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X 私は永遠に枯れぬ花束を抱えて歩く

必ず夜は明ける。朝が来る

そんな風に、君も私も死んでいく

 寿命を迎えるまで、あと六ヶ月。

 心ここにあらずでエリーゼの髪を編む。香油を塗り込んでいる髪の毛から絶えず振り撒かれる花の香りが、指先を通し伝わってきた。

 髪の毛を編む手を止めた。ふわりと崩し一房手に取る。


「君は甘い香りがするな」

「…………」


 ぼんやりと目だけを動かした彼女に、ふっと微笑む。


「赤子はよくミルクの香りに例えられるらしい。エリーゼも、そんな香りがする」

「……えぇ〜?」


 クスクス笑いながら不満を訴えられて軽く謝罪し、髪の毛を結び直す。椅子に座らせすぎると疲れてしまうから、先程より手際よく編み込んでいった。

 毛先の方まで終えれば、白いレースのリボンを結ぶ。そして彼女を寝かせてから、髪の隙間に造花を挿した。


「綺麗だろう? エルドウィンが造り物の花をくれたんだ。演劇で使用するものらしい」


 エリーゼの目元が綻ぶ。


 季節は秋。寒い寒い冬が、今年も訪れる。



「エリーゼ、今日はなにを願う?」


 造花に瞳を輝かせる彼女を撫で聞けば、頬が真っ赤に染まった。体調が悪くなったのかと思ったがそれとはまた違う様子で。指でちょいちょいされる。

 耳を寄せれば、微かな声で囁かれた。


「わたし……子どもが、欲しいです」

「君は、」

「望めないことは、十分に。……けれど、お母様に、なりたいのです」


 瞳は真剣そのものだった。胸が詰まる心地になる。


「約束しよう」


 絞り出すように言えば、花が綻ぶように笑った。


 ハーゲンは三日後孤児院に来ていた。先に電話で報せておいたため、出迎えの人が立っている。


「アリアシネ侯爵卿、よくいらっしゃいました」


 シスターに、帽子を胸に当て頭を下げた。教会の一室に連れて行かれれば、五人の子どもたちがちょこんと立っている。


「我が孤児院の子どもたちです」


 彼らの行動を観察する。皆、ハーゲンという未知の人物に緊張した面持ちではあるが、手や足を忙しなく動かしている。端的に言うと落ち着きがなかった。

 少し心が引かれる者もいたが、どうしても納得できず首を振る。


「すみません」

「いいえ」


 シスターが微笑み、もう良いわ、と合図された子どもたちは一斉に駆けていった。遊びに行ったのかもしれない。


 ――それからもハーゲンは探した。どうにか良い子どもはいないかと。

 探す範囲は貴族の子どもたちにまで広げた。貴族といえど兄妹が三人も四人もいれば、裕福ではない家は養子に出したいと申し出ることもあるのだ。

 勝手なものだと何度も嫌悪したものに、今自分が縋りつこうとしている。不甲斐なさに天を仰ぐ。それを侍従に見咎められた。


「この方はまだ幼いながらかなり賢いとお聞きしておりますが、駄目なのですか?」

 送られてきた絵姿をピシリと指さしている。利発そうな黒髪の少年が唇を引き結んでいる絵だった。


「……エリーゼなら、喜びそうだな。だが私が駄目だ」

 ため息をつく。


 心を落ち着かせようと新聞に目を通せば、紙面いっぱいを飾った内容にハーゲンは暫く息を忘れた。


『心臓移植の手術が成功』


◇◇◇


 心臓移植とは、末期の患者に対し、脳死者から提供された健康な心臓を移植する治療のことだと、新聞で子細に説明がされていた。

 そんなことが可能なのか、淡い想いが膨らんでいく。


 その医療を確立した医者であるドルフという者についても記されていた。弟子たちに王都を任し、自らは丘の上に褒賞として大きい診療所を建ててもらい、そこで治療を行っているとか。


 エリーゼにすぐ知らせれば、ぽっかり口を開いたまま固まってしまった。


「もしかしたら、エリーゼは健康になるかもしれない」

「わたしが、健康に……」


 言葉を失っているようだった。そうだろう、全く想像もしたこともない未来をすんなり飲み込めるはずがない。

 彼女の手を握りしめる。


「明日話を聞きに行ってみる」

「は、はい……。ありがとうございます」


 余命五ヶ月半。この日ようやく差した光明に、ハーゲンは初めて明日が来ることが楽しみで眠れなかった。



 ハーゲンは、大きな診療所の前に来ていた。空気の良い丘の上に建つ診療所はカブ色でしげしげと見上げる。

 そこで一人の年嵩の男が現れた。


「すみません、お待たせしてしまい」

「いいえ、こちらこそ無理を言ってしまって申し訳ない」


 人好きのする笑みを浮かべた年嵩の男に連れられ、診療所の隣の小さな小屋に入る。一通りの生活基盤が整えられた部屋は、誰かが暮らしているようだった。


「私の部屋です。うっかり、患者以外とお話する部屋を作り忘れてしまいましてね。狭くて恐縮ですが、ささ、こちらの椅子におかけください」

「痛み入ります」


 木製の簡素な椅子に座ったハーゲンの目の前に木のカップが置かれる。湯気が立ち昇るそれは、薬草のような香りがした。口に含めば爽やかさと苦味が口いっぱいに広がる。


「お口に合いましたかな?」

「はい、美味しいです」

「それは良かった。……では、話を始めましょうか」


 カップを揺らし湯気を逃がしながら、年嵩の男――ドルフが理知的な色を瞳に宿した。

 こちらの背もスッと伸びる。


「それで、アリアシネ侯爵夫人が心臓の病に伏せられていて、心臓移植を検討したいとのことでしたか」

「はい」

「……すみませんが、難しいですね」


 断言されて、期待していた心が打ちのめされる。


「そ、うですか」

「はい、なぜかと申しますと、移植するための心臓がないのです。そもそもとして、心臓を提供してくださる方がほんの一握り。世間への周知などもありますが、死んだ後に体を開くというのは遺族にとっても本人にとっても抵抗が大きいものであります故」


 確かに、納得してしまい喉がぐぅと鳴る。墓を暴かれるようなことなのだろう。

 やはりそう簡単にはいかないらしい。肩を落としたハーゲンに、ドルフが眉尻を下げた。


「すみません、力になれず」

「いえ、こちらこそお時間を作っていただきありがとうございました」 


 思考を巡らせる。これで本当にもうなにもできないのか。


「……この診療所に入院することは、できないでしょうか? もし心臓移植を申し出る者がいたら、すぐできるように。お願いします、期間は半年で構いません」

「確かにそれだと、私としてもすぐ治療を行えますが……。奥様の免疫力も落ちている今、入院するのはあまり好ましくないかと」

「では、診療所の近くに家を建てます。それでは駄目ですか」


 ドルフと目を合わせる。彼は随分と悩んでいるようだった。どこまでも澄んだ瞳に縋りつく心地で見つめる。


「――分かりました。それでしたら構いません。私としても、全力を尽くさせていただきます」


 安心して膝から崩れ落ちそうになった。


 そのまま話は進み、ハーゲンは頭を下げた。


「それでは、失礼します」

「はい」


 扉のドアノブを掴んだところで、ハーゲンは振り返った。


「そういえば、心臓移植に協力してくれる人は、契約書でも交わすのですか?」

「そうですね、なにかが起こらないようにするためにも。他には、きちんと家紋が押された遺言書等で書かれていれば、受理しますが」

「なるほど」


 暫しの沈黙が流れて、ドルフが先に口を開いた。


「アリアシネ侯爵卿。私は病人の身内が心臓移植を申し出ても簡単には契約書に判を押させないと決めております」

「そうですか」

「それと、飛び降りや毒の摂取をすれば、臓器が著しく損傷する恐れがあります。ゆめゆめお忘れなきよう」


 無言のまま再度頭を下げ出ていくハーゲンを、彼はじっと見据えていた。


◇◇◇

 

「――というわけなんだ。エリーゼさえ良ければ、だが」

「ありがとう、ございます……はい、お願いします」


 こくりと頷かれ、頬をサラリと撫でる。彼女が頷いてくれたことに、酷く安心したのだ。少しずつ永眠を迎えようとしているエリーゼに拒まれるかもと思っていたから。

 今日にでも小さな家を建てるための計画を進めようと思考を巡らせれば、エリーゼのころんとした目に見つめられる。


「その……わたしたちの子どもって……」

「あぁ、今はまだ考え中だ」

「なるほどぉ」


 随分と長く考えてらっしゃる、そういう表情をした彼女の手をそっと握る。


「……沢山子どもはいるんだ」

「はい」

「だけど、金髪の子はいなかった」


 熟れた桃に色づいた唇が真ん丸に開いた。驚くエリーゼの頬にかかった金髪を払う。


「君の子どもなら、金髪が良いと思ったんだ」

「えへへ、そうですか」


 彼女の顔が綻んだ。


「それでしたら、瞳は是非ハーゲン様と同じ、青い瞳にしていただけませんか……?」

「あぁ」


 ハーゲンは、苦しそうに咳をしか細い声で言葉を紡ぐエリーゼを見下ろす。

 いつか、彼女に言われたことがある。わたしが貴方より先に遠くていってしまったら、新しい奥様を娶られますか? と。

 そも結婚する気も最初はなかったハーゲンが素直に後妻を娶る気はない、と断言すればエリーゼの顔に隠しきれない喜びの色が浮かんだ。


 けれどすぐに不安そうな顔をして、黙りこくってしまった。エリーゼの瞳に滲んだ複雑なものを、ハーゲンは今に至るまで分からなかった。

 おかしいと思ったのだ。彼女がなぜ、母親になりたいと言ったのか。


 おやすみと告げてから部屋を出る。執務室に向かいながら誰が良いのかとまた悩む。


「旦那様、また新しい絵姿が届いております」


 侍従が一枚の絵姿を掲げた。眉間の皺を揉みほぐしながら絵を受け取り、そこに描かれた少年の姿に瞠目した。



 枯れた葉がひらひらと落ち、道に絨毯を敷く。その上を馬車で通り、とある子爵家へ向かった。

 着けば、二人の男女――子爵家夫妻に迎え入れられる。


「はじめまして、アリアシネ侯爵卿。この度はお越しいただきありがとうございます」

「こちらこそ感謝する」


 喜びを隠さない二人に閉塞感に胸が苦しくなった。挨拶も程々に、肌寒いからと応接間に通される。

 そこには一人の少年が背筋を伸ばし座っていた。顔色は悪く、汗をダラダラとかいている。両親がそんな少年に促した。


「ほら、早く挨拶しなさい」


 意識を取り戻したようにビクリと体を震わせ立ち上がった彼がハーゲンをその目に映す。瞬間少年の顔が呆け、ハーゲンは薄く笑みを浮かべた。


「まだ、名乗ったことがなかったな。私はハーゲン・アリアシネだ」

「……お、俺は()()()()()()()()()です」


 いつかの日エリーゼを湖に落としてしまった金髪の少年は、動揺する心を押さえつけ礼を披露した。


「二人きりで話をさせてもらえないだろうか」


 その言葉にライノアの両親は快諾して去って行った。扉が閉まる音を紅茶を飲みながら聞いていたハーゲンは、体をカチコチにさせているライノアをちらりと見る。


「ア、アリアシネ侯爵卿」

「なんだ」

「本当に、俺を養子に迎え入れる気なのですか? 夫人を突き落とした俺を……」

「あぁ。君が嫌なら無理強いはしないが」


 いえ! 俺からしたら縋りつきたいほどの提案です! ときっぱりはっきり答えられ、その姿にエリーゼを想起した。口元を押さえながら吹いてしまう。


「あの……?」

「いや、なんでもない」


 肩を震わせながら首を振れば、訝しげな視線を送られる。誤魔化してから、ライノアの質問に答えることにした。


「私が君を迎える理由、それはとても都合が良かったからだ」

「つ、都合が良かった、ですか?」

「君は金髪に青い瞳だろう? エリーゼの髪色、そして私の瞳の色と同じだ」

「はぁ……」


 気の抜けた返事をするライノアは自らの髪を指先で弄ぶ。癖っ毛がくるくる踊った。


「あと、君は最近とみに勉学に打ち込んでいるらしい。これなら、侯爵家当主としてやっていけるだろう」

「…………」

「なんだ? 本当は騎士を志しているのか?」

「い、いいえっ」


 からかえば、猛烈に首を横に振られた。目が赤く潤んでいる。


「すごく、夢みたいな話で……。ずっと、どうして生きているかも分からなかったのに、俺は、俺で良かったんだって……」


 ミスリー子爵家は強欲で、養子として引き取るための契約金も高くふっかけられたことをふと思い出した。あれには侍従も口元を引きつらせていた。

 三男という家を継ぐわけでもなく、かといって婿にだすとしても育てるためのお金の方がかかる彼に対する両親からの風当たりはいかようだっただろうか。 

 

 ハーゲンは頭を下げた。年も爵位も上の男に頭を下げられ、ライノアは一転して焦った声を上げる。


「えっ……! アリアシネ侯爵卿!?」

「エリーゼは、アリアシネ侯爵家の未来を憂いていた。私が、彼女をもし喪っても後妻を娶る気は毛頭なかったからだ」


 そのまま話し続けようとしていたが、もはや泣きそうなライノアに懇願され頭を上げる。


「夫人を、愛しているのですね」

「……? そういう意味ではない。私は元々誰とも結婚する気はなかったというだけだ。――だがエリーゼは酷く気を揉んでしまった。このままではアリアシネ侯爵家が潰えてしまうのではと」


 そこでライノアが話の意図に気づいたようだった。


「だから……」

「あぁ、子どもが欲しいと言ったんだ。結局私は、彼女に支えられてばっかりだ」


 手を差し出す。


「エリーゼの想いに報いたい。だから、協力してくれないか? どちらが上ではなく、対等な立場で」

「……はい、よろしくお願いします」


 瞳の中で銀砂が煌めく。あの日の、道に迷った少年はもういない。



「では、契約は後日」


 養子を侯爵家の時期当主にするためには、それ相応の書類の量がある。半月ほどかかってしまうだろう。

 玄関でこちらを見上げる少年は、少し口角を上げた。


「夫人に、よろしくお伝えください」

「勿論だ」


 こうして馬車に乗り込んだハーゲンは、いつもとは違う道を眺める。暫く揺られれば、ひっそり寝静まった診療所が姿を現す。

 同じ丘の上に建てられた医者ドルフの家――とほど近い真新しい家の扉を叩いた。

 侍女が出迎えてくれる。騎士たちもやってきて、全て運び終わりましたと告げた。


「ありがとう」

「いえ、では我々は持ち場に戻ります」


 小さな家を進めば、エリーゼとドルフがいた。診察を受けていたであろう彼女は、夫の顔を見た途端顔を華やかせる。今日は、診療所の近くにエリーゼが引っ越してくる日だったのだ。


「すまない、付き添うべきだったのに」

「いいえいいえ。皆さんのお陰で、全然辛くはありませんでしたよ」


 ドルフに会釈する。彼はエリーゼを、娘を見るような眼差しで見守っていた。


「ずっとアリアシネ侯爵卿を恋しがっておられましたよ。では、私はここで御暇しましょうか」

「お医者様。ありがとうございます」

「とんでもございません。また明日参ります」


 去っていく足音が聞こえなくなってから、ドルフが先ほどまで座っていた椅子に腰掛ける。辺りを見回す。二週間で職人を総動員し作って貰ったが、急ごしらえにしてはしっかりとした作りでエリーゼも快適そうだった。

 ミルク粥をエリーゼに食べさせながら、ハーゲンはライノアのことを考えた。


「今日会った子どもを、君の子どもにしたいと思っている」

「そうなのですね。どんな子ですか?」

「これだ」


 姿絵を差し出せば、エリーゼの瞳が瞬いた。


「この間出会った……」

「ライノア・ミスリーという名前らしい」

「そうですか……この子が、わたしたちの……」


 幼子を懐抱するように絵姿を腕の中に入れ、エリーゼは目をつむった。


「出会える日が、楽しみです。彼もそう言ってくれるでしょうか?」

「夫人によろしくと言っていた」


 満天の星が空を泳ぎながら、ひっそり身を寄せる二人をじっと見守る。木々は揺れ擦れ合う音を奏で、冷たい風が小さな家の窓を揺らす。

 冬が訪れていた。



 エリーゼと別れて家を出てから、ドルフの家へと向かった。扉を叩けば、ドルフは眼鏡をかけた姿で顔を覗かせる。


「夜分遅くに申し訳ない」

「いえ、私にもまだやることはありましたのでどうか気負わず」


 部屋に入れば紙が散らかっていて。辿々しく片付けようとするドルフを制す。


「すぐに出ていくので、そちらこそどうぞ気負わず」

「……はは。こりゃどうも」


 ドルフが淹れた温かいお茶でお腹を温めながら、ハーゲンは暫しの間言葉を探していた。だがドルフの方が見つけるのが早かったようだ。


「奥様に馴れ馴れしくしてしまい申し訳ありません。娘に、なんというか雰囲気が似てまして」

「そのようなことで目くじらを立てる性分ではありませんよ」

「そうですか」


 ドルフはカサついた手でコップを持ち直す。


「……それで、私になんの御用でしょうか」


 促されて、息を無理矢理吸った。しっかり発音できるように。


「エリーゼの余命を、貴方の所感で良いので知りたいんです」

「余命、ですか」


 ふー、と彼は椅子に背を預けた。元より四十歳という年の割に老けた顔に、更に線を足されたようだった。


「あまりそういうのは言いたくないのですが……」

「すみません、軽率に聞いてしまい」

「いえ、アリアシネ侯爵卿の疑問はもっともです」


 ドルフは木のコップを震える指で傾け喉を潤した。表情を崩さないハーゲンに安堵したように目を伏せる。


「身の上話をしてもよろしいでしょうか。つまらない話ですが」

「どうぞ。夜は長い」

「ありがとうございます。――私は、医学に身を捧げました。それに後悔などございません。ですが」


 ……妻が。彼は暫く口にしていなかった単語を口にするみたいに、あえぐように絞り出した。


「妻が、出ていきました。娘の心臓を他人に移植させた私を許せないと。二年前のことだったでしょうか。当時の私は成功した手術の内容を論文に纏めている頃でした」


 どんどん声は尻すぼみになっていく。


「妻に出ていかれた私は、そこで改めて自らが持つ他人との感覚の違いを突きつけられ酷く己を恥じました。……ですが私は、何度人生をやり直してもきっと同じことをするでしょう」

「そうですか」

「はい。一人でも多くの命を助けたい、それが私という性分なのです」

「人は、そればかりは変えられない」

「そうなんです。……ですが私は、そう思うに至る経緯を忘れてしまった。だから妻を引き止めることもできず空虚に日々過ごしている」


 彼の落ち窪んだ目に、思わず口を開く。


「きっとまた見つかります。私もそうでした。与えて貰った、という言い方が正しいですが。それに安心してください。私はエリーゼの余命に、薄々感づいています。ただ、確認したいだけなんです」


 長い沈黙が、場を支配した。暖炉の火が爆ぜるパチパチとした音だけが響く。それを破ったのは、やはりドルフだった。


「おそらく、ですが」

「はい」

「奥様の余命は、半年ほどだと見受けられます」

「……そうですか」


 目を閉じる。じわりとした痛みが広がった。長く光を見た後のような、熱を持った痛み。


 ドルフの告げた余命は、エリーゼの頭の上の数字と同じだった。

 ――彼女は、五ヶ月後に亡くなる。


 馬車で屋敷に戻ったハーゲンは、その晩一つの手紙を書いた。


◇◇◇


 それからは多忙を極めていた。執務仕事にライノアを養子にするための手続き、またそれに伴う環境の整え。そして暇さえあればエリーゼに会いに行っていた。

 残り四ヶ月。冬は一層深まっていく。アリアシネ侯爵領も例年より寒く、去年より多くの雪が降るかもしれないと空を見上げた。侍従に、雪で領民の生活が立ち行かなくなった時のための備蓄品を改めて確認するようにと言付けて、ハーゲンは馬車に乗った。

 馬車で一刻も揺られれば、エリーゼの住む家に着く。部屋の中は暖炉の火が焚かれていて、換気のため窓が少し開けていた。

 布団から顔を出し、冷たい風が流れる窓に顔を向けているエリーゼに声をかけた。


「ハーゲン様……っ」

「エリーゼ。ちゃんとご飯は食べているのか?」


 開口一番そんなことを言ってしまう。頬が少しコケた痛々しい姿に心許ない気持ちになった。


「食べてますよぉ」


 段々話すことすら疲れを感じ始めているエリーゼに、大丈夫だと頭を撫でる。


「今日はなにをしていたんだ?」

「去年ハーゲン様からいただいた、花の絵を見ていました」

「そうか」


 微笑みを浮かべるエリーゼの、けれどその濡れた瞳の内にある寂しさに胸が詰まった。


「すまない。側にいると約束しておきながら、君を一人にしてしまっている」

「……そんな悲しそうな顔、なさらないでください。ハーゲン様が、そう思ってくださるだけで……わたしは幸せです」


 そっと額に口づける。頬が紅潮する彼女は額に手を当てた。


「そういえばエリーゼ、私に敬語を使わなくていい。長く話すのは疲れるのだろう?」

「え、でも……」

「私は、君が話してくれなくなるほうがよっぽど嫌だ。少しでも言葉を遺してほしいんだ」

「……はい、分かりました。って、あ。中々変えられませんねぇ」


 造花を髪に一本挿す。


「では次会うまでの課題としよう」

「頑張りま……いいえ、頑張る」


 ぎこちなく敬語を外そうとするエリーゼに頬が緩む。


 ――それからエリーゼは、またすぐに眠りについた。最近眠っている時間が長くなったようで、侍女が顔を曇らせていた。彼女はゆっくり、永遠の眠りを受け入れようとしているのだろう。

 そんなことは耐えられない。心臓があれば。それだけが胸中を占める。


 逸る鼓動を押さえ、窓の外の曇った空を見上げた。暗く淀んでいて、あと少しで雪が降りそうだった。

 明日はライノアを迎えに行く日。あの両親だから渋られることはないと思うが、万一を考え早めに帰らなければと思案する。

 ふと、眠るエリーゼに視線を戻した。


「……結局、私には愛がわからなかった。酷いな、君は。教えてくれると言ったのに、私を置いていく気なんだろう?」


 涙腺が脆くなった気がして、ハーゲンは僅かに肩を揺らした。



 冷え切った風が体を突き抜ける。空の色に憂いながら馬車に乗り、ミスリー子爵家を目指した。

 窓の外には乾いた地面が広がる。どこもかしこも色抜けしているようで、寂しさを詰め込んでいた。

 出迎えは家族揃ってだった。ライノアの兄二人は、多額のお金が入ると知っているはずなのにハーゲンを微かに睨みつけていてどこか微笑ましくなった。

 ライノアの顔が輝いている。


「アリアシネ侯爵卿!」

「こんにちは、今日は契約を交わすために改めて伺いました」

「お待ちしておりました」

「えぇえぇ、早速契約書に判を!」


 両親は気が急いている。顔には隠しきれない愉悦があった。


「父上、母上。なにもそんな焦らずとも……」

「そうです」


 十四歳と十三歳の兄二人に窘められ、彼らは笑みを引っ込めた。


「……そうだな」


 屋敷へと案内される。ハーゲンは重い扉をくぐり足を踏み入れた。


 ソファに腰掛けたところで、侍従が契約書を出した。


「こちらにサインと判を」

「分かりました」


 言うやいなや内容を読まずにペンを手に取ったミスリー子爵家当主に眉をひそめる。兄の一人が父を諫めた。


「父上、契約書はよく読むべきです。こちらに不利な内容が書かれているかもしれません」

「ん? ……あぁそうだな」


 指図を受けたのが不快だったのか口元を歪めつつも彼は契約書を読み出した。沈黙が流れる。

 少しして、また筆を執りサインをした。


「では、私はこれで」


 契約書の片方を侍従に渡し、ハーゲンは立ち上がる。


「良かった。これでお前も学園に通えるぞ」


 兄の一人を撫でる姿には目もくれず、ハーゲンはライノアの側に来た。


「では帰ろう、我が家に。エリーゼへの挨拶はまた折を見て行う」

「は、はい!」


 おっかなびっくり手を伸ばす彼と繋げば、その顔が年相応のものになった。


 なにか言いたげな視線を顧みることなく、二人は馬車に乗り込んだ。


◇◇◇


「雪が降ってきましたね」


 馬車を出しておよそ半刻。ちらちら舞い落ちてきた雪を眺める。ライノアは目を輝かせていた。

 ――だがそれから間もなくして、雪は轟々と吹き荒れた。窓の向こうが真白に染まる。

 どこかで泊まろうとも思ったが、人里離れた道だったためにただ進むしかなかった。


「旦那様、私は御者のいる前に行きます。視界が塞がれているので、案内役が必要でしょう」

「ありがとう。よろしく頼む」


 馬車を一時停め、侍従は御者の方へと行った。辺りはもう雪が積もり始めていて、この分では進めなくなりそうだった。


「アリアシネ侯爵卿……」


 不安そうにライノアが身を寄せる。


「大丈夫だ。あと半刻も走れば診療所が見える。そこで一晩過ごせば良い」

「はい」


 死ぬのは怖くなかった。だが自分に縋りつく温かいものを巻き込むのは嫌で、眉尻を下げハーゲンは空を見上げる。灰色がかった空から、白い雪が絶え間なく星の光みたいに零れ落ちる。


 馬車は近道である山道に入る。危険なところも多々あるが、立ち往生して雪で塞がられるよりマシだと判断したのだろう。

 カタカタ揺れた。気温はもっと下がっていく。


「これを巻いておきなさい」

「で、ですがそれでは……」

「良いから」


 自身のマフラーを取りライノアの顔を覆うように巻く。申し訳なさそうな顔をしたが、俯いた拍子に面映ゆい笑みが零れるのをハーゲンは見逃さなかった。


「……兄たちは、俺に良くしてくれました。昔、こんな風にマフラーを巻いてくれたんです」

「そうか」

「養子として、行くことになって。兄たちは止めてくれたけど、俺としては嬉しいと言ったら泣かれました。不甲斐なくてすまないと」


 ハーゲンは思い出をポツリポツリ語るライノアの手を握る。


「大丈夫だ、今生の別れではない」

「……はい」

「ミスリー子爵家は、以前見た時より領内が栄えていた。良き担い手がいるのだろう。今は少しずつだが、今後もっとあそこは良くなる」

「では、次会う時はお互いの頑張ったところを見せ合えるようになりたいです」

「あぁ」


 雪が降りしきる。 

 春が来ることを拒むように。



「進まなくなってきたな……。歩くか馬に乗った方が良いのかもしれない」

「は、はい」


 この大雪の中歩くと想像しただけで竦み上がってしまったライノアに苦笑する。最初に出会った彼は、今思えば猫が全身を逆立て警戒するようなものだったのだろう。きっと少し臆病で、けれども探究心に満ち溢れた姿が本来のものなのだ。


 そこで馬車が湾曲した道に差し掛かった。大きくしなるように曲がっていて、曲がる度に体が振り落とされそうになる。

 

「大丈夫だ」

 

 ――そう声をかけた刹那。一際強い風が、馬車が曲がる時を狙ったかのように吹いて揺らした。斜めっていたためか、支えをなくしどんどん傾いていく。ゆっくり崖へと投げ出されていく。


「……っ」


 ライノアの体を守るように抱き締めた。心臓部に彼の顔を押し付ける。

 馬車が宙を舞った。中で体も浮遊感に襲われる。


 危機的状態の中、しかしハーゲンの心は不思議と凪いでいた。

 ――これは、因果なのだろうか。

 胸中で吐露する彼の目の前には、三人の人物がいる。


 水色髪の彼女は馬車の事故だった。両親もまた、馬車の事故で命を落とした。

 そうであるなら、自分もそのように命を落とすのかもしれない。


 ガッ……! 鈍い音が響く。馬車は降り積もった雪に着地したが、中にいるハーゲンが窓枠に頭を打った。馬車は木に打つかり止まり、弾みで木が載せていた雪が一斉に雪崩るように落ちてくる。

 窓の外に目を向けるが、雪で覆われているせいか何も見えない。

 ただ、誰かが叫ぶ声と馬が走るような雪を踏みしめる音が聞こえた気がした。


「アリアシネ侯爵卿……」

「だい、じょうぶ、だ……。中に、はいっていな……さい」


 熱い。寒いはずなのに。震える手を後頭部に回せば、べっとりとしたものに触れた。


「…………」

 命の灯火が急激に萎んでいくのが分かる。胸元に手をやり、手紙を一通出す。

 それをライノアの手に握らせた。


「すまな、い……こんな目に、遭わせて」

「いいえ、俺が連れて行ってほしいと頼んだんです」

「……神様。ライノアと、わたしの、心臓だけは……どうかどうか、お守りください」


 そこでハーゲンは目を閉じる。思いを馳せた。夢の中のことが逆行する。

 両親の命を救えたあの瞬間を。もしかしたら、あれは道標だったのかもしれない。エリーゼを救えるという――



◇◇◇


 ――今日はもう診療所を閉じようか、という頃合いに御者らしき人間が馬に乗りやって来てドルフは瞠目した。だが事情を聞き、すぐに血相を変える。

 エリーゼ付きの騎士数人に、二人を救助するようお願いしすぐに手当てが行えるよう場を整えた。


 二人を連れた騎士たちと一足先に救助を行っていた侍従は、それから一刻ほど経って帰ってきた。


「男の子の方は外傷もなく、少し低体温症になっているだけのようです。服を温かいものに整え暖炉の近くで眠らせましょう」


 ドルフは顔を曇らせた。


「問題はアリアシネ侯爵卿です。頭の傷が深く出血の量が多い。低体温症もアリアシネ侯爵卿の方が酷く、一刻を争う事態でしょう」


 まずは頭を縫わなければ――目つきを厳しくさせていると、くんと服の袖を引かれた。ライノアが自分を見上げていた。


「目を覚まされたのですね。大丈夫ですかな?」

「……あ、の。これを、渡されて……。アリアシネ侯爵卿は、言ったんです……『ライノアとわたしの心臓だけは、守ってください』って」

 ライノアの目に涙が膨らみ、眦を辿って落ちていく。


 差し出されたのは一通の手紙だった。大事に仕舞い込んでいたのか濡れの一つも見当たらないそれを受け取り開けば、そこにはハーゲンの字で文が綴られていた。


『拝啓 ドルフ様

 突然このような手紙を差し上げる非礼を、どうかお許しください。また、勝手な願いであることも重々承知しております。

 もし将来、私の身に万一のことが起こり、あるいは私が死の淵に立たされるような状況に陥った際には、この心臓をエリーゼの手術に用いていただきたく存じます。

 たとえその時点で、私がまだ生きる可能性がある状態であったとしても、その判断を妨げるつもりは一切ございません。

 私にとっては、エリーゼの命こそが何よりも重く、それに代えられるものは存在しないのです。この決意に、迷いはありません。

 どうかこの願いを、心の片隅に留めていただけましたら幸いです。

 敬具

 ハーゲン・アリアシネ』


「…………」


 医者としての決断が今迫っていた。目の前にいる人の命か、それともその人が生きて欲しいと願った者の命か。


「……そうだ、私は」


 立ち上がる。ハーゲンの心臓の鼓動は非常に弱く、今晩を超えることは難しいだろう。


「エリーゼ様をこちらに」


 重々しく、ドルフは告げた。


 ――これから心臓移植の手術を始めます。



 応急処置だけ施して、エリーゼの部屋へ向かう。

 扉を開けた時、ドルフと侍従は同時に驚いた。エリーゼが体を起こしていたからだ。侍女が側に控えているため納得もしたが、寝たきりだった彼女が起きているという状況がまず異様だった。

 言葉を発することができずにいると、凛とした声が沈黙を壊した。


「ハーゲン様の心臓を、わたしに移植させたら、駄目です……」


 紫の瞳が、ひたとこちらを見据えた。


「いけません」


 ドルフはドッと汗が噴き出た。手術とは同意があってようやくできるもの。このままではできるはずがない。

 あぐりかねるドルフの横を、侍従が通った。エリーゼのベッドの隣で跪く。


「……奥様、気持ちは分かります。ですが、これは旦那様の悲願とも呼べることなのです。旦那様の意思は、私たちが引き継ぎます。奥様に苦労はかけさせません……! だからどうか、どうか……」


 ドルフは、なぜ心臓移植に関して侍従が反対の声を上げないのか分かった。ずっと側で、妻を想う主人を見てきたからだ。

 だから、本来止めなくてはいけないのにそれができなかった。いっそ愚かしいほどの忠愛が、主人の命より願いを優先してしまったのだ。


 嘆願する侍従にも、エリーゼの瞳はついとも揺らがない。


「…………」

「お願いです、奥様。旦那様のためを思うのでしたら、報いてください」

「ごめんなさい。わたし……死ぬことは、本当はそんなに怖く、なくて。本当に怖いことは、一つだけ。わたしは、そのたった一つの、願いのために――わたしのために、ハーゲン様を……生かすの」


 雪はもうやんでいて。冷えた静かな部屋に悲痛な嗚咽だけが響く。

 逡巡は一瞬だった。ドルフは背を翻す。


「アリアシネ侯爵卿の治療に行きます」

「……はい。ありがとうございます」


 綻んだ声が後ろから聞こえる。

 

 そのまま、治療は一晩続いた。


 ――翌朝、ドルフはまたエリーゼの下を訪れていた。


「峠は越えました。あとは目を覚ますだけです」

「良かった……ライノア様も、お元気ですか?」

「緊張の糸が切れたのか、スープをお腹いっぱい食べているところですよ」


 ふふ、とエリーゼが喉を震わせた。次に、申し訳なさそうな顔をした。


「ごめんなさい。我儘、言ってしまって……」

「良いのですよ。お陰で、大事なことを思い出せました」

 

 ドルフの母は病弱だった。最後まで苦しんで亡くなった。その時に思った。


「生き方だけではなく、死に方を選ばせることこそが、医者の仕事だと私は思い出しました。だから良いんですよ。それが貴女の望んだ道であれば、私に謝ることは何一つありません」

「……ありがとう、ございます」


 エリーゼの診察も行う。彼女の体はゆっくり崩れていっているが、その表情は以前より穏やかに伺えた。


「ハーゲン様、怒るかな……」

「酷く怒るでしょうね」

「えへへ」


 手を握ってもよろしいですか? 尋ねれば柔らかく頷かれた。細い手――娘と似た手を握りしめる。


「思ったことをしっかり言えば、きっと大丈夫です。……なんて、ただの老婆心ですが」

「……はい」


 そこで、少し開いた扉から誰かが見ていることに気づいた。侍女や騎士たちが怪しい者を通すはずがなく不思議に思いながら開ければ、ライノアだった。驚いたのか飛び上がっている。

 すぐにエリーゼが喜びの声を上げた。


「ライノア様……! あぁ、もっと良く、顔を見せてください……」

「え、あ……」


 躊躇う彼の背を押せば、ようやくエリーゼの下へ行った。


「あの、夫人、俺……あの時は本当に申し訳ありませんでした」

「良いんですよ……そんなに、自分を追い詰めなくても……」


 伸ばした手が、頭を下げたライノアの頬に触れる。


「わたしを、お母様にしてくれて……ありがとう」


 ぶわっとライノアの目に涙が溢れる。


「……『母様』と呼んでも、よろしいですか?」

「勿論。ライノア、沢山、抱き締めさせて……」


 抱き締め合う。ポツリとライノアは不安を零した。


「母様。アリアシネ侯爵卿ことを『父様』と呼んだら怒られてしまうでしょうか?」

「ううん……すっごく、喜ぶと思う」

 

 ふふふ、と微笑み合う。

 そこでにわかに外が騒がしくなった。誰かに留められているような音がして。間もなく扉が開く。


 ――そこには件のハーゲンが、追い詰められたような顔をして立っていた。

 杖をつき、頭に包帯を巻いた痛ましい姿で。



「……エリーゼ、どうして心臓の移植を拒んだんだ」


 開口一番はそれだった。


「なぜだ」


 無理矢理感情を抑えた声だった。

 エリーゼはライノアを抱き締めた手を緩める。


「ハーゲン様、わたしね――いっぱい願いが、あるんです」

「……は」


 間の抜けた声が漏れた。エリーゼは得意気に語り始める。


「お肉を、お腹いっぱい食べたいです。本だって、色々な国のものを、読んで……それから、美しい景色を見たり、ライノアが成長する姿を、側で見届けたい」

「……っ、じゃあどうして!」

「――けれど、それよりも、ずっと大きな気持ちで、エリーゼは、貴方を想っています。ハーゲン様に美味しいものを沢山、食べて欲しいし、色々な喜びを、これからも感じて欲しい……。ライノアが大きくなるのを、見届けて欲しい」


 荒く息を吸う。けれど瞳は優しくハーゲンを映している。


「これを……愛と呼んでは、駄目ですか?」

『いつか、その愛が分かったら、わたし一番にハーゲン様に伝えますね』


 息をすることも忘れるほどの衝撃だった。ハーゲンは目を見開く。


「……それが、愛なのか?」

「はい」

 

 自分の命より、他人の命の方が重く見えてしまったのなら。その人の幸せを心から願ってしまったのなら。

 エリーゼとライノアを見つめる。だが段々ぼやけて上手に見えなくなる。


 熱いものが込み上げ、口元を抑え言葉を吐き出した。


 それを、愛と呼ぶのなら――


「私は、ずっとずっと前から、君を……エリーゼを愛していたのか」

 

 エリーゼの目が見開かれる。彼女の下まで行って、シーツに顔を突っ伏し泣き出してしまった。子どものように泣くハーゲンを、骨張った細い手と小さな手が絶え間なく撫でる。


「い、嫌だ……。愛してるんだ、エリーゼ。死なないでくれ……っ」

「……ごめんなさい」

「置いていかないでくれ……」


 覚えたての言葉を使う子どものようなハーゲン。困ったように笑うエリーゼは、彼の耳元に口を寄せた。


「わたしのこと、好き?」

「あぁ」

「愛してる?」

「勿論だ」

「やったぁ……」


 ライノアとハーゲンの手を握り、たおやかに微笑む。


「わたし、家に帰りたい。二人と、一緒に。愛するわたしのお願い、聞いてくれる?」


 涙がホロホロ溢れる。握られた手に力を込める。


「あぁ。帰ろう、私たちの家に。――エリーゼ、ライノア」


◇◇◇


 それからの時間は、ただ穏やかに過ごした。ライノアと共にエリーゼの部屋に行き、三人でご飯を食べたり。エリーゼが眠っている時、その寝顔を見守りながら二人で話したり。

 ライノアも勉強に励み、着々と知識を蓄えている。エリーゼは自慢の息子だと何度も言っていた。


 ――そして、四ヶ月が経とうとしていた。


 とある日。エリーゼが唐突に告げた。


「ハーゲン様、わたしは今日、きっと死んじゃう」

「……あぁ」


 それは、寿命を迎える一週間前の出来事だった



 ハーゲンは落ち着かない気持ちで連日を過ごしていた。

 残り一週間のところでエリーゼの家族にその時間をアリアシネ家で過ごしてもらおうと思っていたのに、馬車が雪で立ち往生してしまったからだ。

 幸い雪はやみ、次いで急激に温度が上がったため進めているだろうが、それでも不安は尽きない。


 なぜなら今日が、その寿命を迎える日だからだ。騎士は辺り一帯を雪かきしたり、執事たちも門の前でウロウロしたりとフェンテッド家が来ることを待っている。


「父様? 大丈夫ですか?」

「……すまない」


 深夜。エリーゼの部屋で椅子に座り、じっとしているとライノアに問いかけられた。まだ寿命が見えることを言っていないため、顔を蒼くしたハーゲンが不思議なのだろう。


「それに、もう真夜中ですよ? 俺、寝なくて良いんですか?」

「今日は良いんだ」


 頭を撫でる。

 そこでエリーゼが薄っすら目を開けた。


「ハーゲン様……ライノア」

「ここにいる、エリーゼ。ライノアと共に」


 エリーゼの目から、一筋の涙が流星のように流れた。


「嬉し、ぃ……。わたしにとって、一番怖い、こと……。それは、皆が一瞬、目を離した、隙に……死んじゃうこと、だったから……」


 静かに耳を傾ける。いつか教えてくれた、自分のいないところから聞こえる笑い声が辛かったという話。それは孤独だったこともあるけど、誰もいない内に一人ぼっちで死んでしまうことこそが、彼女の恐怖の正体だったのだろう。


「酷いこと、言って良い……?」

「君になら、いくらでも」

「わたし……ハーゲン様に、その力があって、良かった……。貴方がいてくれて……良かった」


 恨み続けていた力を肯定され、半生があまりにも簡単に救われてしまった。途方もない嬉しさが込み上げる。


「私こそ、君に会えて、良かった……」

「……えへへ。すっかり、泣き虫さんに、なっちゃった……」


 そこで、ふと窓の外の景色に気づく。雪にも負けず蕾をつけた桜が、花びらを開かせていた。

 窓を小さく開ける。


「……父様、母様、俺も二人に会えて良かったです」


 ライノアも泣いていた。泣いた時のエリーゼによく似た表情で。


「二人の下に、来れて良かった……」

「こちらこそ、ありがとう」

「あぁ、私たちの子どもになってくれてありがとう」


 家族団欒の時間を過ごす。少しずつ夜は明け、日は昇り始める。


 地平線が光り始める。

 扉の向こうから、いくつもの足音が聞こえた。まさか……と期待に胸を弾ませ顔を向ければ、フェンテッド家の三人が汗を浮かべながら扉を開けた。

 執事から事情を聞いていたのか、一秒すら惜しいと駆けてきた彼らはまだ開いたエリーゼの目に涙を浮かべた。

 ヨハナが崩れ落ちる。言葉を絞り出す。


「良かった……、今度は、間に合った……っ」


 べモートとブレンも、エリーゼに顔を近づけ必死に笑みを浮かべた。


「エリー、良く顔を見せておくれ」

「可愛いエリー、ほら兄様が来たよ」

「えへへ……」


 三人がベッドを囲む。ここでエリーゼの手を占領しては駄目だな、とハーゲンは一歩下がった。沢山話もしたから譲るべきだ、と。

 

 ――だがそれを許さない人がいた。腕を強く掴まれる。腕を辿れば、真っ赤な目を見開いたブレンがいた。


「……なぜ、今下がったんですか」

「それは」

「どうせ、俺たちに遠慮したのでしょう。そんな貴方を俺たちは十分に知っています。……だから、エリーが好きになったということも」

 

 ですがっ、と声が響く。


「貴方は、エリーゼの夫であり、俺たちの家族でもある……っ。自分を卑下するようなことを、しないでくれ!」

「義兄さん……」

「今日だけはその呼び方も許す!」


 涙を流す彼に釣られ、止まったと思ったものが再度溢れ出す。

 そのまま、作られた道を通りエリーゼに縋り付いた。


「エリーゼ……」

「はい」

「死なないで、くれ……。こんなに、こんなにも愛しているんだ」


 唇が震える。嗚咽が落雷のように轟く。


 命の時間は、少しずつ、けれど確かに削られていく。どれだけ祈っても止められない。


「嫌だ……、どうして、時は止まらないんだ……」


 エリーゼの目が、少しずつ降りていく。


「ごめん、なさい……。こんな、わたしを……、どうかゆるしてね……」


 命は零れ落ちていく。擦り切れていく。握り締めた手から温度が零れ落ちていく。


「愛してる」


 誰とも知れない声が最後に一つ。エリーゼが言ったのかもしれないし、ハーゲンが言ったのかもしれない。全員が、声を揃えたのかもしれない。


 ハーゲンの目の奥で、数字が小さくなっていく。


 十 九 八 七 六 五 四 三 二 一 ――



 開けた窓から差し込んだ光が、微笑むエリーゼの顔に化粧を施す。

 桜の花びらがひとひら舞い部屋に入り、眠るエリーゼに起きてと促すように鼻をくすぐった。けれどエリーゼのまぶたはピクリとも開かない。


 花びらは不思議そうに、そしてエリーゼが起きる時を待ち侘びるみたいに、枕元にひらりと落ちた――。


◇◇◇


 あれから一年が経った。

 ハーゲンはあの日エリーゼと出会った夜会に来ていた。ライノアはデビュタント前だから、今頃はもう夢の中だろう。


 現れたハーゲンを、人々は奇異と、少しの憐憫を込めて見つめる。

 そんなことは気にせず、ハーゲンは飄々と今日も一人で躍る。誰かがいるように。


 ハーゲンは壁際を見た。そこに今も、彼女がいるような気がしたから。

 彼女が立ち上がって、こちらに来る。手が触れ合って、二人は躍る。世界にただ二人だけのように。



 ――意識が浮上する。白昼夢を見ていたようだ。腕を広げてみるが、そこには温もりもなにもない。

 締め付けられたように、心臓が痛くなった。


「……エリーゼ」


 きっといつまでも、こうして君の幻影に取り憑かれるのだから。

 今だって。置かれた椅子に君が座っている気がする。


 目を伏せる。想いが溢れる。


 君にとっての幸せは、私には少し痛かった。

 ……もう少しいたかった、君の側に。




 ひだまりのような、エリーゼの隣に。



〜Fin〜


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