の外に出たとき、恵子の姿はなかった。雨の後の杉林は湿気と熱気で息が苦しかった。

 夏の太陽もようやく西に傾くころ、信一郎は鎮守の森の前を通り過ぎようとしていた。ここを越えて角を曲がればすぐ家だった。もちろん信一郎の足取りは重い。日が暮れるまで杉林の中、寄ってくる蚊をたたきながら家に帰るのを逡巡していたのだった。頭に血が上った挙句に恵子にしたことはいくら後悔しても足りなかった。家に泣いて帰った恵子が当然、母に自分の仕打ちを打ち明けるだろうと思うと信一郎はいっそ死のうかという思いだった。恵子の家は道を挟んで向かいで、しかも母娘がそろって一緒に夕飯をとる仲だ。恵子が夕食に来なくなったら、自分の家族は理由を詮索するに違いなく、信一郎はどう言い訳していいか分からなかった。それでも信一郎の足を家に向かわせたのはだんだん暗くなる林の気味悪さに耐えられなかった意気地の無さだった。木々のせいで林の中は早く暗くなっていく。昼間は方々で散っていた鳥がねぐらに戻ってくるようで樹幹が騒がしかった。物音はしても姿が見えず、一人で林の中にいると頭上で得体の知れないものに狙われているような心地がした。信一郎は夜中に一人で便所にいけず、家族に呆れられたころと変わらない自分の意気地のなさを呪った。どの面下げて帰ろうかと思案しているうちに家は目の前だった。最後の角を曲がる前に板塀に隠れてそっと様子を伺った信一郎は胃が縮み上がる思いだった。自分の家の前で、開襟シャツにもんぺという姿に着替えた恵子と信一郎の母が話しこんいる姿があった。

「あ!信一郎さん!」

板塀に隠れてこそこそと様子を伺っている信一郎を見つけたのは恵子だった。恐る恐る恵子のほうへ歩く信一郎の膝が震えていた。母が自分のほうを向いただけで信一郎は心臓が止まる思いだった。

「あんたねえ、昔からものを失くす子だったけど、治らないもんだわね!」

首をすくめてびくびくしていた信一郎に向かって母は意外な言葉をかけた。事態が飲み込めずに呆然としてた信一郎に、母が何か小さなものを投げてよこした、慌てて捕り損なって、母が投げてよこした小さなものはお手玉するように信一郎の手の上で踊った。信一郎がやっとそれをつかんで手の中のものを見れば黒曜石の矢尻だった。

「恵子ちゃんがね、届けてくれたのよ。お礼くらい言ったらどう。」

言い終わって信一郎の母は腰に手を当てて大きく息をついた。息子に小言を言うときのいつもの癖そのままだった。

「ね!恵子ちゃん。今日はねお父さんが漁師さんちの仕事でね、お魚もらってあるのよ。お刺身で食べられるようないいやつ。今日はお芋の入ってないご飯にしましょうかね。もうちょっと、この馬鹿息子の相手でもしててね。」

信一郎の母は息子に対するのとはうって変わった優しい言葉で恵子に言うとすたすたと家の中に入っていった。恵子はにっこりと笑顔で見送った。家の前で恵子と取り残された信一郎が何か言おうとしたが、その前で恵子がすねたようにぷいと横を向いてしまった。夕日に照らされた恵子の横顔が穏やかに笑っていた。

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[一言] スゴイ!甘酸っぱさ満点です! >_<
[一言] 字の並べ方が非常に読みにくい!! すっきりまとめた方が誰でも読みやすい! もっとがんばって下さい。
[一言] 執筆お疲れ様です。 噂の『青春の門』ですね。実は随分昔から手元にはあるのですが、まだ開いたことがありません。 この時代を舞台にした作品も、あまり……というか、『夏の葬送』『くだんのはは』『火…
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