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第七話:鱗持つ魂と湖水の誓約

序章:静寂と予感


エルマが誇らしげに、アストリッドという新たな相棒と共に旅立ってから、季節は初夏へと移ろいでいた。王都アステリアに降り注ぐ陽光は日増しに力を増し、街路樹の緑を深く染め上げている。リアン奴隷館には、相変わらず氷のように張り詰めた静寂が満ちていた。だがその静寂は、もはやかつてのような、ただ冷たく虚無的なものではなくなっていた。

ミナが残した人の温もりの余韻。エリアーナが響かせた再生への意志の音色。そしてエルマが打ち鳴らした魂の槌音。それらは、目には見えない波紋のように館の空気に溶け込み、主であるリアン・アシュフォードの凍てついた心の、分厚い氷壁を、目には見えないほど微かだが、しかし確実に削り取っていた。

執務室の窓から見下ろす中庭は、生命力に満ち溢れている。ミナが心を込めて世話をした花壇は、赤や黄色の花を誇らしげに咲かせ、エリアーナが月下で対話した月下美人は、青々とした葉を伸ばし、次の開花の季節を静かに待っている。ここは、彼の孤独な贖罪の祭壇であり、ささやかな奇跡が起きた舞台でもあった。

リアンの黒檀の机の上には、いくつかの品が、彼の複雑な内面を映し出すかのように置かれている。ミナが置いていった、ページの隅が折れた詩集。エリアーナから先日届いた、鷲の封蝋で封をされた手紙。そして、エルマが最後に彼の手に握らせた、二つのルーンが刻まれた鉄のペンダント。

『魂の解放者』

そのルーン文字を見るたび、リアンの胸には焼け付くような自嘲と、決して消えることのない罪悪感が交錯する。解放者、か。俺が解放しているのは、彼女たちの魂ではない。金貨五十枚で売り払った少女の魂の重みから、ほんの少しでも解放されたいと願う、俺自身の醜いエゴに過ぎない。

彼の贖罪の道は、彼自身の罪を消し去るものではない。それは誰よりも彼自身が理解している。だが、その矛盾に満ちた道程で、誰かの未来を切り開くことができるのなら……。その自己欺瞞こそが、彼をギリギリで人間として繋ぎとめている、唯一の鎖だった。

「旦那様」

静かなノックの後、老執事のサミュエルが入室した。その銀色の盆の上には、湯気の立つ紅茶と、新たな取引に関する羊皮紙の束が乗せられている。

「南方の商人ギルドから、新たな『商品』の仕入れに関する打診が参っております」

サミュエルは、手慣れた様子で紅茶をリアンの前に置くと、報告を続けた。

「先日のバルドルフの一件、そしてエルマお嬢様の一件以来、旦那様の『再生技術』の噂が、少々独り歩きを始めているようでございますな。どんなに傷んだ奴隷でも、リアン奴隷館に送れば、心身ともに回復し、以前以上の価値を持つようになる、と。誠に、奇妙な評判でございます」

サミュエルの声には、わずかな懸念が滲んでいた。「旦那様の御心が、いつかその評判に追いつかれてしまわぬかと、老骨ながら心配になります」

「噂は、それ自体が利益を生む。俺の館のブランド価値を高めるなら、それでいい」リアンは短く答えた。その声は、サミュエルの気遣いを意図的に遮断するような、冷たい響きを持っていた。「それで、今回の『商品』は?」

「はい。南方の広大な湿地帯『緑の迷宮』で捕らわれた、珍しい亜人種でございます。種族名は『クロコ族』。リザードマンの一種とされておりますが、詳細は不明です。ただ…」サミュエルは、わずかに言葉を濁した。「護送中の管理が劣悪を極めたらしく、ひどく衰弱している、と。ほとんど値がつかない状態で、我々の館に厄介払いをしたい、というのが相手の本音のようでございます」

「……そうか」

リアンの脳裏に、サイラス奴隷館の薄暗い地下牢で出会った、一体一体の奴隷の姿が浮かんだ。栄養状態が悪く、痩せこけ、商品としての価値が低いと判断された者たち。彼らが、その後どのような運命を辿ったか、リアンは知りたくもなかったが、想像はできた。無価値と判断された『商品』の末路など、一つしかない。

「その話、受けよう」リアンの声は、即決だった。「すぐに移送の手配を。専門の治癒師も待機させておけ。爬虫類系の亜人に詳しい者がいれば、ギルドを通じて最高額で雇え。必要なものは、費用を惜しまず全て揃えろ」

「かしこまりました。しかし旦那様、それほどの価値がある『商品』とも思えませんが…」

サミュエルの当然の疑問に、リアンは答えなかった。彼自身、その行動を論理的な利益計算で説明できなかったからだ。損益分岐点は、遥か彼方だ。これはビジネスではない。ただ、彼の心の奥深くで、あの銀色の髪の少女の声が、鎮魂歌のように囁いていた。

『許さない』

俺は、二度と、目の前で失われる命を見過ごしはしない。それがたとえ、どれほどの損益を生もうとも。この祭壇の上で、俺は神にさえ、そのルールを曲げさせる。

彼の贖罪の道に、今、湿った土と、野生の水の匂いをまとった、新たな魂が、避けられぬ運命のように近づきつつあった。


第一章:鱗持つ少女


数日後の昼下がり、リアン奴隷館の石畳が敷かれた裏口に、粗末な護送用の馬車が、乾いた車輪の音をきしませながら到着した。荷台に備え付けられた鉄の檻の中、影が一つ、身じろぎもせず横たわっている。

檻の中の少女――サラの意識は、朦朧としていた。喉は、まるで灼熱の砂を詰め込まれたかのように痛み、呼吸をするたびに、乾いた肺が悲鳴を上げる。故郷の、湿った土と甘い花の匂いは、もう記憶の彼方だ。代わりに彼女の鼻腔を満たすのは、乾いた土埃と、鉄の錆の匂い、そして、彼女を物として扱う人間たちの、汗と脂の下卑た匂いだけだった。

「おい、起きろ!着いたぞ!」

護送人の一人が、檻を乱暴に蹴りつけた。その衝撃で、サラは弱々しく呻き、身を固くする。

「こいつ、もう死にかけじゃねえか。こんなガラクタ、本当に金になるのかよ」

「リアンの旦那は、奴隷を生き返らせる魔法でも使うらしいぜ。俺たちには関係ねえ。さっさと引き渡して、酒でも飲みに行こうや」

人間たちの下品な笑い声が、サラの鼓膜を不快に震わせる。

檻の扉が開き、二人の男が彼女の腕を掴んで、ゴミでも捨てるかのように外へ引きずり出した。太陽の光が、網膜を焼く。石畳の熱が、水分を失った肌を焦がす。サラは、なすすべもなく、その場に崩れ落ちた。

リアンがその光景を目にしたのは、その瞬間だった。サミュエルや待機していた使用人たちの間にも、息をのむような動揺が走る。

少女の肌は、硬質な鱗に覆われていた。その色は、本来であれば湿地帯の泥や水草を思わせる、生命力に満ちた深い緑色をしていたのだろう。だが今は、水分を失って完全にひび割れ、あちこちが痛々しく白茶けている。手足の指先には、狩猟種族であることを示す鋭い爪が備わっているが、その何本かは檻の中で暴れた際に根元から折れ、あるいは絶望の中で壁を掻きむしったために不自然にすり減っていた。

何よりもリアンの目を引いたのは、彼女の瞳だった。爬虫類特有の縦長の瞳孔を持つその瞳は、今は光を失い、深く落ち窪んでいる。そこには、エリアーナが宿していたような燃える憎悪も、エルマが秘めていた反骨の光もない。ただ、全てを諦めきった、底なしの絶望と、故郷の水を渇望する、消え入りそうなほどの小さな願いだけが、陽炎のように揺らめいていた。

「……これが、お前たちの言う『管理』か」

リアンは、護送人たちを振り返った。その声は、絶対零度の氷のように冷たく、静かだった。護送人たちは、その視線に射抜かれ、背筋を駆け上る悪寒に身を固くした。

「も、申し訳ございません、リアン様!こいつ、水ばかり欲しがりまして…与える水も馬鹿になりませんでな。それに、餌もほとんど食わねえもんですから…」

「黙れ」

リアンの静かな一言が、男の下らない言い訳を切り裂いた。「契約金は払う。だが、お前たちの顔は二度と見たくない。ギルドには、今回の件を『商品管理における重大な過失』として正式に報告しておく。異論は、あるか」

「ひぃっ…!滅相もございません!どうか、それだけはご勘弁を!」

男たちは顔面蒼白になり、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

リアンは、床に倒れ伏す少女の前に屈みこんだ。彼女の名は、書類によれば「サラ」と記されている。

「サミュエル、治癒師を。それから、館で一番大きな湯船に、ぬるま湯を張れ。塩分濃度を調整しろ。彼女の故郷の湿地帯の水質データはない。だが、推測できる限りの組成に近づけるんだ」

「かしこまりました。すぐに」

サミュエルが即座に行動を開始する。リアンは、サラの体を注意深く、しかし迅速に観察した。彼女の口元には、乾いた血の痕があった。おそらく、檻の中で暴れ、口内を傷つけたのだろう。その抵抗の痕さえもが、今の彼女には痛々しく見えた。

リアンは、彼女の体を慎重に抱え上げた。その体は、見た目の印象に反して驚くほど軽かった。硬い鱗の下の肉が、すっかり削げ落ちてしまっている。その鱗の、乾いてざらついた感触が、彼の心をざわつかせた。

「……!」

腕の中で、サラの体がびくりと跳ねた。彼女は残された力の全てを振り絞り、リアンを威嚇しようと口を開く。だが、その喉から出たのは、シャーッという威嚇音ではなく、カサカサに乾いた、悲鳴にも似た呼気だけだった。その瞳が、一瞬だけ恐怖に歪む。

「安心しろ。危害は加えない」

リアンは、感情を排した声で言った。だが、サラにその言葉が届くはずもない。彼女にとって人間とは、故郷を焼き、家族を殺し、自分をこの乾いた地獄に引きずり込んだ、絶対的な敵でしかなかった。

リアンは、彼女を抱えたまま、白い大理石の豪奢な浴室へと向かった。その胸に、十年前の罪悪感が、鈍い痛みとなって蘇る。あの時、ルナに対しても、こうしていれば。彼女の心を殺す前に、彼女の体を、魂を、救う方法があったのではないか。

後悔は、常に遅れてやってくる。だからこそ、彼は、目の前の命に対して、今度こそ最善を尽くすと誓うのだ。それが、どれほど独善的な贖罪であろうとも。彼の祭壇に、新たな供物が捧げられようとしていた。


第二章:水と記憶


湯船に張られたぬるま湯は、サミュエルの卓越した知識と経験によって、専門家も驚くほど正確に塩分濃度が調整されていた。リアンは、サラの体をゆっくりと、その再生の揺り籠の中へと浸した。

水が、乾ききった鱗に触れた瞬間、サラの全身が再び大きく痙攣した。それは、苦痛の反応ではなかった。砂漠を何日も彷徨った旅人が、オアシスの水に初めて触れた時のような、魂そのものの歓喜の震えだった。

「……ぁ……あぁ……」

サラの唇から、意味にならない声が漏れる。彼女は、まるで母親の胎内に戻った赤子のように、湯船の中で体を丸めた。ひび割れていた鱗は、見る見るうちに水分を吸収し、本来の瑞々しい光沢を少しずつ取り戻していく。深く落ち窪んでいた瞳にも、ほんのわずかだが、生気が戻り始めた。

浴室では、待機していた治癒師が、リアンの指示のもと、迅速に処置を進めていた。

「これは…ひどい。人間が同じ生き物にした仕打ちとは思えませんな。脱水症状だけではない、栄養失調による内臓機能の低下も見られる。もう少し遅ければ、手遅れでしたぞ」

治癒師は憤慨の声を漏らしたが、リアンは冷たく言い放った。

「仕事だ。感傷は不要だ。ただ治せ。お前にはその対価を払う」

その背中には、彼自身も気づかぬほどの深い苦渋が滲んでいた。

リアンとサミュエルは、治癒師の処置を黙って見守っていた。彼女の体には、無数の古傷があった。人間の武器による切り傷、罠にかかったことによる裂傷、そして、おそらくは同族との縄張り争いでついたであろう、古い噛み傷。その一つ一つが、彼女の生きてきた過酷な歴史を物語っていた。

水の中で束の間の安らぎを得たサラの脳裏に、失われた故郷の記憶が、鮮烈な幻となって蘇る。

――緑の迷宮。そこは、彼女の世界の全てだった。

どこまでも続くマングローブの森。太陽の光を浴びて、水面がエメラルドのように輝いている。父の広い背中の上で、幼いサラは昼寝をするのが好きだった。父の鱗は、太陽の熱を吸い込んで、いつも岩のように温かかった。

『いいか、サラ。狩りというのは、力じゃない。忍耐だ。水と一つになり、息を殺し、獲物が、お前が水の一部だと信じ込んだ、その一瞬を突くんだ』

父は、偉大な狩人だった。彼は、巨大な水牛さえ、たった一突きで仕留めることができた。サラは、父から狩りの全てを教わった。初めて小さなトカゲを捕らえた日、父はサラの頭を大きな手で撫でてくれた。「よくやったな、俺の『サラ』」と。サラとは、クロコ族の古い言葉で『清流』を意味する。父は、彼女がいつか、よどむことのない力強い流れのような、偉大な狩人になることを願っていた。

母は、優しかった。彼女は狩人ではなかったが、薬草の知識に長け、集落の者たちの傷を癒していた。サラが怪我をするたび、母は森で摘んできた葉をすり潰し、その傷に優しく塗ってくれた。その手つきは、いつも温かかった。

『水はね、サラ。私たちの母なのよ。どんな傷も、どんな悲しみも、水は静かに受け止めて、洗い流してくれるわ。だから、辛いことがあったら、水にお帰りなさい。母なる水は、いつでもあなたを抱きしめてくれるから』

サラの世界は、水と、緑と、家族の愛で満たされていた。永遠に、この平穏が続くと信じていた。

その日が、来るまでは。

空が、赤く染まった。森のあちこちから、嗅いだことのない、鼻を突く異臭がした。鉄が焼ける匂いと、森の木々が爆ぜる匂い。そして、聞いたことのない、甲高い魔法の詠唱と、鉄の塊が空を裂く音。

人間だった。

彼らは、森の木々を、炎の魔法と、鉄の斧で容赦なく、そして楽しげになぎ倒していった。彼らの目的は、土地だった。この湿地帯を干拓し、新たな農地や街を作るのだという。クロコ族は、彼らにとって、ただの『害獣』、駆除すべき障害物でしかなかった。

父は、戦った。仲間たちと共に、侵略者に牙を剥いた。だが、人間の数はあまりにも多く、その武器は強力だった。父の誇り高い鱗を、鉄の剣が容易く貫いた。真っ赤な血が、故郷の緑の水を汚していく。サラは、その光景を、マングローブの根の陰から、ただ震えながら見ていることしかできなかった。

母は、サラを庇って、人間の兵士の前に立ちはだかった。

「生きなさい、私の『清流』…!」

それが、母の最期の言葉だった。母の背中を、巨大な戦斧の一撃が襲い、彼女はサラの目の前で赤い花のように崩れ落ちた。

サラは、捕らわれた。

父と母を殺した人間たちに、手足を縛られ、乾いた鉄の檻に押し込められた。

檻の中では、他の捕らわれた亜人たちも一緒だった。ある者は絶望して壁に頭を打ち付け、ある者は静かに息を引き取った。人間たちは、そんな彼らを気にも留めず、ただの荷物として扱った。

馬車が揺れるたび、故郷の水の匂いが遠ざかっていく。代わりに、乾いた土埃と、絶望の匂いが彼女の肺を満たした。肌が、喉が、魂が、水を求めて叫んでいた。

水……。水が、ほしい……。

「……ミズ……」

うわ言のように呟くサラの頬を、一筋の涙が伝い、再生の湯の中へと溶けていった。それは、彼女が故郷を失ってから、初めて流した涙だった。


第三章:氷の仮面と不器用な対話


数日間の集中治療により、サラは奇跡的に命を取り留めた。リアンは、彼女のために、館の一室を徹底的に改造させた。部屋の中央には、常に清潔な水が満たされた大きな水槽が設置され、壁際には、彼女が体温を調節できるよう、太陽光を模した魔光石が灯る岩場が作られた。そこは、リアンの財力と知識を結集して作り上げられた、完璧な飼育環境であり、同時に、孤独な鳥のための、金色の檻でもあった。

だが、サラの心の氷は、溶ける気配を見せなかった。

彼女は、一日のほとんどを水槽の底に沈んで過ごした。時折、岩場に上がってきては、魔光石の光を浴びながら、死んだようにじっとしている。リアンやサミュエルが部屋に入ってきても、彼女はピクリとも動かない。その瞳は、外界の全てを拒絶し、深い水の底にある、失われた記憶だけを見つめているようだった。

「旦那様、食事を全く口にされません。このままでは、また…」

サミュエルが、心配そうに報告する。リアンは、彼が差し出した食べかけの皿を一瞥した。そこには、上質なパンや、栄養バランスを考えた野菜のシチューが並んでいる。人間ならば、誰もが喜んで食べるだろう。

「…この子は、人間ではない」

リアンは、執務室に戻ると、再び古文書の山に没頭した。爬虫類系の亜人に関する記述は極端に少ない。彼は、様々な種類の生肉を取り寄せ、試してみた。鳥の肉、猪の肉、鹿の肉。だが、サラはそれらに見向きもしなかった。

断片的な情報を繋ぎ合わせ、彼は一つの結論に達した。彼らは、純粋な肉食であり、その中でも特に、生きたままの新鮮な『魚』を好む、と。

翌日、リアンは市場の魚屋から、活きの良い大きな川魚を数匹、買い付けてきた。そして、それをサラの部屋の水槽の中に放り込んだ。

最初は、何の反応も示なかったサラ。だが、水槽の中を悠々と泳ぐ魚の動きが、彼女の視界の端を捉えた瞬間、彼女の瞳孔が、きゅっと、針のように細くなった。

それは、狩人の目だった。

彼女の体は、まだ本調子ではない。だが、その血に深く刻み込まれた本能が、眠っていた魂を無理やり叩き起こしたのだ。

リアンとサミュエルが見守る中、サラはゆっくりと、音もなく、水中で体勢を低くした。筋肉の動き、水の流れ、全てが完璧に計算されている。

そして、一瞬。

彼女の体が、緑色の閃光となって水中を駆けた。俊敏な動きで魚を追い詰め、その顎が、一匹の魚の胴体を正確に捉える。ガリッ、という骨が砕ける生々しい音が、静かな部屋に響いた。

サラは、仕留めた魚を岩場に引きずり上げると、貪るように食べ始めた。それは、決して行儀の良い食事風景ではなかった。だが、その姿には、紛れもない『生』の力が満ち溢れていた。

「…やはりな」

リアンは、静かに呟いた。この子を救う鍵は、同情や優しさではない。彼女の魂の根幹を成す、『狩人としての誇り』を回復させることだ。

その日から、リアンは毎日、生きた魚を彼女の水槽に放つことを日課とした。サラは、少しずつだが、体力と、そして生きる気力を取り戻していった。

リアンは、何度か彼女との対話を試みた。

「サラ、体の調子はどうだ」

返事はない。ただ、食事の邪魔をするな、と言わんばかりの冷たい視線が返ってくるだけだ。

「何か、欲しいものはあるか」

彼女は、食べ終えた魚の骨を、リアンに向かってカチカチと鳴らして威嚇した。

リアンは執務室に戻ると、一人、自問自答した。「なぜ俺は、ここまで一つの『商品』に固執する…?損益計算が全く合わない。これはビジネスとして、完全に間違っている」。彼の合理的な思考が、警鐘を鳴らす。だが、その思考を遮るように、瞼の裏に、金貨五十枚で売り飛ばされた少女の幻影が浮かび上がる。

答えは、いつだってそこに行き着くのだ。これは、ビジネスではない。彼の、個人的で、どこまでも独善的な、贖罪の儀式なのだから。

彼は、エルマの心を動かした、あの一本の錆びた手斧を思い出していた。言葉が通じぬのなら、魂に直接語りかけるしかない。彼女の『狩人』としての魂に。


四章:狩人の本能


ある月夜の晩、リアンはサラの部屋を訪れた。その手には、一本の簡素な銛が握られていた。武器庫の片隅で埃を被っていた、ただの鉄の棒に、リアン自身が何時間もかけて研ぎ澄ました、黒曜石の石突を取り付けたものだ。それは、粗末だが、紛れもない狩りのための道具だった。

「…これを使え」

リアンは、銛をサラのいる水槽の縁に置いた。

サラは、水の中から顔を出し、銛を一瞥した。その瞳には、深い警戒と、そしてほんのわずかな困惑の色が浮かんでいる。なぜ、人間が、自分に武器を与えるのか。それは、自分を殺すための罠なのか?

リアンは、それ以上何も言わず、彼女に背を向けた。そして、館の裏手にある、大きな中庭へと彼女を導いた。

中庭の中央には、リアンが唯一心を落ち着けられる場所として手入れを続けている、睡蓮の浮かぶ大きな池があった。昼間は色とりどりの観賞魚が泳いでいるが、今、その池の中には、リアンが市場から極秘に運ばせた、十数匹の大型のナマズや鯉が、悠々と泳いでいた。

「狩ってみせろ」

リアンの声は、静かだが、有無を言わさぬ響きを持っていた。

「お前の狩りは、ただの食事のためだけのものか?それとも、お前の魂そのものか。ここで、俺に証明してみせろ」

サラは、リアンと、池を交互に見た。彼女の心の中で、激しい葛憤が渦巻いていた。人間の命令に従うなど、死んでもごめんだ。この銛で、目の前の人間を突き刺してやりたい。だが、池の中を泳ぐ、力強い獲物たちの姿が、彼女の血を、魂を、どうしようもなく騒がせる。あの躍動する筋肉、あの生命力。それを、己の牙と爪で、この銛で、制圧したい。その根源的な欲求は、人間への憎しみさえも上回り始めていた。

彼女は、おそるおそる、水槽の縁に置かれた銛を手に取った。ひやりとした鉄の感触と、ずしりとした重み。その瞬間、彼女の脳裏に、父が同じように銛を手に、大物と対峙していた誇らしい姿が蘇った。失われた誇りの重みが、彼女の手にずしりとかかった。

彼女は、覚悟を決めた。

音もなく、中庭の池へとその身を滑り込ませる。水は、彼女の第二の皮膚だ。水に入った瞬間、彼女の動きは、陸上でのそれとは比べ物にならないほど、滑らかで、力強いものに変わった。

リアンは、池のほとりのベンチに腰掛け、黙ってその様子を見つめていた。

月明かりが、水面を銀色に照らし出している。サラは、水中で完全に息を潜め、葦の茂みに身を隠した。彼女の緑色の鱗は、水草と完全に見分けがつかない。彼女は、もはや生き物ではなく、池の一部、自然そのものと化していた。

静寂。ただ、虫の声と、風が水面を撫でる音だけが聞こえる。リアンは、息をすることさえ忘れていた。

一匹の大きなナマズが、油断しきった様子で、サラの潜む葦の茂みに近づいてきた。

その、瞬間。

水面が、爆ぜた。

緑色の残像が走り、月光を反射した銛の石突が、閃光のようにナマズの急所を正確に貫く。一瞬の激しい抵抗の後、巨大なナマズは、その動きを止めた。

見事な、一撃だった。力と技と、そして完璧なタイミングが生み出した、芸術的な狩りだった。

サラは、自分の体よりも大きな獲物を、ゆっくりと岸辺まで引きずってきた。その息は荒く、体は興奮で小刻みに震えている。だが、その瞳には、リアンが初めて見る、力強い光が宿っていた。

それは、飢えを満たすための光ではない。生きる喜び、そして、己の力で獲物を仕留めたという、狩人としての、絶対的な誇りの輝きだった。

彼女は、リアンの方を振り返った。その瞳は、言葉以上に雄弁に語っていた。

『見たか、人間。これが、私だ』

リアンは、静かに頷いた。彼の胸を、鋭い痛みが貫く。彼は、サラの姿に、かつて本の世界に純粋な渇望を抱いていた、幼い自分自身の姿を重ねていた。そして、この魂の輝きを、誰かの慰みものにしては、絶対にならないと固く誓った。

彼の脳裏に、リヒター準男爵の前で、魂を売り渡されて歌った、ルナの涙が蘇る。彼は、ルナの歌声を「商品」にした。だが、サラの狩りは、決して「見世物」にしてはならない。これは、彼女の魂の尊厳そのものだ。

二度と、同じ過ちは繰り返さない。リアンは、月に向かって、そう固く、固く誓った。


五章:未来への選択肢(嫁入り先探し)


サラの狩りは、それから毎夜のように続いた。彼女は、池の獲物を狩り尽くすと、今度はリアンが用意した、より素早く、より狡猾な獲物に挑戦した。そのたびに、彼女の狩りの技術は研ぎ澄まされ、その瞳の光は、ますます力強いものになっていった。

彼女の心は、狩りという行為を通じて、少しずつだが、確実に癒されていた。リアンとの間に、言葉はほとんど交わされない。だが、獲物を前にした狩人と、その舞台を用意するパトロンという、奇妙で、しかし強固な信頼関係が、二人の間に芽生え始めていた。

リアンは、彼女の「未来」を探し始めていた。彼女が本当に幸せになれる場所。それは、貴族の屋敷の物珍しいペットとしてでも、闘技場の見世物としてでもない。彼女が、彼女自身の力で、狩人として生きていける場所。

リアンの張り巡らせた情報網が、やがて王都から遠く離れた北方の領地に、一人の風変わりな貴族がいることを突き止めた。

その名は、アルマン・フォン・ヴァルトブルク伯爵。

彼の領地には、手付かずの自然が残る、広大な湖があった。彼は生物学者でもあり、金儲けのための領地開発には一切興味を示さず、ただ、領内の豊かな生態系を守ることに、その生涯を捧げている男だった。

サミュエルが持ってきた報告書には、こう書かれていた。

『アルマン伯爵は、最近、領内の湖を荒らす密猟者の一団に頭を悩ませている。彼らは、法で禁じられた罠や毒を使い、湖の生態系を根こそぎ破壊している。伯爵は、騎士団に頼るのではなく、湖の環境を熟知し、密猟者を人知れず排除できる、優れた『番人』を探している』

報告書を読み終えたリアンに、サミュエルが言った。

「旦那様。この方ならば、ミナ様を託されたゲオルグ殿のように、サラ様の魂を理解してくださるかもしれませんな」

「感傷的な予測はするな、サミュエル」リアンは冷たく返した。「データと実績だけが判断基準だ。だが…可能性はある」

彼の氷の仮面の下で、わずかな期待が芽生えていた。リアンは、アルマン伯爵に一通の手紙を送った。『貴殿の湖を守るにふさわしい、伝説の狩人が、我が館にいる。取引の用意があるならば、訪ねてこられたし』と。その挑発的ともとれる文面に興味を惹かれたのか、アルマン伯爵は、数日後、自らリアン奴隷館を訪れた。


六章:湖畔の契約


応接室に現れたアルマン伯爵は、リアンが想像していた通りの人物だった。年の頃は四十代半ば。貴族らしい優雅な物腰だが、その瞳は、自然を愛する者特有の、純粋な好奇心と、不正を憎む強い意志で輝いていた。

「あなたが、リアン・アシュフォード殿か。手紙、実に興味深く拝見した。して、その『伝説の狩人』とは?」

リアンは、何も言わずに、サラを部屋に招き入れた。

サラは、突然のことに戸惑い、警戒心を露わにしていた。アルマン伯爵は、サラの姿を見るなり、その目を驚きに見開いた。だが、それは物珍しさや恐怖からではなかった。生物学者としての、純粋な感動と、敬意の念からだった。

「おお…素晴らしい…。これが、古文書に記されていた『クロコ族』…。その鱗の光沢、筋肉の付き方…完璧な、水辺の捕食者としてのフォルムだ。なんと美しい…」

彼は、サラを値踏みするようなことは一切しなかった。研究対象として接するのではなく、一人の、完成された『専門家』として、深い敬意を払った。

「サラ、と言ったかな」アルマン伯爵は、腰を屈め、サラと視線の高さを合わせると、穏やかに語りかけた。「君の故郷は、緑の迷宮だと聞いた。あそこは、多種多様な生物が独自の生態系を築く、奇跡のような場所だ。君たちが、どのように狩りをし、どのように生きていたのか、もし差し支えなければ、教えてはくれないだろうか」

サラは、困惑した。人間から、故郷の話を、こんなにも真摯な目で問われたのは、初めてのことだったからだ。彼女は、最初はぶっきらぼうに、しかし、伯爵の熱心な質問に引き込まれるように、少しずつ、失われた故郷での暮らしを語り始めた。水牛の群れの動きを読み、待ち伏せる方法。毒を持つ水蛇の見分け方。月の満ち欠けが、魚の動きにどう影響するか。その専門的な知識に、伯爵は何度も感嘆の声を上げた。

「素晴らしい!実に素晴らしい!君の知識は、どんな書物にも載っていない、生きた学問だ!」

一通り話が終わると、伯爵は一枚の大きな地図をテーブルの上に広げた。それは、彼の領地にある『静寂の湖』の、詳細な鳥瞰図だった。

「これが、私の領地だ。そして、私の家族でもある。だが今、この湖は、密猟者という病に蝕まれている」

彼は、密猟者たちの非道なやり口と、それによって失われつつある貴重な生物について、怒りと悲しみを込めて語った。

「サラ殿。私は、君に、この湖の『レンジャー』…湖の守り人になってほしい。いや、それだけではない。君の専門的な知識を借りて、この湖の生態系を共同で研究する、対等なパートナーになってほしいのだ」

「なぜだ」サラは、初めて自ら質問した。「なぜ、人間が、そこまでして自然を守る?」

伯爵は、少し寂しそうに微笑んだ。「…私も、幼い頃に、故郷の森を失ったのだよ。貴族たちの利権争いのために、美しい森が、あっという間に伐採されて、ただの荒れ地になってしまった。私は、何もできなかった。だから、誓ったのだ。二度と、自分の目の前で、美しいものが失われるのを見過ごしはしない、とね」

その言葉は、サラの心の奥深くに突き刺さった。この人間もまた、喪失の痛みを知っている。

「君の力を貸してほしい。この湖を、君の新しい狩場として、守ってはくれないだろうか」

サラは、地図に描かれた広大な湖と、それを取り囲む深い森を、食い入るように見つめていた。その光景は、彼女が失った故郷の面影と、ぴったりと重なった。

サラは、リアンの方を見た。リアンは、ただ静かに彼女を見つめ返しているだけだった。その目は、「お前が、決めろ」と、そう語っていた。

リアンは、テーブルの上に、一枚の羊皮紙を滑らせた。

「これは、奴隷売買の契約書ではない。アルマン伯爵と、君との間で交わされる、『業務契約書』だ」

彼は、その条項を一つ一つ、サラに分かるように丁寧に説明した。「この条項は、お前が不当な扱いを受けた際に、即座に俺が介入できることを保証するものだ。この報酬は、お前の専門的な知識と技術に対する正当な対価だ。そして、この条項は、お前がいつでも、自分の意思でこの契約を破棄できる自由を保障している」

その契約書は、サラを奴隷ではなく、一人の専門家として、完全に守るためのものだった。

サラは、覚悟を決めた。

「…分かった。その話、引き受ける」

彼女の短い答えに、アルマン伯爵は、心からの笑顔を見せた。

「ありがとう、サラ殿。君のような素晴らしいパートナーを得られたことを、湖と共に、心から歓迎する」


終章:水に還る魂


旅立ちの日、サラはリアン奴隷館の制服ではなく、アルマン伯爵が彼女のために用意した、丈夫な革製の狩装束を身に着けていた。その姿は、もはやか弱き奴隷ではなく、誇り高き湖の守護者そのものだった。

館の玄関前で、サラはリアンとサミュエルに向き直った。彼女は、何かを言おうとして、しかし言葉が見つからずに、しばらく黙り込んでいた。彼女の不器用な魂は、「感謝」という言葉を、まだ知らない。

やがて、彼女は懐から一つの小さなものを取り出し、リアンの手に押し付けた。

それは、彼女が毎夜の狩りで仕留めた魚の、最も硬い背骨の一部を、何日もかけて鋭く磨き上げて作った、美しい髪飾りだった。その先端は、彼女が使っていた銛の石突を模しており、無骨だが力強い生命力に満ちていた。

「…これは、私の最初の獲物の一部。お守りだ」

彼女は、ぶっきらぼうにそう言った。「水辺では、鉄は錆びる。だが、骨は、水に還り、また強くなる」

それが、彼女なりの、最大限の感謝の表現だった。

リアンは、その骨の髪飾りを、静かに受け取った。彼のコレクションであり、彼の罪の墓標が、また一つ増えた。

サラは、アルマン伯爵が待つ馬車に乗り込むと、最後に一度だけリアンを振り返った。そして、誰もが予期しなかったことに、彼女は、ほんの少しだけ、はにかむように微笑んでみせた。それは、太陽の光を浴びた水面が、一瞬だけきらめくような、儚くも美しい笑顔だった。

馬車が走り去り、その姿が見えなくなるまで、リアンはその場に立ち尽くしていた。手の中に残る、骨の髪飾りの、滑らかな感触を確かめながら。

執務室に戻ると、机の上には、ミナの詩集、エリアーナからの手紙、エルマの鉄のペンダントが並んでいる。リアンは、その隣に、サラが残した骨の髪飾りを、そっと置いた。

それらは、彼が救った魂の証であり、同時に、彼の罪が決して消えないことの証明でもあった。救った魂が増えれば増えるほど、たった一人、救えなかった銀髪の少女の記憶が、より鮮烈に、彼の胸を締め付ける。

彼は、サラの骨の髪飾りを光にかざした。その磨き上げられた骨の白さが、なぜか、ルナの銀色の髪や、彼女の白い頬を伝った一筋の涙の色と重なり、彼の心臓を冷たい手で掴むような痛みが走った。このどうしようもない矛盾こそが、彼の背負った業であり、彼が生き続ける唯一の理由なのかもしれない。

「旦那様」

背後で、サミュエルが静かに紅茶を淹れていた。

「また一つ、尊い魂が、あるべき場所へとお還りになりましたな。まるで、川の流れが、やがて大きな海へと注ぐように」

リアンは、何も答えなかった。ただ、窓の外に広がる、どこまでも続く青い空を見つめていた。

彼の氷の仮面が、完全に砕け散る日は、まだ遠い。

だが、救われた魂たちが放つ、ささやかで、しかし確かな温もりは、彼の凍てついた心の奥深く、誰にも知られぬ場所で、分厚い氷を、ほんの少しずつ、溶かし始めている。

奴隷商リアン・アシュフォードの、苦悩に満ちた物語は、まだ、その中途にある。彼の道の先に、たとえ赦しがなかったとしても、彼は歩き続けるだろう。水が、海を目指して流れ続けるように、ただ、ひたすらに。

八話に続く⋯

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