Ⅶ カタクリが咲くわたしを許して
お読みいただきありがとうございます。
結婚してから早二週間。
時折、夜寝る前にエリーゼからキラキラした目を向けられるが、そっと布団をかける日々だ。
◇
「エリーゼ、今日は何をしたい」
この言葉が毎朝の日課になっていた。
一つ目は、庭を散歩したいだった。天気が良くて、彼女の体調も良い日。二人は庭に出て散歩をした。
赤。黄。紫。揺れるチューリップの花をすくうようにエリーゼが撫でる。
咲き誇る桜の花を見上げ、目を細めた。
「桜の木……珍しいですね」
「そうだな。……綺麗だから好きなんだ」
木は簡単に抜くことができなく、また桜は春にしか咲かない。
だから侯爵家の庭には相応しくないと言えるだろう。
エリーゼも頬を緩めた。
「わたしも好きです。冬に固く結ばれた蕾を見て、春が来るなぁって思えるので」
見上げた彼女は、眩しいものを見たように目をきゅうとした。
「桜の花びらが……散って、その花びらはどこに溶けて行くんでしょうね……」
けほけほ咳をする。
肩を抱き寄せた。
「分からない。……土の養分になっているかもしれないし、風に誘われて遠くに行っているかもしれない」
「ですねぇ」
――散歩をする度に、エリーゼは色んなことに気づかせてくれる。
執務室の前には一層鮮やかな花が。寝室の近くには香りの少ない花が。庭師の想いの欠片をいくつも拾った。
いつしか散歩が楽しみになっていた。
普段は花に興味のないハーゲンが庭の散歩を日課にするものだから、最近庭師たちは仕事により精を出している。
花を植えるための経費を増やしてほしい。そんな申請が来たと執事が苦笑していた。
二つ目の願い事は、ハーゲンの髪を結んでみたいだった。
エリーゼは楽しげに、長い黒髪を櫛で丁寧に梳く。
細い指に触れられこそばゆくなった。
「これが楽しいのか?」
「はい、とっても」
「……じゃあ、良い」
春の日差しに眠気を誘われた所で、エリーゼは髪を結び終えた。
後ろで一本に編み込まれている。ちょん、と紫色のリボンが付けられていた。
「えへへ。お揃い、です」
彼女の方は青いリボンが映えている。
「良く似合っている」
彼女がはにかむ。その笑顔に釣られて笑みが零れた。
◇
朝。
温かいかぼちゃのスープを飲む。
パンを千切って食べるエリーゼに、
「エリーゼ、今日は何をしたい」
なんのひねりもなく聞いた。
彼女は小さな口を忙しなく動かし飲み込んでから思案する。
「そうですね、…………」
「どうした」
「え……っと」
顔を薄紅に染め、そろそろと口を開く。
今日のエリーゼはやけに控えめだな、と顎に手を当てた。
「あの、わたし、お芝居をしてみたいです」
けほ、咳をもう一つ。
もう少しで体、動かせなくなってしまうと思うので。
片眉を上げた。
◇◇◇
芝居がしたいと聞いて最初に浮かんだのは、劇場支配人でもあり脚本家でもあるエルドウィンの顔だった。
エリーゼが劇に参加できないかと電話で聞いてみれば、快く返事をもらった。
そして今日は、エルドウィンたちとそれについて話す日。
だがエリーゼが熱を出してしまった。
熱い額を撫でる。
「では、そろそろ行ってくる」
「ごめんなさい、ハーゲン様」
零れた涙をハンカチで拭う。
「気にするな。落ち着いて寝ていなさい」
「はい……」
メイドに彼女の体調の変化に気をつけるよう言付けて馬車に乗った。
暫く揺れれば、目的の場所に着く。二人の人物がハーゲンを出迎えた。
「ハーゲン、待っていたよ! ――おや、夫人は一緒じゃないのかい?」
「すまない。急に熱を出してしまって来れなくなった」
「あらまぁ。お大事にとお伝えください」
「お気遣い、痛み入ります」
ラウラが頬に手を当てる。
夫妻はちょっぴり眉を下げたが、とりなすように歩き出した。
「ここで話すのもあれだ。応接間で話そう」
「あぁ」
応接間には二人掛けのソファが向かい合うように二つ設置されていた。
革製のソファに腰掛ける。
それで。エルドウィンが手を組み話しだした。
「夫人がお芝居をしてみたい、と言ったのか」
「そうだ。無理な頼みだとは重々承知している。だが、エリーゼの願いを叶えたいんだ」
頭を下げる。
エルドウィンは、薄っすら目に涙を溜めた。
「僕やアルドにだって、何かあっても頼らなかったハーゲンが……。よーし、星のない夜みたいなハーゲンの心に現れた一等星の少女のために、僕も一肌脱ぐとしよう」
「感謝する」
すぐにエルドウィンは脚本を開いた。
「連絡が来てから、僕とラウラで良く考えたんだよね」
「えぇ。台詞が少ない脇役が良い、とも思いましたぁ。ですが一度きりの舞台なら、なるべく目立つ役をやらせてあげたいなと思いまして」
これ。ラウラが脚本を指さす。
それは主人公の妻役だった。
目を見張る。
「この役は最初と最後しか出てこないし、会話も少ないんだ。侯爵夫人でもできると思う。声は小さくても拡声器があるからどうにかなるしね」
「だが、既に役が決まっているのではないか?」
「そうだね。だけど演じる本人が言い出したんだよね」
――『良いじゃないですかぁ。最後の思い出、ということでしたら喜んでお手伝いさせていただきますよ』
エルドウィンはため息混じりの苦笑を浮かべた。
「我が劇場の看板役者、ルアナ。彼女の演技は見事なものだよ。……だが、役への執着が驚くほど薄いんだ」
提案したのは、公演期間中一度だけエリーゼが演じて、それ以外はルアナが演じるというものだった。
「それで話を通しておくよ。侯爵夫人には脚本を渡しておくれ」
◇
『ひとひらふたひら花が香る頃』
男は戦地へ赴かなければならなかった。想うのは病弱な妻のこと。自分が死ぬのはどうでも良かった。
だけど知らない内に妻が死んでしまうことだけがどうにも耐え難かった。
「どうか、帰ってきてくださいましね」
咳をしながら笑う彼女に別れを告げ、彼はいく。
土埃が舞う戦場。何も見えない中でがむしゃらに戦いながら、いつも妻を案じていた。
何度も死にたいと思った夜。止めたのは思い出の妻だった。
そして戦争は終わった。足をもつれさせながら妻が眠るベッドに行く。
彼女の顔からは、血の気が引いていた。息を呑むが、か細い呼吸が聞こえる。寝ているだけかと、男は安堵し崩れ落ちた。
「……ん」
妻が目を覚ました。
男は倒れ込むように妻を抱き締め涙をこぼす。
沢山の死体を見た。敵だけじゃない、仲間の死体だってあった。ずっとずっとおぼろげだった死。身近に感じてしまった時急に怖くなった。
あぁ、彼女も死んでしまうのだと。
「死なないでくれ、死なないでくれ……!」
目を見開いた妻は、そっと背に手を這わした。
「―――」
◇
ハーゲンから渡された台本を読み終わったエリーゼは、ダバダバと泣く。
「な、なんて素敵なお話なんでしょうか……!」
「良かった」
脚本を胸に掻き抱く。その姿を見るだけで、満ちたりてしまう。
「じゃあ練習を始めようか」
「はい!」
ヒーロー役を棒読みながら演じる。
逆にエリーゼは、伸びやかな演技をした。普段演技なんて見ない素人目でも上手だと思うほどに。
水を飲ませながら、ハーゲンも椅子に座った。
「君は演技が上手なんだな。驚いた。元々素質があったのだろう」
「えへへ……。体調が良い日はお母様とお兄様と一緒に観劇を見に行くのが好きだったんです」
練習を重ねる。
エリーゼの体調が良い日はほとんどを練習に費やした。
初秋。
風が乾いて冷たくなってきた頃。エリーゼは劇場に足を運んでいた。
劇場の俳優や、舞台を作り上げる人たちの前でエリーゼは顔を真っ赤にしながら礼をする。
「は、はじめまして、エリーゼ・アリアシネです。不慣れな点も多いですが、よろしくお願いします」
ハーゲンはその様子を遠くから見守る。エルドウィンはああ言っていたが、納得できない者も勿論いるだろう。
だが予想に反して、皆朗らかな笑顔でエリーゼを出迎えた。
――一名を除いて。
ストロベリーブロンドの少女。周りより一際小柄な彼女だけが、エリーゼを嘲笑するように口角をくっと上げていた。
目を眇める。
きっと彼女が、ルアナなのだろう。
◇
他の役者に色々なことを教えてもらいながら、エリーゼの練習は終わった。
荒く息を吐き、タオルで汗を拭う。水を差し出した所で、目の前にルアナが現れた。
昏い瞳の少女が、ゆっくりと立ち塞がる。
「ちょっとしか練習していないのに、もう汗まみれなんですか? そんななりで本当に演じ切ることができるのです? うふふっ、所詮おままごとの気分なのでしょうから、仕方ないですわねぇ」
意地悪げに顔を歪めた彼女は、エリーゼを鼻で笑う。
「ご心配いただきありがとうございます。ですがこれでも体力ついてきたんですよ」
だがエリーゼは動じなかった。むしろ手をぎゅっと握り力がついたアピールをしている。予想がついていた展開で、ハーゲンは水を飲んだ。
動揺したのはルアナの方だ。どこか余裕のあった表情が崩れる。
「……っ、そうですか」
「はい。今回、わたしは皆さんからの優しさで役を貰えました。だからこそ、その優しさに見合う努力をしたいんです」
「…………立派な心掛けですわね」
放心状態のルアナに、素直に答えただけであるエリーゼは首を傾げた。
「だってわたし、今とっても楽しいんです。あ、良かったらルアナ様の演技を観てみた……」
「嫌に決まってます。看板役者の演技をそうやすやすと部外者に観せられません、調子に乗らないでください」
「ごめんなさい……」
ふん、と鼻を鳴らす。
「役を演じる上でのアドバイスがあれば、など思ったのですが……」
「……? 脚本に書いてあることを、そのまま演じるだけで大丈夫ですのに、何を悩むのですか?」
「え?」
きょとん。二対の瞳がぶつかり合う。お互いがお互いを不思議そうに見ていた。
「だってほら。この台詞の時は泣く、とか笑う、って書いてありますでしょう? 呆れてしまいますわねぇ」
無礼講というお達しでしたもの、言い訳を述べてからツンツンとエリーゼの頬をつつくルアナ。
にこりと微笑んだ。
「まぁ良いです。貴女の演技が酷いだけ、あたしの演技が光りますので。さようなら」
ひらひら手を振り去っていく。
嵐が過ぎ去り。まだぼんやりしているエリーゼの肩を叩く。
「大丈夫か?」
「はい! 全然元気ですよ。今日は調子が良い日です」
全然大丈夫なようだ。
ブツブツ呟くエリーゼ。タオルを差し出しながら見守っていると、エルドウィンがやって来た。
「蝶のようにふわふわ歩くルアナがいたけど、大丈夫だったかい?」
「大丈夫ではあるが……あまり喜ばしくはない態度だったな」
「それはそうだ。ちゃんと話したつもりだったけど、やっぱり難しいなぁ」
ため息をつく。
「ルアナは、演技への執着がとんと薄いんだよねぇ」
かなり気を揉んでいるのだろう。ため息が二つ目。
「彼女はね、孤児だったんだよ」
「……孤児、ですか?」
エリーゼが顔を上げる。
笑って、そうだと答えた。
「街を歩いていたら、見つけたんだ。広場の近くで一人で劇を演じているルアナの姿を。見事な演技でつい見惚れてしまってね」
チップを投げる時、好きなのかい? 問いかければ、ううんと首を横に振られた。
妹たちを養わなければならないから。それではもったいない。楽しんで演じるべきだ。こうして劇場の役者となったらしい。
エルドウィンは僅かに眉根を寄せる。
「ずっとどうしようもできなかった僕の責任だけどね、ルアナは演じる役が持つ心を理解できないんだ。今までは、それでも様になっていたけどね……」
だけど。彼の瞳が、ひたとエリーゼを捉える。
「今回の役、より理解が深いのは夫人の方だ。ルアナにとっても、実りあるものになれば良いと思っているよ」
忙しいらしく、言葉だけ残して他の役者の下へ行ってしまった。後ろ姿を目でなぞりながら、エリーゼは顔を曇らせる。
「理解がより深い……本当にそうなのでしょうか。わたしは、ルアナ様より上手に演じられる気がしません」
「そうだろうな。たとえハリボテだったとしても、彼女のそれは筋金入りだ。大衆にとっては、彼女の演技の方が心に響くかもしれない」
手を掬い取る。じんわり浮かんだ汗にハンカチを当てた。
「だがきっと、ルアナ嬢本人は気づくだろう。病弱な妻と君が心を重ねることができたら。他にも、エリーゼの演技の方が心に染み入る人もいる。だから過度な心配は不要だ」
安心したのか、顔が綻んだ。
「ありがとうございます。わたし、頑張りますね」
その言葉を肯定するように、エリーゼは練習に励んだ。大分様になってきたと思ってきた頃。舞台の五日前。
エリーゼは熱を出し倒れた。
◇◇◇
ベッドの住人となったエリーゼは、脚本を抱きしめながら目に涙を浮かべている。
「……あんなに、頑張りましたのに」
「まだ五日ある。それまでに治せば良い」
「でも」
額に手を当てる。
「こんな状態で根を詰めれば、それこそ舞台で演じることができなくなる。今は休みなさい」
今回熱を出したのだって、焦って練習量を増やしていたのが原因だ。何回もゆっくり休むよう言ったが、こっそりベッドの中で練習していたのだろう。
もう少し気をつけて見守るべきだった。自責の念に駆られる。
手を繋ぎながら、そういえばと話を切り出す。
「何をそんなに焦っていたんだ?」
演技は、素人目では様になっていた。エリーゼ自身、それを自覚しているはずだ。
問われて、一拍おいてからポツリと彼女は吐露した。
「……最後の、起きてからの部分。わたしはどう演じるべきなのか、あの時、彼女がどんな想いだったのか分からないのです」
舞台稽古中、ルアナの演技も実際目にした。……ルアナは演技をエリーゼに見せることが嫌そうだったが。
それからだ。彼女が思い悩むようになったのは。
「物語の終わり。『死なないでくれ』って抱きすしめられた時、彼女は『死にたくないですね』と言うのですが。その時の気持ちが分からないのです」
「そうなのか?」
夫が帰ってきて、これから幸せが戻るかもしれない。そんな時に自分の寿命は長くないと改めて想い泣いた。
ハーゲンの解釈はこうだし、劇場の役者たちも似たような解釈だった筈だ。現にルアナも、脚本の通り涙を流し声を震わせていた。
「上手に言語化できませんけど、なにか違う気がするんです」
むっつりと眉根を寄せ考え込んでしまった。これでは治るものも治らないだろう。
呆れながら、エリーゼの前髪を払った。白くてまろい額が顕になる。
「ハーゲン様?」
唇を寄せた。柔らかい感触に、彼女の顔は熟れた林檎よりも赤くなる。
「今は考えごとはやめて寝なさい」
こくこく。言葉にもならないのか、ぎこちなく首を縦に動かし、布団に顔をうずめた。手だけが伸び、ハーゲンを捕まえている。
「大丈夫だ、傍にいる」
ひょっこり顔を出し、張り詰めていたものがすっかり離散したのかふにゃりと笑った。そのまま寝てしまう。抱きしめていた脚本は、ベッドの脇にあるテーブルに乗せた。
ハーゲンは、外が暗くなってもずっとエリーゼの手を握り続ける。
執事が扉を軽く叩いた。入室し、ご夕食のお時間ですと告げられる。
「エリーゼの分は消化の良いスープにするように」
「心得ております。旦那様は食堂でお召し上がりになりますか?」
少し考えてから、目線を落とした。
「……いや、ここで食べる。片手でも食べやすいものにしてくれ」
「かしこまりました」
次に執事が来た時、カートを押していた。上にはサンドイッチが乗っていて、夕食で出す予定であっただろうチキンのステーキが挟まれている。
穏やかな寝息を立てるエリーゼを見守って。充足感を覚えた。
薄暗い部屋には二人しかいない。
「――私は、君をどう思っているのだろうな」
好きなのかと問われてもわからない。だが娘のように思っているわけではない。ままならない気持ちが、心の底で燻り続けている。
刻々と彼女の寿命は減っている。目を凝らせば、頭の上の数字は三年を切ろうとしていた。出会った頃は五年あって。もうそれ程の月日を重ねたのかと感慨深くなる。
結局、自分は死に行く人たちと関わりを持っても、意味を見出すことはできなかった。
窓の外。満天の星が瞬き、人々を見下ろす。
きっと、なんの不思議もなく朝がくるのだろう。
「そんな風に、君も私も死んでいくのだろうな」
◇◇◇
「完全回復です!」
「落ち着きなさい」
自身の健康を誇示するかの如く、ベッドで跳ねる彼女を窘める。
「はい、ハーゲン様」
お湯を飲ませながら、お腹の空き具合を尋ねれば「ちょびっとです」指で丸を作る。本当にちょっとだけ隙間が開いていた。
頷き、侍女を鈴で呼ぶ。
「パン粥を頼む」
「かしこまりました」
全快というのは嘘ではないようで、パン粥をぺろりと食べ切ったエリーゼの前で、椅子に腰を下ろす。
「エリーゼ、少し話をしよう。君のことを、私に教えてほしい」
「わ、わかりました」
居住まいを正し、聞く姿勢に入る。それを見届けてから口を開いた。
「――君は、日々を愛しているか?」
「へ、あの、えぇ……?」
「素直に答えてくれ」
困惑しきっているのが伝わったが、
「は、はい。わたしは、日々を愛しています」
目を合わせながら頷いた。
「毎日が、楽しいです。特に、ハーゲン様と出会ってからは」
「そうか。一番楽しかったことはあるか?」
「一番、ですか……」
頬が赤らみを帯びる。
「結婚式です……。本当に、とても楽しかったのです」
愛する両親と愛する人が、考えて作ってくれたドレスを着て。沢山の祝福を受けて。
目に硝子を溶かしたみたいに、全てが淡く輝いていた。思い出すだけで、胸がじんわり温かくなる。
「エリーゼ」
「はい」
「今日は特に舌が回らない。不快だったら聞き流してくれ。……君は、死ぬことが怖くはないのか? いつも人の心配はするのに、自分のことには無頓着だ」
朝日で真っ白な部屋で、深い青の瞳に射抜かれた。反射で、首を横に振る。
「小さい頃は、確かに恐ろしいと思ったこともあります。ですが、最近はないですね。わたしにとって怖いことは他にありますし、それに……『わたしは明日死ぬ』と思っているからかもしれません」
理解不能、という顔になった。説明が足りなかったですね! 人差し指を立てる。
「だって、明日死ぬということは、今日は死なないということなんです!」
もっと顔を顰められた。
「だ、だって考えてみてください。毎日『明日死ぬ』と感じていれば、つまりは永遠に明日など来ないということなんですよ」
「……なんとなく言いたいことはわかった」
だが、人間に永久は存在しない。あるのは限りあるという事実だけ。
「わたし、思うのです。きっと『今日死ぬ』と思った時、死期が近いのだろうと。だから朝起きて、明日死ぬんだろうなぁ……って思っている内は安心します」
「今はどうだ?」
にっこり笑顔が形作られる。
「明日も生きている自信で満ちています!」
「それは良かった」
にこにこ。ずっと笑っている。
ふ、と笑みが漏れてから、彼女の悩みはもう解決するだろうと算段を付けた。
次に、自分が今日本当に聞きたかったことを話すことにした。
「エリーゼ」
「はい、ハーゲン様!」
「なにか、悲しいことや辛いことはないか? どんなに小さなことでも、昔のことでも良い」
「え……」
手を握る。冷えた手に熱を分けるように。
「君が今後、そんな想いをした時に、すぐ気づきたいんだ。お願いだ、私の我儘を聞いてくれ」
こちらを見つめる丸い瞳に、水がじわりと張る。
部屋の中が、しんと澄んだ空気で満ちて。衣擦れの音すら拾える静けさだった。
「わたし、わたしは……」
涙はすぐに引っ込んだけど、泣きそうな顔はそのまま。ポツリと、
「家族の笑い声が、辛かったです」
溢れた。
涙で滲んだ記憶が、次々に想起される。無意識に、握る手に力が入った。
光すら入らない自室。楽になった呼吸で息をしながら、家族のいる食堂に耳を澄ます。
家族の笑い声が、反響するように届いた。何度も、何度も。
彼女がすぐ行けるように、という思いやりから食堂と近かった部屋で、何度も嗚咽した。
「わたしの唯一の不幸は、わたしのいない所から聞こえる、家族の笑い声でした。あんなに、皆に優しくしてもらっているのに、満足できなくて。寂しくて、たまらなかったんです」
「そうか」
慰めはなかった。だけどハーゲンの揺らぎのない瞳に安心して、握りしめていた手が緩んだ。
◇◇◇
当日。ハーゲンと両親は、既に席に着いているらしい。衣装に身を包みながら、騒がしい心臓を落ち着かせる。
ネグリジェを模した白いワンピースは、フリルが幾つもあしらわれて可愛らしい。彼も、可愛いと言ってくれるだろうか。心臓のドキドキが一層強くなって、頭を振る。
役者の人たちに挨拶をしていれば、ルアナが姿を現した。彼女は三日前から既に公演を行っていて、大絶賛を受けている。そんな人と、演技を比べられる。緊張を、手を握りしめとりなす。
「話題性はあるから物好きは来たみたいですけれど、あたしの時より観客は少なそうですよ。良かったですねぇ」
「ご心配ありがとうございます、ルアナ様」
「…………心配なんていたしてませーん」
ルアナは、顎をつんとそびやかした。
「まぁ、あたしの演技をより際立たせるための踏み台として頑張ってください? ちゃんとした演技なんてできないでしょうけど、そこに関しては期待していますわ」
「――いいえ。ルアナ様をあっと驚かせる様な演技をしてみせます!」
唇の端を上げる。意外だったのか、ルアナが真っ直ぐエリーゼを見た。
ハーゲンとの会話で、あの時主人公の妻がどんな気持ちだったのか解った気がした。というよりも、重なったと言うべきか。
やっぱりハーゲン様は凄い。今日もとっても大好きだな、ついにこにこしてしまう。
「……そう。うちの劇場の評判を下げるような演技だけはやめてくださいねぇ。劇場がなくなったら、あたし食うに困る状況になってしまうのでー」
手を後ろで組み憎まれ口を叩いた所で、明るい声が響いた。
「お姉ちゃん! ここにいた! もうそろそろで始まっちゃうよ」
「ちゃうよー」
歳の頃が十四歳くらいの少女と、少女より頭一個分背が低い少年が走ってくる。腰に巻き付かれたルアナは、まあまあ! と声を上げる。声には僅かな非難が込められていたが、瞳は優しかった。
「その子たちが」
「そう。あたしの妹弟ですよ。……と言っても、血は繋がってありませんけど。親の顔なんて知らないから、ずっとあたしが面倒見てきましたの」
「素敵なお姉ちゃんですね」
二人をぎゅうと抱きしめて、ふいと顔を逸らされる。
「貴女にそう呼ばれる筋合いはないです」
手を引き、彼女は観客席の方へ歩いていった。
◇
観客席で、ハーゲンは見慣れた顔に挨拶をする。
エリーゼの両親と兄である三人は、ドキドキしているようで顔は強張っていた。今朝のエリーゼを思い出し、似たもの家族だなと独りごちる。
「あぁっ、エリーは怖くて泣いてないだろうか!」
「ちゃんとできるかしら……緊張してカチコチになってないかしら」
「お、落ち着きなさい二人とも」
纏まりのない彼らだったが、あともう少しで始まると呟くと、顔をキリリとさせ一糸乱れぬ動きで席へ行った。
そういえば、エリーゼの兄ブレンは一時帰国をしていたのか。妹への愛だな、感心しながら席に座れば、ブザーの音が鳴る。
劇場がすぅと暗くなった。代わりに、舞台が照らされ煌々と輝く。
――一人の女がベッドに座っていて、跪く男を見つめていた。女が咳を一つし、男は眉尻を下げる。
今日、男は病弱な妻を置き戦地へ赴かなければならない。
「行ってくるよ」
男の声はみっともない程震えていた。女は肩を撫で、自身が付けていたペンダントを首にかける。
「どうか、帰ってきてくださいましね」
拡声器で、女のか細い声が朗々と響いた。
そして、男はマントを翻し戦場へ赴く。舞台が暗転した。
僅かにすすり泣く声が聞こえる。エリーゼの家族の誰かだろう、もしくは全員か。
頬杖をつきながら、ハーゲンは男を見守る。必死に戦う姿。死んでしまった仲間を弔う姿。妻から貰ったペンダントを握り締め、奮起する姿。
戦争は勝利した。男は暫くの間ぼんやりと過ごし、友に連れられようやく実感が湧いた。
――会える。妻に会える。これからいつだって傍にいられる。
また暗転した。次に劇場が白くなった時、妻が眠るベッドの側で男は震えていた。眠る彼女が、死んだ仲間と重なって見えて。動悸が止まらなかった。
「……おい、起きてくれ……おい」
優しく揺さぶれば、呑気にも妻は目を開けた。男を目に捉え、ふにゃりと相好を崩す。
「ご帰還を、心よりお待ちしておりました」
男は妻の腰に抱き着いた。涙を零しながら、咆哮を上げる。
もう、男は限界だった。近しい人の死を見ることが耐えられなかった。
「し、死なないでくれ……! 死なないでくれ……!」
すん、鼻をすする音が劇場を静かに打つ。その音は次第に増えた。
観客は見守った。余命短い妻が、何をするのか。だが、物語には王道というものがある。きっと、私も死にたくないと泣くのだと。観客は心の底では冷静に、二人を観察する。
彼女の白い手が伸びた。
瞳には、なんの揺らぎもなかった。手には優しさだけで満ちていた。
子をあやすように、泣き縋る夫の背を撫でそやす。慈愛の瞳で、愛おしい夫に語りかける。
「……死にたくないですねぇ」
白い光の下に、小さく言葉が一つ。
光が一層眩くなって。カーテンが降りていく。眩しさは段々閉じられていき、最後には跡形もなくなった。
劇場は、息をすることさえ憚れる空気で満ち満ちていた。一人冷静なハーゲンが、心の中でエリーゼの演技を評す。
ルアナの演技を見た時。エリーゼはぼんやりしていた。泣くわけでもなく、演技に圧倒されるわけでもなく。ハーゲンもそうだった。そして、この間の問答で理由がわかった。
泣くだろうか? ずっと病と闘ってきた人間が。夫に縋りつかれたとしても、彼女は泣かない筈だ。きっと誰よりも、自分の死期を悟っているから。
夫のことを、泣き虫な困ったさんとでも評しているに違いない。
暗闇の中、すっと顔を上げる。劇場に響き渡るよう、手を叩いた。
――布石を敷いたのは、君だ。あとは少しの導きで、大衆は君に拍手を贈るだろう。
星が爆発したような拍手の音が劇場を包んだ。観客が湧く。
拍手は、それから暫く止まなかった。
ようやく収まって。カーテンコールの時間に出てきた彼女は、晴れ晴れとした表情をしていた。
◇
――なんなのだ、あの演技は。
ルアナは、誘蛾灯に集まる蛾のように、舞台から目が離せない。一心に、エリーゼという光に視線を注ぐ。
脚本と合っているのは台詞だけ。彼女は泣いてなどいなかった。拙さもある。けれどそれらが、『病弱な妻』という役にピタリと合わさっていた。
最初の台詞、声が上擦っていた。騎士役の人と視線も合っていなかった。表情も強張っている。寝ている演技なんて酷いものだ。ただ目を瞑っているだけで、あれでは寝ていると呼べない。目を覚ます演技も、自分の方がずっと上手に演じられる。
だけど。あたしよりも、あの子の方が……――
心臓がひりつく。息が上手く吸えない。睨みつけることしかできない。演技でただ一度として感じたことのない感覚を、消費できない。
拍手が鳴り止み、舞台はうっそうとしている。
これから上がる幕を。ライトに照らされ笑う少女を。想像して、拳を握りしめた。
涙が一粒、零れ落ちる。
「役、譲らなければ良かった……」
お姉ちゃん? こちらを心配する妹――ひいてはあの少女に、負けて弱った部分など見せたくない。
初めて、自分でどう演じるかを考えて。唇をつ、と上げた。
◇◇◇
「ねぇ!」
衣装から着替えた後、舞台裏で声をかけられた。振り返るとルアナが立っていて。
瞳は、いつもの昏さはなかった。
「ねぇねぇ! どうしてあんな風な演技ができたの!? 不思議、とっても不思議! 貴女は泣いてもないのに、むしろ、凄く穏やかなのに……綺麗でした」
勢いづいていた言葉が、段々尻すぼみになっていく。
ついとも揺らがず、エリーゼは凛と答えた。
「ハーゲン様に聞かれて、自分自身でわかったんです。わたしが、自分についてどう思っているか。……それで最後、どう演じれば良いのかもわかりました」
「……あたしはそんなこと、考えたことなかったです」
「わたしも、ハーゲン様に導かれなければ辿り着けませんでした」
深く頭を下げる。
「今日に至るまで、ありがとうございました。このご恩は、きっと死んでも忘れません!」
「止めてください。冗談に聞こえませんよ」
顔を上げ、手を差し出す。
「ルアナ様。今度はわたし、堂々と勝負に来ます。その時は、また一緒に演技ができたら嬉しいです」
「あっそ。勝手にしてくださいな。あたしは変わらずここにいるだけですから」
ペッと手を振り払ってから背を向け、ルアナは宙を見つめる。
「……あたしは演技で負けました。それは認めましょう。でもこれからの公演でも、あたしは自分を曲げません。今の演技を貫きますわ」
けどね。視線を交錯させたルアナは、不敵に眉を吊り上げた。
「もっと色んなことを、経験しようと思います。もう二度と、負けたくありませんから。……こんな気持ち、初めてです!」
「……っはい!」
「元気な返事でヨシ、ですね!」
端から見れば、二人は友に見えるだろう。当人たちだけが関係性に名前を付けられないまま、仲良く話し込む。
――妹たちは、側で瞳を輝かせる姉を見上げる。ストロベリーブロンドを揺らす彼女に、あの頃の面影はない。
服はボロボロで全身薄汚れていたあの頃。ルアナの生きるための演技を見る度に、胸が詰まる想いだった。
「じゃ、良い子にしてなさいな」
自分たちの頭を撫でてから演技をする姉は、いつも必死さが漂っていた。特等席で見守りながら、苦しくて堪らなかった。
沢山の家族の面倒を、一人で見ていた姉。その苦労はどれほどだっただろう。病気にかかり、自分の膝元から温度が消えていく度に、なにを想っていただろう。
ごめんね、お姉ちゃん。全てを背負わせて。
だから今、凄く安心したのだ。姉にとって演技はただの金の回りが良い仕事ではなく、好きなことなのだと解ったから。
弟を抱き締め、ず、と鼻をすすった。
「良かったねぇ、お姉ちゃん」
◇◇◇
「お疲れ。素晴らしい演技だった」
舞台を作るにあたって関わった人、全てに挨拶する。確固たる意志で宣言したエリーゼによって、劇場から出る頃には、世界はオレンジのヴェールに包まれていた。
馬車に乗ったハーゲンは、花束を差し出す。
「わぁ……! ありがとうございます、大切にしますね」
受け取ったエリーゼは、はにかみ目を伏せた。
真白のコチョウランが、大ぶりの花弁を伸ばしている。
「演技は、楽しかったか?」
「はい、とっても。またやりたいです。勿論今度は、わたしの頑張りで役が貰えるようにですけどね」
穏やかな微笑を浮かべ、ハーゲンは顎を引いた。じっと見つめる。
「……あの?」
見つめられていることに気づいたエリーゼの体温が、急上昇していく。
「あ、あの、あの! ……あんまり、見ないでください」
「なぜだ」
「だって……」
花束で顔を隠してしまったエリーゼは、身を捩った。
「穴が、空いてしまいます……」
「なんだそれは」
可笑しくて、堪えきれずに一つ笑ってしまった。目を見開いていた彼女もまた、嬉しそうに笑う。
それから、次はどんな話を演じてみたいのかを、馬車の中で絶えず話した。
――だが、それは叶わぬ夢と化した。エリーゼの病が悪化し、病床に伏す身となったからだ。
苦しそうに息をするエリーゼの背を撫でる度に、薄っすら浮き出たあばら骨に触れ心臓が早鐘を打つ。
速い心臓の音が、耳にガンガン響いた。
息を大きく吸って吐く。……昔聞いたことがある。人間の一生で、心臓が鼓動する回数は決まっているのだと。
このまま、鼓動の終わりが早まって彼女より先に逝くことができたら……。
無責任な願望に、独りで自嘲した。
手を握る度に思う。
この手を離す時は、私が死ぬ時でありますように、と。
叶わないと、知っていながら。
カタクリ 寂しさに耐える




