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Ⅸ サギソウだと気づかなければ

 暖かな、湿り気を帯びた風がなだらかな頬を撫でていく。柔らかなものに頭を乗せている感触。

 ――目の前には、エリーゼがいた。飛び起きれば、彼女は残念そうな顔をする。


「あ、せっかく膝枕してましたのに……。よく眠れましたか? ハーゲン様」


 違和感を覚える。

 なぜ、彼女は学園の()()を身につけているのか。自身を顧みれば、同じように制服を着ていた。

 何が起こっているのかと目を白黒させる。


「まだ目に隈がありますよ? もう少し寝たらいかがですか? わ、わたしたちは婚約者同士なのですし! ご遠慮なさらず!」


 赤面させながらも、自身の膝を「さあ!」と差し出す彼女を、ただ見つめることしかできなかった。


◇◇◇


「おいハーゲン。今日はなんだかいつにも増して静かだな」

「そうか?」

「そうだよ。なぁ、エルドウィン」


 移動教室に向かう途中。アルドが訝しむと、エルドウィンも頷いた。この二人も勿論制服をまとっていて、顔の小じわもない。


「まるで終わらぬ迷宮に迷い込んだ蛇のようだぞ……あ、新作を書いたんだ後で読んでくれないか?」

「お! 今度はなにを題材にしたんだ?」

「フェンテッド嬢からのご要望でね。王子が魔王を倒しに行く話だよ。ハーゲン、後で渡して貰えるか?」

「……あ、あぁ」


 誰も違和感を感じてないのが不思議で堪らない。

 エリーゼはハーゲンの二歳年下になっていて、普通に学園に通っている。席に着き外に目を向ければ、エリーゼは友人と語らい合いながら、どこかに向かっている。

 森に植物の観察をしに行く授業があると張り切っていた。元気そうに、小走りで歩いている。


「そうか、ここでは寝たきりではないのか……」


 頬杖をつき。背が小さくなって見えなくなるまで、顔はその位置のままだった。


「おいおいハーゲン、フェンテッド嬢を今日は良く見ているな」


 隣に座るアルドにからかわれる。少しムッとした。


「うるさいな」

「おっと、酷い言い草だな」

「……将来妻の尻に敷かれるくせに」

「なにぃ!?」


 その話詳しく、とねだってくるアルドをまるっと無視しつつ授業に集中する。


 そこではっと顔を上げた。


「ここでは寝たきりではない? 私は一体、なにを言ってるんだ……?」



「ハーゲン様、お昼ですよ」


 正午の鐘が鳴ると、教室の前にひょっこりエリーゼが姿を現した。


「一緒に食堂に行きましょう」


 手を繋がれ引っ張られる。


 食堂は大盛況で、注文するために並ぶとエリーゼは元気に


「月に一回の限定メニュー、ステーキ定食をお願いします!」

「……元気だな」

「お肉大好きです」


 きりり、と答えるエリーゼが期待に胸を膨らませながら定食を持つ。ハーゲンはスープとパンを頼み、もう一つ注文した。


「重くないか?」

「平気ですよ。わたし、力持ちなので」

「そうか」


 頷き、人の波となった食堂を歩いていると、声がかけられる。


「おーい、クラゲのように大海を揺蕩う二人、ここに座りなよ」

「先にお待ちしておりましたわぁ」


 エルドウィンとラウラだった。アルドとミラにも手を振られる。


「あら、エリーゼ様はやっぱりステーキ定食ですのね」

「今日のために一ヶ月頑張ったと言っても過言ではありませんので!」

「私もステーキ定食ですのよぉ」


 女子三人、キャッキャと話に花を咲かせている。

 眺めながらスープを飲んでいると、エルドウィンに本を渡される。


「これ、あとでフェンテッド嬢に」

「ありがとう」


 エリーゼの喜ぶ顔を想像し頬を緩ませると、アルドがじっとりハーゲンのご飯を見つめていた。


「……ハーゲン、それで足りるのか?」

「……? あぁ、勿論だ」

「それ、教授とかしか食べている姿見ないぞ?」


 カブをじっくり煮込んだスープに、ふっくら香ばしいパン。


「この美味しさが分からないお前はまだまだ子供だな」

「どっちかと言うと、お前が年寄りメニュー過ぎるんだよ。いつもはもう少し魚とか食べてるじゃないか、どうしたんだよ」

「そうだよハーゲン。体調でも悪いのか?」

「いや、全く」

 ……ではなぜ、自分はこのメニューを?


 手が止まる。迷いなく選んだ筈なのに、今になって謎が押し寄せた。なんだろう。なにか忘れているような。


「今日のハーゲンはなんだか変だな」

「あぁ、まるで森に迷い込んだ憐れなお幼子だ」


 額に手を当てる。


「――いや、すまない。なにか忘れている気がして」

「物忘れか?」

「本当にたった一日で老体に?」


 ヒソヒソ話をする二人にイラッとしていれば、エリーゼがステーキの一切れをハーゲンの口元に差し出した。急に出され仰け反れば、軽やかに謝られる。


「あ、驚かしてしまいましたね、ごめんなさい。ハーゲン様も一口いかがですか?」

「では、」


 パクリと食べる。咀嚼すれば、にこにこと微笑む彼女がいる。頬に指を這わした。


「ひぇ……っ」


 血色の良いまろい頬を撫でる。どんどん赤くなる……とぼんやり撫で続ければ、アルドとエルドウィンに勢いよく離された。


「ちょ、待て待てハーゲン! 見ろ、フェンテッド嬢の顔が可哀想なくらい真っ赤だぞ!」

「今日は本当に変だ。熱でもあるのか?」


 魂を飛ばして呆けた顔をしているエリーゼを、ミラとラウラが必死に呼びかける。その光景が、なんだか眩い心地がした。


「……あれ、なんだか今わたし、とてつもなく良い夢を見ていたような……」

「現実ですから、帰って来てくださいましエリーゼ様」

「そうですわ!」 


 意識を取り戻し、こちらの顔を見て再度頬を赤らめるエリーゼに、ポケットに入れていたお菓子を取り出した。


「メレンゲクッキー、好きだったろう?」

「……っくださるのですか!?」

「さっきのお礼だ」


 包み紙の中でコロンと丸くなっているメレンゲクッキーを一つつまみ、口に放り込んだ彼女が唇の端を綻ばせる。


「ありがとうございます」


 なにか、大事なことを忘れている気がして。でも思い出す気になれなくて。

 ハーゲンの顔にも、確かに笑顔があった。


◇◇◇


「次の時間は経営学だな」

「わたくしたちは刺繍ですわね」


 話す四人の後ろを、エリーゼと二人で追う。


「ハーゲン様。あの、あの! 今週末おうちに行っても良いですか? 良い紅茶が手に入ったので、ハーゲン様のお母様に是非と思って」

「ありがとう。母も喜ぶ」

 オレンジの良い香りがする紅茶を頂いたのです、とエリーゼがその紅茶を事細かに教えてくれる。


 時折相槌を打ちながら廊下を歩いていれば、流水が隣を通った。

 振り返れば、女生徒数人と歩く水色髪の少女がいた。きっと笑っているのだろう。髪は絶え間なくふわふわ甘く揺れている。

 その頭に浮かぶ数字は、同じ年頃の生徒なら珍しくもない数字で。


 「ハーゲン様?」と袖を引かれ視線を戻した。


「何かありましたか?」

「いや、なんでもない」


 首を緩く振り、腰をすくうように抱く。それだけで彼女が眉根を寄せた。


「……普段より、距離が近いです。わたしとしては、その、大歓迎ですが、本当に大丈夫ですか? お熱は?」

「ない。強いて言うなら、少し記憶が曖昧なだけだ」


 腰を抱くのはやめて手をつなぐ。


「私たちがどうして婚約を結んだのか、話してくれないか? 気になるんだ」

「はい、おまかせください! のろけ話、というやつですね」


 えへへ。はにかんだエリーゼが、夏の澄んだ日差しを受けながら話し始めた。


 昔は体が弱く、ハーゲンの領地の近くに療養に来て。体調が良い日に外で遊んでいた八歳のエリーゼがハーゲンと出会った。

 そして彼に一目惚れし毎日会いに来てと必死にお願いして、二人は療養中だけ交流を持つに至ったのだ。


「ぼうしが飛ばされてしまって落ち込んでたら、ハーゲン様がぼうしと共に現れたのです。白馬に乗った王子様かと最初は思いました」

「そうだったな。君にせがまれて帰れなくなって、暗くなり始めたから根負けしたのだった」

「はい。それでハーゲン様のお母様に婚約しないかと言っていただきました。――聞きたいことはこれで大丈夫ですか? それとも、もっとお話します?」


 手をエリーゼの口に当て、もう十分だと制止する。


「……んむ。そうですか良かったです」



 ――放課後。家に帰ったハーゲンを母が出迎える。


「おかえりなさい、ハーゲン」

「ただいま帰りました。週末にエリーゼが紅茶を届けに来るそうです」

「あらそう。では美味しいお菓子を用意しておかねばなりませんね」


 ハーゲンと同じ黒髪の彼女が頷き席を立つ。どのお菓子にするかシェフに相談しに行くのだろう。表情はピクリともしないが、浮足立っているのが分かった。


「そういえば、この間の試験では上々の成績を残したようですね。ですが驕らず精進なさい」

「肝に命じます」


 すん、と顎を引いていた母が、急に眼力を強める。


「……で、ですが少し羽目を外すのも大事でしょう。友人も大切になさいね」

「はい」


 エリーゼに出会ってから母はこうして、キツイことを言った後少し優しい言葉で相殺している。昔から母を見ている者としては驚きの変化だった。

 それは父もだろう。時たま握手を求めてくる。聞けば、「親子の触れ合いだ」と真顔で言われた。



 ――夕食の時間。同じように父にも褒められる。


「お前が良い点を取ることは分かっていた。それがアリアシネ侯爵家を継ぐ者としての責務でもあるからな。……今日はお前の好きな魚とかぶの料理を用意した。たっぷり食べなさい、祝いも兼ねているからな」 


 魚を品よく切り分け口に含みながら、二人の頭の上を注視した。

 寿命、残り二年。父と母の寿命は揃ってそれで、自分が二十歳を迎えた辺りで死ぬのだと小さい頃から知っている。

 手が止まって。目敏く見つけた母が眉尻を下げ問いかけてくるが、何でもないと一蹴しまた食べ進める。


 二人がデザートの話をしていて、温かさを覚えると同時にエリーゼを想った。

 ――昔のこと。エリーゼの療養している屋敷に、毎日こっそり家を抜け出し行っていたハーゲンだったが、父と母に見つかりもう行くなと怒られたことがある。勉強の妨げになるからと。

 その旨を両親を伴ってエリーゼに伝えた際、彼女は残念そうに目を伏せた。


「お勉強とっても大事ですものね。今まで我儘いっぱい言ってごめんなさい」


 しゅーん、と落ち込むエリーゼに狼狽えたのは両親の方だった。ハーゲンはおよそ子供らしいところが無く、落ち込んだりする姿も見せない。

 だからそれが子供だと思っていた二人にとっては青天の霹靂だった。あまりにもエリーゼが泣き出しそうだったから。


「ハーゲン様。どうかわたしのこと忘れないでくださいね。……一週間くらいでいいので」


 己を律していたようだったが次第に小さな鼻をふすふすしだしたエリーゼを見て、唐突に母が叫ぶ。


「あ……で、ですが人と関わることは大切ですものね。そうです、婚約者にすれば対外的にも問題ないはずです。ねっ、あなた!?」

「そ、そうだな! 彼女が良ければだが……」

「ハーゲン様が婚約者になってくださるのですか? 嬉しいです」


 ふにゃ~と笑う彼女に嘘だと言えるはずもなく、婚約が結ばれることとなった。


 それからだった。二人が変わり始めたのは。くるくると表情を変えるエリーゼは子供らし過ぎて。二つしか年が変わらない我が息子も、本当はこうなのではとようやく思い当たったのだ。

 屋敷にお茶会のためエリーゼを呼んだ日。白い花のコサージュが挿されたドレスをまとった彼女がカーテシーをする。


「今日はお招きくださりありがとうございます」


 顔を上げ口上を述べたエリーゼが、硝子玉みたいにきらきら光る目をした。


「あの、上手にできましたか?」

「あぁ、良かったと思う」

「やったぁ。お母様と一緒に練習したんです。家族にも沢山褒めてもらったんですよ」


 にこにこするエリーゼに、絶賛『子どもが喜ぶこと』を(勝手に)指南してもらっている二人は口に手を当て震えた。


「その、エリーゼ様のご両親はなにかできると褒めるの?」

「……? はいっ」

「エリーゼ嬢。試験で良い点を取った場合は、どのくらいの褒めに該当するんだ?」

「すごーい褒めです」

「ハーゲンの好きな食べ物を出す、というのはすごーい褒めに当たるか?」


 力強く頷く。


「それは――すごーい褒めですね」


 そこで今更ながら、ハーゲンは点数を取った日には必ず食卓に好きな食べ物が並んでいることに気づいた。一言もないから偶然だと思っていたのだ。さりげなさ過ぎる。


 笑みが知らず知らずの内に浮かぶ。つられてエリーゼも笑えば、両親もそっと頬を緩めた。


 

 翌日の学園で、エリーゼがスープを飲んでいる。


「なんだ、今日は二人ともカブのスープなんだな」


 アルドが肉を切り分けながら言えば、エリーゼがえへへとパンを千切る。


「ハーゲン様が二日連続で食べているので、よっぽど美味しいんだろうなと思ったんです。そうしたら本当に美味しくて凄いです」

「そうなのですかぁ? ではエルドウィン様、明日はこのスープを頼んでくださいね」

「僕が? ラウラが頼むのではなく?」

「私、明日はローストチキンの気分なんですわぁ。でも一口いただきたいので」


 なるほどなるほど、と軽く了承するエルドウィン。アルドもミラに、俺たちも分け合うか? と聞いたが首を横に振られ玉砕していた。


 食堂から教室に帰る最中、エリーゼに制服の裾を引かれる。


「なにかありましたか? ずっと顔色が優れないので」

「いや、なんでもない」


 困った顔をする彼女の寿命は残り六十年ほどで。少しの安堵を感じる。


「そうですか。でもなにかあったらすぐ言ってくださいね。わたし、ハーゲン様の力になりたいんです」


 むん、と拳を握りしめる少女。言葉がポロリと零れてしまったのは偶然だった。


「……家族が」


 我に返り口を手で塞ぐ。


「ハーゲン様のお父様とお母様が、どうかなさいましたか?」


 二の句を継げないでいると、エリーゼに手を引かれた。


「少し、遠回りしませんか?」


 アルドたちに断りをいれ、二人は人通りの少ない方へと歩き出した。



 夏を控え、青々とした葉を伸ばした木が日を遮る。前を歩くエリーゼの身体にも影がかかった。


「気持ちの良い天気ですね」


 にこにこ笑う彼女に、どんどん真実を言う口は閉じていく。


「そうだな」

「――ハーゲン様、なにか悩んでいらっしゃるんですよね? お話してくれませんか」

 でも! エリーゼが握る手に力が入る。


「言いたくないなら、言わなくて良いんですよ。けど悩むなら一人ではなく、どうかこのエリーゼをお傍に。貴方が淋しい想いをするのは、嫌なんです」

「エリーゼ……」


 彼女は頬を赤く、「あ、でもでも」と顔の前で手を振る。


「これはわたしの我儘なので、決めるのはハーゲン様です! ……ただ知っていて欲しいんです。貴方を心配してしまう心があることを」

 

 困ったように、上手く言葉にできないと涙ぐむ彼女をじっと見つめる。


「ありがとう。じゃあ、聞いてくれるか?」

「……っ、勿論です!」

 周りに花を飛ばしながら頷くエリーゼに心が解れる。


 ベンチに二人で並んで腰掛けた。


「私は、人の寿命が見える。それによれば、両親は私が二十歳の時に亡くなる」

「…………」


 なにを言ったら良いのか分からずといった感じで黙り込んでしまった。ふっと笑みを零し立ち上がった。


「すまない、変な話をしてしまった」

「……ハーゲン様は、これからお二人の運命を変えようとする、ということですか?」

「え」


 なにを言っているのだろう?


「行動すれば、寿命が変わると?」

「気をつけたら、もしかしたら。今までは、その……」

「試したことすらなかった」

 運命を変えようなんて、思ったこともなかった。ハーゲンにとって頭の上に浮かぶ数字とは、それほどまでに絶対的だったから。


「変えられるのだろうか」


 心臓が脈打つ。今まで何度も体験した動悸。けれど今回は冷や汗も頭痛もなく、淡い想いだけが胸いっぱいに広がっていた。

 あぁ、自分は期待している。運命が変わることを。


「……試して、みたい」


 絞り出した声は、驚くほどか細いものとなった。


 ――あの二人には、生きていて欲しいんだ。


◇◇◇


 それから次の春が来て、ハーゲンは学園を卒業した。それからもう一年経って、今年はエリーゼが卒業する番で。

 ハーゲンが二十歳を迎える年だった。


 両親は特に体調を崩す訳でもなく、日がな一日穏やかに過ごしている。最近はもっぱら結婚式を考えるのに精を出していた。


「お二人共、体調が悪かったりはしませんか?」

「最近良く聞くわね、その台詞。見ての通り元気よ」

「なにか心配事でもあるのか?」

「いえ、特には」


 素知らぬ顔で通り過ぎていくハーゲンを、二人が訝しむ。だが詮索はされず、人知れずため息をついた。


「……やはり、病気ではないようだ」

「そもそも、お二人は一緒の時間なんですよね。それなら、病気とかだと少し可笑しいです」


 お茶会で、マドレーヌを頬張るエリーゼに紅茶のおかわりを淹れながらため息をつく。


「一体、二人になにが起こるというのだ」

「……私の叔母様は、階段から落ちて亡くなられました。そういう感じ、でしょうか?」


 二人して首をひねる。



 夕暮れ。オレンジのヴェールに包まれた世界で、エリーゼが馬車に乗る。


「今日はありがとうございました。また会いましょうね」

「あぁ」


 馬車が小さく消えていくまで見送る。辺りが暗くなってから屋敷に戻れば、父と母がソファに座ってなにかを話していた。

 ハーゲンの気配に気がつくと、慌てたように母は扇子をジャっと広げ父は咳払いをした。


 ……隠し事をされている。半目になりながら席に座る。おもむろに父が話を切り出した。


「ハーゲン。これから私たちは三日ほど出かけてくる」

「そうなのですか?」


 ちらりと数字を見遣れば、一週間ほどの猶予があった。大丈夫だろうと軽く了承する。


 どこに行くのだろう。そう考えて、ふと呼吸が止まった。――一週間後は、自分の誕生日だった。

 もしかして、二人は自分のためになにかを買いに行こうとしていて……そして帰って来れなかった。

 そこまで想像し、喉がカラカラになる。


「やっぱり駄目です。出掛けるのは今度にしてください」

「……!? 急な反抗期がきたわ」

「駄目と言われてもなぁ」


 困りきった顔の二人。


「どうしてもです。私は、私は……」


 厳しいことばかり言われ、子供ながら『自分はきっとこの人たちに愛されていないのだろう』と思っていた。だが違った。


「私は、貴方たちを敬愛しています。だから置いていかないでください」

「どうしたハーゲン。情緒不安定だな」

「置いていかないでなんて、不思議なことも言うのね」


 顔を見合わせ、父と母はそっと息を緩めた。


「――しょうがないわね。また違うものを考えましょうか」

「そうだな」

「……っありがとうございます」



 

 翌日もやって来たエリーゼに昨日あった出来事を伝えれば、安心した笑みを見せた。


「では、未来は変わったのかもしれないんですね」

「いいや、まだかもしれない」


 馬車の事故は防げた。だが、それが原因とは限らない。なにか別の理由で二人が命を落とすのかもしれない。


「でしたら、当日は気合いを入れないといけませんね」

「それについてだが……エリーゼは来ないでもらえるか?」

「な、なぜですかっ」


 雷が落ちたような顔の少女に目を細める。


「二人の側にいれば、君の身に……もしかしたらそれこそ、運命が変わって危険が及ぶかもしれない。それは嫌なんだ」

「ですがそれでは、ハーゲン様は一人で苦しむことになります」


 両親にも何も言えない中、終わりの時を待つ。どれほどの恐怖だろうかとエリーゼは体を震わせた。


「私は平気です。たとえもしもがあっても、ハーゲン様と居られたのなら、後悔なんてありません。どうかエリーゼを、貴方の傍に」


 手を握られて。これは灯りだと思った。吹雪の中で、前を見失わないように歩くための松明。

 スルリと「ありがとう」感謝の言葉が出た。


 そして、その日は滞りなくやって来た。

 遠くの方からやって来た厚い雲は、絶えず雨を降らしている。薄暗い室内で四人。なにも知らない両親だけが呑気にお茶を飲んでいた。


 汗が出るのに、喉は渇く。


 事故が起きたであろう時間まで、もう十分を切っていた。

 雷がゴロゴロと空を震わす。

 両親の他愛もない会話に相槌を打ちながら、時計の針が動く音が逸る心臓の鼓動と重なる。


 五分を切った。仕切りに時計を見ていれば、エリーゼの手が自分の手に重ねられた。

 そっと身を寄せ合う。分かたれることがないように。


 時間は段々迫っていく。一秒すら長くて。心臓の音だけがガンガンとうるさい。

 遂にその時、一際大きな雷が落ちた。


 世界を切り裂く音。視界が真白に染まる。


 目を固くつむってからそろりと開ければ世界に色が戻って。視界が酩酊しながらもすぐに二人の頭に視線を上げた。


 目を見開く。


 尽きかけた寿命が逆行していた。巻き戻るように、数字が膨らんでいく。朝顔が朝日を浴びて萎れた花をまた開かせるように。二人の寿命が延びていく。

 止まった頃には、父は残り二十年、母は残り二十三年という数字が燦然と煌めいていた。


「……あ、ぁっ」


 不器用な息が漏れて。拍子にエリーゼに抱きしめられる。彼女の朗らかな顔は、ハーゲンの様子から全てを感じ取ったようであった。


 雨と雷が止み、分厚い雲の隙間から矢のような日が差す。

 二人は不思議そうに、いつも通り笑っていた。



 ――それから、六十年あまりの時が過ぎた。ハーゲンは今際の際で。手をエリーゼに握られている。彼女の顔は良く見えない。


「ハーゲン様。良い人生でしたか?」


 尋ねられ、噛みしめるように頷いた。あぁ、とか相槌も打った気がする。

 子宝にも恵まれ、穏やかな人生だった。これを幸福と呼ばずしてなにを呼ぶのだろう。


 欠伸が漏れる。噛み殺すが、また一つ二つと出た。意識が遠のいていく。

 もう次眠ったら、目覚めることはないのだろう。確信めいたものが胸中にあって、最後にエリーゼの手を握る力を込めた。


 この手を離す時は、私が死ぬ時でありますように。

 いつか、そう思った気がする。そしてその願いは叶う。


 満足感で満ち満ちて瞼を閉じた。



 


 だが、違和感に気づいた。なぜ自分は、そんな願いをしたのだろう。まるでエリーゼが自分より先に死ぬかもしれないと思っていたように。

 なんで、なんで――


「……そうか」


 ここは現実ではない。理想卿だ。


 視界があの雷の日のように白で塗りつぶされる。

 離れていく手の温度を名残惜しく思いながら、ハーゲンの意識は吸い込まれていった。


◇◇◇


 赤子のようにぼんやり目を開ける。


「あ、起きられましたか? 側にいてくださるのは嬉しいですけど、ここで眠ったら体を痛めてしまいますよ?」


 目の前には、寿命がもう一年を切ったエリーゼがいた。どうやら自分は、彼女のベッドの端に顔を突っ伏し眠っていたらしい。


 それを認識した途端に、涙が溢れた。ポロポロと、止め処無く頬を濡らす。


「……え。えぇ……え―――――! どうしたのですか!?」


 初めて涙を見せたハーゲンに、オロオロと困惑しっぱなしでエリーゼは背を撫でる。

 エリーゼのお腹に腕を回し顔を下にして静かに啜り泣く彼は、どこまでも頼りない。


「どうしたのですか? 怖い夢でも見たのですか?」

「……違う。むしろ、とても良い夢だった……」


 あの人が元気に笑う姿を見た。あの人たちの運命を変えることができた。

 なにより、彼女より先に死ぬことができた。


 それはとても幸福なことで。本当はずっと望んでいたことで。


「それなのに、どうして涙が止まらないんだ――」


 星が降り出しそうな満天の日。藍色の空は遥か遠くまで続いていく。木々のざわめきも、眠りにつく誰かの息遣いもスウスウ吸い込まれていく。


 小さな嗚咽だけが響く、とても静かな夜だった。

 

 ハーゲンはエリーゼの膝の上ですーすー寝息を立てている。


「な、泣きつかれて寝ちゃった……っ」


 思い悩んだ様子だった彼には失礼だが、可愛いやら好きやらの気持ちが往々に巡ってしまう。

 えへへと頭を撫でていれば、涙の流れた跡と薄い隈が目に入った。自分の面倒を見てくれる夫は、よく眠れていないのだろう。

 胸がきゅ、と締め付けられる。


「おやすみなさい、ハーゲン様。どうか、良い夢を」


 ハーゲンは目を覚まさない。まぶたをピクリともさせず寝息を立てている。きっと彼は今、なにも夢を見ていない。

 怖い夢も。そうではない夢も。

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