新世界で
11月23日
晴天。
気温は例年プラス5度。
聖はシロに起こされた。
朝がきても静止状態の飼い主に不安を覚えるらしい。
一応は待つが、我慢できなくなる。それで、起こす。
顔を舐めまくって、勢い余って鼻を噛んだりもする。
犬の朝と人の朝は同時刻では無い。
犬の朝の方が早い。
雲ひとつない、晴れた朝だから、シロの朝はとても早かった。
「まだ、七時前だよ。なんでこんなに明るいんだよ」
妙に太陽がギラついてる。
寝室は暖房が無くても春のようにフワッと温かかった。
初めてロッキーの助手席に乗るシロは、感極まってる様子だった。
通天閣近くの駐車場まで、行儀のよい佇まいを崩さなかった。
「とりあえず、串カツ屋だな。それにしても、暑いな」
黒いジャケットで工房を出たが、シロに飛び付かれて、毛が突いてしまった。
一旦引き返し、父のクローゼットの中、シロの毛みたいなハーフコートがあったので、とりあえず、そっちに着替えていた。
そのコートのせいで、暑いのだ。
正真正銘のホワイトミンク。
父親が仕事がらみで知り合った毛皮メーカーからプレゼントされたモノだった。
引き返したついでに、老婆達を探しにいくのに、自分の正体がばれてはマズイと、同じく父の使っていたサングラスもポケットに入れた。
初めての、リードつきの散歩。
巧くはいかない。
シロは聖に飛び付いている時間が多い。
水色の飴の臭いを嗅がせて、コレを探すんだと言ってみる。
警察犬みたいなことが出来るとも思えないが。
マユに言われたとおりのことは一応やる。
「かわいい、テレビに出てる犬や」
通天閣を目指して新世界商店街に入ると、子供が声を上げた。
テレビに出てる犬とは、CMに出ている紀州犬の事だ。
そんなの、テレビ番組を見ない聖には、何のことやら分からない。
長身で端整な顔立ちをした男が、
寒くも無いのに白いミンクのコートを羽織って、サングラスをかけ、紀州犬を連れて、
ゴチャゴチャした狭い商店街に出没した。
どれだけ目立っているかも、わかっていない。
変な人、と思われるには、聖もシロも綺麗過ぎた。
外国人観光客やら若い女子がスマホを向けている。
シロは知らない人から串カツを貰って、嬉しそうにしっぽを振りながら食べはじめた。
「○○、さんですよね?」
有名人の誰かと勘違いして誰かが言う。
その声に、また人が集まる。
ますます、ややこしい事になってきた。
とても老婆達を探せない。
諦めた。
逃げるように聖は狭い商店街を出た。
横断歩道の向こうは動物園の正門だ。
門の外に、パトカーが二台、停まっていた。
胸騒ぎがして、駐車場へ行けない。
横断歩道の手前で立ち止まり、成り行きを見守る。
暫くして、
警察官に連れられ、パトカーに乗せられたのは、老婆三人だった。
カズちゃん、
シズちゃん、
カオルちゃん、
餅飯殿商店街で会った三人に間違いない。
老婆達が乗っているパトカー二台は、聖の目の前を通り過ぎた。
「婆さん達、捕まったんだ」
スマホで地域ニュースを調べた。
今、連行されてるのが、記事になってる筈はなかった。
何があったのか、すごく気になる。
山に帰ろう。
もう此所に用は無いのだし、暑くてたまらない。
聖にとって、老婆達を目撃できたのはラッキーだった。
何もしなくて済んだ。
ただ、此所に来ただけなのに、偶然収穫があった。
今夜、工房に来てくれるマユに報告できる。
駐車場へ向かおうとすると、シロが飛び付いてきた。
「何、してんの? 帰るの。だから歩いて」
シロは前足をしっかり、聖の、胸に置いて、唸る。
「怒ってる?」
様子が変だ。
オオカミみたいな目つきになってる。
こんな顔するのを見たことがない。
温厚な犬が凶暴になる……病気?
しかし、こんな突然発症するか?
不安になってシロの顔を両手で挟み、大丈夫? と語りかける。
「大丈夫じゃない、目が合わない、こっち、見ろ、俺を見ろ」
ぞっとした。
さっきまで暑くてたまらなかった身体が急速に冷え込む。
コートが、冷たい。
冷たくて、急に重く感じる
氷を羽織っているようだ。
聖はシロを抱くようにして、しゃがみ込んだ。
シロの前足は肩へ移動した。
また唸ってる。
目は余所向いて……。
「お前、どっち見てるんだ?」
聖の……後を見てる、と気付く。
「何かいるのか?」
振り向いて確かめればいいのに、
怖い。
しかし、このまま唸るシロを抱いて、じっとしてられない。
おそるおそる、シロの視線を辿って、左の肩の後ろを見た。
……まず、花柄のスカーフが目に入った。見覚えがある。たしかカズちゃんが首に巻いてた。
紫色のブレザーは。カオルちゃんが着てた服だ。
目を上げれば、シズちゃんが被っていた茶色っぽい帽子が見える。
……聖はソレの顔を見てしまうのを、避けていた。
いや、一番最初に、アップで見てしまったから、
二度と見たくないのだ。
「う、あ、う」
ソレが耳元で声を出す。
獣の内臓が腐った臭いが聖の鼻にとどく。
……もぎ取られたように、指の無い手が、
聖の白い毛皮のコートの、左ポケットに、にゅっと伸びている。
ポケットの中にあるのは水色の飴玉だけだった。
「わかった、返すから、もう、消えて」
聖は、手の平に飴玉を載せてやった。
なんでもいい、早く視界から消えて欲しい。
「怖い顔? それだけじゃわからない。
目がどうとか、肌が普通じゃ無かったとか、具体的に、話してほしい。
聞きたい。餅飯殿商店街で消えた四人目の、お婆さん、なんでしょう?」
マユは聖の報告を一通り聞いて、ひどく興味を持ったようだ。
もっと、もっと話してと、声は大きく、ちらちら姿も見える。
聖は膝の上にシロを載せていた。
まだ新世界での恐怖から醒めていなかった。
「怖いんだよ、とにかく。なあ、シロ、お前もすっごく嫌だったんだろ?」
くうん、と甘えたようにシロが答える。
「なんか、二人だけで回想しないでよ。仲間はずれになったみたいで、寂しいじゃない」
艶っぽい、感情的な声と同時に、マユの姿が、はっきり現れた。
目の前にいる。
ベージュのダウンコート、モコモコした靴下、長い髪……透き通るように青色い肌。
奥二重の丸い大きな目の、右の目尻に黒子があると初めて知った。
今までで一番……鮮明。
生きてるような幽霊になってるんだ。
好奇心がマユの精気の糧なら
思い出したくも無いけど、あの顔がどんなだったか、話すしか無い。