第四話:夜明けの別離と森の残響
序章:選択の朝
ミナがリアン奴隷館に来てから、一月と数日が過ぎた。
その朝、館の空気はいつもと少し違っていた。使用人たちの動きは変わらず機敏で、老執事サミュエルの立ち居振る舞いにも寸分の隙はない。だが、館の主であるリアン・アシュフォードの纏う空気が、普段の氷のような冷徹さに加え、どこか張り詰めた静寂を帯びていたからだ。
今日、ミナの未来が決まる。
彼女が与えられた天蓋付きのベッドは、初めて寝た日の感動を失わないまま、今も彼女の心と体を優しく受け止めてくれていた。窓から差し込む朝の光が、部屋の埃をきらきらと輝かせている。一月前、この館に引きずり込まれてきた時には想像もできなかった、あまりにも平穏な朝だった。
「…緊張なさっておられますかな、ミナ様」
静かにドアを開けて入ってきたのは、サミュエルだった。その手には、朝食が乗せられた銀の盆がある。いつものように、温かいパンと、果物のコンポート、そしてミルクの入ったスープが湯気を立てていた。
「サミュエルさん…。はい、少しだけ」
ミナはベッドから起き上がると、サミュエルが用意してくれた椅子に腰掛けた。この老執事の、穏やかで思慮深い眼差しは、いつだってミナの心を落ち着かせてくれる。
「無理もございません。ご自身の人生を、ご自身の意思でお決めになるのですから。これほど重く、そして尊い選択はございません」
「私…本当に、決めていいんでしょうか。リアン様は、私が誰を選んでも、何も仰らないでしょうか」
一昨日の、執務室での出来事が脳裏に蘇る。
『これは、罠ですか?』
そう問いかけた自分。そして、初めて見たリアンの氷の仮面の亀裂。あの瞬間に見た彼の瞳の奥の苦悩は、ミナの心に深く刻み込まれていた。彼は、自分を罰したりはしないだろう。それは、理屈ではなく、魂で理解できた。それでも、長年奴隷として生きてきた彼女の心には、拭いがたい不安が染みついている。
サミュエルは、優しく微笑んだ。
「旦那様は、約束をお守りになる方です。ミナ様がどのような決断を下されようとも、それを尊重されるでしょう。…あの方は、ご自身が犯した過去の過ちによって、誰よりも『約束の重み』をご存知なのですから」
「過去の…過ち…」
ミナは、リアンが暖炉にくべた古い羊皮紙を思い出した。金貨五十枚で交わされた、少女の売買契約書。あの時、彼はここにいない誰かに向かって語りかけていた。
『俺は、二度と、過ちを繰り返さない』
「差し出がましいこととは存じますが」とサミュエルは言葉を続けた。「旦那様は、このリアン奴隷館を、単なる奴隷商の館だとはお考えではございません。あの方にとってこの館は、ご自身の罪を償うための、巨大な祭壇なのです。そして、ミナ様のような方々が幸福を手にされることこそが、あの方が祭壇に捧げる、唯一の祈りなのでしょう」
その言葉は、ミナの心にすとんと落ちた。
そうだ、この館は聖域なのだ。奴隷が幸福になる権利を探せる、ただ一つの場所。そして、その主は、誰よりも深く傷ついた、孤独な魂の持ち主。
「私、決めました」
ミナは、顔を上げた。その緑の瞳には、もう迷いの色はなかった。
「私、ちゃんと選びます。リアン様が私のために用意してくださった、未来を」
彼女は、これから始まる三つの面談を、自分の人生を取り戻すための最初の儀式として、堂々と受け止める覚悟を決めたのだった。
一章:三つの未来
面談は、リアン奴隷館の応接室の一つで行われた。リアン本人は同席せず、ミナの精神的な負担を考慮して、サミュエルだけが壁際に控えていた。ミナが望めば、いつでも面談を中断させられるように、というリアンからの指示だった。
最初の訪問者は、裕福な織物商、ヘンドリックと名乗る恰幅の良い男だった。年の頃は四十代半ば。人の良さそうな笑顔を浮かべてはいるが、その目は商売人らしく、抜け目なくミナの価値を査定しているように見えた。
「これはこれは、噂に違わぬ愛らしいお嬢さんだ。ミナ、と言ったかな?わしはヘンドリック。妻を二年前に亡くしてね。家の中がどうにも寂しくていかん。それに、八つになる息子が一人いてね。やんちゃで困っているんだよ」
ヘンドリックは、家族の話を和やかに語った。彼の望みは明確だった。亡き妻の代わりに家事をこなし、子供の面倒を見る、家族の一員のような存在。それは、奴隷の境遇としては、破格の待遇に思えた。
「もちろん、君を奴隷のように扱うつもりはない。家族として迎えたいんだ。新しい服も買ってやろう。美味しいものも食べさせてやる。息子の良き姉になってくれれば、それでいい」
だが、ミナは彼の言葉の端々に、ある種の「型」を感じ取っていた。彼は、ミナという個人ではなく、「心優しい姉」という役割を求めている。彼の理想の家族像に、ミナがぴったりと収まることを期待している。もし、彼女がその期待に応えられなかった時、この男の笑顔はどう変わるのだろうか。ミナは、丁寧に、しかし当たり障りのない返答に終始した。
二人目の訪問者は、若い魔術師だった。名をアレンという。痩身で、神経質そうな顔立ちをした青年で、その目は好奇心と探究心で爛々と輝いていた。彼は、ミナの容姿や出自にはほとんど興味を示さず、開口一番こう言った。
「君が、リアン殿のところで文字や歴史を学んでいるというのは本当かね?」
「は、はい。少しだけ…」
「素晴らしい!僕は今、古代魔法言語の解読を専門に研究している。だが、膨大な文献を整理し、分類する人手が足りなくて困っていたんだ。君には、僕の助手として、その知性を存分に発揮してもらいたい」
アレンの提案は、ミナにとって非常に魅力的だった。本を読むことが好きで、新しい知識を得ることに喜びを感じる彼女にとって、これ以上ない環境かもしれない。彼は、ミナの労働力や愛嬌ではなく、「知性」を求めている。それは、一人の人間として尊重されている証のようにも思えた。
「もちろん、助手としての働きに応じて、相応の待遇は約束する。個室も、書斎も自由に使ってくれて構わない。君が望むなら、魔法理論の初歩を教えることもやぶさかではない」
「魔法…ですか?」
「ああ。君の知的好奇心を、僕は歓迎する」
だが、ミナは彼の瞳の奥に、研究以外の一切を寄せ付けない、冷たい壁を感じていた。彼は、助手という「機能」を求めている。そこに、温かい心の交流が生まれる余地は、あまりないのかもしれない。彼と暮らせば、多くの知識という翼を得られるだろう。だが、その翼で羽ばたく空は、どこまでも孤独で、青ざめているような気がした。
そして、三人目の訪問者が部屋に入ってきた時、ミナは少し驚いた。
引退した老騎士、ゲオルグ。白髪と、深く刻まれた皺が、彼の生きてきた年月の長さを物語っている。だが、その背筋は驚くほどまっすぐに伸び、その佇まいには、騎士としての誇りが今もなお満ち溢れていた。何より、彼の瞳は、深く、そして穏やかだった。まるで、静かな森の湖のようだった。
「…ミナ殿、とお呼びしてもよろしいかな」
彼の第一声は、穏やかで、そして敬意に満ちていた。
「わしはゲオルグ。見ての通りの年寄りでな。長く王家に仕えてきたが、三年前に剣を置いた。今は、王都の少し外れで、妻と二人、静かに暮らしておる」
「奥様と…?」
「うむ。だが、妻は少し足が悪くてな。庭いじりが好きなのだが、最近は思うように動けん。それに、わしら二人だけの生活というのも、ちと静かすぎてのう。話し相手がいてくれたら、どれほど日々が華やぐことか、と思うておったのだ」
ゲオルグは、ミナに何も求めなかった。家事をしてほしいとも、何か特別な役割を担ってほしいとも言わなかった。ただ、そこにいて、時々話をしてくれればいい、と。
「君が本を読むのが好きだと聞いた。わしの屋敷にも、ささやかだが書斎がある。歴史書や、昔の騎士物語ばかりだがな。もし興味があるなら、いつでも自由に読むといい。君がそこで何を学び、何を感じるか、そんな話を聞かせてもらえるだけでも、わしは嬉しい」
彼は、ミナの「今」を、ありのまま受け入れようとしていた。彼は、ミナを家族の「代わり」にも、研究の「道具」にもしようとはしていなかった。ただ、ミナという一人の人間が、自分の人生の隣にいることを、望んでいるだけだった。
そして、彼は最後にこう言った。
「リアン殿から、君には拒否権があると伺っておる。もし、わしの元へ来るのが嫌ならば、遠慮なくそう言ってほしい。君の心が、安らげる場所を選ぶのが一番だ。わしは、君がどこにいても、君の幸せを願っておるよ」
その言葉を聞いた瞬間、ミナの心は決まった。
この人ならば、きっと、私の心の翼を、無理に広げさせようとも、逆に奪おうともしないだろう。私が自分の力で羽ばたけるようになるまで、ただ静かに、空を見守っていてくれるだろう、と。
二章:決断と約束
ミナは、リアンの執務室の扉をノックした。
「入れ」という短い返事を聞いて中に入ると、リアンは黒檀の執務机に向かい、何かの書類に目を通していた。ミナの気配に気づくと、彼はペンを置き、静かに顔を上げた。その表情は、いつもの氷の仮面に覆われている。
「…決まったか」
「はい。私は…ゲオルグ様の元へ、行きたいと思います」
ミナの言葉に、リアンは意外そうな顔はしなかった。ただ、じっと彼女の目を見つめ、理由を問うた。
「あの…ヘンドリック様は、私に『家族』という役割を求めておられました。アレン様は、私に『助手』という機能を求めておられました。どちらも、とてもありがたいお話でした。でも、ゲオルグ様は…私に、何も求めませんでした。ただ、私が私でいることを、望んでくださいました。本を読んで、感じたことを話すだけで喜んでくださる、と。今の私には、それが一番、安らげる生き方だと思ったんです」
リアンは、しばらく黙ってミナの言葉を聞いていた。やがて、彼は小さく頷いた。
「…論理的な判断だ。お前の選択は、正しい」
彼は立ち上がると、書棚からゲオルグの経歴が記されたファイルを取り出した。
「ゲオルグ・フォン・ベルクマン。元王宮騎士団副団長。人格は温厚にして誠実。奴隷を虐待した記録はもちろん、金銭的なトラブルも一切ない。彼の元ならば、お前が理不尽な扱いを受けることはないだろう。俺が保証する」
その言葉は、冷たい事実の羅列だったが、ミナには何よりも心強い約束に聞こえた。
契約は、速やかに、そして滞りなく進められた。リアンが提示した移籍金は、ミナの価値を考えれば驚くほど良心的なものだった。ゲオルグはそれに感謝し、金貨の入った袋をテーブルに置いた。それは、ミナの「値段」だったが、もはや彼女の心を傷つけるものではなかった。それは、彼女が新しい人生を始めるための、一つの儀式に過ぎなかった。
出発の時が来た。
館の正面玄関には、ゲオルグの質素だが手入れの行き届いた馬車が停まっていた。ゲオルグは、先に馬車に乗り込み、ミナを急かすことなく待っている。
ミナは、リアンとサミュエルに向き直った。
「リアン様、サミュエルさん…本当にお世話になりました。このご恩は、一生忘れません」
深々と頭を下げるミナに、サミュエルは「お元気で、ミナ様。いつでも、お顔を見せにいらしてください」と優しく声をかけた。
リアンは、黙ってミナを見下ろしていた。そして、懐から小さな革袋を取り出し、ミナに手渡した。中からは、チャリン、と硬貨の音がする。
「…これは?」
「お前がこの館で働いた、一月分の給金だ。食事の配給、清掃、そして、俺の話し相手。それらに対する、正当な報酬だ」
「で、でも、私は奴隷で…」
「言ったはずだ。俺の館では、奴隷は『お客様』でもある、とサミュエルが言っていたそうだな」
リアンは、初めて、ほんの少しだけ口の端を緩めた。それは笑顔と呼ぶにはあまりに不器用なものだったが、ミナの心には温かく染み渡った。
「奴隷としてではなく、一人の人間として生きろ、ミナ。お前の人生は、お前のものだ。誰にも、指一本触れさせてはならない。たとえ、それが買い主であるゲオルグ殿であってもだ」
彼は一歩前に出ると、ミナの耳元で、他の誰にも聞こえないように囁いた。
「もし、万が一…何らかの問題が起きたら、必ず俺に知らせろ。どんな手段を使っても、俺がお前を迎えに行く。このリアン奴隷館は、いつでもお前のための聖域であり、避難場所だ。…忘れるな」
それは、奴隷商が奴隷にかける言葉ではなかった。兄が妹を、あるいは父が娘を案じるような、不器用で、しかし絶対的な響きを持った約束だった。
ミナの瞳から、涙が溢れた。それは、悲しみの涙ではなかった。感謝と、そして目の前の孤独な男の幸せを願う、温かい涙だった。
「…はい。ありがとうございます、リアン様」
ミナは、最後にリアンの顔をしっかりと見つめた。
「リアン様も…どうか、ご無理なさらないでください。あなたの心が、いつか氷の仮面を脱いで、本当に笑える日が来ることを、私も祈っています」
そう言い残し、ミナは馬車へと向かった。彼女は一度だけ振り返り、手を振った。その顔には、一月前には考えられなかった、希望に満ちた明るい笑顔が咲いていた。
馬車が走り去り、その姿が見えなくなるまで、リアンは玄関の前に立ち尽くしていた。
「…よろしかったのですか、旦那様」
隣で、サミュエルが静かに言った。
「あのように情をかけてしまっては、旦那様のお心が…」
「問題ない」
リアンは、短く答えた。彼の顔は、すでにいつもの氷の仮面に戻っていた。「腐った枝は、自重で折れる。だが、健やかな若木は、陽の光に向かって伸びていく。俺は、その手助けを少ししただけだ。これも、長期的に見れば俺の利益になる」
その声は、完璧に感情を殺していた。
だが、サミュエルは見ていた。馬車が見えなくなった瞬間、ほんの一瞬だけ、主人の口元に、安堵と、そしてほんのわずかな寂しさが入り混じった、人間らしい表情が浮かんだのを。
リアンの孤独な贖罪の道に、初めて、小さな、確かな光が灯った瞬間だった。
三章:森の残響
ミナが去った後のリアン奴隷館は、元の静寂を取り戻した。いや、それは以前よりももっと深く、しんとした静けさのように感じられた。ミナという存在が放っていた、ささやかだが確かな温もりが消えた空間は、がらんどうのようで、リアンの心を微かに苛んだ。
彼は執務室に戻ると、窓の外を眺めた。ミナが世話をしていた中庭の花壇が目に入る。彼女が去る前に、丁寧に水をやっていたのだろう。花々は生き生きと咲き誇っていた。
リアンは机に向かうと、ミナが特に気に入って何度も読んでいた詩集を、何となく手に取った。彼女が残していった、小さな温もりの欠片。そのページの隅が、少しだけ折れている。きっと、好きな詩のページなのだろう。その小さな発見が、リアンの胸を奇妙な感覚で満たした。
その時、執務室の扉が性急にノックされた。
「旦那様、新たな『入荷』でございます。運び屋どもが、裏口で待っておりやす」
部下の一人からの報告だった。
リアンの表情から、感傷の色がすっと消え失せる。氷の仮面が、再び彼の顔を覆った。
「…分かった。すぐに地下へ」
リアンが地下牢エリアに降りていくと、そこにはすでに二人の屈強な運び屋と、一つの檻が置かれていた。檻の中には、一人の女性がうずくまっている。
その姿を見た瞬間、リアンは空気が変わったのを感じた。
ミナが連れてこられた時の、怯えながらも生きようとしていた生命力とは違う。ルナが持っていた、誇りと絶望が入り混じった悲壮さとも違う。
檻の中にいるのは、エルフの女性だった。
長く、夜の森の色をした黒緑色の髪が、汚れ、乱れて顔にかかっている。着ているものは粗末な麻布だが、その立ち姿には、生まれながらの気品と、決して屈しないという意思が宿っていた。
だが、何よりもリアンの目を引いたのは、彼女の瞳だった。
長い睫毛に縁どられた、アーモンド形の瞳。その色は、深い森の湖を思わせる、静かな翡翠色。しかし、その静けさの奥には、燃えるような激しい光が宿っていた。それは、絶望ではなかった。諦めでもなかった。
純粋で、どこまでも深い、人間という種族そのものに向けられた憎悪の炎だった。
「へっへっへ…リアン様。こいつは上玉でさァ。森にいたところを、ゴードン子爵様が『狩って』きなすった代物でしてね。気位が高くて、手を焼きましたぜ」
運び屋の一人が、下卑た笑いを浮かべながら言った。
リアンは、運び屋を一瞥もせずに、檻の中のエルフを観察した。彼女の手首や足首には、きつく縛られていたことによる、赤黒い擦り傷がある。痩せてはいるが、その体にはしなやかな筋肉がついており、衰弱している様子はない。
「…静かにしろ。俺の館で、大声を出すな」
リアンの低く冷たい声に、運び屋はびくりと体を震わせた。「契約金は、経理の者から受け取れ。それと、その汚い手で商品に触れるな。価値が下がる」
「へ、へい!」
運び屋たちが慌てて立ち去っていく。
後に残されたのは、リアンと、サミュエルと、そして檻の中のエルフだけだった。
リアンは、静かに檻に近づいた。
「檻から出ろ」
命令したが、エルフは微動だにしない。ただ、射殺すような視線でリアンを睨みつけているだけだ。その瞳からは、森の冷気と、燃え盛る炎の両方が感じられた。
リアンはため息をつくと、鍵を取り出し、自ら檻の扉を開けた。
「俺の名はリアン・アシュフォード。今日から、お前は俺の『管理物』となる」
いつものように、感情を排した声で告げる。
だが、エルフは檻から一歩も出ようとしなかった。
リアンの脳裏に、数々の奴隷の姿が蘇る。怯える者、威嚇する者、心を閉ざす者。だが、これほどまでに純粋な憎悪を、全身から放つ者はいなかった。
このエルフは、リアン個人のみならず、彼をとりまく世界そのものを呪っている。
リアンの贖罪の道は、これまでとは全く質の違う、深く、そして頑なな魂と対峙することになる。リアンは、そのことを静かに予感していた。
四章:折れた竪琴
「商品番号C-01として登録。名はエリアーナ。推定年齢、72歳。エルフとしてはまだ若い。森の奥深くにある集落『翠雨の森』の出身。ゴードン子爵による領地拡大のための森林伐採の際に捕獲。集落の者たちは、抵抗したため、そのほとんどが殺害された、か…」
執務室で、リアンは運び屋が置いていった書類を読んでいた。そこには、エリアーナの絶望的な背景が、無機質な文字で綴られていた。彼女の故郷は焼かれ、同胞は殺されたのだ。その瞳に宿る憎悪の理由は、あまりにも明白だった。
書類の最後には、特記事項としてこう書かれていた。
『対象は、集落で『森の歌い手』としての役割を担っていた模様。竪琴の名手との情報あり。ただし、捕獲後は一切の声を発していない』
「歌い手…」
リアンの脳裏に、リヒター準男爵に売り渡した、ルナの悲しい歌声が蘇り、胸が微かに痛んだ。
リアンは、エリアーナに対して、ミナと同じように最高の環境を提供しようと試みた。陽光の差し込む清潔な個室、栄養バランスの取れた食事、そして、豪華な浴室。
だが、エリアーナは、その全てを、絶対的な沈黙をもって拒絶した。
彼女は、与えられた豪奢な個室には目もくれず、石でできた冷たい床の隅に、壁に向かって膝を抱えて座り続けるだけだった。リアンやサミュエルが部屋に入っても、振り返ることすらない。
サミュエルが運んできた食事には、一口も手を付けなかった。三日が過ぎ、彼女が口にしたのは、喉の渇きに耐えかねて飲んだ、ほんの少しの水だけだった。
「旦那様、このままでは…」
サミュエルが、心配そうにリアンに言った。
「あの方は、まるでご自身の命を絶とうとしているかのようです。強制的にでも、食事を摂らせるべきでは…」
「いや、それは逆効果だ」
リアンは静かに首を振った。「彼女の憎しみは、生半可なものではない。力で従わせようとすれば、彼女は自らの舌を噛み切るだろう。今は、待つしかない」
リアンの声は冷静だったが、その瞳には、これまでになく難しい数式を解こうとしているかのような、深い思索の色が浮かんでいた。ミナの心を解きほぐしたのは、リアンの与えた「優しさ」と、彼の見せた「弱さ」だった。だが、このエルフには、そのどちらも通用しないだろう。彼女にとって人間の優しさとは偽善であり、弱さとは侮蔑の対象でしかない。
リアンは、ミナの時と同じように、図書室から数冊の本を選び、エリアーナの部屋に置いた。エルフの古い歴史が書かれた本、古代詩、そして植物図鑑。
翌日、それらの本は、ページが引き裂かれ、床に散乱していた。
エリアーナの、静かだが、あまりにも雄弁な拒絶の意思表示だった。
リアンは、何も言わずに破られたページを拾い集め、部屋を後にした。彼は焦ってはいなかった。むしろ、この反応は、完全な無関心よりは良い兆候だとさえ考えていた。彼女の心は、まだ死んではいない。激しい憎悪の炎が、その魂を燃やし続けている。問題は、その炎をどうすれば鎮めることができるか、だ。
ある夜、リアンはいつものように館内を見回っていた。エリアーナの部屋の前を通りかかった時、中から微かな、奇妙な音が聞こえてくるのに気づいた。
それは、すすり泣きではなかった。歌でもなかった。
キー、キー、という、何かを硬いもので引っ掻くような、耳障りな音。そして、ギリッ、という歯ぎしりの音。
リアンは、音を立てずに扉を少しだけ開け、中の様子を窺った。
月明かりが、窓から差し込んでいる。
その光の中で、エリアーナは床に座り込み、部屋の石の壁を、自らの爪で、血が滲むのも構わずに引っ掻いていた。
彼女は、壁に何かを描こうとしていたのだ。それは、巨大な樹木と、蔦の絡まる家々、そして、そこに生きる人々の姿…おそらく、彼女が失った故郷、『翠雨の森』の光景だった。
その瞳からは、涙が止めどなく溢れていた。しかし、その表情は悲しみではなく、全てを破壊し尽くさんばかりの、凄まじい憎悪に歪んでいた。故郷を、同胞を奪った人間への、決して消えることのない呪いそのものだった。
リアンは、しばらくその光景を黙って見ていた。そして、静かに踵を返し、自室から救急箱を持ってきた。彼は再び部屋に戻ると、エリアーナの傍らに、傷薬と清潔な包帯を、音を立てずにそっと置いた。
その気配に、エリアーナの動きが止まった。彼女は、ゆっくりとリアンの方を振り返った。その憎悪に満ちた翡翠色の瞳が、月明かりの中でリアンを射抜く。
「……」
リアンは、何も言わなかった。ただ、彼女の目をまっすぐに見返し、そして静かに部屋を出て行った。
扉が閉まった後、エリアーナはしばらくの間、リアンが置いていった傷薬を睨みつけていた。やがて、彼女はゆっくりとそれに手を伸ばすと、力任せに壁に叩きつけ、粉々に砕いた。
五章:月下の対話
エリアーナが食事を拒否し続けて、五日が過ぎた。彼女の体力は目に見えて衰弱し、あれほど燃え盛っていた憎悪の炎も、今は命の灯火と共に弱々しく揺らめいているように見えた。
このままでは死んでしまう。
その夜、リアンは一つの決断をした。
彼はエリアーナの部屋へ行くと、衰弱して床に横たわる彼女の体を、有無を言わさず、しかし乱暴にならないように抱え上げた。
「……!」
エリアーナは、残った力を振り絞って抵抗しようとしたが、もはやリアンの腕を振り払う力はなかった。
「どこへ…連れていく…」
初めて聞く、彼女のかすれた声だった。森の泉のように澄んでいるはずの声は、渇きと憎しみでひどくしゃがれていた。
「少し、外の空気を吸わせるだけだ」
リアンは、彼女を抱えたまま、館の裏手にある中庭へと向かった。そこは、リアンが唯一、心を落ち着けられる場所だった。昼間はミナが世話をしていたが、夜、月明かりの下で植物の手入れをするのは、リアンにとって長年の習慣であり、一種の儀式だった。
中庭に出ると、ひやりとした夜気が肌を撫でた。空には、大きな満月が浮かんでいる。
「降ろせ…人間の庭など、穢らわしい…」
「お前の故郷の森も、同じ月を見ていたはずだ」
リアンは静かに言うと、彼女を中庭の中央にあるベンチに、そっと座らせた。
エリアーナは、最初は憎悪の目で周囲を睨みつけていたが、やがて、その視線が庭の一点に留まった。
月下美人。
白い大輪の花が、月の光を浴びて、まさに今、その蕾をゆっくりと開こうとしている瞬間だった。その神秘的で、儚い美しさは、種族を超えて、見る者の心を打つ何かを持っていた。
リアンは、エリアーナの隣に座ることはせず、少し離れた場所で、月下美人の手入れを始めた。伸びすぎた葉を摘み、土の状態を確かめる。その姿は、冷徹な奴隷商ではなく、ただ、植物を愛する一人の男のものだった。ミナがかつて窓から見た光景と、全く同じだった。
長い、長い沈黙が続いた。ただ、虫の声と、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。
月下美人が、完全にその花を開いた時、リアンは、エリアーナに背を向けたまま、静かに口を開いた。
「この花は、一晩しか咲かない。夜が明ける頃には、もう萎んでしまう。…だからこそ、美しいのかもしれん」
「……」
「お前の故郷の森も、そうではないか?焼かれて失われたからこそ、お前の心の中では、永遠に、誰にも汚されることのない、美しい姿のまま生き続ける」
その言葉は、エリアーナの心の、最も固い部分を揺さぶった。
「偽善者め…!」
絞り出すような声で、彼女は言った。「お前たち人間に…森の痛み、同胞を失う悲しみなど、分かりはしないッ!」
「ああ、分からない」
リアンは、あっさりとそれを認めた。そして、ゆっくりと彼女の方を振り返った。その瞳には、いつもの氷の冷たさではなく、月光を映した、深い湖のような静けさがあった。
「森の痛みは、分からない。だが…失う痛みを、俺は知っている」
リアンは、語り始めた。
誰にも話したことのない、十年前の罪の記憶を。
神託によって、望まぬ奴隷商という職を与えられたこと。
サイラス奴隷館で出会った、一人の銀髪の少女、ルナのこと。
彼女の心を殺す『隷属の首輪』を、自分の手で嵌めたこと。
そして、彼女の魂の歌声を、金貨五十枚で、リヒターという卑劣な貴族に売り渡したこと。
それは、奴隷に対する告白ではなかった。一人の罪人が、もう一人の絶望せる魂の前で行う、懺悔そのものだった。
「俺は、彼女を守ると誓いながら、自分の無力さを言い訳に、彼女の魂を売り飛ばした。俺の今の地位も、富も、全ては彼女の犠牲の上に成り立っている。この館は、俺の罪の墓標だ」
エリアーナは、息をのんでリアンの言葉を聞いていた。
彼女は、目の前の男の顔を、改めてまじまじと見つめた。その表情は凍りついている。だが、その瞳の奥で渦巻いているのは、憎悪ではなかった。後悔と、自己への嫌悪と、そして決して終わることのない贖罪を自らに課した者の、底なしの絶望。
それは、彼女が抱く、人間への燃えるような憎しみとは、全く異質の、しかし同じくらい深く、暗い闇の色をしていた。
この男は、自分と同じか、あるいはそれ以上に、救いのない地獄を生きている。
「…俺は、お前の憎しみを否定しない。お前が人間を呪うのは、当然の権利だ。だが、その憎しみで、お前自身の魂まで焼き尽くすな。生きろ、エリアーナ。生きて、俺がこれから何をするのか、その目で見届けろ。俺の贖罪が、偽善か、それとも本物か…それを裁くのは、お前のような人間でもいい」
リアンは立ち上がると、エリアーナに手を差し伸べた。
「部屋に戻るぞ。そして、食事を摂れ。生きるためには、エネルギーが必要だ」
エリアーナは、その手をしばらく見つめていた。やがて、彼女は、リアンの手を借りることなく、自らの力で、ゆっくりと、しかし確かに立ち上がった。
その夜、エリアーナは、サミュエルが運んできたスープを、五日ぶりに、無言で口にした。
終章:凍てついた弦
月夜の対話から数日が過ぎ、エリアーナの態度は、わずかにではあるが変化を見せていた。
彼女は、まだ誰とも言葉を交わそうとはしなかったが、食事は摂るようになり、リアンが部屋に入っても、壁を向いて完全に存在を拒絶するようなことはなくなった。
だが、彼女の瞳から憎悪の炎が消えたわけではなかった。むしろ、その炎は、より深く、より静かに燃えるようになったように見えた。彼女はリアンという人間を、そして彼の言う「贖罪」を、値踏みするように観察し始めたのだ。この男は、自分の復讐のために、あるいは絶望から抜け出すために、利用できるかもしれない。そんな冷たい計算が、彼女の行動の根底にはあった。
リアンも、その変化に気づいていた。彼は、エリアーナの心の氷が、ほんの少しだけ溶け始めたことを理解していた。だが、その下に現れたのが、信頼ではなく、打算であることも。
それでいい、とリアンは思った。どんな形であれ、彼女が「生きる」という意思を取り戻したのなら、それが第一歩だ。
ある日の午後、リアンは館の倉庫の奥から、一つの古い楽器を持ち出してきた。
それは、優美な曲線を描く、小ぶりの竪琴だった。使われずに長く放置されていたのか、全体が埃を被り、いくつかの弦は切れかかっている。
リアンは、それを自らの執務室に持ち帰ると、柔らかい布で丁寧に埃を拭い、新しい弦を一本一本、慎重に張り替え始めた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うように、どこまでも優しかった。
それは、かつて彼が、まだサイラス奴隷館の見習いだった頃、心を殺されたルナのために、いつか手に入れてやりたいと、密かに願っていたものとよく似ていた。
竪琴の手入れを終えると、リアンはそれをエリアーナの部屋へ運んだ。
エリアーナは、突然現れた竪琴を見て、目を見開いた。
「お前は『森の歌い手』だったと聞いた」
リアンは、竪琴を壁に立てかけながら言った。「心が凍てついたままでは、良い音は奏でられないだろう。お前の故郷を讃える歌は、もう歌えないのかもしれない。だが…弦に触れることで、思い出せるものもあるはずだ。忘れたくない記憶があるのなら、その指で確かめろ」
そう言うと、リアンは部屋を後にした。
エリアーナは、残された竪琴を、まるで恐ろしい獣でも見るかのような目で、遠巻きに眺めていた。
弦に触れること。それは、彼女が失った全て…美しい森、優しい同胞、そして歌に満ちた平和な日々を、その指先にまざまざと感じてしまうことを意味した。その記憶は、彼女の心を慰めるどころか、憎しみの炎をさらに燃え上がらせるだけかもしれない。
その夜、リアン奴隷館の静寂を破るように、一つの音が響き渡った。
それは、竪琴の音だった。
最初は、ポツリ、ポツリと、ためらうように奏でられる単音。やがて、それは壊れた旋律となり、部屋から漏れ出してくる。
その音色は、決して美しくはなかった。調律は狂い、奏者の指は憎しみと悲しみで震えている。それは、絶望と、呪いと、そして、ほんのわずかな追憶が、ぐちゃぐちゃに入り混じった、エリアーナの魂の音そのものだった。
執務室の窓辺に立ち、リアンはその不協和音に、静かに耳を傾けていた。
彼は、ミナの旅立ちによって、自らの贖罪に一つの小さな救いを見出した。
そして今、エリアーナという、より深く、より複雑な絶望と向き合っている。
彼女の凍てついた弦が、いつか本当の歌を奏でる日が来るのか、彼には分からない。
だが、それでいい。
若き奴隷商の孤独な贖罪の道は、まだ長く、そしてどこまでも暗い。
それでも、彼は歩き続ける。
その道の先に、たとえ赦しがなかったとしても。
彼の凍てついた心に、壊れた竪琴の調べが、子守唄のように、あるいは鎮魂歌のように、静かに響き続けていた。
五話に続く⋯