この世の果てまで
僕の名前はカイ。もしかしたら世界に残された最後の一人――かもしれない。
ある日突然、月が真っ赤に染まった。それはまるで、月が血まみれになったみたいだった。
そして次の日の朝、何人かの人が眠ったまま起きなくなった。
いろんな偉いお医者さんや学者さんたちが調べたけど、原因はよく解らなかった。まるで死んでるみたいに眠り続けるけど、決して死んでいない。でも、どんなことをしても一向に起きることはない。そんな症状。
誰が名前をつけたのかは知らないけど、それは「月の夢症候群」と呼ばれるようになった。
一日、また一日と過ぎるほどに「月の夢症候群」は増えていき、やがて僕の周りには、誰も起きている人はいなくなってしまった。
そして、僕は旅に出た。他に誰か起きている人がいないか探すために。
それからいろんな場所を巡って、いろんな人に出会った。でも、起きている人は一人もいなかった。
やがて、自分がどれくらいの間旅をしていたか解らなくなって、世界にはもう僕しか起きている人はいないんだ。そんなことを考え始めたとき、僕は博士と出会った。
「起きている人間に会うのは一ヶ月以上ぶりだ」
博士は僕にそう言った後、こう続けた。
「俺は……そうだな、博士とでも呼んでくれ。起きている人間のデータが取れなくて悩んでいたところだ。おまえ、俺と一緒にこい」
そうして僕は、博士に連れていかれることになった。もし「月の夢症候群」が起こる前に同じことをやれば、誘拐になりかねない強引さだったけど、僕は少しも抵抗しなかった。
だって、誰かと話をできることが嬉しかったから。誰かと一緒に過ごせることが嬉しかったから。
連れていかれた場所は、なにかの研究所みたいだった。博士はここで、「月の夢症候群」の研究をしていた。
僕はその研究所で、博士の研究を手伝いながら過ごした。手伝うと言っても、博士が僕をいろんな機械で調べるだけで、僕はほとんどなにもしなかったけど。だって難しいことはよく解らなかったし、下手に機械に触って壊すわけにもいかなかったから。
研究をしている間、博士はほとんどなにも話さなかった。声を出すことと言えば、僕への指示ぐらいだった。僕から話しかけても基本的に返事はないし、たまに返ってきたと思ったら、「静かにしてくれ」とかそんなのばっかりだった。
それでも僕は構わなかった。一緒にいられるだけで寂しくなかったし、なにより研究しているとき以外の博士は優しかったから。
たぶん本人に言えば否定しただろうけど、博士は僕に優しく接してくれた。言葉遣いこそ少し乱暴だったけど、その言葉の裏にはちゃんと優しさが隠れている。僕にはそう感じられた。
きっと、博士も寂しかったんだと思う。一人で過ごすことがどれだけつらいかは、僕もよく解ったから。だから博士は必死になって研究していたんだろう。一人で過ごさなくてもいいように。他の人が起きてこられるように。
僕が博士と過ごすようになってから、一ヶ月以上が過ぎた頃、博士は珍しく研究中なのに大声で叫んだ。
「よし! もうすぐだ! うまくいけば明日にも研究が完成する!」
僕は最初、博士がなにを言ったのか解らなかった。でもだんだんとその意味が解ってきて、ただ一言だけつぶやくように問いかけた。
「……本当?」
「もちろんだ。俺は自分の研究に関しては嘘はつかん。これでようやく、あのねぼすけ共を叩き起こせる」
博士はすごく嬉しそうだった。僕もとても嬉しかった。あんまり嬉しすぎて、僕はその日なかなか眠れなかった。
――次の日の朝、博士は起きてこなかった。
どれだけ話しかけても博士は起きなかった。どれだけ揺さぶっても、やっぱり博士は起きなかった。
次の日も、そのまた次の日も博士は起きなかった。
僕はまた、一人になってしまった。
それからしばらくの間、僕はなにをする気も起きなかった。ただただ寂しくて、どうしようもなく哀しくて、泣いているだけだった。
そして涙も枯れ果てた頃、僕は立ち上がった。
「いこう……」
僕は他の誰かを探す旅に出て、博士と出会った。だからもう一度、旅に出るんだ。
世界は広い。きっと僕以外にもまだ、起きている人はいるはずだ。そしてもしかしたら、その人も一人ぼっちで、僕を探しているかもしれない。
「ごめんね、博士……。僕、いくよ」
僕は旅に出る用意をして、博士にお別れを告げた。
――こうして、僕は二度目の旅に出た。
それはとてもとても長い旅で、一度目の旅を倍にしてもまだ足りないぐらい、ひたすら長い旅だった。
でも、起きている人はいなかった。
僕の心は少しずつ、一日経つごとにどんどんと乾いていった。心の中にできた砂漠がどんどんと広がっていって、やがて僕の心は完全に砂になってしまった。
新しく寝ている人を見つけてもなにも感じず、もう起こそうと揺さぶることさえしなくなっていた。
どうして僕は起きているんだろう? こんなにつらいのなら、いっそ起きてしまわない方がマシなのに。
夜になると、毎日赤い月を見上げながら、僕も夢の世界に連れてってくれないかとつぶやくようになった。
寝るのが怖かった。起きなくなるのが怖いんじゃなくて、自分が起きてしまうのが怖かった。目が覚めて、周りには誰もいなくて、やっぱり自分は一人なんだって改めて思う。それがどうしようもなく怖かった。
そんなとき、僕はふと、帰ろうと思った。
博士が眠っているあの研究所に。
どうせなら、最後は博士と一緒がいい。そう思ったから。
もしかしたら、博士がもう目を覚ましていて、他の人たちを起こしているかもしれない。そんな夢みたいなことまで考えた。
数ヶ月ぶり――もしかしたら数年ぶりぐらい?――に戻った研究所は、ほこりを被っていること以外、なにも変わっていなかった。
博士も、旅に出る前のままの状態で眠っている。
「ねぇ博士、見てよほら。僕、少し背が伸びたと思わない? 自分じゃあんまり解らないけど、たぶん伸びたと思うんだ。なんか前に見たときよりこの椅子とか小さい気がするもん」
博士は答えない。
「これ見てよ。旅先で見つけたんだ。勝手にもらっていったら悪いかなとは思ったけど、なんだか気に入っちゃって。可愛いと思わない?」
博士は答えない。
「これもほら、綺麗でしょ。欲しいって言ったってあげないよ? 実は博士にはさ、ちゃんと別のおみやげがあるんだ」
博士は答えない。
「これなんだけどさ、気に入った? 博士ってあんまり見た目とか気にしないタイプみたいだから、あんまりこういうの好きじゃないかもしれないけどさ。たまにはちょっと着飾るのも悪くないんじゃないかな」
おみやげを渡して博士に着けても、やっぱり博士は答えなかった。
「……不思議だね、博士。こんなに哀しいのに、涙が出てこないや」
博士がこんなことで起きないことは解ってた。でも、やらずにはいられなかった。もしかしたら……。そんな最後の希望を、持たずにはいられなかったんだ。
でも、その最後の希望も、今消えた。
「こんなに苦しいのに……こんなにつらいのに……こんなにも哀しいのに、泣くこともできないんだね、今の僕は」
きっとあまりに一人の時間が長すぎて、僕の心はどこかが壊れてしまったのだろう。壊れて乾ききった僕の心は、涙の一つも出せないのだ。
でも、もう大丈夫。これ以上、僕が壊れることは無い。だって僕は、もうここで死ぬんだから。完全に心が壊れてしまう前に、終わらせよう。僕が、完全に人の心を失ってしまう前に。
「ごめんね博士。博士が起きたら怒られちゃうかもしれないけど、僕もう、無理だよ……」
つぶやいて、僕は旅先で拾ったナイフを袋から取り出す。
――そのとき、突然音が鳴った。
僕は考えるよりも早く、驚くよりも早く、動き出していた。ピーという電子音が断続的に聞こえている場所へ。
急いで駆け込むと、そこには大きなモニターがあった。確か博士が研究によく使っていた場所だ。
誰かいないかと見てみるけど、誰もいない。ただ、モニターの下にあるボタンが赤く点滅しているだけだった。どうやら、音もそこから出ているみたいだ。
「なんだ……」
僕は落胆して思わず膝をついてしまった。もしかしたら、誰かいるのかと思ったのに。
「はは、そんなことある訳ないって、解ってたはずなんだけどな……」
乾いた笑いを浮かべて、ゆっくりと立ち上がる。きっとセットされていたアラームかなにかが鳴ったんだろう。もしかしたら僕がここを出ている間、定期的に鳴っていたのかもしれない。
「博士がセットしてたのかな? きっと博士が起きてる間は、自分で止めてたから知らなかったんだろうな」
僕はひとまずこの音を止めようと思った。でも、どこをどうすればいいのか解らない。仕方ないのでとりあえず点滅してるボタンを押してみることにした。
その瞬間、僕の時間は凍りついた。
『――ませんか? 応えてください。誰か、誰かいませんか? 応えてください』
突然モニターに、一人の女の子が映し出された。たぶん僕と同じぐらいの年齢の女の子が、必死に誰かに呼びかけている。
『誰か――え? これ、映像が……もしかしてつながって……』
モニター越しに、僕と女の子の視線が重なった。
僕と同じように、女の子も凍りついたように固まった。
『嘘……信じられない。ずっとなんの反応もなかったのに……これは、夢……?』
呆然とつぶやく女の子の言葉に、僕は震える腕をなんとか動かして、自分の頬をつねってみた。
「……痛い」
その言葉を合図に、凍りついていた時間が動き出した。
「あ……ね、ねぇ」
『は、はい!』
「君は起きているの? 今この世界に、まだ起きて存在しているの?」
それは質問というよりは、願いに近かった。自分以外にもまだ起きている人間がいて欲しい。自分は一人じゃないんだと、そう思わせて欲しい。この言葉には、僕の心のすべてが詰まっていた。
女の子は少しきょとんとした表情を浮かべたけど、すぐに力強く頷いた。
『大丈夫よ。私は今ここに、ちゃんと起きて存在してる。決して夢なんかじゃないし、記録された映像でもない。だってこうやって、あなたと話をしてるじゃない』
「そうだね……そうだよね。やった……僕はまだ一人じゃなかったんだ。世界にはまだ、起きてる人はいたんだ!」
抑えきれない喜びに、僕の心は打ち震えていた。自分が一人じゃないって、そう思えることが幸せで仕方なかった。
「僕の名前はカイ、カイだ。君の名前も教えてくれないか?」
『私の名前はリオよ。よろしくね……カイ』
どこか恥ずかしげに、リオは僕の名前を呼んだ。
「リオ」
『なぁに、カイ?』
「リオ、リオ!」
『カイ。ちゃんと聞こえてるわよ、カイ』
「リオ! リオ! リオ!」
『そんなに何度も呼ばなくても解ってるわよ。カイって変な人ね』
リオが僕の名前を呼ぶたびに、僕の心が満たされていく。乾いて砂漠になっていた心にオアシスができて、どんどんと潤していく。やがてそれは、心だけじゃ抑えきれないほどにあふれ返った。
『あら、もしかして泣いてるの? 男の子のくせに泣いちゃダメよ、カイ』
リオは笑いながら言った。でも、リオも泣いていた。たぶん、僕と同じ理由で。
「ごめん、でも、名前を呼ぶ相手がいて、名前を呼んでくれる相手がいることが嬉しいんだ。今までずっと一人で……誰もいなくて……」
それ以上は言葉にできなかった。でもそれだけで、リオも解ってくれたみたいだった。
『そうね……私もそう。ずっと一人だった……。世界にはもう誰も起きてる人はいなくて、私一人なんだって思ってた……』
「僕もだよ。いろんなところを回って、たくさんの人を見つけた。でも起きてる人は一人もいなかった。もう諦めて、死んでしまおうって思ってた……」
『私たちはそっくりね。私もこの通信で誰も応答してくれなかったら、もう諦めてしまおうかと思ってた』
「そっか……でもよかった。こうして話ができてよかった。本当に嬉しいよ、リオ」
『私もよ、カイ。あなたと話ができて、本当に嬉しい』
僕たちは言った後、お互いに黙って見詰め合った。モニターごしだけど、まるで視線で会話をしているような気分だった。
――でもそんな夢のような時間は、長くは続かなかった。突然ザザッと音を立てて、モニターが黒くなったんだ。
「え……リオ? リオ!?」
『な……これ……機械……がおかし……』
「リオ!? どうしたのリオ!?」
『ごめんなさ……機械の調子……みたい。もしかした……の寿命なのかも』
ところどころザザッという雑音にかき消されて、よく聞こえない。でも聞こえた部分で判断すると、どうやら機械の調子が悪いみたいだ。
『ダメ……たしじゃ直せない。ごめ……』
「待って! 待ってよリオ! 待ってってば!」
『私、あな……なしができて嬉しか……』
「なに言ってるんだリオ! もっと話をしようよ! 話したいことがいっぱいあるんだ! 聞きたいことだっていっぱいある! だから待って! 僕を……僕をもう一人にしないで!」
『……んなさ……もう……』
「ちくしょう! どうすればいいんだ……せっかく僕以外にも起きてる人がいるって解ったのに!」
『…………』
もう聞こえてくるのは雑音ばかりで、リオがなにを言っているのかまったく解らなくなっていた。もしかしたら、僕の声も届いていないのかもしれない。
僕は歯を食いしばり、強く拳を握り締めた。それを勢い良く機械に叩きつけて、決意を固めて全力で叫ぶ。
「リオ、聞こえるか!? 会いにいくよ! どこにいるか解らないけど、絶対に会いにいく! 例えどれだけ遠くても、どれだけ大変でも絶対に会いにいく! 約束するよ! だから待ってて! 約束だ!」
自分のどこにこんな大きな声が隠れていたんだろうってぐらい、それは大きな声だった。たぶん、今まで生きてきた中で一番大きな声だったと思う。
それだけ、この言葉は届いて欲しかったから。
『待ってる――』
その言葉を最後に、音は完全に消え去った。
研究所に静寂が戻り、モニターも点滅していたボタンももう光っていない。なにもかもが元通りになった。
僕の心以外は。
「今、最後に……待ってる、って……」
あんなに雑音だらけでろくに聞こえなかったリオの声が、最後だけとても綺麗に聞こえてきた。そう、その声は間違いなく、『待ってる』と、そう言った。聞き間違いなんかじゃない。まして幻聴でも妄想でも絶対ない。確かにリオは、そう答えてくれた。
普通ならこんな都合のいい奇跡みたいなことあるはずないって思うかもしれない。でもそんなことを言ったら、僕とリオが今日ここで話をできた方が、ずっと奇跡だと思う。それに比べれば、このぐらいの奇跡はなんてことないさ。
僕は急いで博士のところに戻って、今のできごとを熱く語った。もちろん博士はなにも応えてはくれなかったけど、それでも構わなかった。この喜びを、ただ話したかったんだ。
一通り話した後、僕は博士に二度目のお別れを告げた。
「それじゃ、僕はまたいくよ。リオが待ってるんだ」
結局研究所には短い滞在になってしまった。ろくに休んでもいないから、ほとんど旅をそのまま続けるのと変わらない状態だ。
でも、僕の足取りは、研究所に入る前とはまったく違っていた。
とても体が軽い。旅の疲れなんて消し飛んで、今なら空も飛べるんじゃないかって思えるほどだ。
外に出て、大きく深呼吸をする。
もう怖いものなんてなかった。だって一人じゃないから。まだ起きている人が、僕を待ってくれている人がいるから。
たぶん、時間で言うとせいぜい三分ぐらいの間だったけど、リオとの会話は、僕の心を満たしてくれた。
僕は拳をかかげて叫ぶ。
「おまえなんかに負けないぞ! 僕は絶対、リオを探し出してみせる! それが例え、この世の果てだって、絶対に!」
夜空には、今日も赤い月が浮かんでいた。
聞こえてくるのは君の声。それ以外はいらなくなってた。
……いやそれはともかく、トータル的に見ればだいたいFRAGILE。
そこら含めて書き直したいと思うけど書きなおしたら絶対博士が主人公の出番を食いとってしまうことは作者のお気に入り度的に明らかなのでたぶんやめた方がいい。
後珍しく登場人物に名前ついてるなこれ。