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第六話:鉄と炎の誓約

序章:静かなる変化と新たな影


エリアーナが「森の再生者」として、自身の運命をその手に掴み取るべく旅立ってから、季節は一つ巡っていた。リアン奴隷館には、以前と変わらぬ、しかしどこか質の違う静寂が満ちていた。ミナが去った後に残った、温かいがゆえの寂しさとは違う。エリアーナが残していったのは、憎悪の残響ではなく、未来へ向かう確かな意志の響きだった。その清冽な響きは、この館の主であるリアン・アシュフォードの凍てついた心の、分厚い氷をほんのわずかだが、確かに削り取っていた。

執務室の窓から、手入れの行き届いた中庭を見下ろす。そこは、ミナがはにかみながら花に水をやり、エリアーナが月下美人と対話し、自身の魂と向き合った場所だ。彼の孤独な贖罪の祭壇において、ささやかな奇跡が起きた舞台でもあった。

机の上には、先日エリアーナから届いた手紙が置かれている。鷲が描かれた封蝋を丁寧に剥がされた羊皮紙には、彼女らしく硬質で、しかしどこか温かみのある筆致で、森の再生の様子が綴られていた。

『…人間リアン。お前の差し金であるアークライトとかいう男は、存外に話の分かる奴だ。森の声を聴こうと努力はしている。もっとも、まだまだ若輩で、木の根と蔓の区別もおぼつかないがな。フィン(・・・)は、森の中をリスのように駆け回り、日に三度は泥だらけになっている。先日、私が教えた罠でウサギを捕らえ、満面の笑みで私の前に差し出した。あの時の誇らしげな顔は、かつての同胞たちの面影を思い出させ、少々、胸が詰まった…』

手紙は、森の状況報告という体裁を取りながらも、行間からは彼女の新しい生活の充実ぶりが窺えた。そして、その追伸は、彼女とリアンの奇妙な関係性を如実に物語っていた。

『勘違いするな。お前の言う『取引』は、まだ終わってはいない。私の魂がお前の偽善を裁くその日まで、せいぜい腕を磨いておくことだ。次に会う時、お前の心がまだ凍りついているようなら、私の竪琴でその頭を叩き割ってやる』

リアンの口元に、自嘲ともとれる微かな笑みが浮かんだ。彼の贖罪の道は、彼自身の罪を消し去るものではない。だが、その道程で、誰かの未来を照らすことができるのなら…。その自己矛盾こそが、彼をギリギリで支えている鎖だった。

「旦那様」

静かなノックの後、老執事のサミュエルが入室した。その手には、新たな取引に関する書類がある。

「北の鉱山都市グリムロックから流れてきたドワーフの一団ですが、取引先の商人から打診が来ております。…例の、バルドルフです」

サミュエルの声は、常に変わらず平坦だったが、その名を発する際には、わずかな不快感が滲んだ。バルドルフ。かつてリアンがその悪質な商売と、奴隷に対する非人道的な扱いを理由に、容赦なく取引を拒絶した亜人専門の奴隷商だ。

「バルドルフ、か。寄生木は、宿主を変えて生きながらえるものだ。まだあの男も懲りずにやっているのか」

「奴の話では、グリムロックの鉱山が一つ閉鎖され、不要になった労働奴隷を安く買い叩いてきた、と。しかし、過酷な労働で消耗が激しく、まともな買い手がつかない。そこで、我々の館の『再生技術』に目をつけたようですな。弱った奴隷を回復させ、高値で売りさばく旦那様のやり方を、奴なりに研究したのでしょう」

サミュエルの言葉には、隠しきれない皮肉が込められていた。リアン奴隷館の評判は、裏社会では両極端だった。冷酷無比なリアンが支配する、利益のためなら何でもする館。その一方で、ここに送られた奴隷は、なぜか心身ともに回復し、以前よりも良い条件で新たな主の元へ行くという奇妙な噂。誰も、その真の理由を知る者はいなかった。

「腐った枝は、自重で折れると言ったが…バルドルフのような害虫は、踏み潰さねば駆除できんか」

リアンは呟いた。彼の脳裏に、グリムロックのドワーフたちの姿が浮かぶ。誇り高く、頑固で、そして何よりも己の「技」に命を懸ける種族。そんな彼らが、鉱山で使い潰され、バルドルフのような男に商品として扱われる。その光景は、彼の美学に反した。

「…受けよう。その話、詳しく聞く。だが、取引の場所はここではない。奴の指定する場所で構わん。我が館の空気を、あの男の呼気で汚したくない」

「かしこまりました。しかし旦那様、バルドルフのような男と関わるのは、危険も伴います。奴は、追い詰められれば何をするか…」

「問題ない、サミュエル」リアンは、老執事の心配を遮った。「俺は、俺の祭壇を汚すものは、何であれ排除する。たとえ、それが悪魔であっても、神であってもだ」

その瞳には、かつてルナを売り渡した夜に宿した、氷よりも冷たい決意の光が揺らめいていた。彼の贖罪の道に、今、鉄と石炭の匂いをまとった、新たな影が、避けられぬ運命のように近づきつつあった。


一章:鉄屑の山の輝き


王都南区画の、廃倉庫街。腐った木材と錆びた鉄の匂いが混じり合う空気が、澱んでいた。リアンは、サミュエルだけを伴い、バルドルフが指定した取引場所へと足を踏み入れた。

「いやはや、リアン殿! このような汚い場所にまで、わざわざご足労いただき、恐悦至極にございます!」

脂ぎった顔に卑屈な笑みを貼り付け、バルドルフが駆け寄ってくる。その目には、リアンに対する恐怖と、目の前の大きな利益への欲望が、下品に入り混じっていた。

リアンは、その挨拶を完全に無視し、倉庫の奥を顎で示した。

「商品は、どこだ」

「へ、へい!こちらでございます!」

案内された薄暗い倉庫の中、その光景に、歴戦のリアンですら、わずかに眉をひそめた。

十数人のドワーフたちが、まるで打ち捨てられたガラクタの山のように、床に座り込んでいた。いや、もはや座っているというよりは、崩れ落ちている、という表現が正しかった。彼らは鉱山での過酷な労働によって骨と皮ばかりに痩せこけ、その体は、洗い流すことさえ諦めたかのような、分厚い煤と泥に覆われていた。

何人かは、咳き込み、その喉からは乾いた喘鳴が聞こえる。おそらくは、坑内の粉塵による肺の病だろう。ドワーフ特有の頑固で力強い光は、誰の瞳からも消え失せ、ただ虚ろな諦観が漂っているだけだった。

「ご覧の通り、少々手入れが必要な品でしてな。ですが、そこはリアン殿の『再生技術』にかかれば、すぐにでも鉱山の一つや二つ、楽に掘り進める一級品に…へっへっへ」

バルドルフの下卑た笑いが、ドワーフたちの絶望を嘲笑うかのように響く。

リアンは、彼の言葉を意にも介さず、一人一人のドワーフを冷静に、そして無慈悲なほど正確に観察していった。

一人の年老いたドワーフが、リアンの視線に気づき、力なく顔を上げた。その唇が、かすかに動く。

「……もう、楽に…してくれ…」

それは、生への懇願ではなく、死への渇望だった。

リアンの心に、氷の杭が打ち込まれたような、鈍い痛みが走る。

彼は、観察を続けた。そして、ガラクタの山の奥に、一つの輝きを見出した。

一番隅の方で、壁に背を預けて膝を抱えている、小柄な少女。年の頃は、まだ成人も迎えていないだろう。他の者たちと同じように汚れてはいるが、解けかけた三つ編みの赤銅色の髪には、まだドワーフの血の濃さを示す艶が残っていた。

そして、何よりも違ったのは、その瞳だった。

彼女は、リアンの姿を認めると、その虚ろに見えた瞳の奥に、チリッ、と小さな火花のような光を宿した。それは、同情を誘うためのものではない。憎悪や恐怖でもない。自分たちを値踏みする人間に対する、ドワーフとしての、根源的な誇りからくる、微かだが、決して消すことのできない反骨の光だった。

リアンは、彼女の手に目をやった。鉱山労働で酷使され、指の節々は不自然に太くなり、皮膚は硬くひび割れている。いくつもの切り傷や、熱した岩で負ったであろう火傷の痕が、痛々しく刻まれていた。それは、もはや繊細な作業など到底できそうにない、ただの労働者の手だった。

だが、リアンには、分かったような気がした。その手が本来、何を握るべきだったのか。その指先が、どれほど誇り高いものを生み出すためにあったのか。彼の脳裏に、かつて父の書斎で読んだ、伝説のドワーフの鍛冶師の物語が、不意に蘇っていた。

「…全員、引き取ろう」

リアンは、短く告げた。

バルドルフは、一瞬、自分の耳を疑ったかのように目を丸くし、そしてすぐに狂喜の表情を浮かべた。

「ほ、本当でございますか! さすがはリアン殿、話が早い! では、お代は…」

「お前が彼らを買い叩いた値段の、倍を払う」

「ば、倍!?」

「ただし、条件がある」とリアンは続けた。その声は、倉庫の空気を凍らせるほどに冷たかった。「今後、お前は俺の目の前に二度と姿を現すな。ドワーフの奴隷取引からも、一切手を引け。もし、この約束を破れば…お前を、グリムロックの閉鎖された坑道の、一番奥深くに埋めてやる」

「ひぃっ…!」

バルドルフは、本物の殺意を前に、腰を抜かさんばかりに震え上がった。

取引は、成立した。ドワーフたちは、リアンが手配した幌馬車で、リアン奴隷館へと移送された。彼らは、館の清潔さや、与えられた温かい個室に戸惑いながらも、ただ無気力に従うだけだった。

リアンは、サミュエルに彼らの治療と栄養管理を徹底するよう命じた。特に、あの少女ドワーフ――登録名は「エルマ」といった――からは、目を離さないように、と付け加えて。エルマという名を聞いた時、リアンの胸は、かすかに痛んだ。それは、かつて彼が救えなかった少女、ルナの名と、どこか響きが似ていたからだった。


二章:頑固な魂と鉄の匂い


リアン奴隷館での日々は、エルマにとって、理解不能なことの連続だった。

過酷な労働も、理不尽な暴力もない。与えられる食事は、生まれてから一度も口にしたことのないほど温かく、栄養に満ちていた。寝床は清潔で、柔らかかった。館の主であるリアンは、毎日一度、彼女たちの健康状態を確認しに来るが、その際の会話は常に業務的で、感情がこもっていない。

「体の痛みは?」

「食事は全部食べたか?」

「咳は出るか?」

エルマは、その問いに一度も答えなかった。他のドワーフたちが、少しずつ館の生活に慣れ、人間らしい表情を取り戻していく中で、彼女だけは、頑なに心を閉ざし続けていた。感謝も、反抗も示さない。ただ、その瞳の奥の小さな火花だけは、決して消えることがなかった。

リアンは、エリアーナにしたのと同じように、彼女の部屋に何冊かの本を置いた。ドワーフの英雄譚、鉱物学の専門書、そして古代ルーン文字の解説書。エルマは、それらの本に一瞥もくれなかった。彼女の興味は、文字の世界にはないようだった。彼女はただ、窓から見える空をぼんやりと眺めたり、あるいは、自らの荒れ果てた手を見つめたりして、一日を過ごしていた。

リアンは、その手を見るたびに、何とも言えない感情に襲われた。あの手は、岩を砕き、土を運ぶためだけにあるのではない。もっと創造的で、もっと誇り高いもののためにあるはずだ。

ある日の午後、リアンは館の武器庫の整理をしていた。その中に、一本の小さな手斧を見つけた。おそらく、ゴブリンか誰かが使っていた粗悪品で、刃は鈍り、全体が赤錆に覆われている。リアンは、ふとした思いつきで、その錆びた手斧と、数種類の砥石をエルマの部屋に持っていった。

エルマは、突然部屋に現れたリアンを、警戒するように睨みつけた。

リアンは、手斧と砥石を床に置くと、短く言った。

「暇つぶしにでも使え。それで指先の感覚でも思い出したらどうだ」

それだけ言うと、彼は部屋を後にした。エルマは、床に置かれた手斧と砥石を、しばらくの間、ただじっと見つめていた。その表情からは、何も読み取れない。錆びついた鉄の塊。それは、鉱山で彼女が来る日も来る日も目にしていた、希望のない現実の象徴のようにも見えた。

その夜、館内を見回っていたリアンは、エルマの部屋の前で足を止めた。

中から、微かな、しかし規則正しい音が聞こえてくる。

シャッ……シャッ……。

何かを研ぐ音だった。

リアンは音を立てずに扉の隙間から中を窺った。月明かりが差し込む部屋の床で、エルマが黙々と手斧を研いでいた。

最初は、ぎこちなく、無気力な手つきだった。荒れ果てた指先は、思うように動かないようだった。だが、次第にその動きは滑らかさを増し、熱を帯びていく。砥石の上を滑る刃の角度、込める力、水で濡らすタイミング。その全てが、まるで体に染み付いた儀式のように、正確で無駄がなかった。

彼女の脳裏に、遠い日の記憶が蘇っていた。

『いいかい、エルマ。鉄は生き物だ。声を聴くんだ。研ぐんじゃない、鉄と対話するんだよ』

煤だらけの顔で笑う、たくましい父の姿。父の工房は、いつも炎の熱気と、心地よい鉄の匂いで満ちていた。伝説の鍛冶師だった父は、エルマに鉄の扱い方を、まるで歌を教えるように、優しく、そして厳しく叩き込んでくれた。

シャッ……シャッ……。

この音は、父との対話。この感触は、失われた故郷の記憶。

リアンが与えた「暇つぶし」は、エルマにとって、父との唯一の繋がりを、そしてドワーフとしての魂を取り戻すための、神聖な行為となっていた。

彼女の瞳は、もはや虚ろではなかった。目の前の鉄と石だけに集中し、その奥には、職人だけが宿すことのできる、静かで、しかし燃えるような炎が灯っていた。

それは、彼女の魂に深く刻み込まれた、ドワーフとしての本能であり、誇りだった。彼女は、鉄の匂いと、刃が磨かれていく感触の中で、失いかけていた自分自身を、少しずつ取り戻しているかのようだった。

リアンは、その光景をしばらく黙って見つめていた。そして、誰にも気づかれることなく、静かにその場を立ち去った。彼の贖罪の祭壇に、また一つ、新たな魂の再生の兆しが見えた瞬間だった。


三章:魂の炉に火を灯せ


翌朝、リアンがドワーフたちの様子を見に回廊を歩いていると、エルマが自室の扉の前に、仁王立ちで待っていた。その姿には、昨日までの無気力さは微塵もなかった。彼女はリアンの姿を認めると、無言のまま、手にしていたものを、まるで挑戦状のように突き出した。

それは、昨日リアンが与えた、錆びだらけの手斧だった。

しかし、その姿は、奇跡としか言いようのないほどに変貌していた。赤錆は跡形もなく消え去り、鈍っていた刃は、まるで剃刀のように鋭い輝きを放っている。バランスを取るために、柄の部分もわずかに削り直され、彼女の小さな手に完璧にフィットするように調整されていた。それはもはや粗悪品ではなく、実戦に耐えうる、見事な一振りの武器へと生まれ変わっていた。

エルマは、何も語らない。だが、その行為は、どんな言葉よりも雄弁だった。彼女の最初の、そして明確な意思表示。己の「技」をもって、彼女はリアンという人間に応えたのだ。

リアンの口元に、ミナの旅立ちを見送った時以来の、ごく微かな笑みが浮かんだ。

「…腕は、鈍っていないようだな」

彼は手斧を受け取ると、その見事な切れ味を指先で確かめた。「ついてこい。お前に見せたい場所がある」

リアンはエルマを連れて、館の地下深くへと向かった。そこは、普段は誰も立ち入らない、忘れ去られた区画だった。リアンが重い鉄の扉を開けると、埃と、冷えた鉄の匂いが、まるで封印を解かれた太古の記憶のように、二人を迎えた。

そこは、かつて使われていた古い鍛冶場だった。

部屋の中央には、巨大な金床が、主を待ちわびるかのように鎮座し、壁際にはレンガ造りの火炉が、巨大な口を開けている。壁には、様々な種類の槌や金槌、やっとこが掛けられているが、そのどれもが厚い埃を被り、長い間使われていないことを物語っていた。

エルマは、部屋に入った瞬間、息をのんだ。その足は、床に縫い付けられたかのように動かない。彼女は、食い入るように周囲を見回していた。その瞳は、子供がおもちゃ屋に迷い込んだかのように、あるいは、巡礼者が聖地にたどり着いたかのように、きらきらと輝いていた。

彼女は、おそるおそる、壁に掛かった槌にそっと指で触れた。そして、まるで祈るように、金床を愛おしそうに撫でた。その表面に、彼女の涙が一滴、ぽつりと落ちて、埃の上に小さな染みを作った。

そこは、彼女にとって、父の工房の匂いがする、魂の故郷だった。

「ここは、俺がこの館を買い取る前の所有者が、趣味で使っていた場所だ。俺にとっては不要なものだったからな。ただの倉庫代わりにしていた」

リアンの声で、エルマは我に返った。

リアンは、倉庫の隅に積んであった、麻袋をいくつか引きずってきた。中には、最高級品ではないが、鍛冶に使うには十分な質の鉄鉱石と、良質な石炭が入っていた。彼が、いつか来るかもしれない「その時」のために、密かに準備していたものだった。

「お前の腕が、まだ錆びついていないか、ここで証明してみせろ」

リアンは、鉄鉱石の袋を床に下ろしながら言った。その声は、いつものように冷徹なビジネスマンのそれだった。

「材料は、ここにあるものを自由に使っていい。もし、この俺を満足させるだけの『作品』を打ち上げることができたなら…お前と、新たな『取引』をしてやる」

エルマは、最初は疑いの目でリアンを見ていた。奴隷商の言う「取引」など、信用できるはずがない。だが、目の前には、火を待つ火炉、沈黙する金床、そして、彼女の魂を呼び覚ます鉄の塊があった。

彼女は、リアンの言葉を待たず、近くに落ちていたボロ布で、金床の埃を丁寧に、そして愛情を込めて拭い始めた。火炉のコンディションを確かめ、槌を一つ一つ手に取って、その重さとバランスを確認する。

その瞳には、もはや迷いはなかった。ただ、ドワーフの鍛冶師としての、燃え盛る情熱だけが宿っていた。

リアンが鍛冶場を出ようとした時、背後から、か細いが、鋼のように強い意志のこもった声が聞こえた。

「…待て」

エルマだった。彼女は、リアンの方を振り返り、まっすぐに見つめていた。

「もっと、良い鉄を」

「何?」

「こんな屑鉄じゃ、魂は宿らない。父さんは、言ってた。『最高の魂には、最高の素材を』って。ミスリル銀か、せめてアダマンタイトの欠片でもあれば…最高のものが打てる。あなたの『取引』とやらは、それだけの価値があるんだろう?」

それは、要求だった。奴隷が主人にするような懇願ではない。職人が、パトロンに対して行う、対等で、誇り高い要求だった。

リアンは、一瞬驚いたが、すぐに口の端を上げた。その姿に、かつて本を、知識を渇望した、幼い自分自身の姿を重ねていた。

「…お前の腕次第だ。まずは、その屑鉄で、俺に『最高の素材』を投資する価値があると証明してみせろ」

彼はそう言い残し、鍛冶場の重い扉を閉めた。扉の向こうで、エルマが火炉に最初の火を入れる音が、かすかに聞こえた。リアンの孤独な贖罪の祭壇に、新たな炎が、轟々と音を立てて燃え上がった瞬間だった。


四章:炎と槌が紡ぐ歌


その日から、リアン奴隷館の静寂は、リズミカルな槌の音によって完全に支配された。

カン! コン! カン!

地下の鍛冶場から響いてくるその音は、館の空気を震わせ、まるで建物の心臓が再び鼓動を始めたかのようだった。それは、エリアーナが奏でた絶望の不協和音とは全く違う、力強く、生命力に満ち溢れたドワーフの「歌」だった。

エルマは、文字通り、鍛冶場に籠りきりになった。

彼女は食事も睡眠もほとんど摂らず、まるで何かに取り憑かれたかのように、一心不乱に鉄を打ち続けた。サミュエルが心配して、栄養価の高いシチューとパンを運んでも、彼女は火炉から目を離さず、片手でパンを鷲掴みにして口に放り込むだけだった。

「お嬢さん、少しは休まないと、お体が…」

「火が、鉄が、私を呼んでるんだ。邪魔しないでくれ」

その瞳は、もはやサミュエルのことなど映してはいなかった。ただ、赤く熱せられた鉄の塊と、その中に宿る魂だけを見つめていた。その凄まじいまでの集中力と気迫に、サミュエルは何も言えなくなり、静かに食事を置いて立ち去るしかなかった。

エルマの脳裏には、父の教えが、槌音と共に響いていた。

『この一打ちは、不純物を弾き出すため。この一打ちは、鋼の絆を固くするため。そして、この一打ちは、お前の魂を込めるためだ』

カン!――父さんのために。

コン!――故郷の仲間のために。

カン!――私自身の、誇りのために。

槌の音は、時に激しく、時に優しく、そのリズムを変えながら何日も続いた。リアンは、彼女の集中を邪魔しないように、ただ遠くから見守っていた。彼は、執務室の椅子に座り、その槌音に耳を澄ませた。

それは、一つの魂が再生していく力強い過程を、肌で感じさせてくれた。だが同時に、彼の胸を締め付けた。もし、あの時、ルナにも、こんな風に彼女の魂を表現する機会を与えてやれたなら。歌ではなく、竪琴を、彼女の魂の器を与えてやれたなら。結果は、違っていたのではないか。

俺のやっていることは、結局、過去の罪滅ぼしという名の、自己満足に過ぎないのではないか。

リアンは、自問自答を繰り返した。だが、答えは出ない。ただ、地下から響く槌音だけが、彼の存在を肯定も否定もせず、そこにあり続けた。

そして、作業を始めてから五日目の夜、槌の音はぴたりと止んだ。

館は、再び深い静寂に包まれた。リアンは、何かが終わったことを悟り、地下の鍛冶場へと向かった。

扉を開けると、むわりとした熱気と共に、満足げな鉄の匂いが彼を迎えた。火炉の炎は静かに燃え、エルマが金床の前に立っていた。彼女の顔は煤で真っ黒で、その体は疲労困憊しているのが見て取れたが、その表情は、極限の集中から解放された職人特有の、静かな達成感に満ちていた。

そして、金床の上には、彼女の魂の結晶が置かれていた。

それは、一振りの片手斧だった。

小柄な彼女の体格に合わせて作られたのだろう、全体的にコンパクトだが、ずしりとした重量感が伝わってくる。刃の部分は、幾重にも折り重ねて鍛えられた鋼が、まるでオーロラのような、複雑で美しい波紋を描いていた。それはまさしく、月光そのものを鍛え上げて固めたかのように、青白い、妖しいまでの輝きを放っている。柄の部分には、ドワーフの伝統的なルーン文字が、驚くほど精巧に彫り込まれていた。それは、もはや単なる武器ではなかった。作り手の魂が宿った、一個の芸術品だった。

エルマは、その斧を両手で恭しく持ち上げると、リアンの前に差し出した。

彼女の息は荒く、立っているのがやっとのようだったが、その瞳は、誇りと、そして挑戦的な光で、爛々と輝いていた。

「……取引を、しろ」

彼女は、はっきりとした声で言った。それは、リアンが彼女に初めて会った時の、か細い反骨の光とは比べ物にならない、本物のドワーフの炎だった。

「この斧に見合うだけの、『取引』を」

リアンは、その斧を静かに受け取った。手に伝わる、完璧な重量バランス。吸い付くような柄の感触。そして、刃が放つ、魂を震わせるほどのプレッシャー。

彼は、自分が何をすべきかを、完全に理解した。この傑作にふさわしい、最高の未来を用意すること。それが、この魂の輝きに対する、彼の唯一の答えだった。


五章:最高の逸品、最高の嫁入り先


リアンは、エルマが打ち上げた片手斧を執務室に持ち帰り、その完璧な出来栄えに改めて感嘆した。彼は、この斧の「嫁入り先」を探し始めた。

それは、単に金銭的な価値で判断する「買い手」探しではなかった。彼は、この斧に込められたエルマの魂を本当に理解し、生涯の相棒として、共に戦い、共に生きてくれる、ただ一人の「使い手」を探していた。

彼の張り巡らせた情報網が、やがて一人の人物を浮かび上がらせた。

王宮騎士団に所属する、若き女性騎士、アストリッド・ベルンシュタイン。

その頃、アストリッドは、騎士団の訓練場で、一人、汗を流していた。

「おい、アストリッド。またそんな安物の剣を振り回しているのか。いつか戦闘中に折れて、お前の綺麗な顔に傷がつくぞ」

貴族出身の騎士が、嫌味ったらしく声をかけてくる。彼女が平民出身であること、女性であることへの、嫉妬と侮蔑が込められた言葉だった。

「私の剣は、私の戦友です。あなたのように、親の金で買った飾り物とは違います」

アストリッドは、冷たく言い返した。彼女の脳裏には、騎士団の入団試験の日の、苦い記憶が焼き付いていた。

模擬戦の最中、対戦相手だった貴族の息子の剣が、派手な音を立てて折れた。その安物の破片が、応援に来てくれていた幼馴染の顔を傷つけたのだ。幸い、失明は免れたが、その頬には今も消えない傷が残っている。『質の悪い武具は、持ち主だけでなく、仲間をも危険に晒す』。その教訓は、彼女の骨身に染みていた。だからこそ、彼女は自分の武具を、命を預ける「戦友」として、誰よりも大切に扱っていた。

そんな彼女の元に、リアン奴隷館からの招待状が届いた。『貴女の『戦友』となるべき魂が、ここにある』。奴隷商からの謎めいた言葉に、アストリッドは強い警戒心を抱きながらも、無視できない何かを感じ、重い足取りでリアンの館を訪れた。

応接室で対峙したリアンは、アストリッドが想像していた奴隷商とは全く違っていた。彼の佇まいは貴族のように洗練され、その瞳は、彼女の魂の奥底まで見透かしているかのようだった。

「…奴隷商のあなたが、私に何の用です? 私は奴隷を買う趣味も、金もありませんが」

「誤解なさらないでいただきたい、騎士殿。今日、あなたをお呼びしたのは、商談のためではない。あなたという騎士の『魂』を、見極めさせていただくためです」

リアンは、彼女の過去を調べ上げた上で、巧みな質問を投げかけた。彼女がなぜ騎士を目指したのか。なぜ、武具を「戦友」と呼ぶのか。アストリッドは、最初は警戒していたが、リアンの真摯で、本質を突く問いかけに、次第に心を許し、自らの信念を語っていた。

そして、リアンはエルマを呼び寄せ、彼女の前で斧を披露した。

布が取り払われた瞬間、アストリッドは息をのんだ。騎士である彼女には、一目でその武具が持つ、尋常ならざるオーラが分かったのだ。

「これは…」

「この斧は、売り物ではない」とリアンは言った。「ここにいる作り手、エルマが、その持ち主にふさわしいと認めた者にのみ、譲られる『魂の欠片』だ」

エルマが、恭しく斧を差し出す。アストリッドは、おそるおそる、しかし騎士としての敬意を込めて、その斧を受け取った。

その瞬間、彼女の表情が変わった。斧は、まるで彼女の体の一部であるかのように、その手にしっくりと馴染んだ。重量、バランス、重心、その全てが、まるで彼女のために誂えられたかのように完璧だった。彼女が斧を構えた時、脳裏に浮かんだのは、幼馴染の悲しい顔ではなく、この「戦友」と共に、守るべき人々を守り抜く、未来の自分の姿だった。

「素晴らしい…これほどの逸品、見たことがない。どうか、私をこの方の持ち主として、認めていただけないだろうか」

アストリッドは、リアンに対してではなく、作り手であるエルマに、深く頭を下げた。

エルマは、アストリッドの真摯な眼差しと、彼女から伝わってくる、武具への深い愛情を感じ取り、静かに、しかし満足げに頷いた。彼女の魂は、ふさわしい使い手を見つけ出したのだ。

「…この斧には」と、先に口を開いたのはエルマだった。「父の魂と、故郷の誇りを込めた。だから、無様に死ぬな。こいつを、泣かせるな」

「ああ、約束する」アストリッドは、斧の刃を優しく撫でながら応えた。「私は、私の民を、仲間を、そして、君の誇りを守るために、この戦友と共に戦おう。私の命に代えても」

短い言葉の応酬。だが、その間には、戦士と職人という、立場を超えた、魂の共鳴があった。

リアンは、一枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。

「その斧は、金では売らない。その代わり、このドワーフを、あなたの『専属鍛冶師』として、雇用しませんか。これは、奴隷売買の契約ではない。あなたと彼女の間で交わされる、対等なパートナーとしての『業務契約書』だ」

契約書には、エルマの労働時間、報酬、そして休日、さらには、いつでも彼女自身の意思で契約を破棄できるという権利まで、明確に記されていた。

アストリッドは、驚きに目を見開いた。そして、深い感謝と共に、その契約を受け入れた。

こうして、エルマの未来は決まった。最高の使い手と、最高の仕事場。彼女の魂は、ついに安住の地を見つけたのだ。


終章:旅立ちの槌音


数日後、エルマがリアン奴隷館を去る日が来た。

彼女は、アストリッドが手配した騎士団の真新しい馬車の前で、リアンとサミュエル、そして、共に引き取られたドワーフの仲間たちに向き直った。仲間たちは、リアン奴隷館で十分な治療と休息を取り、顔には生気が戻っていた。彼らもまた、リアンの斡旋によって、王都のまっとうな工房や鉱山に、奴隷としてではなく、自由な労働者として、新たな働き口を見つけることになっていた。

「…世話になったな」

エルマは、ぶっきらぼうに、しかし仲間たち一人一人と、固い握手を交わした。

そして、リアンの前に立つ。

彼女は、小さな革袋をリアンに突き出した。

「…なんだ、これは」

「斧の代金だ。屑鉄だったが、材料費と、場所代くらいにはなるだろう」

袋の中には、アストリッドから受け取った最初の給金の一部が入っていた。彼女なりの、けじめの付け方だった。

リアンはそれを受け取らず、エルマの手に押し返した。

「不要だ。あれは、お前の未来への投資だと言ったはずだ。利息は、お前が最高の武具を打ち続けることで、いずれ返してもらう」

エルマは、しばらくリアンを睨みつけていたが、やがてふいと顔をそむけ、革袋を懐にしまった。そして、代わりに、首にかけていた小さな鉄のペンダントを外し、リアンの手に握らせた。

それは、彼女が鍛冶場の余った鉄で、夜なべして作ったものらしかった。リアンのイニシャルである『R・A』という文字と、ドワーフの言葉で二つのルーンが、無骨だが力強いタッチで刻まれている。

「……お前は、本当に、変な奴隷商だ」

エルマは、ぼそりと、そう言った。その声には、棘はなく、どこか照れ臭そうな響きがあった。

「だが……悪くない」

それが、彼女なりの、最大限の感謝の言葉だった。

彼女は、アストリッドが手を差し伸べる馬車に乗り込むと、最後に一度だけリアンの方を振り返り、ドワーフの言葉で、彼にしか聞こえないように、小さく呟いた。

「…感謝する」

そして、馬車は走り去っていった。

リアンは、彼女の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。手の中に残る、鉄のペンダントの、かすかな温もりを感じながら。

執務室に戻ると、机の上には、エリアーナからの手紙と、ミナが置いていった詩集が並んでいた。そして今、そこに、エルマが残した鉄のペンダントが加わった。

それらは、彼の贖罪の証であり、同時に、彼の罪が決して消えないことの証明でもあった。

ルナの歌声は、今も彼の耳の奥で、鎮魂歌のように響き続けている。金貨五十枚で売り飛ばした魂の重みは、彼の肩に永遠にのしかかり続けるだろう。

「旦那様、そのルーンは?」

背後で、サミュエルが静かに尋ねた。

リアンは、ペンダントを光にかざした。

「…サミュエル、ドワーフのルーンに詳しかったな。これは、どういう意味だ?」

サミュエルは、ペンダントを覗き込むと、穏やかに微笑んだ。

「これは、『幸運』を意味するルーンと…そして、こちらはおそらく、『魂の解放者』を意味する、古いルーンでございますな」

魂の、解放者。

その言葉は、静かに、しかし、重くリアンの心に突き刺さった。

彼は、ペンダントを静かに握りしめた。

道は、まだ長い。

それでも、彼は歩き続ける。

その道の先に、たとえ赦しがなかったとしても。

彼の凍てついた心を、遠くで響く旅立ちの槌音が、力強く励ますように包み込んでいた。

七話に続く⋯

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