第三話:贖罪の奴隷館
一章:黒曜石の館の主
王都アステリア南区画。かつて澱んだ空気が支配し、まっとうな市民が眉をひそめて通り過ぎたこの場所は、この十年で大きくその姿を変えた。その変貌の中心に、静かな威厳を放って鎮座するのが、黒曜石の城と通称される『リアン奴隷館』である。
その館の主、リアン・アシュフォードは、王都の裏社会において一つの伝説だった。弱冠二十五歳にしてギルドの幹部に名を連ね、その冷徹な手腕と、決して感情を読ませない鉄仮面によって、同業者からも畏怖される存在。彼の前に立つ者は、まるで魂の芯まで見透かされ、その価値を無慈悲に査定されるような感覚に陥るという。
その朝、リアン奴隷館の応接室は、緊張した空気に包まれていた。
リアンは、黒檀の執務机ではなく、客用のソファに深く腰掛けていた。彼の前には、脂ぎった汗を額に浮かべた恰幅のいい商人、バルドルフが座っている。バルドルフは、亜人専門の奴隷商で、その強引で非道なやり方で知られる男だ。
「…して、リアン殿。例の鉱山用のドワーフの件、どうにかなりませんかね? 十人まとめてなら、この値段で…」
バルドルフが提示した羊皮紙を、リアンは一瞥もせずに、テーブルの上の紅茶に口をつけた。その所作には、一分の隙もない。
「お断りします、バルドルフ殿」
リアンの声は、静かだが部屋の隅々まで響き渡った。「あなたの扱う『商品』は、質が悪い。怪我や病を隠して納品するのは、あなたの常套手段だ。俺の館の信用を、あなたの悪評で汚すつもりはない」
「なっ…!そ、そんなことは…!」
「三ヶ月前、あなたが北の鉱山に売ったドワーフのうち、二人が一月も経たずに死んだ。過労と、不十分な治療による感染症が原因だ。情報は、金で買えるのですよ。あなたが得る端金よりも、ずっと高価な金でね」
リアンの氷の視線が、バルドマスクを射抜く。バルドルフは、まるで心臓を直接掴まれたかのように顔を青ざめさせた。
「俺の時間を無駄にしないでいただきたい。お帰りを」
最後通牒だった。バルドルフは、屈辱に顔を歪ませながらも、すごすごと立ち上がり、逃げるように部屋を後にしていく。
その一部始終を、部屋の隅に控えていた老執事が、静かに見守っていた。彼の名はサミュエル。リアンが独立した当初から、彼に仕えている唯一の腹心だ。
「…よろしいのですか、旦那様。バルドルフはギルド内でも顔が利きます。あまり敵に回すと…」
「問題ない」
リアンはカップを置いた。「腐った枝は、自重で折れる。俺は、それに手を貸す必要はない。…それより、サミュエル。今日の『入荷』の時間は?」
「はい。正午過ぎに到着の予定です。護送人は、いつもの『運び屋』どもでございます」
「そうか…」
リアンは、ふと窓の外に目をやった。ガラスに映る自分の顔には、何の感情も浮かんでいない。十年という歳月は、彼に富と地位を与え、同時に、心を凍てつかせるための分厚い氷の仮面を与えていた。
この十年間、リアンは地獄を生きてきた。
ルナを売り払ったあの夜から、彼は眠りを失った。瞼を閉じれば、銀色の髪の少女が、涙を流しながら彼を責める。金貨五十枚の重みが、毎晩、彼の胸を押しつぶした。
彼は、復讐を誓った。リヒター準男爵にではない。この非道な奴隷制度そのものにでもない。そんな大それたことではない。彼が復讐を誓ったのは、何よりも無力で、少女一人救えなかった、十年前の自分自身に対してだった。
彼は心を鬼にした。ギデオンの教えを骨の髄まで叩き込み、誰よりも冷酷で、有能な奴隷商になった。汚い仕事も厭わなかった。非道な取引にも手を染めた。そうして得た金と力で、彼はこの『リアン奴隷館』を築き上げたのだ。
全ては、たった一つの目的のため。
いつか、自分の手で、あの日の過ちを償う場所を作るため。奴隷が、幸福になる権利を探せる、ただ一つの聖域を。
その目的のためなら、悪魔とさえ呼ばれることも厭わなかった。
二章:エメラルドの瞳の既視感
正午過ぎ。館の裏口に、一台の幌馬車が到着した。
リアンは、執務室の窓からその様子を無言で見下ろしていた。二人の屈強な運び屋が、荷台から一人の少女を引きずり出す。
その姿を見た瞬間、リアンの心臓が、大きく脈打った。
猫の獣人。
長い、艶やかな黒髪。
(ルナ…?)
違う。あの娘の髪は、月光のような銀色だった。だが、恐怖に怯える姿、力なく垂れた耳、その全てが、十年前の記憶を鮮烈に呼び覚ます。
リアンは、目を固く閉じた。瞼の裏に、涙を流すルナの顔が焼き付いている。
『許さない』
幻聴が聞こえた。彼は、ゆっくりと息を吐き、再び氷の仮面を顔に戻すと、執務室を出た。
ミナは、恐怖に震えていた。
彼女を買い取ったのは、王都で最も冷酷だと噂の奴隷商、『リアン』。馬車の中で、運び屋たちが下卑た笑いを浮かべながら、彼の悪評を語り合っていたのを、彼女は聞いていた。
「リアンの旦那は、奴隷を人間だなんて思っちゃいねえ。ただの『投資対象』だ。利益が出なけりゃ、即処分さ」
「前に、反抗的な獣人の男がいたらしいが、見せしめに両足の腱を切って、物乞いに売り飛ばしたそうだぜ」
そんな男に、自分はこれから何をされるのだろう。ミナの頭は、最悪の想像でいっぱいだった。
彼女が連れていかれたのは、館の主の執務室だった。部屋の中央に立たされたミナは、目の前の男を見ることさえできず、ただ俯いていた。
運び屋たちが、下卑た声で主に話しかけている。
「よぉ、リアン様。ご指定の品を連れてきたぜ。上玉だろ?」
静寂。そして、空気を凍らせるような、低く、冷たい声が響いた。
「…静かにしろ。俺の館で、大声を出すな」
その一言で、運び屋たちの声が止んだ。ミナは、空気が変わったのを感じた。この部屋の支配者は、間違いなく、目の前のこの男だと。
「契約金は、経理の者から受け取れ。それと、その汚い手で商品に触れるな。価値が下がる」
「へ、へい!」
運び屋たちが、慌ててミナから手を離し、逃げるように部屋を出ていく。重い扉が閉められ、ミナは、ついに悪魔と二人きりになった。
死を覚悟する。どうせ、短い命だった。せめて、苦しまずに殺してほしい。
だが、男は何もしてこなかった。ただ、沈黙が続いた。耐えきれなくなったミナが、恐る恐る顔を上げると、男の氷のような瞳と目が合った。
その瞳は、冷たい。しかし、そこには運び屋たちのような、嗜虐的な光はなかった。まるで、複雑な数式を解く学者のような、あるいは、難解な芸術品を鑑定する専門家のような、どこまでも理性的で、人間味のない光。
「俺の名はリアン・アシュフォード。今日から、お前は俺の『管理物』となる」
その声には、やはり感情がなかった。「立てるか?」
ミナは、震える足でなんとか立ち上がった。
リアンは、彼女の前に立つと、その痩せこけた体を、頭のてっぺんからつま先まで、じっくりと観察した。
「…ミナ、という名で登録されているな」
「……はい」
かろうじて、声を絞り出す。
「そうか。その名は捨てろ。ここでは、お前は『商品番号B-12』だ」
絶望が、ミナの心を叩きのめした。やはり、この男も同じだ。名前を奪い、人間としての尊厳を奪う。
だが、リアンは続けた。
「だが、お前が自分自身の心を保ちたいと願うなら、その名を胸の中で呼び続けろ。俺がお前を番号で呼ぶのは、俺自身がお前に不要な感傷を抱かぬためだ。お前まで、それに倣う必要はない」
「……え?」
ミナは、自分の耳を疑った。言っている意味が、分からない。
リアンは、それ以上何も言わず、彼女に背を向けた。「ついてこい。まずは、その身を清める。不衛生は、価値低下の最大要因だからな」
三章:温かい檻、優しい地獄
ミナは、夢を見ているようだった。
彼女が連れていかれたのは、白い大理石の、陽光あふれる豪奢な浴室だった。
リアンは、老執事のサミュエルに命じて、湯の準備をさせた。サミュエルは、ミナに同情的な、優しい目をしていたが、主人の前では忠実な僕に徹していた。
「服を脱げ」
リアンの命令に、ミナは体をこわばらせた。だが、彼が続ける。
「サミュエル。彼女の服を。それから、傷に効く薬草と、清潔な包帯を」
サミュエルが、ミナの汚れた服を丁寧に脱がせていく。リアンは、ミナの裸体を前にしても、その表情を一切変えなかった。彼は、医者が患者を診るように、彼女の体にある無数の傷や痣を、一つ一つ確認していく。
「背中のこの傷は古いな。鞭の痕か。左足首の火傷跡…これは、懲罰用の焼きごてか」
彼の口から語られるのは、ミナが忘れたくても忘れられなかった、地獄の記憶だった。だが、彼の声には何の感情もない。ただ、事実を分析しているだけだ。
リアンは、自ら薬草をすりつぶし、軟膏を作ると、サミュエルに言った。
「湯で体を温め、血行を良くしてから、この薬を塗ってやれ。傷跡が残ると、価値が下がる」
そう言うと、彼は浴室を出ていった。
残されたサミュエルは、ミナを優しく湯船に入れてくれた。温かい湯が、冷え切った体を包み込む。ミナは、あまりの心地よさに、思わず涙がこぼれた。
「驚かれましたかな、お嬢さん」
サミュエルが、ミナの背中を洗いながら、穏やかに話しかけてきた。
「旦那様は、ああいうお方です。お言葉は厳しいですが、決して理不尽なことはなさいません。旦那様が管理される『お客様』は、皆、最高の環境を与えられます」
「おきゃく、さま…?」
「左様。旦那様は、奴隷の方々をそうお呼びになります。心の中では」
ミナには、その言葉の意味がまだ理解できなかった。
風呂から上がると、豪華で、清潔で、安全な個室が与えられた。ミナは、天蓋付きのベッドの柔らかさに、声を失った。こんな場所で眠っていいのだろうか。
夜には、サミュエルが温かい食事を運んできた。それは、ミナが今まで口にしたどんなものよりも美味しい、心のこもった料理だった。
ミナは、恐怖と混乱の中で、少しずつ体力を回復させていった。
ある夜、彼女は眠れずに、部屋の窓から外を眺めていた。窓の下には、手入れの行き届いた美しい中庭が広がっている。月明かりの下、その庭に、一つの人影があった。
リアンだった。
彼は、奴隷商の冷たい仮面を脱ぎ捨て、ただ無心に、庭の草木の手入れをしていた。その横顔は、昼間の彼とは別人のように、穏やかで、そしてどこか深い悲しみを湛えているように見えた。
彼は、一輪の月下美人の前に座り込み、その白い花がゆっくりと開いていくのを、ただじっと、何時間も見つめていた。その姿は、まるで、失われた何かを悼んでいるかのようだった。
ミナは、その光景から目が離せなかった。あの男は、一体、何者なのだろう。あの冷たい仮面の下には、一体どんな顔が隠されているのだろう。
四章:書物という名の翼
ミナの生活は、規則正しく、そして平穏だった。
リアンは毎日、彼女の部屋を訪れ、健康状態をチェックする。その際の会話は、常に業務的だ。
「昨夜は眠れたか?」
「食事は全部食べたか?」
「体の痛みは?」
ミナがそれに答えると、彼は「そうか」とだけ言って、去っていく。
だが、彼の後に、いつもサミュエルがやってきた。そして、リアンが置いていったものを、ミナに渡すのだ。
ある時は、美しい挿絵の入った詩集。ある時は、遠い国の地理が書かれた本。またある時は、複雑なパズルの玩具。
「旦那様からです。『知性は、心を豊かにする。豊かな心は、表情を明るくする。明るい表情は、商品価値を高める』と、仰せでした」
サミュエルは、リアンの冷たい言葉を、温かいオブラートに包んで伝えてくれた。
ミナは、与えられた本を夢中になって読んだ。文字を学ぶことは、彼女に新しい世界を与えてくれた。物語の世界に没頭している間だけは、自分が奴隷であるという現実を忘れられた。
彼女は、リアン奴隷館の中にある、小さな図書室の存在も知った。そこには、歴史、哲学、魔法理論といった、様々な分野の本が並んでいた。奴隷に、このような知識を与えるなど、常識では考えられないことだった。
「なぜ…?」
ミナがサミュエルに尋ねると、老執事は少し寂しそうに微笑んだ。
「旦那様は、信じておられるのです。翼を奪われた鳥にも、空を夢見る権利はある、と。…いえ、知識という、別の翼を与えたい、と願っておられるのかもしれませんな」
ミナは、少しずつ、この館の異常な「優しさ」の理由を、自分なりに解釈しようとしていた。
リアンという男は、究極の合理主義者なのだ。奴隷を最高の状態で管理し、最高の付加価値をつけ、最高の値段で売る。そのために、彼は他の奴隷商が誰も思いつかないような、途方もない投資をしているのだ。
そう考えれば、全てに納得がいく。彼の行動には、善意など一片もない。全ては、利益のため。
そう自分に言い聞かせると、少しだけ心が楽になった。彼の与える優しさを、素直に受け取れるようになった。
だが、心のどこかで、違う、と囁く声が聞こえていた。あの、月下美人を見つめていた、彼の悲しげな横顔が、どうしても頭から離れなかった。
五章:魂の値段を決める契約
ミナが館に来て、一月が経った。彼女は見違えるように健康になり、その緑の瞳には、かつての怯えではなく、知性と、そして落ち着きが宿るようになっていた。
その日、リアンはミナを執務室に呼び出した。彼の前には、数人の男たちの経歴が書かれた書類が並べられていた。
「お前の、買い手候補だ」
リアンが、淡々と言った。ミナの心臓が、どきりと音を立てる。ついに、この時が来たのだ。
「候補者は、三人に絞った。一人は、引退した老騎士。温厚な性格で、話し相手を求めている。一人は、裕福な織物商。妻を亡くし、家事と子供の世話をしてくれる、家族のような存在を探している。最後の一人は、若い魔術師だ。研究の助手として、知性のある亜人を探している」
リアンは、それぞれの候補者の、良い点も、悪い点も、全てを包み隠さずミナに説明した。
「これから、一人ずつ、お前と面会させる。その上で、誰を選ぶか、あるい全員を拒否するか、お前自身が決めろ」
「わ、私が…決める…?」
「ああ。言ったはずだ。お前には『拒否権』があると」
ミナは、ゴクリと喉を鳴らした。この一月で、リアンの言葉に嘘がないことは、理解し始めていた。だが、それでも、自分の人生の最大の選択を、自分自身に委ねられるという事実が、にわかには信じられなかった。
「もし…もし、私が断ったら…旦那様は、どうするんですか?」
「別の候補者を探す。お前が納得するまで、何度でもだ」
「それは…旦那様の、損になるのではありませんか…?」
「短期的に見ればな。だが、長期的に見れば、これが最善だ。『リアン奴隷館の奴隷は、決して不幸にならない』。その評判こそが、俺にとって最大の利益となる」
彼の理論は、完璧だった。どこにも、感情の入り込む隙はない。
だが、ミナは、勇気を出して、ずっと疑問に思っていたことを口にした。
「…これは、罠ですか?」
「罠?」
「私が候補者を拒否したら、それを理由に、私を罰するつもりですか?『お前は、与えられた好意を無にした』と、言って…」
ミナの言葉に、リアンの動きが、完全に止まった。
彼の氷の仮面に、初めて、亀裂が走ったのを、ミナは見た。その瞳が、激しく揺れ、その奥に、耐えがたいほどの苦痛と後悔の色が浮かび上がる。
彼の脳裏に、あの声が蘇っていた。
『もし失敗すれば、どうなるか分かってるな?あの娘は『欠陥商品』として、もっと悲惨な場所に売り飛ばされることになる』
十年前の、ギデオンの言葉。そして、それに従い、ルナを追い詰めた、自分自身の姿。
ミナの言葉は、リアンの最も深い傷を、容赦なく抉っていた。
「……罰しは、しない」
長い沈黙の後、リアンは、絞り出すような声で言った。その声は、いつもの冷たさを保とうとしながらも、微かに震えていた。
「お前のその疑念は…お前がこれまで受けてきた仕打ちを考えれば、当然の反応だ。論理的な帰結だ。それを、俺が責める権利はない」
彼は、ミナの疑いを、肯定も否定もせず、ただ事実として受け入れた。
その反応は、ミナにとって、どんな優しい言葉よりも、心に響いた。この人は、自分の心を、痛みを、理解しようとしてくれている。
リアンは立ち上がると、執務室の棚から、一枚の古い羊皮紙を取り出した。それは、金貨五十枚で交わされた、少女の売買契約書だった。彼は、それを暖炉の中に投げ入れた。炎が、一瞬にして、彼の過去の罪を灰に変える。
だが、罪は消えない。記憶は消えない。
「俺は…」
リアンは、炎を見つめながら言った。その声は、もはやミナに語りかけているのではなかった。十年前に、ここにいない少女に、語りかけていた。
「俺は、二度と、過ちを繰り返さない。…絶対にだ」
彼は、ミナの方に振り返った。その瞳には、もはや揺らぎはなかった。そこにあるのは、自らに課した贖罪を、生涯をかけて果たし抜くという、鋼鉄の決意だけだった。
「さあ、決めろ、ミナ。お前の人生の、最初の選択だ。お前が、お前自身の意思で、幸福になるための道を、選べ」
彼は、初めて、彼女を名前で呼んだ。
ミナの緑色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみや恐怖の涙ではなかった。
生まれて初めて、一人の人間として扱われたことへの、感謝と、そして、目の前の孤独な男に対する、計り知れないほどの、共感の涙だった。
この人は、自分と同じか、あるいはそれ以上に、深い傷を負って生きている。
ミナは、涙を拭うと、まっすぐにリアンを見つめ、はっきりと、そして力強く言った。
「…はい、旦那様」
若き奴隷商の孤独な贖罪の道は、今、初めて、一人の理解者を得た。
彼の凍てついた心に、十年ぶりに、温かい光が差し込もうとしていた。物語は、まだ始まったばかりだ。
四話に続く⋯