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Ⅷ 私はウィンターコスモスを望む

お読みいただきありがとうございます。

 エリーゼは苦しそうに息をすることが多くなり、動くことも段々億劫になっていった。

 十九歳。彼女は時に杖をつき、時に車椅子を押してもらいながら庭を散策していた。


 ――それから、二年。呼吸が楽な日は散歩をして。それ以外の時間は床に伏せる彼女。


 ハーゲンはエリーゼの背を撫でながら目を伏せる。咳をする度に、彼女の骨が折れてしまうのではないかと、心配で堪らなかった。

 だが、自分がこんな顔をすればエリーゼに心配をかける。ハーゲンは葛藤などおくびにも出さず、ベッドに座る彼女の目の前に二本のリボンを出した。


「今日はどっちが良い?」

「そうですねぇ……オレンジが良いです」


 一つ頷き、繊細な金糸を手に取り編み込んでいく。オレンジ色のリボンで結べば、一本の可愛い編み込みが出来上がった。

 嬉しそうにエリーゼが微笑む。


 ――エリーゼの二年前のお願いが、髪を結ってほしいだった。最初は簡単な二つ結びくらいしかできなかったハーゲンも、今では慣れたもので。エリーゼの嬉しそうな顔を見る度に、仄かに満足感を覚える自分がいる。


 そっと手を握る。まだ初秋なのに、指先は冷え切っていて。日に日に薄くなっていく手の平が痛ましかった。

 いけない、心の中で自戒する。不安を伝播させたくない。


「今年はまだ誕生日を祝えていない。調子が良い日に祝おう」

「はい、ありがとうございます」


 こくり。頷き顔を綻ばせる。夏先に誕生日を迎えた彼女だったが、その頃は病症が悪化し祝うことができなかった。落ち着いた今なら、と屋敷の人間総出で準備をしている。


「湖が綺麗な所があると、アルドたちに言われた。そこで良いか?」

「まぁ、嬉しいです」

「そうか」


 小指を差し出せば、目を見開いてから彼女ははにかみ。

 指切りげんまん、と小さく言った。


◇◇◇


「今日はわたし、とっても元気です。湖が綺麗なお陰ですかね」

「それは良かった」


 身体もちゃんと動かしたいと杖をつくエリーゼを支えながら、湖の周りを歩く。

 秋の陽が反射し、湖を幾重もの色に染めていた。風が冷たくて、着ていた上着を彼女にかける。


「ありがとうございます。わたし、幸せ者ですね」

「急にどうしたんだ」

「えへへ……」


 笑って、けほりと咳が一つ。

 上手く呼吸ができないのか背を丸める。体重を掛けて良い。ハーゲンの言葉に彼女は少し微笑んだ。


 部屋に戻ろう。彼女を抱っこし、歩を進めた。


 

 湖の近くにある別荘。そこで三日滞在する予定で。ハーゲンは早朝に目が覚めた。隣に置いてあるベッドで、エリーゼはまだすやすや寝ている。

 一緒の部屋でお泊りしたい――彼女の願いを最初は拒否したが、誕生日なんですという圧に押された。同じ部屋に二つベッドを置く、これがハーゲンの最大限の譲歩だったが。


「ん、ぅ……おはようございます……?」

「まだ朝だ。眠っていなさい」

「いえ……ハーゲン様が起きるなら、わたしも」


 寝ぼけ眼の彼女を布団に戻そうとしたが、意志は固く。二人で朝散歩することになった。


 エリーゼをドレッサーの前に座らせる。 


「朝は特に冷える。厚い寝間着を侍女に頼んでおいたが、それだけでは少しあれだな」

「うぅ……わたしはもう少し、薄くて可愛い服が良かったですのに。ハーゲン様と侍女の方々、こういう所ばっかり共闘して……」


 むう。頬を膨らませて、不満です! 顔に顕にする彼女を宥め、ショールを掛ける。

 

 そこでハーゲンは席を離れた。次に戻ってきた時には、手に小箱が握られている。

 跪き、開かれた小箱には美しいリボンが収まっていた。


「か、可愛いです……っ」


 深い青の、サテン生地のリボン。ぬめるような光沢のリボンの結び目には、花を模したパールが収まっている。

 

「エリーゼ」

「は、はい」

「私は最近、編み込んで後ろで纏める髪型を練習した」

「凄いですねぇ」


 絶対あれ難しい。だって侍女たちが特別な日にしてくれる髪型だから。

 尊敬の念を送っていると、ハーゲンが口元に手を当てる。僅かに、耳の血色が良いような気がした。


「その髪型と、リボン。私からの誕生日は、これだ」

「……〜〜っ、とても、嬉しいです。ありがとうございます」

「それなら良かった」


 編む瞬間は、いつもより喉が渇いて、ついでに指先も震えた。

 でもエリーゼの鏡越しの笑顔に、そっと目を細めた。



「霧が多いですね」

「そうだな。私から離れないように」


 湖面から霧が立ち昇っているように見え。幻想的な景色に、ほぉ、エリーゼが息をつく。


「……あら」


 服の裾を引いた。立ち止まった彼の視線を、指で導く。


「小さな影が……」

「動物だろうか?」


 霧の向こうで、何かがもぞもぞ動いている。

 近寄れば、それは人だった。金髪の小さな少年は、はっと顔を上げこちらを睨んでいる。


「どうしたのですか? ご両親は……」

「いない。家出したんだ」


 訳アリ、ハーゲンは心の中でそう結論づけた。身なりは平民のものではないが、上等という訳でもない。爵位はあまり高くない家の子供なのだろう。


「こんなに朝早い時間に……危険ですよ」

「っ、うるさい!」


 顔を真っ赤にして怒る少年を、じっと見据える。


「帰った方が良い。ここは見通しも悪い」

「なんなんだよ、さっきから偉そうに!」


 近づいた分だけ、ジリジリと後退していく。湖を背にした少年を、エリーゼが心配そうな目で見つめる。


 ハーゲンの元から離れ、エリーゼは少年の傍に寄った。怯えと敵対心が綯い交ぜになった表情をする彼に、ゆっくり微笑む。


「大丈夫ですよ。ハーゲン様はとても優しい方ですから。ここは寒いですし、わたしたちの屋敷に来ませんか?」


 そこで、だった。少年が両腕を伸ばしエリーゼを押したのは。

 少しエリーゼを遠くにやりたかったのだろう。だが、杖が滑りバランスを崩した彼女の体は、昏い湖に落ちていく。蝶が舞ったような光景だった。


「……――っ」


 一瞬の後、派手に水飛沫が上がった。顔を青褪めさせる少年を置いて、ハーゲンもまた湖に身を投じる。


 顔色が悪いエリーゼを抱え、岸に上がる。抱き締めたまま、屋敷へと急いで歩き出した。

 ふと足を止め、立ち尽くしたままの少年を振り返る。


「君も一旦来なさい」


 少年はもう何の抵抗もせず。

 人形が糸に導かれ躍るみたいに、ぼんやり足を動かし始めた。


◇◇◇


 エリーゼは一旦侍女に任せる。彼女たちが慌てて風呂を沸かしに行ったのを見送ってから、ハーゲンは水で身を清めた。

 着替え直し、応接間のソファに腰掛ける。

 向かいには少年が、居心地が悪そうに身を縮めていた。


 それを見遣ってから、俯き右手を開いた。そこには今朝エリーゼにあげたリボンが収まっていて。

 リボンはくたりと汚れていて、小花は取れまばらにしか残っていない。特注品で作らせた物だから、同じ職人にお願いしても同じようには直らないだろう。

 それなら、新しい物の方が喜ぶだろうか。考えを巡らせていれば、独り言が飛んでくる。

 

「だって、少しの力だったのに……」


 誰に聞かせる訳でもない、言い訳だったのだろう。

 居住まいを正し、ハーゲンは紅茶で喉を潤した。


「君はどうして家出などしたんだ」

「なんでそんなこと言わないといけないんだよ」

「聞く権利があると思っただけだ」


 うぐ、詰まった少年は、暫く言葉を探しているようだった。

 腹づもりが決まったのか、すっと顔を上げる。


「俺は、ミスリー子爵家の三男、ライノアで七歳です」


 膝の上に乗せた拳は微かに震えていて。紅茶を差し出せば、一気に飲み干す。温かさに心が解れたのか、幾分か顔色が良くなった。


「我が家は、あまり裕福ではないんです……爵位も低いから婿入りも難しいし。それで十三歳になったら兵士にさせるという話を両親が話しているのを聞いて、家出したんです」


 ポツリと。


「俺はもっと、勉強がしたいのに……」

「そうか」


 ライノアが飲み干したティーカップに、メイドが新しく紅茶を淹れる。浮かない少年の顔に、どうしてだかエリーゼを連想した。


「――騎士でなくとも、文官という道もあるだろう。十三で家を追い出されるのであれば、それまでに力を誇示すれば良い。それができる気概があるのならな」


 ぱちくり。しげしげとハーゲンを見つめて、ライノアは暫く言葉を咀嚼していた。

 段々と瞳に光が差し、頬が紅潮していく。

 

「そっか……」


 ここまでで、もう十分だろう。

 エリーゼは良く、ハーゲンは優しいと褒めそやすが、そんな自負はない。故に、声を少し硬くした。


「だが、文官を目指すにしろ騎士にしろ、君には圧倒的に足りないモノがある。――それは、自分の強さを測る力だ」


 その言葉に、ライノアの心にまた反発心が顔を出す。だがそれも想定内。ハーゲンは揺らぐことなく見据えた。


「現に君には、エリーゼを突き飛ばせてしまう程の力があった。自分には力なんてない、そう思うのは自由だが、過度な自己卑下は他者を傷つける。自分の力を、今一度見つめ直すべきだ」

「…………」


 また暫く間が空いた。


「はい」


 声が凛として伸びる。

 自暴自棄になった顔ではなく、やるべきことが定まった顔をしていた。


「本当に、申し訳ありませんでした。あの、夫人に謝りたいのですが、よろしいでしょうか?」

 頷く。


「ああ。もしかしたらもう目を覚ましているかもしれない」



 扉を叩けば、軽やかな声がどうぞと言った。


「エリーゼ、体調は大丈夫か?」

「少し息が苦しいですが、もう大丈夫ですよ」 


 むん、握りこぶしを作ってみせた彼女は、あらとライノアに目を向けた。

 皮切りに、彼は頭を下げる。


「突き飛ばしてごめんなさい……っ」


 目を瞬かせたエリーゼは、またすぐに頬を緩ませた。


「良いですよぉ」


 瞳を潤ませたライノアは、またピシリと背筋を伸ばし礼をした。


「我が家の馬車で送ろう。……家から少し離れたところまでの方が良いか?」

「はい。ありがとうございます」


 執事がライノアを案内する。それを見送って、ハーゲンは片膝をついた。

 手を広げ、壊れてしまった髪飾りを見せる。


「すまない。拾うことは出来たが壊れてしまったようだ。また新しいのを贈ろう」


 ふるふる。静かに首が横に振られた。


「良いのです。それが大事な物ですから」


 引き出しの二番目を開けてください。指示通り机の引き出しを開ければ、小さな青い箱が収まっていた。

 中には小さなリボンに押し花。小さくて素朴だけど、大切にされていると一目で分かる物たちが詰まっている。ハーゲンが誕生日に贈ったものも、全て収まっていた。


「わたしの、宝箱です。そのリボンも、仲間にいれてあげてください」

「あぁ」


 ひっそり微笑み合う。



 ――エリーゼが熱を出したのは、その日の晩のことであった。


◇◇◇ 


 熱を多分に含んだ荒い息。固く目を瞑るエリーゼの手を握る。ひんやりして心地よいのか、すりと顔が寄せられた。


 医者が難しい顔をする。


「湖に落ちたとのことでしたら……体が冷えたのか、それか何かの病気にかかった可能性があります」

「そうか」

「今は取り敢えず、栄養のあるものを食べさせ、体を温めるくらいしかできませんね……。解熱剤を出しておきます」

「わかった。ありがとう」


 医者や使用人を下がらせ、ベッドの脇に椅子を寄せる。

 いつもより苦しそうな姿にも、どうすることもできない。歯痒さを感じながら、温くなった濡らしたタオルを、水を張った桶に入れる。

 絞ったものを額に乗せれば、少しだけ顔が綻んだ気がした。



 ――早朝。小鳥の囀りが耳をつく。はっと体を起こせば、朝日が差していた。僅かばかり意識を手放していたようだ。


「……ぅ……」


 エリーゼの額に乗ったタオルを変えれば、身動ぎし声が漏れる。未だ熱病に犯された彼女は、薄らとハーゲンを見上げる。

 頬を丸い涙が伝った。


「くる、しいです……。ずっと、ずっと――」


 手を握りしめる。


「大丈夫だ」


 思えば、寿命が見えて良いことなんて一度もなかった。知らなければ、ただ悲しみを享受するだけで良かったのに。見えるが故に、いつも後悔が胸中を占めていた。

 ――だが。この力があって良かったと、今だけはそう思う。


「何も怖いことなどない。君は必ず良くなる。私は決して、嘘をつかない」


 頭の上に浮かぶ数字は、彼女が回復することを雄弁に語っていた。


「……はい」


 ふっと気が抜けたように、また彼女は眠りについた。


 

 次に目を覚ましたのは、それから丸一日経ってからだった。所用で席を外していたハーゲンが部屋に戻れば、侍女たちに支えられながら身を起こしている。


「旦那様、奥様の熱は下がられたようです」

「そうか、良かった」

「はい」


 側に行けば、ふるりとエリーゼの体が震える。



 ――瞳には、隠しきれない恐怖があった。何かがおかしい、背中に冷たい汗が伝う。


「……エリーゼ?」


「――……ここは、どこでしょうか? ごめんなさい、もしかして体調を崩したわたしを介抱してくださったのですか?」

 貴方のお名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか。


 時が止まったような心地だった。



「熱による記憶喪失ですかね。あまりない事例ですが、高熱を出していたのでありえなくはありません」

 

 脳とは繊細な器官なのだと、医者が沈痛な面持ちで結果を伝える。その横でエリーゼはあわあわしていた。


「わ、わたし今十四歳だと思っているのですが、本当は二十歳なのですか……!? えっと、そのぉ……年齢を偽っている変な人とかではなく……」

「分かってる」

「嘘つきではないと信じてくれるのですか?」

「君は変な嘘をつく人ではない」


 医者にも慰められ落ち着いたのか、エリーゼの視線がハーゲンに向く。


「そう言えば、先程は聞けませんでしたよね。お名前を聞いてもよろしいですか?」


 顎に手を当てる。誤魔化そうとしたが、より面倒くさくなる気がして重い口を開いた。


「私はアリアシネ侯爵家の当主ハーゲンだ。――そして、君の夫でもある」

「え……っ、お、夫ですか?」

 ぼふん、顔が真っ赤に染め上がる。


「わたしの旦那様、旦那様……」


 頬に手を当ててから、そっと手を伸ばした。


「あの、手を繋いでくださいませんか?」

「あぁ、構わない」


 自分とは違う、骨張った手に。何度もえへへと笑う彼女は普段より幼い。


「君は、嫌ではないのか? 君と二十ほど年が離れている男と結婚していると、急に言われて……」

「……貴方の姿に関係なく、戸惑いは、しています。ですが、わたしが目覚めてからずっと優しくしてくださる貴方に、嫌悪感のようなものは抱きません」


 きっぱりはっきり答える彼女は、記憶を失う前と変わらない。ホッと息をつく。


「不束者ですが、よろしくお願いします――()()()


 その言葉への返事は、変な間が空いてしまった。


◇◇◇


 翌々日には、別荘から自宅へと戻る。丁度、エリーゼの母ヨハナが車をかっ飛ばし娘の下へ来ていた。


「エリーゼ、どこか辛いとこはないかしら?」


 大切に労る声に、緊張の糸が緩んだのか頷いている。今は二人だけの方が良い。

 そう判断し、ハーゲンは部屋を出た。


 エリーゼの記憶は、戻るのだろうか。自分は今まで通り振る舞えば良いのか。様々なことが、堂々巡りする。

 

『混乱している中申し上げるのも酷ですが……』


 医者が、彼女に病気のことを告げた時。少し顔が青褪めていた。当たり前の反応で、だからこそ本当の心を見た気がして。

 今の彼女は、最後の時をよく知りもしない男の下で過ごすより家族といたいはずだと心の中で吐露する。


 婚姻関係を解消すべきなのだろうか。


「……また、屋敷が退屈になるな」


 彼女が、私の中でそのまま豊かさになっていたのかもしれない。

 朝ご飯を抜くクセがあったハーゲンを毎朝起こし、手を引いてくれた。

 執務仕事をしていたら紅茶を淹れてくれた。

 花の名前を教えてくれた。

 ――いつも笑顔がそこにあって。私は君を見つめていた。


「…………」



 ヨハナと入れ替わりに、エリーゼの部屋に入る。温かな紅茶を差し出せば、豊かな香りにうっとり目を細めた。


「ありがとうございます、旦那様」

「あぁ。エリーゼ、君は……フェンテッド伯爵家に戻りたいと思うか?」

「……え?」

 いけない、さすがに唐突すぎた。


 咳払いをし、とりなす。


「君は私を知らない。他人同然のようなものだろう。そんな君の――エリーゼの時間を私が使うことに酷く苛まれるんだ。だから、離縁しないか」


 片膝をつき、手を掬い取る。彼女は口をぽかんと開け、暫くして細い声で


「そんなこと、仰らないでください」


 言葉を絞り出した。涙で滲んだ声に、苦笑が漏れる。


「君は変わらないな」


 そんな彼女だからこそ、できれば幸せな道だけを歩いてほしい。

 立ち上がる。


「ゆっくり考えなさい。私はいつでも、君の本当の気持ちを待っている」


 涙にハンカチを押し当てれば、幼い少女特有の混じり気のない瞳に見上げられた。


 部屋から出る。日が煌々と差す部屋の中とは違い、廊下はすうすうした静けさがある。無心に歩いていたが、ふと後ろを顧みた。

 エリーゼを置いていってしまったような心許さに駆られて。けど当たり前に誰もいなくて。


「……これで良いんだ」


 呟きは廊下の隅の、影が濃い部分に吸い込まれていった。


◇◇◇


「おはようございます、朝ですよ」


 カーテンがレールを走る音と共に、日が部屋を満たした。

 眉間に皺を寄せながら薄目を開ければ、ベッドの脇で頬杖をついた彼女がいる。


「今日はいつもより目を覚ますのがお早いですね」

「……もう少し」

「駄目、駄目ですよ。今日はハーゲン様の好きなカブのスープだそうですから、早く行きましょう?」


 根負けして起きれば、彼女は一層笑みを深める。

 何が楽しいのか、エリーゼはいつもにこにこしていて。


 体を動かすことが辛くなる日まで、習慣は続いた。



 朝。ベッドに寝たきりの彼女に食事を持っていく。エリーゼは目を覚まして早々に、めそめそ泣き出した。


「わたし、ハーゲン様を毎朝起こしてあげたかったですのに……」

「体調が良くなったらやってくれ」


 不満気に頷く彼女は、ころっと表情を変える。


「そういえばハーゲン様。毎回こんな朝早くに起きているなんて、珍しいですね。……まっ、まさか誰かに起こしてもらっているのですか?」


 震えるエリーゼに、いや自分で起きていると告げれば不思議そうにされた。


「約束したからな、君と」

「約束? わたし、覚えてないです……。どうしましょう!? せっかくハーゲン様との約束ですのにぃ……」

「いや、約束と言っても一方的なものだからな。思い当たらない筈だ」


 あの日、決めたんだ君を――


 目が覚める。起き上がれば、ひんやりした空気に身を震わせた。

 いつも通り着替えてから、もう行かない方が良いのかもしれないと思う。だが染み付いた体の習慣は、ズルズルとハーゲンをエリーゼの下へ連れて行った。


 少し見るだけ、少し……扉を小さく開けたハーゲンは、中の惨状にすぐ室内に入った。


「エリーゼ、どうしたんだっ」


 杖を使うことを忘れていたのか、バランスを崩したのか。エリーゼは床にうつ伏せになっていた。慌てて起こせば、鼻を赤くし、何かを胸に掻き抱いている。


「ベッドに行くために、体を持ち上げても良いか?」

「は、はい。ありがとうございます」


 横抱きで運ぶ。ベッドに座らせ、クッションを背に挟んだ。


「それで、どうしたんだ」

「……これを、見てました」


 手中には、宝箱と称されていたあの青い箱があった。


「わ、わたし、この宝箱には本当に大事なものしか入れないんです……っ。現に、十四歳までのわたしは三つしか入れてません! 大変だったんですよ、お父様やお母様、お兄様から何か貰う時はお菓子をお願いしたり」


 耐えきれなくなったのか、唇の端が震える。


「だって天国で、これ以上は重いから持っていけないよ、って言われたらとても悲しいですもの……。っそれなのに、それなのにっ。こんなにいっぱい入ってるんです!」


 ふと、表情が緩まる。


「きっと、旦那様がくださったものですよね?」

「あぁ。君の、誕生日に贈ったものだ」

「やっぱり」


 間をおいて。決めました、エリーゼが視線をぱっと上げる。


「わたし、離縁したくないです」


 断言する。動揺したのはハーゲンの方だ。


「そ、それで良いのか?」

「勿論です。わたしが愛した旦那様のことを、なにも知らずに離れ離れだなんて、そんな悲しいことはありません。貴方を、もっと知りたいんです」


 ふるり。怒りに似た哀しみで、目の前が真っ赤になる。


「っ、君は、もう体が強くない。先が、永くはないかもしれないんだ! 戻るかも分からない記憶の中だけで存在していた私のことなど、捨て置けば良い」

「……わたしの体が永くないことは、少し知っています、自分の体のことですもの」


 残り一年と少ししか寿命が残されていない少女は、真っ直ぐに前を見据えた。


「でも、だからこそ分かります。わたしが死ぬまで、もう少し猶予があるんです」

「そんな根拠、どこからっ」

「だってわたし、明日死ぬ気がするんです!」


 明るい言葉に息が止まって。前のめりになっていた体が元の位置に戻る。


「わたしの持論なのですが、明日死ぬと思っている内はまだまだ死ぬことはない気がするんです。だってそうすれば、その明日は永遠に来ないですから」

「……そうか」

「はい」

「そうか」


 噛み締めるように、もう一度呟く。もう彼女を拒絶することはしなかった。



 それからまた、いつも通りの日々が始まった。一緒に食事を取り、寝顔を見守ってから執務室に行く。数人の侍従が書類を読んでいて、その内の一人が顔を上げた。


「奥様はもうお休みに?」

「あぁ、熱も出ず健やかそうで良かった」

「それは良かったです」


 机に着き、書類を受け取る。エリーゼの側にいるために今までと同じようには執務を行えなくなって。侍従たちに頼ることが多くなった。


「すまない。迷惑をかけるな」

「いいえいいえ。むしろ今まで一人で溜め込まれる性格でしたので、今は安心しているくらいです」


 彼は眉だけは残念そうに下げる。


「お一人で起きられるようになったことだけが、寂しいですがね」

  

 いつもハーゲンを起こしてくれていた彼は、口元がニヤついている。僅かに年上の彼は、弟を眺めるような親愛の情を向けた。


「……さ! 明日も愛する奥様と過ごすために、頑張りましょうか!」


 手を叩く彼に頷き、ハーゲンは書類に目を通し始めた。


◇◇◇


 秋から冬に、段々移ろっていく。次第に、エリーゼが庭を焼き付けるように見つめる日が多くなった。


 そうだ、彼女は冬が嫌いだった――。


「綺麗な花々がなくなって、随分寂しくなりますね」

「そうだな。だが、桜は蕾を付けている」

「あ……本当ですね」


 今初めて気づいたのか、頬が色づく。横顔を眺めながら思案する。


 満足気に頷くハーゲンを、エリーゼは不思議そうに見つめていた。



「ご機嫌よう、ハーゲン様」

「お久しぶりだね」


 冬の盛り。雪がちらちら降り出した日のこと。ヨハナとべモートが一冊の大きな本を携えてやって来た。


「お待ちしておりました」

「それはわたくしたちのことですか? それともこの本のことかしら?」


 意地悪な質問をするヨハナに、べモートが苦笑する。


「どちらもですよ」

「あらまあ。お上手ですこと」


 鈴を転がすように笑う彼女は、会う度にぎこちなさが消え。今ではハーゲンにも親しみを込めて接してくれる。

 

 手渡された大きな本を開き、口角が上がった。


「それで、今日は大所帯になるのですよね?」

「はい。あともう少しで来るかと」


 丁度、執事から客の来訪が告げられる。

 応接間に、何十人もの人間が入って来た。筆頭はルアナで、周りをキョロキョロ見渡している。


「ようこそ、我がアリアシネ家へ」

「やあやあ、息災かなハーゲン?」


 帽子をとり挨拶をするエルドウィンに続き――エルドウィンの妻ラウラ、劇場で働く者たちが頭を下げる。


「今日は集まっていただきありがとう」

「別に貴方のためではないので、そういうのは要りませーん」


 ルアナがそっぽを向くと、エルドウィンが眉尻を下げた。


「ルアナはアリアシネ夫人に会いたがっていたからね。今日の彼女は、羽を一生懸命整える小鳥のようで――」

「貴方、話し込んでいたら日が暮れてしまいますわぁ」


 瞬間的に顔を染め上げたルアナを可哀想に思ったのか。ラウラによる鶴の一声で、エルドウィンは口をつぐんだ。

 そこでヨハナが、んんっと咳払いをする。


「皆様も既にご存知だとは思いますが、本日はこの本に絵を描いていきましょう」


 統率のとれた、一糸乱れぬ返事が応接間に響く。エリーゼに聞こえてしまう! ヨハナは淑女とは思えぬ形相で唇に指先を当てた。


 ハーゲンはその間にページを開き確認する。

 最初のページにはハーゲンの絵が。次を捲れば、エリーゼの大叔父であるギャロンの絵。

 鮮やかな色彩で、見れば見るほど吸い込まれるようで。


「昔から絵は良く書いていまして。小さい頃のアルヴァにもねだられたことがあるんですよ」


 寂しさが滲んでいるけど、その笑みはとても優しかった。

 それからも。元婚約者のオーディスが昔、エリーゼと共に作った押し花が入った栞を見つけて。執事から譲り受けたそれを眩しく見つめてしまった。

 事情を話して、なにか貰えるものはないかと尋ねた日。執事はすぐにどこかへ歩いていき、小さな栞を携え帰ってきた。


「坊ちゃんが大切になさっていた物です。彼女の元へ行くのであれば、坊ちゃんにとっても最良でしょう」

「感謝する」


 年嵩の執事は、深く頭を下げた。


 フェンテッド伯爵家の絵もある。隣国まで本を送って描いてもらった、ブレンの大きな絵。ヨハナとべモートのも、そしてエリーゼの産みの母であるマリーの絵も貼られていた。


「良いのですか? こんなに大事そうなものを……」


 手招きし聞いてみれば、ヨハナは頷く。


「良いのです。マリーもそれを喜びますわ」

「――それにしても、やはりマリーの絵は見事だ」


 べモートが、マリーのをしげしげと見て目元を綻ばせた。そこには温かな恋情が感じられて。ちらりとヨハナを窺えば、彼女も同じ顔をしていた。

 顔も知らない人が築き上げたものに、面映ゆい気持ちになる。


「では、時間はわたくしたちを待ってはくれませんし早速始めましょうか」


 一斉に皆が筆を取り始めた。

 我先にと筆を取ったルアナは、弟妹に囲まれながらも眉間に皺を寄せ、筆を走らせている。


「絵って、難しいですわねぇ。あたし今まで描いたことがありませんので」

「お姉ちゃん、お花はこう描くんだよ」

「なるほど〜」


 難しい顔をする。

 けれど一呼吸置いた彼女は、凪いだ瞳をしていた。


「これも良き経験、ですわよね」


 そうして一筋、絵の具を置いた。


 また劇場の者の中には、普段から使用していたのか慣れた手つきの者も多い。

 そわ、体が微かに揺れ始めたハーゲン。最初に、エルドウィンが口元をニヤつかせた。


「夫人のことが気になって仕方ないんだな?」

「そんなことはない」

「人への興味関心なんて小指の爪程もなかったハーゲンが。素晴らしいな、恋とは」

「そういうのではない」


 こうも言われると少し頑ななってしまうのが人間の(さが)で。けれどまだ体はゆらゆら揺れる。

 どうしようか悩んでいれば。


「エリーの側に、行ってあげてくれませんか」


 べモートが一言発し目を見開く。


「いえ、私が行くよりも貴方たちが行かれた方がエリーゼは……」

 言いかけて、閉口した。本当にそうだろうか? そんな疑問が、ぽっかり浮かんでしまったのだ。


 べモートがヨハナの腰を抱く。


「ここは僕たちが責任を持って見ましょう」


 絵を描く者たちは、思い思いに楽しんでいる。確かに、ハーゲンがいなくても問題はないのかもしれない。

 思案していると、賑やかな輪から外れてべモートが呟いた。ヨハナも目を伏せる。


「エリーは聡い子です。それ故に、僕たちには決して見せない側面がある」


 思い浮かぶのは、いつも無邪気に微笑む愛娘。その小さな体で、どれだけの苦労を背負ってきたのだろう。彼女はいつも、疲れなどついとも感じさせない顔で笑うから。大丈夫だろうと安心してしまう。


 そんな筈ないのに。


「わたくし、少しだけハーゲン様に嫉妬しています。エリーゼの心の弱い部分も知っているであろう貴方を。わたくしは、今も気づけてあげられないのに」

 言葉が出たのは咄嗟にだった。


「気づくことだけが、愛だとは思いません」


 存外強い言葉に、ハーゲンは自分自身で驚き。それと共に、腑に落ちてしまった。

 月に何度か、フェンテッド家の者たちが遊びに来る日がある。彼女は家族と語らい合う時、笑顔を絶やしたことはなかった。


「……弱さを見せるのが愛の証明ではありません。いつもその人たちの前では笑っていたい、それも十分愛だと思いますよ」


 そうですか、とべモートがポツリ。


「ではお言葉に甘えて、エリーゼを見に行ってきます」

「どうかエリーゼをお願いします」


 見送られて進む彼の足取りは、いつもより軽かった。


◇◇◇


 部屋に行けば、薄暗い中でエリーゼが寝ていた。

 ……と思っていたが、近寄ると彼女は目を開けていた。


「起きていたのか」

「はい、寝つけなくて」


 体を起こし、水差しからコップに水をそそぐ。


「体調はどうだ?」

「今日は、大分楽な方だと思います」


 渡したコップを、エリーゼはじっと見ている。飲む気配がない。


「なぜ飲まない」

「……飲んだら、また行ってしまわれますか?」

「いいや、行かない」


 表情が柔らかくなるが、すぐにエリーゼは目を伏せた。

 えへへ、笑みを零す。


「でしたら、もう少し時間が経ったら行ってしまわれますよね。お忙しいようですし」

「いや。私はあの場には戻らない」

「では、お食事の時間は、皆さんと取るために行ってしまいますよね」

「皆で食事か……考えていなかったが良いかもしれないな、できるか後で料理長たちに聞いてみよう」


 思考を巡らせてから、エリーゼに視線を戻す。


「君さえ良ければ、ここで食事をしよう。皆も、君と話したがっているようだった」

「…………」

「エリーゼ」


 名前を呼ぶ。目を見開いて頬を紅潮させている彼女が、喉を震わせた。

 不器用な息が漏れる。


「旦那様」

「エリーゼ、私は君が寂しいと思った時、必ず側にいる。だから大丈夫、安心しなさい」

「…………っ。どうして、」


 その言葉を皮切りに、きゅと目が細まった。膨らんだ涙がまなじりに溜まり、抑えが利かなくなり頬を伝う。


 うわあぁん、と嗚咽を上げる彼女にしがみつかれる。背を撫でれば、一層泣き声は悲痛になった。


「いつかの君が、教えてくれた。だから私は誓ったんだ」


 絶対に、傍にいると。


 いっそいじらしいと呼べるほどの、彼女の心。

 彼女を想う人たちに、どうして打ち明けられただろうか。そんな彼女が打ち明けてくれたことを、どうして蔑ろにできようか。


 薄暗く、冷たい空気で満ちた部屋で。二人は身を寄せ合う。


「大丈夫だ」


 しんしんと、嗚咽が薄く響いていた。


◇◇◇


 夜明けを告げるように、雪がやむ。差し込んだ光が、雪をきらきら染め上げていた。


 ハーゲンは隣から送られるきらきらとした視線から、少しだけ目をそらす。それでも構わないと、エリーゼは楽しそうに話し続けていた。


「あの、あの! 旦那様は何を食べるのが好きですか?」

「カブのスープが好きだ」


 ぺと、エリーゼが頬に手を当てた。


「『わたし』も、カブのスープ好きでしたか?」

「どうだろうか……君は良く私の顔を見ていたよ」

「まあ……」


 顔が赤くなって、そのまま黙り込んでしまう。少し前から彼女はこうだ。体調が悪いのかと思えばそうではなく、何度も嬉しそうに笑っている。


 好意を持たれている。その考えに辿り着いた時、最初に記憶が戻ったのかと思った。だが違うようで。

 エリーゼは自分のどこを好いているのだろうか、謎は尽きない。



「――それで、わたくしたちが最後ということですのね。分かりました、どうかお任せくださいね」


 翌日。廊下には四つの影があった。

 アルドの妻、ミラが頷く。それに倣うように、娘二人も淑やかに微笑んだ。

 少し前に生まれたてを見せてもらったと思ったのに、姉の方は近々結婚をするらしい。時の流れは早いとしみじみしてしまう。

 妹の方が、ミラに似た笑みを浮かべる。


「任せてくださいな! 姉様は勿論、私も絵が得意なのですよ」

「あら……、淑女がそんなに声を張り上げてははしたないわ」


 両親のどちらに似たのか。おしとやかに微笑む姉に宥められ、妹はえへへと頭をかいた。

 幸せな空間に目を細めていると、背中に何かが倒れ込むように打つかった。


 振り向けばエリーゼで。杖はついているが上手く歩けなかったのかと、背に手を這わす。


「どうしたんだ」


 紫色の瞳が一心に向けられる。


「――あ、あの! 旦那様!」

「なんだ」

「わたし、心は十四歳だし、本当の年齢だって、貴方からしたら、子供みたいなものかもしれません」


 熟れた唇が、不器用に言葉を紡ぐ。


「ですが、旦那様のことが好きなんです。わたし、もっともっと頑張ります。旦那様にも愛して貰えるように、精進します」


 固まるハーゲンの胸板に、目を伏せたエリーゼが顔を寄せる。

 少しむくれたように眉根が寄っていた。


「だから、他の人を好きにならないで……」

「…………」


 なんと紡げば良いのか分からず、言葉に詰まってしまう。

 背後でミラたちが、あらと言っている。


 そこで能天気な声が一つ。


「いやぁ、少し仕事が立て込んでて遅れてしまった。すまない、ハーゲン。愛しい妻と可愛い子どもたちも、俺がいなくて寂しかったか?」


 アルドが登場し。ミラが苦笑を浮かべた。

 エリーゼは状況が上手く飲み込めないのか、口をぽかんとしている。


「まぁ、そういうことですわ。わたくしの夫はアルド様ただ一人です」

「急に愛の告白? 俺も好きだよ、ミラ」

「アルド様は少し静かにしてください」


 妻に叱られ口を閉じるアルドの隣で、姉妹が手を挙げる。


「わたくしには、もう少しで結婚する好きな人がおりますの」


 頬を赤らめた姉に、妹も追随する。


「私にはまだ婚約者はいませんが、筋肉モリモリな人が好きですわ!」


「……つ、つまり」


 ぶわ、エリーゼの頬は薔薇のように鮮やかに染まり、瞳が潤む。


「わたしの早とちりってことですか……!?」

「そういうことになるな」

「皆様、本当に申し訳ございません……」


 しおしお萎れて謝るエリーゼの左手を、姉妹が握る。


「間違いは誰にでもありますわ! 私だってそうですもの! ですから、謝罪より恋バナが聞きたいです!」

「それ良いですわね。皆でお話しましょう?」

「恋バナ……わたし、初めてします」


 姉妹がにっこり微笑み、エリーゼの体を支えながら部屋に向かう。


「男性は入ってきちゃ駄目ですわよ!」

「暫しエリーゼ様はお借りいたしますね」


 楽しそうに歩いていく後ろ姿を見送る。


「……おや、ハーゲン」


 アルドが、嫌な笑みを滲ませた声で名を呼ぶ。


「少し赤くなっていないか?」


 口元を片手で覆う。


「……お前の気のせいだ」


◇◇◇


 数日後。

 ハーゲンはノックをしてから、エリーゼの自室に入る。彼女は、また降り出した雪を見ていた。


「エリーゼ、体が冷える。上にもっと羽織りなさい」

「も、もーっ。旦那様、わたしはもう十分ですよ」


 小さく抗議する彼女に毛糸で編まれた上着を着せ、傍らの椅子に腰を下ろした。布に包まれたものはテーブルの上に置く。


「雪を眺めていたのか?」

「はい。花は枯れてしまいましたが、雪も良いものですね」

「そうなのか? 前、君は冬は嫌いだと言っていたというのに」


 今の彼女は知らない記憶。けれど感じる心は一緒なのだから、すぐ顔に寂しさ乗ったのだろう。


「だって、望んでも花が咲いてくれるわけではありません」

「いや、私はできる。そして、君の周りにいる人も全員使ってみせた」

「ま、まさか御伽噺のように皆様が魔法を……?」


 ハーゲンは立ち上がり。テーブルに置いていた大きなものを取り出した。布を取り払えば、大きな本が顕になる。


「そうだ。私は魔法が使える。今見せてあげよう」


 小さく十から数えて、最後の「一」という台詞と共に本が開かれた。

 

 そこには、鮮やかな花が咲いていた。桃色、水色、黄色、紫色。様々な色の絵の具の花が、花弁を開かせている。


「凄い。花が……」

「これを、皆に描いてもらった。冬の間、君の心が少しでも解れることを願って」


 エリーゼが目元を拭う。

 すん、鼻をすすった。


「ふふっ、おかしいですね。よく見たいのに、うまく見えなくて……」


 体が震える。


「旦那様に出会ってからわたし、嬉しいことばかりです。以前のわたしも、きっとそうでした」

「それなら良い」

「はい」


 それから。

 何十枚もの花の絵を、ハーゲンは毎日少しずつエリーゼに見せ。それを描いた人の思い出を語った。

 楽しかった話。大変だった話。少し悲しい話。その度に笑ったり、ふと何かを思い出したようにエリーゼは泣いたり。


 少しずつ、入れ替わるように口数が減っていった。


「――これが最後のページだ」


 桜の花びらが、ふわりと部屋に舞い込む。季節はもう春だった。

 本を閉じたハーゲンを、エリーゼはひたと見つめる。


「旦那様、わたし色々なことを思い出しました。わたしを愛してくれる人が沢山いたこと。わたしが、沢山の人を愛していたこと」


 そして、


「旦那様、よりハーゲン様と呼ぶほうが好きだったことも、全部。ただいま帰りました、ハーゲン様。寂しかったですか?」


 屈託なく笑うエリーゼに、ハーゲンも相好を崩す。


「寂しがる必要などない。君は、ずっと傍にいただろう」

「……本当ですね」


 彼女の髪の毛についた花びらを摘んで取る。


 季節は春。彼女の寿命は、もう一年を切っている。


 ――それは彼女が、もう冬を越えられないことをそっと教えていた。



ウィンターコスモス もう一度愛します

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