初恋の紅は貴方の目
どうも、林羽夢です。
『おかしな伝説』の更新ができてないのに、短編を書いてしまいました。
まあこれは、高校の部誌に載せるものだから、書いておいて損はないんですがね。
それでは、ちょっとだけ長いですが、ぜひぜひお読みください。
晴夏が悪魔に出会ったのは、今から丁度三十年くらい前である。にもかかわらず、その悪魔は今でも晴夏の熱い瞼の裏に住み着いて離れなかった。晴夏は元より記憶の力が強かったが、それとは違う、心の力が彼を消さないのだ。
悪魔はしばしば晴夏の夢に出現した。毎回決まって何かを話しかけてくる。何を言っているかはわからない。というよりも覚えていない。彼を目の前にしている時に頭に閉じ込めたその言葉は、晴夏が一度現実と対峙してしまうと、彼女を嘲笑いながら逃げ去ってしまうのだ。
彼が夢に出てきても出てこなくても、晴夏は彼のことを考えた。彼の名を幾度もつぶやいた。夜、歳に不相応な綺麗な顔を枕にうずめている時も、彼女は悪魔のことを考えていた。
そんな晴夏の友人は極めて少なかった。右手の指どころか、目の数でも余るくらいである。しかもその友人の一人には、今はもう亡き悪魔が入っている。アパートの人々は彼女を、「孤独な女」と呼んだ。しかし晴夏は、孤独に愛想を尽かしたことがなかった。むしろ誇りであった。「孤独な女」という名は、彼女にとっての金メダルであった。というのも、晴夏が、悪魔以外とは縁を切ることを誓ったからである。悪魔以外は、信ずるべき愛するべき存在ではないと決め込んでいるのだ。
そんな晴夏を心配して、晴夏のアパートの大家は時々彼女に病院を勧める。しかし晴夏はただ口の端を無理に上げるだけで、全く受診する気配がない。また隣人も、晴夏の相談相手を申し出るが、必要ないと追い返される。なんでも、上手くいかないと面白くない。大家も隣人も、あまりに晴夏が拒絶するので、なら勝手にすればいいと放り投げた。
放り投げられてから約一週間程経った頃に、晴夏の元へ一枚の葉書が来た。大家が以前紹介していた精神科からである。ちょっと話をしたいから是非来いという文句と、小さな手書きの地図がその横に書かれた質素な葉書だ。宛名と差出人だけは筆で書かれている。何と書かれているかわからない。ただ、黒い紐が絡まっているように見える。晴夏はこの字の解読を諦め、紙切れを無造作にゴミ箱に投げ入れた。
それからまた一週間が経った。晴夏は相変わらず「孤独な女」の称号を掲げながら、綺麗にしわを伸ばした布団の上で、枕へ顔を埋めていた。朝から晩までずっとこうしていたのである。彼女はもう、若くはなかった。丁度、人生の疲れが出る歳になっていた。しかし、彼女を取り巻くその悪魔は、その夜も若々しい姿で晴夏の前に現れた。そして、また何かを発言した。その声は、霧のように広がって、晴夏を包み込んだ。所々かすれている。
「あ……と……いし……」
晴夏の耳に聞こえたのは、これだけだった。そしてこの言葉も、目が覚めたら忘れてしまうのだろう。なら、ずっと夢の中にいたいと思った。思ったところで、急に現実に引き戻された。チャイムが鳴っている。自然なため息をつきながら、晴夏は重い身体を起こして玄関へ行った。ばさばさと、束ねていない長髪が揺れる。白髪の一本も生えていない若々しい茶髪が、部屋の明りに反射して輝いた。その時またチャイムが鳴った。晴夏はドアの覗き窓の丸の中に、一つの禿げ頭を見た。数少ない毛を、無造作に生やしている。この人こそ、あの黒い紐を絡ませた犯人であるということは、後で知ることになる。
晴夏はドアを三センチほど開けて禿げ頭に応対した。
「いやいや、そんなに警戒しなくてもいいですよ。風海さん。私はこういう者です」
禿げ頭は笑いながら、名刺をスーツの胸ポケットから出した。スーツは色褪せていて、黒かったであろうズボンには白い粉がふいている。晴夏は隙間から名刺を受け取った。見るとこの禿げ頭は、松田精神ケア院の医院長らしいことがわかった。晴夏は名刺と医者の身なりを見比べた。どうしてもイコールでは結べない。
さらに名刺には、例の黒い紐で、松田圭介と書かれていた。大きな字である。名刺の主役を飾り、医院長という名声を押し潰している。今回は、圭の字以外は努力無しで読めた。
「先週、葉書をよこしたのは貴方ですね」
「ええ、よくお分かりで。しかし風海さん、貴女は来てくれなかった」
「ええ、不自然極まりないもの。怪しくて行く気も起きないわ」
「いやいや、これは失礼しました。怪しませる気は全くなかったのですが」
松田はそう言って頭を掻いた。次に歯の隙間から間の抜けた音を出し、最後に顎の無精髭を撫でた。無精髭を撫でながら続ける。
「私はね、すぐそこの病院の――」
松田は髭を撫でる手を離して、アパートの前の通りを指差した。晴夏の部屋は一階なので、柵越しに道路が間近に見える。道路では、銀杏や紅葉が粉々に模様を作っていた。
「ほら、そこの通りを左にずっと行ったところにあるやつですよ。小さいとこですがね。そこの精神科医長を勤めているんです。で、やって来る患者が、よく風海の名を口にするのですよ」
「そうですか。それで気になった、と。それだけならお帰り下さい。私は何ともないんですから」
「いやいや、誤解されちゃ困ります。私はただ、事情を聞きたいのです」
晴夏は医者の言葉を遮るように顔をしかめて見せ、ドアを閉めた。誤解なんかないではないか。やはり好奇心なのではないか。しかもなんだあの格好は、馬鹿にしてるのか。口の中で全部呟き、最後にため息で吐き出した。
実は、こういうことは初めてではない。晴夏の噂を聞いた医者が、私が治して見せましょうと時々やってくるのだ。晴香にとっては迷惑以外のなにものでもない。松田という医者は諦めたらしく、覗き窓の向こうには、柵と道路と紅葉の他には何もなかった。
だがしかし、その医者はまたやって来た。快晴の空を北風が吹き抜ける、からりとした昼間のことである。見覚えのある禿げ頭を覗き窓の外に確認したとき、晴夏は驚いた。そしてその、前と変わらぬ風貌に、僅かながら怒りを覚えた。晴夏はまた、三センチほど開けて応じた。
「何か御用ですか」
「ああ、この間はどうも、すみませんでした風海さん。あのようなことは、もう二度と無いように致します」
「あら、そう。なら、今すぐ帰ってくれるのね?」
しかし医者は首と手を両方振って答えた。
「いえ、そうしたら、ここへ来る意味がありません」
「じゃあやっぱり、私を治療したいのですね。ふん。馬鹿馬鹿しい」
最後の「馬鹿馬鹿しい」には、たっぷりの嫌みが加わっている。しかし医者は動じない。
「風海さん、誤解なさらずに。私は貴女を治療しようとは言っておりません。事情を聞きたいと言ったのです」
「どちらも同じじゃありませんか」
晴香が、吹いてきた北風に負けないくらい冷たい声で言い放つと、松田はまた、首と手を大きく振った。
「いえ、同じではありません。私はただ、貴女の話を聞くだけなのです。同情もしなければ相槌も打ちません。もちろん、治療なんてもってのほかです」
晴夏は少し考えた。実を言うと、彼女は自分の話を誰かに聞いてもらいたくて仕方がなかったのである。しかし、人を信じることができない彼女は、誰にも相談をしなかったのだ。孤独は愛していたが、苦しみはやはり愛せなかった。だが今晴夏は、人生の転機が訪れたような気持ちがしていた。きっと、これを逃せば、自分の苦しみは消えないだろう。しかし同時に、「孤独な女」ではなくなってしまう。なぜ晴夏が、そこまで孤独がいいのか、それは後に自身の口から聞くことになるだろう。
さて、彼女はとうとう決心した。
「わかりました。ですが、信用していいのでしょうね。本当に、何も言いませんね?」
「おお、わかってもらえましたか。いいでしょう。本当に、何も言いません。言ったら、どうぞ裁判にでもおかけください」
松田はそう言って笑った。晴夏も久しぶりに微笑し、外ではなんですからと家の中へ招いた。
この松田という男は、この町ではとても人気のある医者で、「金より心」をモットーに生きている。だから、今回も金を取ることはないそうだ。晴夏がそれでやっていけるのかと驚くと、なに、大丈夫です。人の笑顔が何よりいい。確かに生活はくるしいんですがね。と言って笑った。晴夏はその時思い出したように台所へ引っ込み、熱い紅茶を二杯持って帰ってきた。そして、それをテーブルに置くと、綺麗な長髪を頭の上で結み、医者が座っているソファの反対側の椅子に腰を下ろした。
その後しばらく、二人は雑談をしていた。晴夏にとっては、こんな風に人と話すことが新鮮であった。いや、経験はあるが、その感覚がないのだ。しかし、そこはさすが精神科の先生と言うべきだろうか。そんな晴夏にもどかしさを感じていないように軽快に話している。時折声をあげて笑うこともあった。
紅茶の湯気が消える頃、とうとう晴夏が話を切り出した。
「あの、松田さん。そろそろ本題に入りたいと思います。あまり遅くなるといけないですし」
松田は、ああと言って体勢を立て直し、深々とお辞儀をした。どうぞお話し下さいの挨拶だろう。晴夏もつられてお辞儀をし、長い長い三十年前の記憶を話し始めた。
「私は、この町から遠く離れた町に住んでいました。実家はもっと別の町なのですが、大学に通うため、一人で越してきていたのです。
三十年前といえば、大不況の時代ということは御存知でしょう。私の町も、その波紋を多大に受けていました。急な増税が始まり、お金と呼べるものは皆、消えていきました。町内で配布される新聞には、連日、恐ろしいニュースが載っていました。殺人、強盗、誘拐、種類は様々でしたが、どれもお金が絡んだものばかりでした。
そうして、次第に町は荒廃していきました。当時の私のような十八の女性など、昼でも出歩けませんでしたよ。いつ襲われるかわかりませんもの。護ってくれる男でもいない限り、女は家の中に籠る他ありません。
先程も軽く申しましたが、私は当時大学一年生で、町から少しばかり離れた所にある大学に通っていました。しかし、護ってくれる人がいない私は、入学してから間もないというのに、欠席続きでした。ですが、単位というものがあるでしょう? だから、いつまでも家にいる訳にはいきません。私は護身用に携帯用ナイフを携えて、大学へ出掛けることを決めました。
私が久しぶりに大学のキャンパスを見たのは、今日のように寒い日のことでした。幸い、家からキャンパスまで、危険な思いはしませんでした。護身用のナイフを振るうまでもなく、目的地に到着したのです。しばらく顔を見せていなかった私に、友達は心配そうに話しかけてきました。どうやら、私と同じ町から来ている人は、私と同様、全く姿を見せないのだそうです。逆に、他の町の人は皆、ごく普通の生活を送っているのでした。私も引っ越すことを考えましたが、そんなお金など、私にはありませんでした。ただ、この不況が早く終わればいいと祈る事しかできませんでした」
晴夏はここで一旦口を閉じ、紅茶をのどに通した。松田は、本当に相槌を打つ気配がない。晴夏はテーブルに紅茶のカップを置くと、また口を開いた。
「帰る頃には、もう日が暮れて、月も出ていました。私はナイフを持つ右手を固く握りしめ、慎重に、慎重に、家路を行きました。街灯のある道を選び、できるだけ気配を無くして歩きました。
けれど、今度は不幸でした。途中、どうしても街灯がない道を歩かなければならないのです。仕方がないので、周りを警戒しながらその道を進んでいた時でした。何人かの男の声が後方から聞こえたのです。何を言っていたかは覚えていません。ただ、恐かったことは覚えています。
声とともにアルコールの匂いを感じ取った私は、本能的に走り出しました。これでも、高校の時は陸上部だったので走りには自信がありましたが、男の脚力には敵いませんでした。すぐに追いつかれ、腕や鞄を掴まれました。確か、男は三十代が二人だった気がします。力が強く、いくら暴れても無駄でした。右手に持った携帯用ナイフなんて、元々私には使えない装飾品でした。
その装飾品を見つけた男たちは、右手からそれをひったくり、武器として私の首に突き付け、脅してきました。来ないと殺すぞ。とか言っていたのでしょうね。あまりにも恐くて覚えていませんが。ただ私は、捕まった時から半ば諦めかけていました。ああ、私はここで終わってしまうのだな、と。
しかし、終わりはしませんでした。突然、男の手からナイフがひったくられたのです。そして、それは一瞬でした。ナイフがカラカラと音を立ててアスファルトに落ちた時、二人の男はその場に倒れていました。突然の出来事に頭が追いつかない私に、暗闇から声が聞こえてきました。
『大丈夫かい?』
ええ。はっきりと覚えています。その声は、たくましく、心地の良い音でした。
『大丈夫です。あ、ありがとうございます。えーと、貴方は一体、誰ですか?』
私がそう返すと、その声の主が暗闇から現れました。月の淡い光に照らされたその人こそ、私が今こうして貴方に話をするきっかけとなった人なのです。その人は不気味に笑いました。そんなことを言って何になる、とでも言いたげな笑いでした。
『ひひひひ。君こそ、こんな夜中に一人で歩くなんて、何者なんだい?』
笑いながら彼が問い返してきました。なぜか、彼の言葉は忘れることができません。
私はついムッとして、彼を睨みました。月の光でも、彼がサングラスをしていることが分かりました。長身で、当時一六五センチの私より一回り大きく、健康的に痩せていました。少しボロボロのコートを着ていて、貧しそうな人でしたが、きっと歳は私と変わらないくらいでしょう。
『まあまあ、睨まなくていいよ。怪しい人には間違いないけど、悪い人ではないから。はい、君のナイフ』
彼は微笑みながら、私の携帯用ナイフを拾って、掌に乗っけて見せました。私は恐る恐るそれを受け取ると、一歩後ろに下がり、彼と距離を置きました。まだ彼を信じられなかったのです。そんな私を見て、もう一度彼は笑いました。
『ひひっ。そうか、そんなに俺が恐いか。可愛い娘が襲われてるところを助けてあげたのに。じゃあね』
そう言って彼は私に背を向けました。背を向ける前のその顔は笑っていて、声も軽い調子なのに、月に照らされた彼の背中は、どこか悲しそうでした。もしこのまま私が何も言わずに彼を見送っていたら、きっと私は今、普通の生活をしていたことでしょう。しかし私は、彼を呼び止めました。呼び止めなければいけない気がしたのです。呼び止められてこちらを振り返った彼の表情は、暗闇にまぎれて分かりませんでした。でも、きっと驚いていたでしょう。
『ありがとうございました』
私は緊張を隠しながら、それだけ言いました。すると彼は身体をこっちに向け、ゆっくりと近づいてきました。まるで、私が後ずさりするための時間を作っているように。もちろん、後ずさりなどしませんでしたが。
私が逃げないことを知ると、彼の足は少し早くなりました。そして私の目の前に来ると、私の目線に合わせて膝を曲げ、こう言ったのです。
『君、今、俺に言ったのかい? ありがとうって』
変なことを言う人だと思いながら、私はうなずきました。すると彼はまた、例の不気味な声で少し笑い、私の腕をそっと掴んできました。そして自分の顔を私の耳元に近づけ、耳打ちしてきました。
『奴らが目を覚ます。早くここを離れよう』
彼は酔っ払いの存在を忘れていた私の腕を引いて、街灯のある通りへと連れて行きました。この時もうすでに、私は彼に逆らうことができなくなっていました。腕を掴まれた時、囁かれた時、間違いなく私は彼に魅了されていたのです。
気がつくと私は、彼と一緒に道を歩いていました。彼は私の腕をしっかりと、優しく引き、私が自分から離れないようにしていました。
『どこに行くつもりですか?』
彼は周りを警戒しながら短く答えました。
『君の家』
驚きましたよ。見ず知らずの人が、家まで送ってくれるというのですから。まあ、進んでいる方向が逆だったので、ちゃんと指摘しましたけどね。そうしたら彼は慌てたように回れ右をして、咳払いを一、二回しました。
『ごめん。君を連れ去ろうとは思ってないからね。それに、嫌なら嫌って言えば、手、放すからね』
『そんな、連れ去られるとは思っていません。手は、その、嫌ではないです』
焦って誤解を解こうとする彼に、正直に答えてあげました。すると彼はまた、あの声で笑いました。
それから私は、彼にいくつかの質問をしました。名前を聞いた時、彼はいきなり笑い出しました。ひとしきり笑うと、驚く私から顔をそむけ、ボソリと答えました。
『宮宮たぐる』
キュウグウタグル。ちょっと変わった名前でしょう? でも、彼の変わっているところは名前だけではありません。笑い方、目を隠すサングラス。そして後で知るのですが、彼の髪の毛の色も特徴的でした。向かい合って左側が茶色、右側が黒で、色が頭の丁度真ん中でジグザグに分かれているのです」
晴夏は人差し指を自分のつむじに当て、そこからおでこの辺りにかけてジグザグと動かしながら下ろしていった。
「まあ、それは全て、産まれた時の不幸によるものだったらしいのですがね。ですが、そのせいで彼は……」
晴夏の声は沈んでいた。嗚咽を我慢しているようである。そんな彼女に、松田はやはり同情などしていないように見えた。晴夏は嗚咽をのみ込み、続けた。
「たぐるは、その夜ちゃんと私を家まで送り届けてくれました。アパートの前でお礼を言うと、彼はまた笑い、問いかけてきました。
『俺が恐くないのかい? 不気味じゃないのかい?』
私は、それに正直に答えました。
『ええ、恐いです。不気味です』
『じゃあ、君はなぜ俺なんかに感謝するんだい? ああ分かった。礼儀として、だね』
『ち、違います、違うと思います』
私はつい言い返しました。
『私は本当に、貴方に感謝しているんです。たとえ貴方が不気味な人でも、その気持ちは変わりません。貴方はなぜ、そんなに自分を否定するんですか?』
彼はしばらく黙っていました。そして、静かに言いました。
『俺は悪魔だからさ』」
しばしの沈黙。医者はピクリともしない。晴夏はそんな彼をチラリと見て、安堵のため息をついた。紅茶を一口すすり、続ける。声の調子は、ますます沈んでいた。
「その夜はそれきりで別れました。でも、たぐるはそれから毎日会いに来るようになりました。そして、私を大学まで送り迎えしてくれるようになったのです。なぜかと聞くと、ひひひと笑うだけで答えてくれませんでした。
私はただ、彼が無償で私に優しくしてくれているのだと思いました。でも、その理由がまた、わからないのでした。
私たちは、いつの間にかとても仲良くなっていました。私の敬語が抜け、たぐるも変な質問をしなくなりました。でも、決してサングラスを外すことはありませんでした。けれどとても幸せでしたよ。彼は本当に優しくて、少しなら私の我が儘にも付き合ってくれました。でも時々おかしなことを言うのです。
『晴夏、魔女狩りって知ってるかい?』
たぐるがいきなり聞いてきたのは、桜の花びらが風に運ばれる、初夏の昼下がりのことでした。その日私は、初めて彼の家に来ていたのです。たぐるの家は少し古い一軒家で、私の家からそう遠くない所にありました。書斎には本が溢れていました。その本たちを珍しそうに眺める私に、たぐるが問いかけてきたのです。
『魔女狩りって、ヨーロッパで昔起こった、あの?』
たぐるはゆっくりとうなずきました。
『ああ。魔女と呼ばれた女たちが、次々と処刑されていく、あれさ。全く、恐ろしいものだよね。魔女なんていないのに』
彼は最後にこう付け加えました。
『悪魔だっていないのに』
貴方は今、おかしいと思ったでしょう。たぐるがさっき、自分のことを悪魔と言っていたのに、いきなりその存在を否定したのですから。ですがこれは普通のことなのです。彼は人間なのですから。彼はただ、悪魔と言われ続けてきただけの人間なのですから」
また沈黙が訪れた。晴夏はゆっくりと深呼吸をし、落ち着いた声で続けた。
「さて、本題に入ります。そんなある日のことでした。あまりの不況に気が狂った町の人々が、口々に言い始めたのです。
『こんなに不幸が起こるのは、きっと悪魔の仕業だ。悪魔がこの町にいるからだ。悪魔を探せ、捕えろ、そして殺せ』
彼らは悪魔を探し始めました。少しマナーの悪い者、ちょっと服装が汚い者、さらには普通に暮らしている者まで、疑われ、殺されていきました。まさに地獄のようでしたよ。彼らを止めることはできませんでした。止めようとすれば、悪魔だと疑われますからね。
『ほら始まった』
?悪魔狩り?から逃れるように私の家に滞在し始めたたぐるが言いました。
『魔女狩りならぬ悪魔狩りさ。愚かにも程があるね。悪魔なんていないのに。いたとしても、俺ぐらいだろうね』
その時、私は全く理解していませんでした。たぐるがなぜ、そんなにも自分を悪魔と呼ぶのか。他人にそう言われたぐらいで、人はそんなに信じてしまうものなのでしょうか。首をかしげる私に、彼は優しく問いかけました。あの、変な質問です。
『俺が恐くない?』
私は即答しました。
『恐くないに決まってるでしょう?』
すると彼はおもむろにサングラスに手を掛け、それを外しました。現れた目は、確かに悪魔ともいえる色をしていました。紅です。ドロドロとした、紅色をしていたのです。
『天性の内出血さ。恐いだろう?』
私はその目を見た時、少しショックを受けました。なんでこんなことを今まで黙っていたんだ、と。でも、恐怖は全く感じなかった。若かった私は、若いなりに、彼を、たぐるを、愛していたのです。
『いいえ、全く恐くない。でも、驚いたわ。なんでそんなこと、今まで黙っていたの?』
たぐるはその言葉を聞くと、赤いその目に影を落とし、呟きました。
『嫌われるからさ』
私はつい、笑ってしまいました。なんで笑うのかとたぐるが聞くので、私は答えました。
『嫌うわけないでしょう? それより、隠し事をされていたことの方がショックよ』
この返答は、たぐるにとって意外だったようでした。紅の目を見開き、私をじっと見て、そして、笑いました。声をあげて笑ったのではありません。微笑んだのです。サングラスがある時には見られない、とても優しい、人間の笑顔でした」
「悲劇は、その一週間後に訪れました。悪魔狩りの風が、とうとうたぐるに吹いてきたのです。きっと、誰かがたぐるの噂を流したのでしょう。
心配する私に、たぐるは大金を渡してきました。親から受け継いだ遺産、全てだそうです。
『どうしたの? なんでいきなり?』
私が聞くと、彼は遠くを見て言いました。サングラスはもう掛けていません。
『君は逃げた方がいい。俺と一緒にいると、君まで悪魔にされてしまう。このお金で、遠い町に逃げるんだ』
『そんな、一緒に逃げましょうよ!』
こんな馬鹿馬鹿しいことで離ればなれになるのは嫌でした。でも、たぐるは悲しそうに首を横に振りました。
『ダメだ。狂人どもが町中を見張ってる。俺はこの町から出られない。でも、君は普通の人間だ。出る事が出来る。良いかい? 君には生きていてほしいんだよ。こんな馬鹿馬鹿しいことで、君みたいな素晴らしくて可愛い娘が死ぬのは嫌だ』
『でも! 貴方が死んでしまうじゃない!』
私はその時、泣いていたと思います。たぐるは少しかがみ、そんな私の頭を優しく撫で、笑いました。
『ひひっ、俺はそんなに弱くないよ。泣かないで。そうだ、ねえ、晴夏』
名前を呼ばれ、私は彼の目を見つめました。光のない紅の目は、真っすぐに私を見返していました。
『君は知っているかい? 昔は、自分に想いを寄せている人が、夢に出ると思われていたんだって』
その話は、私も知っていました。伊勢物語の『あづま下り』に、夢に出てこない妻を心配する男が描かれていた気がします。私がうなずくと、たぐるはまた優しく微笑み、私の腕をあの時のようにそっと掴みました。
『よし。じゃあ、早く行こう。奴らに見つかる前にね』」
晴夏の目には、涙が溜まっている。松田は目を閉じて聞いていた。晴夏は右手の指先で涙を拭い、最後を締めくくった。
「その後はあっという間でした。たぐるに連れられ、私は狭い路地を何本か通り、駅の近くまでやってきました。そこにはたくさんの?狩人?がいて、周囲を警戒していました。私たちは路地裏の暗がりで、最後のあいさつをしました。
『じゃあ、晴夏、ここでお別れだよ。ごめん。君には辛い思いをさせるね』
私は何も言えませんでした。別れたくないとだけ考え、いつまでも下を向いていました。
ああ、私がもしあそこで素直に別れを告げていれば、彼は生きていたかもしれません。私がぐずぐずしている間に、奴らに見つかってしまったのです。たぐるは、私を逃がすために自ら奴らに立ち向かって行きました。たくさんの狩人が、騒ぎを聞きつけて集まってきました。
狩人の集団に、たぐるはすぐのみ込まれて行きました。私はただ恐くてその場に立っていましたが、電車の音が聞こえたので、そちらへ逃げるように走って行きました。
私は、できるだけ遠くに行きました。電車を何本も乗り換え、様々な駅を通り、最後にここにたどり着いたのです。たぐるから貰ったお金で、このアパートの一室を借りました。生活費も、彼のお金からです。そろそろ尽きそうですが。
松田さん、私はこの話を、三十年間誰にも言いませんでした。それに、こんなに長く話したのも三十年ぶりです。なぜかって、こんな話をしたら、誰もが、同情しつつ、心の中で気味悪がるでしょう? 私は本当に、人間が信じられないのです。目が赤いだけで人を殺すような人間がね。だから、孤独に生きてきたのです」
話は以上だ、と言わんばかりに晴夏は潤んだ目を伏せた。そこでようやく、松田が口を開く。
「ありがとうございました。では、帰らせていただきます。どうですかな、気分は」
晴夏はまた涙を拭うと、答えた。
「ええ、少しよくなりました。約束を守ってくださり、ありがとうございます」
松田は少し笑うと、いえいえ、こちらこそと言い残し、アパートを後にした。
病院に帰った松田は、ゆっくりと診察室を横切り、奥の部屋に入った。そこには窓もなく、時計もなく、ただ丸テーブルが一つあるのみである。
松田は、その丸テーブルに置かれた写真立てを持った。両手で、落として割れないように。写真の中には、二人の青年が肩を組んで笑っている。一人は松田だ。
松田は写真に語りかけた。
「風海さんは、ちゃんと生きていたよ。君を抱えてね」
その夜、晴夏が布団にもぐると、またあの夢を見た。たぐるが昔のままの姿で現れて、何かを言う夢だ。今日ははっきりと聞こえた。
「ありがとうあいしてる」
次の瞬間、たぐるを白い霧が包んだ。
晴夏は、涙に沈んだ若い恋人に手を伸ばした。ゆがんだ手は、昔たぐると繋がった、あの元気な手だ。
若返った晴夏の頬に涙が伝う。それを確認すると、彼は紅の目を細めながらゆっくりと消えて行った。
次の朝、やはり晴夏の記憶にその言葉は残らなかった。
そしてもう二度と、その夢を見ることはなかった。
どうも、林羽夢です。
前書きでも挨拶したけど後書きでもします。
えーと、まず、お疲れ様でした。私の拙い文章を、最後まで読んでくれて、本当にありがとうございました。
やっぱり私はバッドエンド専門かなー、とか思いながら書きましたよ。
明るい話と比較すると、暗い方が手が進むんですね。これがまた。
そうそう。もしも、もしもこの話を読んで、なんか感じたりしたら感想ください。
(もちろん、強制ではない。)
アドバイスでもいいし、苦情でもいいし、まあ、何でもいいので。
感想待ってます!
さてと、後書きはこれくらいでいいか。
というわけで、この辺で締めさせていただきます。




