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第一話:神託と隷属の首輪

一章:太陽の神託


火の月が天頂に昇り、一年で最も神々の神威が高まるとされる日。王都アステリアのすべての若者が、固唾をのんでこの日を待っていた。成人を迎える十五歳の者たちが、街の中心にそびえる太陽神殿に集い、生涯を捧げる職業を神託によって授かる『天職の儀』が行われる日だ。

リアンもまた、その一人だった。

亜麻色の髪を揺らし、緊張にこわばる顔で神殿の石畳を踏みしめる。周囲には、同じように期待と不安をない交ぜにした表情の少年少女たちがひしめき合っていた。壮麗なステンドグラスから差し込む光が、彼らの顔をまだらに照らし出している。

「なあリアン、お前は何になりたい?」

隣に立つ親友のマルクが、興奮気味に小声で話しかけてきた。マルクはがっしりとした体躯の持ち主で、その手にはすでに剣ダコができている。彼の望みは言うまでもない。

「僕は…そうだな、魔法使いがいいかな。父さんみたいな、偉大な学者になるのも夢だけど」

リアンの父は王立図書館の司書で、古文書の解読を専門とする学者だった。リアンもその影響で本が好きで、まだ見ぬ魔法の知識や、失われた古代文明の謎に心を躍らせていた。戦士や騎士のような、血と鉄の匂いがする職業は、どうにも自分には向いていない気がしていた。

「魔法使いか!それもいいな!俺が前衛で敵を薙ぎ払い、リアンが後方から強力な魔法で援護する!最高のパーティじゃないか!」

「はは、気が早いよ」

マルクの屈託のない笑顔に、リアンの緊張も少しだけ和らいだ。そうだ、どんな職業を授かろうと、マルクとの友情は変わらない。そう信じたかった。

やがて、荘厳なパイプオルガンの音色が響き渡り、神殿内が静寂に包まれる。純白の祭服に身を包んだ大神官が、ゆっくりと祭壇に進み出た。

「これより、太陽神ソルの御名において、若人たちに未来への道標を授ける。神託を受けし者は、その天職を生涯の誇りとし、王国の発展に寄与することを誓いたまえ」

一人、また一人と名前が呼ばれ、若者たちが祭壇の前へと進み出る。彼らが祭壇に安置された『神託の宝珠』に手をかざすと、宝珠はまばゆい光を放ち、その光の色と形状によって職業が示されるのだ。

「マルク・グレンジャー!」

親友の名が呼ばれた。マルクは胸を張り、堂々とした足取りで前へ進む。彼が宝珠に手をかざすと、宝珠は燃えるような深紅の光を放ち、鋭い剣の形を幻影として映し出した。

「神託は『聖騎士』!栄光ある道である!」

大神官の声が響き渡り、周囲からどよめきと羨望の声が上がる。聖騎士は、戦士の中でも特に名誉ある、神殿直属の騎士だ。マルクは満面の笑みで拳を突き上げ、リアンに向かってウインクしてみせた。リアンも心から祝福の拍手を送った。

次々と神託が下される。『鍛冶師』を示す鉄色の光。『治癒士』を示す柔らかな緑の光。『弓兵』を示す風切る矢の幻影。誰もが、自分の未来に一喜一憂している。

そして、ついにリアンの番が来た。

「リアン・アシュフォード!」

心臓が早鐘のように鳴る。リアンは震える足で一歩を踏み出し、ゆっくりと祭壇へ向かった。冷たい汗が背中を伝う。どうか、どうか穏やかな職業でありますように。彼は祈りながら、恐る恐る神託の宝珠に手をかざした。

その瞬間、宝珠はこれまで誰も見たことのない、奇妙な光を放った。

それは、富を象徴する黄金の光と、絶望を象徴する漆黒の光が、まるで毒蛇のように絡み合いながら渦を巻く、不気味な光だった。そして光の中心には、一本の鎖と、精巧な作りの首輪の幻影が浮かび上がっていた。

神殿内が水を打ったように静まりかえる。誰もがその不吉な光景に息をのんだ。大神官が、わずかに眉をひそめ、古文書をめくってその神託の意味を確認する。やがて、彼は重々しく口を開いた。その声には、先程までの晴れやかさは微塵もなかった。

「神託は……『奴隷商』」

その言葉は、まるで石のようにリアンの胸に突き刺さった。

奴隷商。

獣人やエルフといった亜人や、戦争捕虜、あるいは借金で身を売った人間を「商品」として売買する、街の裏側で生きる者たち。人々からは蔑まれ、同時に恐れられる存在。心優しいリアンにとって、それは最も縁遠く、最も嫌悪すべき職業だった。

周囲の視線が痛い。同情、好奇心、そして侮蔑。さっきまで笑顔で語り合っていた友人たちが、そっと目を逸らす。マルクだけが、信じられないという顔で立ち尽くしていた。

リアンは、頭が真っ白になったまま、ふらふらと祭壇から下りた。自分の足が地面についている感覚すらなかった。

儀式が終わり、神殿の外に出ると、マルクが駆け寄ってきた。

「リアン!そんな、何かの間違いだ!大神官様にもう一度確認してもらおう!」

「……いいんだ、マルク。神託は絶対だ。覆ることはない」

リアンは力なく首を振った。その声は自分でも驚くほどにかすれていた。

「でも、お前が奴隷商なんて!あんな非道な仕事…お前には無理だ!」

「……どうすればいいか、僕にも分からないよ」

絶望が、冷たい霧のようにリアンの心を包み込んでいた。なぜ、僕が。本を読み、知識を探求することを愛した僕が、なぜ人の自由を奪い、魂を踏みにじる商売をしなければならないのか。太陽神ソルは、あまりにも残酷な運命を彼に与えた。

青年の輝かしい未来は、神託という絶対的な権威によって、音を立てて崩れ去った。彼の新しい一歩は、泥と絶望の中から始まることになったのだ。


二章:サイラス奴隷館の門


神託から三日後、リアンはまるで罪人のような足取りで、王都の南区画に足を運んでいた。北区画の貴族街や、中央区画の商業ギルドの華やかさとは対照的に、南区画は煤けた建物が密集し、路地裏からは得体のしれない匂いが漂ってくる。ここは、王都の光が届かぬ影の部分だ。

その一角に、目的の建物はあった。

『サイラス奴隷館』

黒いオーク材で作られた重厚な看板には、金の鎖を模した装飾が施されている。建物自体は石造りで、窓には厳重な鉄格子がはめられ、まるで砦か監獄のような威圧感を放っていた。リアンはドアの前で何度も深呼吸を繰り返したが、中に入る勇気が出ない。

(本当に、ここで働くのか…僕が?)

神託の後、リアンは家に引きこもった。優しい両親は彼を慰めてくれたが、神託が絶対であるこの世界で、彼らにできることは何もなかった。「天職に就かぬ者」は、社会からつまはじきにされ、まともな生活を送ることすら許されない。たとえそれがどれほど不本意な職業であっても、リアンには受け入れる以外の選択肢はなかった。

「……行くしかない」

意を決して、リアンは重い扉を押し開けた。カラン、と乾いたベルの音が鳴る。

内部は、外観の印象とは裏腹に、驚くほど静かで、そして清潔だった。磨き上げられた床には高価そうな絨毯が敷かれ、壁には趣味の良い絵画が飾られている。空気には、消毒薬と、微かに甘い香油の匂いが混じっていた。一見すると、高級な骨董品店のようだ。

受付カウンターの奥から、一人の男が顔を出す。鋭い目つきをした、痩身の男だった。

「……何の用だ、小僧。ここはガキの遊び場じゃないぞ」

「あ、あの…神託で、奴隷商の天職を授かりまして…今日からこちらでお世話になるよう、神殿から紹介状を…」

リアンは震える手で、懐から羊皮紙の紹介状を取り出した。男は疑わしげな目でリアンを頭のてっぺんからつま先まで眺めると、ひったくるように紹介状を受け取った。

「ふん、『リアン・アシュフォード』か。聞いてるぜ。神託ってのも酔狂なことをする。お前みたいなひ弱そうなのが奴隷商とはな」

男はサイラス奴隷館の支配人、ヴァルガスだと名乗った。

「まあいい。神託は絶対だ。辞めたいと言っても無駄だからな。覚悟を決めろ。…ギデオン!新入りだ!そいつにイロハを叩き込んでやれ!」

ヴァルガスが奥に向かって怒鳴ると、ずしん、ずしんと重い足音が近づいてきた。

現れたのは、リアンの胸ほどの背丈しかない、しかし横幅はリアンの倍はあろうかという、屈強なドワーフだった。見事に編み込まれた赤茶色の髭、分厚い胸板、そして岩のようにごつごつした手。その瞳は、長年、値踏みするように人や物を見続けてきた者特有の、冷徹な光を宿していた。

「へっ、こいつが例の坊やか。神官様も人が悪ぃ。こんな泣きそうな顔したガキを俺たちに押し付けるとはな」

ギデオンと名乗ったドワーフは、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。

「俺はギデオン。今日からお前の先輩であり、師匠だ。まあ、せいぜい一週間もてば上出来だろうがな。ついてこい。まずは俺たちの『商品』がどういうものか、その目で確かめさせてやる」

ギデオンはリアンを促し、受付の奥にある鉄の扉へと向かった。重々しい錠前を鍵で開け、扉を開くと、ひやりとした空気がリアンの肌を撫でた。そして、消毒薬の匂いに混じって、生々しい獣の匂いと、拭いきれない絶望の匂いが鼻をついた。

そこは、地下へと続く螺旋階段だった。

「いいか、坊主。奴隷商の心得その一だ」

ギデオンは階段を下りながら、低い声で言った。

「俺たちが扱うのは『商品』だ。人間でも、獣人でも、エルフでもない。ただの『商品』。値段がつけられ、売買される『物』だ。それ以上でも、それ以下でもない。そこに私情を挟むな。同情、憐憫、共感…そんなもんはクソの役にも立たん。むしろ商売の邪魔になるだけだ。最初にそれを頭に叩き込め」

階段を下りきると、そこには長い廊下が伸びており、両脇には頑丈な鉄格子のついた独房がずらりと並んでいた。薄暗い魔光石の明かりが、独房の中をぼんやりと照らし出している。

いくつかの独房からは、うめき声や、鎖の擦れる音が聞こえた。鉄格子の向こうに見える瞳は、どれも光を失い、虚ろだった。狼の獣人、傷ついたオーク、痩せこけた人間。彼らはリアンたちの姿を認めると、あるいは怯えたように身を縮こまらせ、あるいは敵意むき出しで唸り声を上げた。

リアンは胃がせり上がってくるような不快感を覚えた。本で読んだ知識とは違う。これが、現実。人が人としての尊厳を奪われ、「物」として扱われる場所。

「どうした、坊主。青い顔しやがって」

ギデオンが面白そうにリアンの顔を覗き込む。

「心得その二。商品は常に清潔に保ち、健康状態を維持しろ。病気になったり、痩せ細ったりすれば価値が下がるからな。だが、無駄な餌はやるな。最低限の維持費で、最高の価値を生み出す。それが商売の基本だ」

ギデオンは独房の一つを棍棒でガンと叩いた。中にいたゴブリンが悲鳴を上げて飛びのく。

「そして心得その三。最も重要だ。決して、商品に『名前』で呼びかけるな。名で呼べば、それは『個』になる。俺たちが扱うのは、あくまで『ロット番号いくつ』の『商品』だ。分かったな?」

リアンは、何も答えられなかった。ただ、こくりと頷くのが精一杯だった。彼の理想も、優しさも、この地下牢の冷たい空気の中では、何の価値もない戯言に過ぎないように思えた。


三章:銀色の瞳を持つ少女


リアンが奴隷館で働き始めて、一週間が過ぎた。

彼の仕事は、主に「商品」の管理だった。決められた時間に、味気ない麦粥を独房に運び、汚れた床を水で洗い流し、排泄物を処理する。単純だが、精神をすり減らす作業だった。

奴隷たちは、彼が決して着たくなかった「サイラス奴隷館」の制服を見るだけで、敵意や恐怖をむき出しにした。リアンがどんなに穏やかに接しようとしても、彼らにとってリアンは、自分たちを支配し、商品として扱う「敵」でしかなかった。

ギデオンの指導は、徹底して実利的だった。

「おい坊主、その獣人の餌は多すぎる!そいつは明日、鉱山に売られる予定だ。多少痩せていても買い手はつく。餌代の無駄だ」

「傷の手当てにそんな上等な薬草を使うな!傷が膿んで死なれちゃ困るが、見た目が多少悪くても構わん。一番安い消毒薬で十分だ」

リアンの心は、日に日に麻痺していくようだった。一つ一つの非道な行いに心を痛めていては、身が持たない。ギデオンの言う通り、「商品」だと割り切らなければ、正気ではいられない。そう自分に言い聞かせる毎日だった。

そんなある日の午後、奴隷館の裏口が騒がしくなった。新たな「商品」の入荷だ。荷馬車から引きずり降ろされてきたのは、まだ年端もいかない、一人の少女だった。

彼女は猫の獣人だった。薄汚れた麻布をまとっているが、その下から覗く体はひどく痩せこけている。銀色の長い髪は泥と埃で汚れ、ところどころがもつれて塊になっていた。尖った猫の耳は力なく垂れ、ふさふさとした尻尾は恐怖で足の間に固く巻き込まれている。

「おい、新入り!こいつはお前に任せる」

ギデオンが、顎で少女をしゃくって言った。

「お前の初仕事だ。こいつを『商品』に仕上げろ。まずは身体を洗い、鑑定して報告書を作成しろ。価値がありそうなら、それなりの待遇で管理する。価値がなけりゃ、雑務用の奴隷としてすぐにでも売りさばく」

「僕が…一人で、ですか?」

「当たり前だ。いつまでも俺が手取り足取り教えると思うな。さっさとやれ」

リアンは、恐怖に震える少女の前に立った。彼女はリアンの制服を見ると、びくりと体を震わせ、威嚇するように「シャーッ!」と鋭い声を上げた。その琥珀色の瞳は、恐怖と、そしてまだ消えやらぬ野生の誇りで燃えているように見えた。しかし、その体は小刻みに震え続けている。

リアンはため息をつき、できるだけ穏やかな声で話しかけた。

「怖がらなくていい。何もしないから。ただ、体を綺麗にしないと…病気になるから」

もちろん、少女に言葉が通じるはずもない。彼女は後ずさり、壁に背中を押し付けた。

リアンは困り果てた。ギデオンなら、力ずくで彼女を洗い場に引きずっていくだろう。だが、そんなことはしたくなかった。

彼はしばらく考えた後、厨房へ向かい、温かいミルクを一杯、器に入れて持ってきた。そして、少女から数歩離れた場所に、そっと置いた。

「お腹が空いているだろう。まずは、これを飲むといい」

リアンはそれだけ言うと、彼女を刺激しないように、ゆっくりと距離をとってその場に座り込んだ。

少女は、警戒心に満ちた目で、リアンとミルクの器を交互に見ていた。喉がごくりと鳴るのが見えた。きっと何日もまともなものを口にしていないのだろう。

長い、長い沈黙が続いた。リアンはただ、辛抱強く待った。

やがて、少女は恐る恐る四つん這いになり、蛇のように用心深く、ゆっくりとミルクの器に近づいた。そして、素早く一口飲むと、弾かれたように後ずさる。毒が入っていないか確かめているのだ。

リアンは動かなかった。ただ静かに彼女を見守っていた。

安全だと判断したのか、少女は再び器に近づき、今度は夢中になってミルクを飲み始めた。空っぽの胃に温かいミルクが染み渡るのが、よほど心地よいのだろう。その姿は、威嚇していた時とはうってかわって、年相応の幼気なものだった。

ミルクを飲み干すと、少女は少しだけ落ち着いたように見えた。体の震えも、いくらか収まっている。

「さあ、今度こそ体を洗おう。大丈夫、優しくするから」

リアンは再びゆっくりと立ち上がり、洗い場を指差した。今度は、少女も先程よりは抵抗しなかった。リアンは彼女の腕を掴むようなことはせず、ただ前を歩いて促すだけにした。少女は、おそるおそる、しかし自分の足でリアンの後についてきた。

洗い場で、リアンは手桶に汲んだぬるま湯を、丁寧に少女の体にかけてやった。泥と垢で汚れた銀髪を、指で優しく梳かしながら洗ってやる。少女の体は、驚くほど軽かった。あばら骨が浮き出て、痛々しい。腕や足には、細かい傷や痣が無数にあった。きっと、捕らえられるまでに、ひどい仕打ちを受けてきたのだろう。

体を洗い終え、使い古しの清潔な布で体を拭いてやると、見違えるように綺麗になった。汚れてごわごわだった銀髪は、本来の輝きを取り戻し、月光のように滑らかだった。顔の汚れが落ちると、整った顔立ちが現れた。大きな琥珀色の瞳は、まだ警戒心を宿しているが、ガラス玉のように澄んでいる。

(綺麗な子だ…)

リアンは思わずそう思ったが、すぐに首を振ってその考えを打ち消した。ダメだ、ギデオンの言葉を思い出せ。「商品」に私情を挟むな。見た目が良いということは、それだけ高く売れるということだ。それ以上ではない。

リアンは少女に新しい麻の服を着せると、鑑定のために彼女の体を調べ始めた。これは、奴隷商として最も重要な、そして最も非人間的な作業だった。

「ちょっと口を開けて」

歯の状態を見る。栄養状態や年齢を推測するためだ。少女は嫌がったが、リアンが根気よく促すと、小さく口を開けた。歯並びは良く、欠けているところもなさそうだ。

次に、手を見る。指は細く、しなやかだ。肉体労働をしていたような硬いタコはない。

最後に、背中や足に、大きな傷や病気の兆候がないかを確認する。幸い、目立つ古傷や、治りにくい病気の痕跡はなかった。

鑑定を終え、リアンは彼女を空いていた独房の一つに入れた。鉄格子を閉め、錠をかける時の、ガチャンという無機質な金属音が、やけに胸に響いた。少女は独房の隅で、膝を抱えてうずくまっている。その姿は、あまりにも小さく、か弱く見えた。

リアンは、報告書を作成するために事務所に戻った。

『商品番号:C-77。猫獣人、雌。推定年齢12~14歳。健康状態、良好。栄養状態は劣悪だが回復の見込みあり。特筆すべき技能は不明。容姿は整っており、愛玩用としての価値、高し。特記事項:警戒心が強いが、凶暴性は低い。時間をかければ、基本的な命令には従うよう調教可能と推測される』

ペンを走らせながら、リアンは吐き気を覚えた。一人の少女の尊厳を、無機質な言葉に置き換えていく作業。これが、自分の「天職」なのか。

報告書を書き終えた彼は、ギデオンに提出した。ギデオンはそれにさっと目を通すと、満足げに頷いた。

「ほう、なかなか上出来じゃないか、坊主。鑑定の目は悪くなさそうだ。こいつは良い値がつくぞ。愛玩用としてなら、そこそこの貴族が欲しがるかもしれん。よし、明日からは基本的な躾を教え込め。お辞儀の仕方、簡単な返事の仕方、それから…」

ギデオンはにやりと笑った。

「『ご主人様』という言葉を、その口から言わせるんだ。それができれば、お前も奴隷商として一人前の一歩手前だ」

その言葉に、リアンは目の前が暗くなるのを感じた。あの誇り高そうな瞳をした少女に、屈辱的な言葉を強要する。それは、彼女の心を殺す行為に他ならなかった。


四章:隷属の首輪と小さな抵抗


翌日から、リアンの新しい苦悩が始まった。ギデオンに命じられた通り、少女に「躾」を施さなければならないのだ。

リアンはまず、彼女とのコミュニケーションを試みた。

「君の名前は?」

独房の前に座り込み、鉄格子越しに話しかける。少女は、ただ黙ってリアンを見つめるだけだ。琥珀色の瞳が、お前なんかに名乗るものか、と語っているようだった。

「何か、話してくれないか。故郷のこととか、好きだったものとか…」

答えはない。彼女は心を固く閉ざしてしまっている。リアンが何を言っても、暖簾に腕押しだった。

数日が過ぎた。リアンは毎日、彼女の独房に通い、食事を運び、語りかけた。成果はなかったが、それでも諦めなかった。

ある夜、見回りをしていたリアンは、彼女の独房から、小さな、小さな歌声が聞こえてくるのに気づいた。それは特定の歌詞があるわけではなく、故郷のメロディを口ずさんでいるような、悲しくも美しいハミングだった。

月明かりが、鉄格子を通して彼女の銀髪を照らしている。その姿は、まるで囚われた月の妖精のようだった。リアンは、その歌声に心を奪われ、しばらくの間、ただ静かに聞き入っていた。

(そうだ…この子に名前をつけよう)

ギデオンの言いつけを破ることになる。だが、リアンには彼女を「C-77」と呼び続けることは、どうしてもできなかった。

月の光に照らされた、美しい少女。

「ルナ」

リアンは、心の中でそっと彼女をそう名付けた。誰にも言わない、自分だけの秘密の名前。それは、非道な奴隷商という職業に対する、リアンのささやかな抵抗だった。

しかし、そんな穏やかな時間は長くは続かない。

「おい、リアン!いつまであの猫娘と遊んでるんだ!一向に躾が進んでいないそうじゃないか!」

ギデオンの怒声が飛んだ。

「申し訳ありません…彼女、警戒心が強くて…」

「言い訳は聞きたくない!このままじゃ商品価値が下がる一方だ。こうなったら、最終手段だ。あれを持ってこい」

ギデオンが指差したのは、事務所の棚に置かれた、一つの箱だった。リアンがその箱を開けると、中には黒い金属でできた、冷たい輝きを放つ首輪が入っていた。

『隷属の首輪』。

着用者の精神に直接干渉し、所有者の命令に強制的に従わせる、魔道具だ。抵抗すれば、激しい苦痛を与える。これをつけることは、奴隷が完全に自由と意思を放棄したことを意味する。

「そ、そんな…!これを使ったら、彼女の心が壊れてしまう!」

「だからいいんじゃねえか。余計なことを考えない、従順な人形の出来上がりだ。人形の方が、買い手も安心して飼えるだろうよ」

ギデオンは冷酷に言い放った。

「さあ、やれ。これも奴隷商の仕事だ。お前がやらなきゃ、俺がやる。俺がやれば、あいつの細い首がどうなるか、分かるよな?」

脅しだった。だが、それは紛れもない事実だった。ギデオンならば、何の躊躇もなく、乱暴に彼女の首にこれをはめるだろう。

リアンは、震える手で首輪を手に取った。ずしりと重い。それは、少女の尊厳の重さそのもののように感じられた。

独房へ向かう足取りは、鉛のように重かった。ルナは、リアンが手にしているものを見て、瞬時にその意味を理解したのだろう。彼女の顔から血の気が引き、琥珀色の瞳が絶望に見開かれた。

「いや…いやっ!」

初めて、彼女がはっきりとした拒絶の言葉を発した。後ずさり、独房の隅で体を固くする。

「ごめん…ごめんよ…」

リアンは、そう謝ることしかできなかった。錠を開け、独房の中に入る。

ルナは、最後の抵抗を試みた。リアンが近づくと、鋭い爪を立てて腕に飛びかかってきた。リアンの腕に、数条の赤い線が走る。だが、痩せこけた少女の力など、たかが知れていた。リアンは心を鬼にして彼女の体を押さえつけ、首に冷たい金属の輪を回した。

カチリ、と留め金が音を立てる。

その瞬間、首輪に刻まれた魔術印が淡い紫色の光を放った。

「あ……ぁ…ッ!」

ルナの喉から、苦悶の声が漏れた。体が弓なりにしなり、けいれんする。強制的に精神を服従させる魔術が、彼女の脳を焼いているのだ。

リアンは、その光景をただ見ていることしかできなかった。自分の手で、一人の少女の心を殺している。罪悪感が、嵐のように彼の内側で荒れ狂った。

やがて、光が収まると、ルナはぐったりと床に倒れ込んでいた。あれほど激しかった抵抗の光は、その瞳から消え失せ、ただ虚ろな光だけが宿っていた。

リアンは、ゆっくりと彼女から離れた。

「…立て」

ほとんど無意識に、彼は命令していた。

すると、ルナの体が、まるで糸で操られた人形のように、ぎこちなく立ち上がった。その動きには、一切の意思が感じられない。

「……お辞儀をしろ」

ルナは、ゆっくりと、深く頭を下げた。完璧な、感情のないお辞儀だった。

リアンは、自分のしたことの恐ろしさに、その場にへたり込みそうになった。腕に残る、彼女がつけた引っ掻き傷だけが、彼女にまだ意思があったことの証明のようだった。

独房を出て、再び錠をかける。リアンは鉄格子の向こうで、人形のように立ち尽くすルナの姿から、目を離すことができなかった。

これでよかったのか?いや、いいはずがない。

だが、自分には何ができた?これを拒否すれば、ギデオンがもっと非道なやり方をしただけだ。それに、自分も奴隷館を追い出され、路頭に迷う。

どうしようもない無力感が、リアンを支配した。

その夜、リアンは自室のベッドで眠れずにいた。腕の傷が、ずきずきと痛む。それは、少女の心の痛みそのもののように思えた。

(僕は、ただ生きていくために、魂を売ってしまった)

神託を恨んだ。世界を呪った。そして、何より、何もできなかった自分自身が許せなかった。

夜が明け、リアンが重い体を引きずって地下牢へ向かうと、ルナの独房の前でギデオンが腕を組んで立っていた。

「どうだ、見事な商品になっただろう」

ギデオンは満足げに言った。リアンは何も答えず、鉄格子の中を見た。ルナは、昨日と同じように、虚ろな目で立ち尽くしている。

リアンは、いつものように麦粥の入った器を、独房の小窓から差し入れた。

「…食べろ」

命令すると、ルナは人形のように器を受け取り、味も分からないまま、それを口に運び始めた。

リアンがその場を去ろうとした時だった。

ポツリ、と。

麦粥を食べていたルナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、器の中に吸い込まれていった。

彼女は、泣いていた。

首輪は彼女の体を操り、意思を縛り付けた。だが、その魂の奥深くにある悲しみまでは、完全には殺しきれていなかったのだ。

その一粒の涙を見た瞬間、リアンの心に、何かが灯った。

それは、絶望の闇の中に射し込んだ、ほんの小さな、小さな光だった。

(終わってない。彼女の心は、まだ死んでなんかいない)

彼は奴隷商だ。彼女を自由にすることはできない。この非道なシステムから救い出す力もない。

だが、決意した。

この仕事から、逃げない。この絶望的な状況の中で、自分にできることを、やれるだけのことをやろう。

いつか、彼女が本当に心から笑える日が来るまで。あるいは、彼女が自分を殺しに来るその日まで。

この隷属の首輪をつけた少女の隣で、自分もまた、奴隷商という見えざる首輪につながれた奴隷として、生きていこう。

リアンは、虚ろな目で食事を続ける少女を、もう一度まっすぐに見つめた。そして、誰にも聞こえない声で、しかしはっきりと、心の中で呟いた。

「大丈夫だよ、ルナ。僕が、そばにいる」

奴隷商リアン・アシュフォードの、苦悩に満ちた物語は、今、静かに幕を開けた。彼の腕に刻まれた傷と、少女の流した一粒の涙と共に。


二話に続く⋯

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