第五話:憎悪の取引と再生の契約
序章:静かなる共犯者
エリアーナがリアン奴隷館の「管理物」となってから、季節は一つ巡っていた。
館の静寂は、もはや彼女の心を苛むものではなくなっていた。それは、諦観からくるものではなく、ある種の奇妙な緊張感を内包した、観察者の静けさだった。彼女は、与えられた食事を摂り、与えられた書物を読み、そして、リアンから与えられた竪琴を、毎日決まった時間に奏でることを日課としていた。
その音色は、決して美しくはなかった。彼女の故郷「翠雨の森」で奏でていたような、生命の喜びに満ちたものではない。それは、憎悪と悲哀と、そして決して消えることのない追憶が入り混じった、無調の旋律。だが、その指先は、もはや絶望で震えてはいなかった。冷徹なまでの正確さで、彼女は魂の不協和音を奏で続ける。それは、彼女の心がまだ死んでおらず、復讐という目的のために、その機能を保っていることの証明だった。
彼女の瞳から憎悪の炎が消えることはない。だが、その炎はもはや、自らを焼き尽くすためだけのものではなかった。それは、獲物を見定める狩人のように、より深く、より静かに燃え、一つの的をじっと見据えていた。
その的とは、リアン・アシュフォードという、不可解な人間だった。
彼は、彼女の同胞を犠牲にした人間の富の上に立ちながら、その罪に苛まれ、自らに「贖罪」という終わりのない刑罰を科している。彼の行動は、奴隷商のそれとはあまりにもかけ離れていた。ミナという猫獣人の少女を、一人の人間として扱い、幸福への道を自ら選ばせたこと。そして、自分の罪を、一切の弁解もなく、彼女に告白したこと。
エリアーナは、彼の言う「贖罪」を信じてはいなかった。だが、彼が抱える闇の深さと、その行動原理の根底にある、過去に失った命への執着だけは、本物だと感じていた。
利用できるかもしれない。
彼女の心には、そんな冷たい計算が芽生えていた。この男の持つ力、富、そして情報を利用すれば、あの男への復讐が果たせるかもしれない。そのために、今は従順な「管理物」を演じよう。この男の心を解き明かし、その手綱を握る術を探ろう。
リアンもまた、エリアーナの変化を正確に読み取っていた。彼女の心の氷が溶け、その下に現れたのが、信頼ではなく、打算であることを。
それでいい、と彼は思った。
憎しみでも、打算でも、それが彼女を「生」に繋ぎとめる鎖となるのなら、今はそれでいい。彼は、この気高いエルフの魂が、自ら立ち上がるための足場を、ただ提供し続けるだけだ。
二人の間には、言葉にはされない、奇妙な共犯関係が生まれつつあった。奴隷商とその「商品」という歪な関係性は、静かに、だが確実に変質し始めていた。
一章:憎悪の残響との再会
その日、リアン奴隷館の重厚な扉を、招かれざる客が叩いた。
リアンは執務室で、ギルド間の取引に関する書類に目を通していた。サミュエルが告げた来訪者の名を聞いた瞬間、彼の動きが、一瞬だけ止まった。
「……ゴードン子爵、か。何のようだ」
「はっ。『新たな商品』の買い付けと、ご自身の『獲物』の売却について、ご相談したい、と」
サミュエルの声は、常に変わらず平坦だったが、その瞳にはわずかな警戒の色が浮かんでいた。
ゴードン子爵。
エリアーナの故郷「翠雨の森」を焼き、彼女の同胞を殺戮し、彼女自身を「狩り」、奴隷に貶めた元凶。リアンにとっても、その悪名は聞き及んでいた。彼のやり方は、短期的には利益を生むが、長期的には市場全体の信用を損なう、悪質なものだった。リアンが最も嫌うタイプの、腐った枝だ。
「応接室に通せ。俺は地下の様子を見てから行く」
リアンはサミュエルにそう命じると、執務室を出て、地下牢エリアへと向かった。それは、彼のルーティンではあったが、この時ばかりは明確な意図があった。
エリアーナは、いつものように自室で竪琴を奏でていた。その指が、ふと止まる。
館の上階から聞こえてくる、耳障りな声。低く、ねっとりとした、記憶の底にこびりついて離れない、あの男の声。
「――だから、わしが直々に狩ってやったのだ!あの気高いエルフどもが、恐怖に顔を歪める様は、実に愉快であったわ!」
高笑いが、壁を通り抜けて、彼女の鼓膜を突き刺した。
瞬間、エリアーナの世界から音が消えた。血の気が引き、呼吸が浅くなる。目の前に、燃え盛る故郷の森が、同胞たちの断末魔が、鮮烈に蘇る。竪琴を抱えたまま、彼女の体はガタガタと震え、指先は氷のように冷たくなった。憎悪が、トラウマという名の檻を突き破り、彼女の精神を再び食い荒らそうとしていた。
「ぐ…っ、あ…ぁ…」
息ができない。壁に、あの日の血飛沫が見える。床が、灰と死体の匂いで満たされる。
その時、ガチャリ、と無機質な音を立てて、部屋の扉が開いた。
リアンだった。
彼は、エリアーナの惨状を一瞥すると、何も言わずに部屋に入り、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「……聞こえたか」
低い、感情のない声。だが、その声は、悪夢に沈みかけていたエリアーナの意識を、強引に現実へと引き戻した。
「奴の声だ。ゴードン子爵が、来ている」
「……なぜ、それを…私に…」
かろうじて、声を絞り出す。
「お前が、『取引』に使える駒か、見定めている」
リアンの瞳は、どこまでも冷徹だった。そこには同情も憐憫もない。ただ、目の前で起きている事象を、冷徹に分析するだけの光があった。
「立てるか、エリアーナ。立てないのなら、お前はただの壊れた人形だ。俺にとって、価値はない」
その非情な言葉が、逆にエリアーナの心に火をつけた。
壊れた人形?誰が。この男の前で、弱みを見せるものか。
彼女は、震える足で、壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。その翡翠色の瞳には、再び憎悪の炎が、凄まじい勢いで燃え上がっていた。
「…良い目だ」
リアンは、それだけ言うと、部屋を後にした。彼は応接室へ向かう。獲物を前にした、冷酷な狩人として。
二章:冷徹な取引と裏の計画
応接室の空気は、ゴードン子爵が放つ、安っぽい香水と傲慢さで満たされていた。
彼は、リアンが入ってくるなり、尊大な態度でソファにふんぞり返ったまま、言葉を続けた。
「リアン殿、遅かったではないか。わしは多忙な身でな。さて、単刀直入に言おう。わしの新しい鉱山開発のために、屈強な労働奴隷が三十人ほど必要になった。質の良いものを、安く融通してもらいたい」
「……」
リアンは無言で、子爵の向かいのソファに深く腰掛けた。
「それと、だ。先日、またわしの領地で『害獣』を数匹、捕まえてな。まだ若いエルフの小娘だ。おたくで買い取ってもらえんかね? 躾はしておらんが、素材はいい。高く売れると思うがな」
ゴードン子爵は、まるで手柄話でもするように、下卑た笑みを浮かべた。
リアンは、テーブルに置かれた紅茶に静かに口をつけた。その完璧な所作が、逆に子爵の神経を苛立たせる。
「…お断りします、子爵閣下」
リアンの静かな声が、部屋に響いた。
「なっ…!何だと? このわしの申し出を、断るというか!」
「あなたの扱う『商品』は、質が悪い。怪我や病を隠し、短期的な利益のために寿命を削る。そのような奴隷を仕入れれば、俺の館の信用に傷がつく」
「な、無礼な…!」
「それに」とリアンは続けた。「あなたの領地から出る奴隷は、市場を荒らす。あなたは、奴隷を『資源』ではなく、『消耗品』として扱っている。それは、俺のビジネスのやり方と、根本的に相容れない」
「貴様…!一介の奴隷商が、貴族であるわしに説教か!」
ゴードン子爵は、顔を真っ赤にして立ち上がった。
リアンは、表情一つ変えずに彼を見上げた。その瞳は、もはや子爵を客として見てはいなかった。排除すべき「害虫」を見る目だった。
「俺の時間を無駄にしないでいただきたい。お帰りを」
最後通牒だった。ゴードン子爵は、屈辱に拳を震わせながらも、リアンの放つ絶対的な威圧感の前に、すごすごと引き下がるしかなかった。
「…覚えておれよ、リアン・アシュフォード!今日の無礼、必ず後悔させてやるわ!」
捨て台詞を残して、子爵は嵐のように去っていった。
その夜、リアンはエリアーナを執務室に呼び出した。
「ゴードン子爵は、俺の市場を汚す害悪だ。奴の存在は、長期的に見て、俺の利益を損なう。だから、俺は奴を排除する」
リアンは、冷徹なビジネスマンの口調で言った。
「……復讐を、手伝うと?」
エリアーナが、疑念に満ちた声で問う。
「勘違いするな」リアンは、即座に否定した。「お前の復讐心に、俺は一欠片の興味もない。俺がするのは、復讐ではなく、市場の浄化だ。腐った枝を切り落とす、ただの作業だ」
彼は、執務机の上に、王都周辺の広域地図を広げた。
「だが、この『作業』を効率的に進めるためには、情報が必要だ。ゴードン子爵の領地となっている、かつての翠雨の森の地理。彼の狩り場の位置。奴隷を隠しておくための隠し通路。森のエルフしか知らないような、獣道。…お前の知っている情報は、金になる」
リアンは、エリアーナをまっすぐに見つめた。
「お前の知識を、俺に売れ。これは、取引だ。成功すれば、ゴードン子爵は社会的に失脚する。お前にとっても、悪い話ではないはずだ」
エリアーナは、ゴクリと喉を鳴らした。
彼の提案は、彼女が心のどこかで望んでいた、まさにそのものだった。だが、彼女はまだ、この人間を完全には信用できない。
「なぜ、そこまでして私を『利用』する?他にも、やり方はあるはずだ」
「言ったはずだ。効率的だからだ。お前は、最高の情報源だ。それを使わない手はない。俺は、使える駒は、全て使う」
彼の論理には、一切の感情が介在していなかった。そのあまりの合理性が、逆にエリアー-"なを納得させた。この男は、本当に、自分の利益のためだけに動いているのだ。
ならば、乗れる。
「…いいだろう。取引、成立だ。私の知識を、あなたに売る」
「賢明な判断だ」
その瞬間、リアンとエリアーナは、奴隷商と奴隷という関係を超えた、危険で、歪な「共犯者」となった。二つの凍てついた魂が、ゴードン子爵という共通の「標的」を介して、固く結びついたのだ。
三章:小さな命と、芽生えた信頼
計画は、深夜の執務室で、秘密裏に進められた。
広げられた地図の上を、エリアーナの白く細い指が滑る。彼女は、最初はためらいがちに、しかし次第に淀みなく、森の記憶を語り始めた。
「この川の上流に、古い洞窟がある。かつて、我々の食料庫だった場所だ。今は、奴の密猟品倉庫になっているはず」
「この崖には、人間には見つけられない、蔦に隠された獣道が…。ここを使えば、奴の狩猟小屋の裏手に出られる」
リアンは、彼女の言葉を、驚異的な記憶力で頭に叩き込み、地図上に精密な印をつけていく。彼は、エリアーナの知識を疑うことなく、ただ淡々と、作戦計画に落とし込んでいった。
二人の間には、まだ個人的な会話はほとんどなかった。だが、一つの目的に向かって知恵を出し合う中で、奇妙な一体感が生まれていた。エリアーナは、リアンの思考の鋭さと、計画の緻密さに舌を巻いた。彼は、単なる奴隷商ではなかった。軍師であり、策略家だった。
そんなある夜、リアンの下に、彼の張り巡らせた情報網から、急報がもたらされた。
「…ゴードン子爵が、先日捕らえたというエルフの子供を、見せしめに拷問している、と…?場所は?」
報告を聞くリアンの顔から、一切の表情が消えた。その瞳の奥に、氷よりも冷たい光が宿る。
「サミュエル、緊急の『仕入れ』だ。準備をしろ」
リアンは、エリアーナに何も告げず、数人の腹心を連れて、夜の闇に消えた。
エリアーナは、リアンが何をしようとしているのか、察しがついていた。
彼女は、自室で落ち着かなく、夜が明けるのを待った。あの子供は、どうなるのだろうか。リアンは、本当に助けに行くのだろうか。それとも、これも何かの取引で、子供を見殺しにするのだろうか。
夜明け前、館の裏口が、静かに開かれた。
エリアーナが部屋の窓から見下ろすと、そこにいたのは、黒いマントを羽織ったリアンと、その腕にぐったりと抱えられた、小さな影だった。
エルフの子供だった。年の頃は十歳にも満たないだろう。汚れた服は破れ、その小さな体には、痛々しい鞭の痕が無数に刻まれている。意識はないようだった。
リアンは、その子供を、まるで壊れ物でも運ぶかのように、慎重に館の中へと運び入れた。
エリアーナは、気づけば部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。
彼女が医務室にたどり着くと、そこでは、サミュエルが手際よく子供の傷の手当てをしていた。リアンは、その傍らで、指示を出しながら、自らも薬を調合している。その横顔は、いつになく険しく、そして、その瞳の奥には、彼が普段は決して見せない、深い悔恨と怒りの色が渦巻いていた。
「…なぜ、助けた?」
エリアーナが、思わず問いかける。
リアンは、彼女を一瞥すると、冷たく言い放った。
「投資対象が、目の前で価値をゼロにされようとしていた。見過ごすわけにはいかない。それだけだ」
「嘘だ」
エリアーナは、はっきりと否定した。「あなたは、危険を冒した。ゴードン子爵の部下と、いざこざがあったはずだ。あなたの部下の一人が、腕を負傷している。それは、合理的な『投資』の範囲を超えている」
リアンの動きが、止まった。
彼は、エリアーナの射抜くような視線から逃れるように、再び子供の傷に目を落とした。
「……俺の市場で、理不尽な理由で命が失われるのは、許さない。それは、市場の秩序を乱す、最大の害悪だ。俺は、それを排除したに過ぎない」
その言葉は、彼の本心の一部であり、そして最大の嘘でもあった。
エリアーナには、分かった。
彼は、自分と同じなのだ。目の前で失われた命、守れなかった命に対する、消えることのない後悔を、その魂に深く刻みつけている。彼がミナを救ったのも、今、この子供を救ったのも、全ては、十年前に救えなかった、ルナという少女の幻影を追いかけているからだ。
彼の贖罪は、偽善などではない。それは、彼の魂をギリギリでつなぎとめている、唯一の支えなのだ。
その夜、意識を取り戻したエルフの子供は、見知らぬ天井と、人間の匂いに怯え、ただ泣きじゃくるばかりだった。
エリアーナは、そっとその子のそばに寄り添うと、古いエルフの言葉で、子守唄を口ずさんだ。それは、彼女が故郷で、竪琴と共に歌っていた、優しい旋律。
子供は、その歌声に安心したのか、次第に泣き止み、エリアーナの腕の中で、静かな寝息を立て始めた。
その光景を、部屋の入口から、リアンが静かに見つめていた。
エリアーナは、リアンに気づくと、子供を起こさないように、小さな声で言った。
「…この子の名は、フィン。森の仲間だった」
「そうか」
リアンは、それ以上何も言わなかった。だが、去り際に、彼が子供の枕元に、何かをそっと置いていくのを、エリアーナは見逃さなかった。
それは、彼が手の空いた時に削っていたのであろう、小さな木彫りの鹿だった。不器用だが、温かみのある彫刻。
十年前、彼がルナという少女のためにしたことと、全く同じ行為。
その瞬間、エリアーナの心の中の、固く凍りついていた何かが、ポロリと音を立てて剥がれ落ちた。
この男を、信じてみよう。
彼の言う「取引」に、ただの駒としてではなく、対等な「共犯者」として、自分の全てを賭けてみよう。
彼女の心に、憎悪とは別の、温かい感情が、静かに芽生え始めていた。
四章:復讐の終焉と、残された虚無
リアンの策略は、冷徹で、完璧だった。
エリアーナから得た情報を元に、彼はゴードン子爵の不正の証拠を、次々と掴んでいった。王室直轄林での密猟、禁制品の密輸、そして、彼の鉱山で奴隷たちが劣悪な環境で死んでいく様を記録した、詳細な報告書。
リアンは、それらの証拠を、直接、王宮の監察官に突きつけることはしなかった。それでは、自分の存在が表に出てしまう。
彼は、その情報を、ゴードン子爵と長年対立関係にあった、別の有力貴族に「売った」のだ。
結果は、火を見るより明らかだった。
有力貴族は、待ってましたとばかりに、その証拠を武器にゴードン子爵を弾劾した。王宮を巻き込んだスキャンダルとなり、ゴードン子爵の悪事は、次々と白日の下に晒された。
彼の地位と財産は剥奪され、最後は、辺境の牢獄へと送られることになった。
翠雨の森を焼き、エリアーナの全てを奪った男は、惨めな破滅を迎えたのだ。
エリアーナは、その報を、リアンの執務室で聞いた。
「…終わったのか」
「ああ。ゴードン子爵は、もう二度と、誰かを傷つけることはない」
リアンは、淡々と告げた。
復讐は、果たされた。長年、彼女の心を燃やし続けてきた憎悪の炎は、その対象を失った。
だが、エリアーナの心に残ったのは、歓喜でも、達成感でもなかった。
ただ、ぽっかりと穴が開いたような、冷たい虚しさだけだった。
あの男を殺したかった。この手で、引き裂きたかった。だが、その結末は、あまりにもあっけない、法と社会の力によるものだった。憎しみの炎が消えた後には、焼け野原のような、空っぽの心が広がっているだけ。
「…そうか」
彼女は、それだけ言うと、ふらふらと自室に戻った。
部屋の隅に置かれた竪琴が、目に入る。彼女は、それに近づくと、まるで憎悪の残滓を振り払うかのように、その弦を力任せにかき鳴らした。
ギャイン、という耳障りな不協和音が、部屋に響き渡る。
何のために、生きてきたのか。何のために、生き延びてしまったのか。
目的を失った魂は、行く先を見失い、ただただ、虚無の中を漂っていた。
数日後、リアンは、抜け殻のようになったエリアーナの前に、一枚の羊皮紙を差し出した。
「お前の、新たな買い手候補の情報だ」
「…もう、どうでもいい」
エリアーナは、力なく首を振った。「私を、どこへでも売ればいい。もう、何も感じることはない」
「買い手は、お前が選べ。これも、契約の一部だ」
リアンは、有無を言わさず、書類を彼女の手に握らせた。
エリアーナは、仕方なく、その書類に目を落とした。
そこに書かれていたのは、一人の若い貴族の名前だった。
『アークライト辺境伯。没落したゴードン子爵の領地、すなわち、旧翠雨の森一帯を、王家より買い受けた新領主。自然科学、特に植物学に造詣が深く、荒れ果てた森を、かつての豊かな姿に再生させることを、生涯の目標としている』
『特記事項:森の再生には、その土地の気候風土を熟知し、エルフに伝わる古代の知識を持つ協力者が不可欠であると考えている。金銭による雇用ではなく、対等なパートナーとして、森の民を迎え入れたいと強く希望している』
エリアーナは、息をのんだ。
森を、再生させる?
自分の故郷を、もう一度、この手で?
「…これは、何だ」
「言った通りの、買い手候補だ。彼は、君を奴隷としてではなく、『森林再生顧問』として、迎え入れたいそうだ」
リアンは、もう一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。
それは、奴隷の売買契約書ではなかった。リアン・アシュフォードを代理人とする、エリアーナと、アークライト辺境伯との間で交わされる、『業務契約書』だった。そこには、報酬、労働時間、そして、いつでも契約を破棄できるという、彼女の権利が、明確に記されていた。
「君を、奴隷として売るつもりはない。これは、取引だ」
リアンは、まっすぐにエリアーナの目を見て言った。
「だが、あの森は、君の助けを必要としている。君の故郷を、君自身の手で再生させる気は、ないか」
それは、質問ではなかった。
リアンが、彼女に提示した、新しい「生きる意味」だった。
憎悪の向こう側にある、未来への道標だった。
復讐は、過去を清算するための行為だ。だが、再生は、未来を創造するための行為だ。
エリアーナの翡翠色の瞳から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。それは、悲しみでも、虚しさでもなかった。
生まれて初めて、他者から与えられた、希望の光に対する、魂の震えだった。
「…なぜ、ここまでしてくれる」
「言ったはずだ」とリアンは、いつものように冷たい声で、しかし、その瞳の奥には、わずかな温かみを宿して言った。「俺は、二度と、過ちを繰り返さない。…絶対にだ」
エリアーナは、涙を拭うと、ペンを手に取った。
そして、彼女自身の意思で、その契約書に、力強くサインをした。
奴隷エリアーナが死に、森の再生者エリアーナが、誕生した瞬間だった。
終章:凍てついた弦の、新たな調べ
それから、半年が過ぎた。
リアンの元に、アークライト辺境伯領から、一通の手紙が届いた。差出人は、エリアーナだった。そこには、ただ一言、こう書かれていた。
『月下美人が、咲く』
リアンは、サミュエルに後のことを任せ、一人、馬車に乗って北の森へと向かった。
かつて翠雨の森と呼ばれた場所は、まだゴードン子爵がつけた傷跡が生々しく残ってはいたが、あちこちに新しい若木が植えられ、確かな再生の息吹が感じられた。
森の開けた場所にある、質素だが美しい家屋の前で、エリアーナが待っていた。
彼女は、上質なエルフの服をまとい、その髪は森の風に優しくなびいている。憎悪に歪んでいた面影はなく、その顔には、穏やかで、しかし凛とした誇りが満ちていた。
「…来たか、人間」
彼女の口調は、相変わらず素っ気なかった。
「ああ。約束だからな」
リアンも、短く答える。
二人の間に、それ以上の言葉はなかった。
エリアーナは、家の前に置かれていた竪琴を手に取ると、静かにその弦を弾き始めた。
リアンは、黙って、近くの切り株に腰を下ろした。
彼女が奏でる音楽は、もはや、憎悪と絶望の不協和音ではなかった。
かといって、完全に喜びと平和に満ちたものでもない。
その旋律には、故郷を失った深い悲しみと、同胞への追悼が、静かに流れていた。しかし、その下には、新しい生命の芽吹きを讃える、力強く、そして優しい、未来への響きがあった。
それは、彼女の魂の音だった。人間への不信や憎しみが、完全に消えたわけではない。だが、彼女はそれさえも乗り越え、自分の手で未来を掴み取ったのだ。この竪琴の音色は、リアンに対する、彼女なりの、最大限の感謝の表現だった。
リアンは、目を閉じ、その調べに耳を傾けていた。
彼の孤独な贖罪の道に、また一つ、確かな成果が刻まれた。ミナの笑顔、そして、エリアーナの再生の音楽。それらは、彼の凍てついた心を、ほんの少しずつ、溶かしていく。
だが、罪は消えない。彼の耳には、今も、銀髪の少女の、売られた歌声が聞こえている。
道は、まだ長く、そしてどこまでも暗い。
それでも、彼は歩き続ける。
その道の先に、たとえ赦しがなかったとしても。
月明かりの下、森に響く竪琴の調べが、若き奴隷商の魂を、鎮魂歌のように、あるいは、子守唄のように、静かに包み込んでいた。
六話に続く⋯