いつも開かない扉の奥で。
四限終了のチャイムがなると同時に俺は弁当を片手に持って屋上へと向かった。
屋上──それは皆が想像する屋上とは違うだろう。アニメや漫画で出てくる屋上を想像したのならそれは間違いだ。俺が向かっているのは……。
屋上へと繋がる階段──静かだ。こんなとこに来る奴はそういない。だって何もないのだ。こんなとこに来たって……。四階の更に上、五階とでもいうのか、屋上なのか……。俺はそんな何とも言えない境目を上っている。
屋上へと続く扉──俺はその扉のドアノブに手をまわした。開かない。鍵が掛かっている。
「はぁ、流石に今日も閉まっているか」
閉まっているなどとうに分かっているのだ。もう高二になった今ですら学校がある日は毎日ここに来ている。経験上、この屋上へと続く扉の鍵が開いていた、なんてことはない。そもそも普通は開いていないのだ。開いている方がおかしい。俺も学習しないな。
扉の鍵が閉まっていることを確認した俺は、その五階と思われる小さなスペースで昼飯を食べた。誰もいない。静寂の中、いつものようにひとりで。
◇
「今日は大事なお報せがあります」
いつもの朝礼が始まると思いきや、何やら先生は楽しそうにそんなことを言う。別に大事なお報せなど珍しいものでもないが、ちょっと俺も気になるな。クラスの皆も少し不安じみた表情を浮かべている。
「えーと、この度新しく転校生がこのクラスに加わることになりました」
転校生? 珍しいな。正直俺は興味ないが、クラスの皆も喜んでいることだし、俺も素直に喜んだ方がいいのかな。実際教室は先程とは比にならないほどの騒ぎ具合だ。
「では入ってきてください、柏屋優音さん」
そう先生が合図をすると、教室の前のドアから一人の女子が入ってきた。さらっとした美しく長い黒髪を背中に垂らし、モデルを凌駕する体系と、その笑顔を絶やさない整いすぎた顔はいとも簡単にクラス中の皆の目をくぎ付けにさせた。
「そ、それでは柏屋優音さん、自己紹介だけお願いできますか?」
先生が言うと、その女子は黒板に自分の名前──柏屋優音と書き、またクラスの皆の方を向いて初めて声を発した。
「初めまして、私の名前は柏屋優音と申します。気軽に話していただけたら嬉しいです。これからよろしくお願いします」
凛とした、涼しく透き通った声だった。洗脳されそうな、そんな声。簡潔な自己紹介だったが、それでもこの声音で言われるとどうしても満足してしまう。魔法のような声だった。
何気に柏屋の事を見ていると、一瞬彼女と目が合ってしまった。柏屋の瞳だけは、美しくなかった。笑顔のはずだが、目だけは笑っていない。
柏屋はそんな俺に微笑み、また前を向く。何を考えているのか全く分からなかった。
「ありがとう柏屋。じゃあ君はそこの席に──」
「先生、私あの子の横の席がいいです」
柏屋が指したのは俺だった。だがそれは出来ないな。だって、俺の横の席は空いていないのだ。変な奴……。
「そうか。じゃあ緋夏はあそこに座ってもらって、柏屋はそこに座ってくれ」
は!?
「ありがとうございます」
無茶ぶりな柏屋の願いを、先生は元からそうだったかのように俺の左横の緋夏に命令した。緋夏もその命令に何かを思ったそぶりもなく、ロボットのように従った。俺が見る限りクラスの皆も何も反応しない。何かがおかしい。
「よろしく、君の名前は?」
早速柏屋は俺の横に座り、名前を問うてくる。別に俺はこいつと仲良くなりたいわけではないが……下手に仲良くなりすぎると、周りからの視線も良くなさそうだし。教えるのは名前だけで留めておくか。
「……よろしく。俺は糸瀬穂隆」
「糸瀬くん、か。君は珍しい子だね」
柏屋はそう意味のわからない台詞を口に出し微笑んでから、一限目の用意をしだした。
結局、こいつは一体何なのか……珍しいのはどっちだよ……。
◇
柏屋優音は思いのほか、すぐにクラスに馴染んでいた。高いコミュ力のおかげか、その容姿のおかげか。わからないが、一~三限の休み時間はとにかく人だかりが出来ていた。違うクラスからも、その美しい容姿を一目見ようという輩も来る。隣の席のせいか、俺もその被害にあっていた。人だかりが邪魔すぎるのだ。そのおかげで満足に休憩時間を過ごせなかった。
そしてついに四限目の昼休み。俺が一番好きな時間。俺を飯に誘う奴なんて誰もいないが、別に何も思わない。そうなったのは、自分のせいなのだから……。
俺は、いつものように弁当を持って屋上へと向かった。これから起こる結果も、何もかもすべてわかる。何故それでも俺が行くかって、理由は何だったんだろうな。もう、ここまでくると今更辞められない。淡くも何も無い希望をもって。
そういえば今柏屋優音は何をしているのだろうな、とどうでもいいことが頭の片隅に過よぎりながらも、何度も触ったドアノブに手を回した。
「え……嘘、だろ……」
ガチャリと、開いたのだ。一年も開かなかった扉が、何の予兆もなく開いたのだ。
だが、いざ開けてみるとなんだ、何も感じなかった。喜びも何もない。ただただ不思議な気持ちしか頭になかった。
扉の隙間から一筋の強い光が漏れた。それは、俺がずっと欲していたもの……なのか? わからない。何が何だか分からなくなってきた。なんで開いたのかも分からない。とにかく、進もう。この俺が目指していた屋上へと……。
「糸瀬くん?」
「は? なんでお前が……」
予想だにしない声が、前から聞こえた。柏屋優音の、声だった……。太陽の日差しに照らされ、風に髪をなびかせる柏屋は、これ以上になく美しかった。
「私も同じ気持ちなんだけどね。へへ、やっぱり私たち気が合うのかも」
「どうでもいい。絡繰りを教えろ。どうやって開けた?」
「うーん、教えなきゃ、ダメ?」
やはり、俺の嫌いな笑顔だった。調子が狂う。
「別にそういうわけではないが……」
「そうだね~じゃあ特別に。糸瀬くん、その弁当ちょっと地面に置いてくれる?」
「何故だ?」
「ふふ、やっぱり君は面白いね。良いよ。特別に教えてあげる」
意味が分からない。俺は何もしていないぞ……。
「糸瀬くん、そんなに離れてたらゆっくりできないから、もっとこっち来て」
確かにここで立ち尽くすのもなんだし、ちょっとだけなら……。
「……わかった」
俺はそのまま柏屋の横に座って、弁当を前に持った。
「それは素直に従ってくれるんだね。昼食は勝手に食べようとするけど」
「そんなの人の勝手だろ。そもそも俺はここに一人で食べに来たんだ。邪魔をするな」
「えー、やっぱり素直じゃない。あ、待って!」
俺が弁当の蓋を開けようとした時、柏屋に呼び止められた。
「なんだ? 俺が飯を食おうとした時に……」
「いやちょっと見てほしいことがあってね。そのまましっかりお弁当を持ってて」
何をしたいのかわからないが、俺は言われた通りに弁当を両手でしっかりと持った。
「糸瀬くんのお弁当の蓋よ、開け!」
「そんなお子様じみた……ええ!?」
驚いた。それも柏屋の言った通り俺の弁当の蓋が勝手に開いたからだ。俺もちゃんと見ていたが、何も種も仕掛けもなかった。本当に勝手に動いたのだ。
「ね、開いたでしょ。これが私の能力」
もうここまでくると驚きも何もなくなってきた。今日は散々な日々だ。
「じゃあその能力でドアノブの鍵を開けたということか?」
「へぇ、意外と冷静なんだね。そう、この私の能力、私の命令は絶対。それがたとえ生き物じゃなくても。例外もあるけどね」
命令は絶対……そういうことだったのか。あの違和感、今日の席の指定、だから皆何も思わずに席を移動させ……え、じゃあなんで俺はこの違和感に気付けたのだ?
「そう、例外は君。私初めて会ったの。私の能力が効かない人。だから、私にも希望が持てるんだって、君は気付かせてくれた」
俺が気付かせた……。何の希望を……。
「私が教室に入ったとき、つまらなさそうに私の事を見ていたのは君だけ。自分で言うのもなんだけどね、この容姿を見た人の目を引かなかったのは君が初めてだったの。それだけじゃなく、私の命令に口答えしたのも君だけ。今日、私は君に会って色々初めてな事を体験したの。ここに来るまでは、どうせどこも一緒だろうと思ってた──」
「……やめてくれ……」
「私、この力が嫌いなの……だけど、だけど君みたいな人がいてくれるのなら──」
「やめてくれっていっただろ!」
いつの間にか俺は立ち上がっていた。
「え……?」
柏屋は先程までの笑顔を失い、俺の言葉に目を見開いた。
「お前は一体何を言っているんだ。そんなこと言われても、俺は……何もわからないんだ……。そもそも、会って数時間の人がお互いの事を理解しあえることが現実じゃないんだ。だから、そういう話は……もっと仲良くなってから……」
柏屋の顔に色が戻ってくる。一陣の風が吹いた。それは何かを意味するように。
「ふふ、なぁんだ。嫌われたかと思っちゃった。驚かせないでよー」
別に柏屋自身が嫌いってわけじゃないが。何だか居辛い。
「じゃあ、俺は教室に戻る」
「えー早いよー。もっとお話ししたかったな」
こちとらこんな美少女と二人っきりでいるのは精神が持たなねえんだわ。だからここは退散させてくれ。
「そもそも話をしにここに来たわけじゃないんだけどな。昼食は教室で食べるよ」
そう言って俺は元来た扉の方に向かった。
「また明日も、私はここにいるから」
柏屋は俺の背中に向かってそう言う。俺にまた来いとでも言いたいのか。はっきり言ってくれればいいのに。
「後、言い忘れてたけど、その嘘の笑顔は辞めとけ。見ていて腹が立つ」
それだけ言って俺は屋内へと入っていった。その後柏屋がどういう表情をしたのかなんてわからない。ただ、見ていられなかった。
◇
この日、糸瀬穂隆が初めて姿を現して昼食を食べていた、という話が校内中に広まった。
一年間も皆の知らないとこで昼食を食べていたせいか、糸瀬穂隆という存在は昼休みだけ幻の存在になっていたのだ。
◇
「や、おはよ。糸瀬くん」
俺が席に着くと、隣から挨拶をされた。柏屋だ。何事もなかったかのように、相変わらず嘘の笑顔で。
「おはよ……」
「てかいつもそんなにギリギリなの? もう朝礼始まるよ?」
別に早くいっても何も起こらないのだ。そもそも朝礼が始まるまでに席に着いたら全部一緒だろ。
「今、朝礼始まる前に着いたら良いとか思ったでしょ」
「え、何故わかった!?」
エスパーだ……。いやもう既に変な能力使う時点でエスパーだが。
「ふふ、君の顔を見たらわかるよ」
「いやまだ会って一日しか経ってないって……」
「んー正直、私……あ、朝礼始まった」
何を言いかけたのだろう……。別に俺には関係ないか。俺は人の事を気にする立場じゃない。俺は、ここにいてはいけない存在なんだから。
朝礼が終わり、そのまま一限目が始まった。一限目の授業内容は俺の嫌いな数Ⅱだ。数学なんてこの世から消え去ればいいと思っている。現在先生は意味の分からん複素数平面が何たらだとか……延々と講義が続いている。
「ねね、糸瀬くん」
ぼーっとその講義を聞いていたら、横から静かな俺の嫌いな声が聞こえた。多分気のせいだろう。
「ね、糸瀬くん。無視しないで」
あーなんだこれ。遂に俺にも幻聴が聞こえてきたか。まあ嫌いな授業だし、疲れているのだろう。ちゃんと寝てるし、寝不足ということは無いと思うんだけどな。
「いて! 何しやがる……」
こいつ、シャーペンを俺の腕に刺しやがった……。もうダメだ、地獄だこの席……。なんで俺が無視しただけでこんな仕打ちを受けるんだ。授業中だぞ授業中、私語は厳禁だってのに……。現に少しだけ左を向いてみると、柏屋が右手にシャーペン握ってニヤニヤしている。もう世も末だ。
「おーい、糸瀬。僕の完璧な授業中に変な奇声を上げるな」
俺の嫌いな数学の先生に注意された。全部柏屋のせいなんだ。許してくれよ。
「気のせいじゃないですか?」
何故か元凶である柏屋がそう先生に向かって言った。俺を庇おうとでもしているのか、元凶なのに。意味わからん。
「ん? 確かに気のせいかもしれないな。すまん糸瀬」
「へ、あ……大丈夫です……」
頭から離れていた。そうだ、柏屋こいつ変な能力使うんだった。じゃあ先生の抑止がこいつには効かないことになる……これは本気でまずいかもしれない。
「糸瀬くん、これでわかった? 君に私の能力が効かなくても、場を使えば力ずくで……」
いや怖い怖い怖い。とんでもないサイコパスや。穏便に済ませなければ。
「わ、わかったから……何が目的だ?」
「目的ってわけじゃないんだけど、君も数学苦手でしょ?」
やっぱりこいつエスパーだ。
「そうだけど、それがどうした」
「単なる私の遊びよ」
柏屋はそう言ってちゃんと授業を聞く姿勢に切り替えた。何だったのか、嫌な予感がする。
それから少しもしないうちに先生が黒板に大きく数式を書き始めた。書き終わると先生は皆の方を向く。これはあれだ、誰かを当てて答えさせるやつだ。俺を当てないでくれよ……とどうせみんな思っているのだろう。俺もだ。
「糸瀬穂隆を当てて」
は? 柏屋それだけは……やべえって……。遊びの範囲を超えているぞ。ただの嫌がらせじゃねえか。
「はい、じゃあ糸瀬。この数式をxについて解いてくれ」
「…………」
案の定だ。もう、明日から学校行かないでおこうかな。その前に柏屋に罪を償わせてから……。
「糸瀬? 早く解いてくれ。こんな低レベル問題だったら一瞬で解けるだろ」
皆の視線が俺を向く。期待の眼差し、急かすような眼差し、面白半分な眼差し……。今、俺はこの年になって一番焦っていた。それと同時に柏屋への恨みも増大していく。
解が分からない。授業をちゃんと聞いていなかったせいだ。もう、何もしていないけど許してくれ柏屋……悪かったよお前に恨みを持って。助けてくれえええ柏屋ああぁぁ……。
「(-1√3i)/3ですね」
柏屋……? お前……愛してる。俺はもう一生お前についていくよ。
「そうだ、柏屋。糸瀬は放課後残って勉強だな」
結局居残りかよおおぉ! 柏屋、お前はもう死刑。一生ついていくとか言った俺がバカだった。
憎しみを込めた眼差しで柏屋を見つめ返すと、勝ったといわんばかりの笑顔を返された。
少しイラっと来たけど、でも最初の時よりはマシになったか。俺は嫌いなんだ、不本意な笑顔が。生きている心地がしない。
そんなこんなで授業も四限目を突入し、そのまま昼休みに入った。
昼休み、俺が一番好きな時間。何のために学校に来ているのかなんて聞かれたらまっさきに俺は昼休みが思いつく。別に昼休みに何かするってわけではないが、いつの間にか何となく昼休みに特別な感情を抱いていたのだ。
俺はふと左隣の席を見た。先程までいたはずだが……またあそこに……。皆も柏屋がどこに行ったのか気になっているようだったが、さしてそこまで気にしている様子もなかった。俺はもう既に空気扱いだが。
今日も弁当を片手に持って、俺は屋上へと向かった。正直、昨日あんなことがあったせいで、思うように足が動かない。それでも、俺は屋上へと向かった。
いつも静けさが漂う階段を上ると心もいつの間にか安らんでいた。屋上へと続く扉の前、俺はそのドアノブを捻った。一昨日まで開かなかったドアノブがガチャリと音を立て、扉の隙間から眩い太陽の日差しが漏れる。そのまま重い扉を開くと、快晴の空が広がっていった。
「やほ、絶対来てくれると思った」
やはり、そこにはその笑顔に似合わないほどの美人な柏屋が立っていた。グラウンドを見渡たすよう、網に手を当てて。その風景は、絵に描いたように美しかった。
「何を勘違いしている。俺は毎日ここに来ているんだ。決してお前のために来たわけじゃない」
「またそうはぐらかしてー」
はぐらかすも何も事実を言ったまでなのだが。はぁ、早く昼食食べよ。
俺はグランドを見つめたままの柏屋を横に、昼食をひとりで食べる。無言の間が続くが、大して気にならなかった。これがあるべき姿なのだと思った。
「柏屋は食べないのか?」
何も口にしない柏屋がどうしても気になってしまい聞いてしまった。そういえば昨日も手ぶらだったし。
「心配してくれるんだ。優しいね君は。ちょっと食べる気が起きないだけだから。心配しないで、私は大丈夫」
大丈夫って言われても……そんな顔で言われたら心配しないわけがないだろ。
まあいい。本人が言っているんだ。これ以上は深く言及しない方がいい。
俺は食べ終わった弁当を布に包む。そして片手に持って、グラウンドを見つめる柏屋の横に立った。俺も網に左手を当てて、グラウンドを見渡した。グラウンドには、ただただ暑い日差しだけが当たり、オレンジ色に輝いている。
高校生になってからグラウンドで遊ぶ人は極端に減った。中学までは外でサッカーをしたりドッヂボールをしたり、鬼ごっこをしたりと皆はしゃいでいたわけだが。これも精神が子供から遠ざかっている証拠か。悲しいものだな。大人に近づいていくなんて……。
「悲しいよね。私たち子供は一生子供のままでいい。あんな大人になんて、なりたくない……」
柏屋はまたもや俺の感情をくみ取ったのか、そんな事を言い出した。それはまさに俺が考えていたこと。そんな気もしていたがやはり、こいつも俺と同類だったか。
「あぁ、そうだな。俺らは一生このままでいい。大人になんて、なりたくないしならせたくない。でもそんなこと言ってもしょうがないよな。人間はそういう生き物なんだ。どうしても、醜く、自分の罪もわからないような大人になってしまうんだ」
俺が、こんな人間になったのもあいつらのせい。何もかも、あいつらのせいなんだ。
「その気持ち、わかるよ。糸瀬くん。でも、良い大人もいるよ」
「良い大人、か。少なくとも俺の近くにはそんなやついなかったな」
教師だって、授業するだけで他は何もしてやくれない。ただ課せられた仕事を淡々とこなすだけだ。
「一人だけ、一人だけいたの。もう、その人はいないけど……」
柏屋の横顔が沈んでいく。
「一度だけでいい。あの日に戻って、やり直したい」
あの日に戻って、やり直したい。誰でも一度は思ったことはあるだろう。俺だって……いや、俺は生まれた時から間違っていたんだ。だけど、この子は、俺よりも……。
「何があったんだ?」
「……ううん、何でもない。気にしないで……」
「そうか……」
流石に、そうなるか。でも殻にこもると、いつか俺みたいになる。時には取り返せないほどの事態も予想される。そんなこと、俺の身内で起こってほしくない。
「柏屋、お前の目は俺に似ている。お前が俺の考えを見抜くように、俺もお前の考えていることくらい少しはわかるんだぞ。何か、一人では抱えきれない悩みがあれば俺に相談してくれ。それで俺が何かできるってわけではないが、一人より二人の方が心強いだろ」
「そう、だね……ありがと、糸瀬くん。いつか、聞かせてあげるから。君には私のすべてをわかってほしい。私と似ていたの、目が。そんな人、やっぱり君が初めてだよ」
俺だってお前みたいなやつが始めてだ。いつも、人前では人一倍の笑顔を見せているはずなのに、その裏はどこか脆く悲しい顔が。すぐに消えてしまいそうで、壊れる寸前の笑顔……俺が守らなければいけない。放っておくと、いつか絶対に後悔してしまう。そんな気がした。
「穂隆くん」
柏屋は網から手を放し、俺の方を向いた。
「俺の名前……」
「そう、君の名前。やっぱり仲良くなるためにはお互い名前で呼び合う仲にならないとね。だから、穂隆くんも私の事は名前で呼んでほしい」
「……嫌だ」
恥ずかしい……。
「なんでそんなこと言うのー。やっぱり穂隆くんは私のお願いを直ぐに聞いてくれないかぁ。悲しいなぁ」
んー、わかったよ……。なんで俺がこんなことを……。
「柏屋、優音……」
「そこから苗字を抜いて?」
「……優音」
「よーくできました。えらいえらい」
俺は子供じゃないんだ。てかそもそも名前を呼んだだけでえらいえらいって何だよ。完全にからかわれている……。
「ふふ、穂隆くんって意外と可愛いんだね~」
「なんだよ、優音の方が可愛いだろ」
「へ!?」
あ、まずい。反論しようとしたら思わず口から出てしまった……。
柏屋は頬を真っ赤に染め、口をパクパクさせながら俺から顔を逸らす。
「えっと、なんか、ごめん……」
「な、なんで謝るのよ。全然大丈夫だから。むしろ、嬉しいし……」
「そ、そうか……ごめん」
「いやだからなんで謝るのよ」
俺はまともに柏屋──いや、優音の笑顔を見たような気がした。普通に笑ったら、こんなにも可愛いんだと。このまま何もなければいいのだが……な。
◆
俺は生まれてきてはいけない存在だった。
物心が付くころには既にそのことを理解していた。何故なら生まれた時からずっと両親から罵倒され続けたからだ。
穂隆は不本意な子だとか、穂隆は邪魔な子だとか、ついには穂隆は私の子供じゃないだとか……。ご飯もろくに与えてもらえず、ただ自分にあったものは狭く何もない部屋だけだった。正直初めの頃は物心が付く前から一般家庭を見てこなかったため、それが普通だと思っていた。
そのまま小学校に入学した。入学式の時、何かがおかしいなと思った。皆にはちゃんと両親が付いており、賑やかに話している。それと違い俺だけ一切会話もせず、一枚も写真も撮らない。その時確信した。俺は普通じゃないんだって。入学する前から、生まれてきてはいけない存在だということは理解していたが、そこまで深くも考えていなかった。
それからというもの、同級生と話していくうち段々と俺の異常な窮地を理解していった。親の罵倒も全く減らないためストレスも増えていった。でも俺は誰にもそのことを相談しなかった。誰かに言って、そのことがばれてどんな仕打ちを受けるのかが怖かったからだ。だから俺は無理やりにでも普通を装った。親に迷惑をかけないよう、頑張った。
そのまま俺は中学生に上がった。友達も少なくはなかった。だけど、親のこともあって俺は誰も信用できなくなっていた。思春期も入って、ストレスもさらに増していた。その時はじめて思った。
このまま死んだらどれだけ楽なのか。この生きた心地のしない生活から逃れるためには、死ぬしかないと。親も何度か俺に「消えて」とも言ったことあるし、俺が死ぬと親も喜んでくれるだろう。
それからというものの俺は楽な死に方を色々考えた。それで考えたのが転落死だった。苦しむ暇もなく終わる。一番良い死に方だなと。そして死に場所も考えた。生憎学校以外は外出させてもらえないので、もう学校しかない。学校の屋上しか。
俺は次の日屋上に行った。思い通り鍵は閉まっている。でも何としてでも屋上に行きたかった。その時は頭の中が死ぬことでいっぱいだったのだ。毎日昼休みと放課後は屋上に向かい、鍵穴に針金を通して開けようとした。一か月もかかった。開いた時の俺はどんな感情だったかももう忘れた。すぐさま俺は屋上に出ていき、端に行く。網が貼ってあったため、簡単には飛び降りられなかった。網をよじ登り、一歩足を踏み出せば落ちるとこまで来た。やっと死ねるんだ、と思った。そして一歩、踏み出そうとして俺は初めて気づいた。俺は死ぬのが怖いんだと。それも足が動かなかったからだ。
その日は自殺を諦め、家に帰った。親は変わらず俺を無視するし、ろくな飯も与えてくれない。やっぱり俺は死んだ方がマシだと思った。なんであの時俺は死ねなかったのか、死ぬ勇気もない俺を憎んだ。
毎日俺は屋上へ行った。それでも結局飛ばず、家に帰る毎日だった。
中三になったある日、俺は親に一人暮らしをさせられることになった。小さいアパートを買われ、三年間は暮らせるだけのお金も貰い、家を出ていかされた。もう家には帰ってくるなという言葉を残し。
正直一人暮らしをさせられたときは嬉しかった。親の虐待じみた生活から逃れられるからだ。一か月も経ったらストレスもほぼ無くなっていった。でも、何故だか屋上には毎日行っていた。別に死ぬ気もなかったと思うが、辞められなかった。屋上に行くことに何か意味があるのだと思うようになっていたのだ。
あの時、俺は自殺しなくて正解だったと思う。だって、今こうして何不自由なく、青春をさせてもらえてるから。
今でも俺は親が嫌いだ。親が現在どうしているかなんて知らない。
親のせいで俺は人間不信になれた。いつでも俺は人間の裏を見るようになった。人間を恐れるようになったのだ。でも子供だけは違った。多くの子供に裏はない。純粋だった。けどそれと違って大人は闇を抱えていた。
高校生になって人々は変わった。どこか純粋さも消え、大人になりかけている。怖かった。いつか俺もそうなるんじゃないかって。いやもうなってるのかもしれないな。
高校生になっても俺は屋上に行くことをやめなかった。理由なんてわからない。もしかしたら、俺と同じ人を探すためだったのかもしれない。案の定、そういうやつも現れたわけだが。
その命、絶対に守り抜いて見せる。俺の存在意義は、君だから。
◇
柏屋と会ってから三カ月以上経った。
「暑いね~」
「あぁ、もう9月ってのにな」
夏休みも終わり、厚さが残る残暑の中俺たちはいつものように屋上にいた。
「あれ、どうしたんだ優音。今日は何も持っていないようだが」
会ってから一か月経ったくらいから、優音は毎日弁当を持ってくるようになっていた。心境の変化だったのだろうか、素直に嬉しかった。
だが今日、毎日当たり前のように弁当を持ってきていた優音が珍しく持ってきていなかった。あの見かけは真面目な優音が忘れ物なんて普通はない。ということは今日は普通ではないということになる……。
「ちょっとね、穂隆に聞いてほしいことがあってさ」
珍しいな。もう安定したと思っていたのだが。
「どうした?」
「前にも言ったけど、私さ、この能力が嫌いなの」
命令をすれば相手は何も思わずにそれを実行する能力。下手すれば世界を変えられるかもしれない能力だ。ただし例外もある。それは俺。未だに理由はわかっていないが。
「言ってたね」
「私さ、昔この能力で母親を殺したことがあるの」
「…………」
驚きで何も言葉が出なかった。
優音がそういうことをするやつだとは思わないけど、本当だったら嫌いになるのもおかしくはない。
「まあ、本意で殺したわけじゃないけどね」
なら安心か……いやじゃあなんで殺した?
「六歳くらいの時だったっけ。私も気が付いたら既にその能力を使えていたんだよね。でもその時は、その能力の恐ろしさを何も知らなかった。まさかあんなことになるなんて」
優音の表情が一気に沈む。相当辛いことがあったのだろう。
「海に行っていたの。家族三人で。そして私たちは思いっきり遊んだ。泳いだり、砂でお城を作ったり、お弁当を食べたり……忘れられない思い出だった」
正直、羨ましかった。俺なんて、小学校中学校どれも何も思い出はなかった。何もさせてもらえなかった。ただ家で、部屋にこもって勉強をする毎日。それと比べたら、優音は本当にいい両親に恵まれたんだと思う。
「そして、帰る前にもう一回海に入ろうって思って、浮き輪をもって海辺に行ったの。そしたら手から浮き輪が滑っちゃってさ、そのまま海の向こうへ流れていったの。私焦っちゃってさ、お母さんに浮き輪取ってっていっちゃったのよ。そしたらどうなったと思う?」
「取りに行った?」
「そう、取りに行ってしまった。そんなに泳ぎが上手いわけでもないお母さんは、既に遠く離れた浮き輪を追いかけるように海に飛び込んじゃったのよ。取りに行ける距離じゃなかったし。でも、私の命令は絶対だったから、お父さんも静止せずにそのまま見ているだけだった。私は飛び込んだ後必死に呼び止めたんだけどね、やっぱり聞こえなかったみたい。そのままお母さんは見えなくなって、もうどこかにいっちゃった」
優音の頬に一筋の雫が伝った。
「だから、私が殺したんだって。私のこのどうしようもない能力のせいで、私の事をいつも気遣ってくれた大切な母親が、死んじゃった……」
俺は初めて人に同情心を抱いた。自分のせいで、人を気付つけることがどれだけ辛いか。想像すらできなかった。
「お父さんが悲しみ始めたのはその一日後だった。当日はお母さんが死んだことすら気付いてなかったみたい。その時に私の能力がとんでもなく恐ろしいものだとわかったの。もう出来るだけ人に命令はしないようにって心掛けた」
皆にはない能力。誰にも理解してもらえない能力。羨ましいと思ったら間違い。それは孤独へと連れ込まれる呪いの能力だったのかもしれない。
「それでね、私のお父さんは私に母親がいなくなったのがかわいそうだと思ったのか、再婚相手を探すようになったんだよね。正直、私はそんなのどうでもよかった。確かに寂しくはなったけど、違う母親なんていらない。このままお父さんと二人で過ごしたかった。なのに、お父さんは再婚相手の事なんか一切私に言わず、突然家に連れてきた。その時は私が小学一年生の時だっけ」
優音の感情に左右されるように、空も段々と曇ってくる。
「お父さんは私に『優音の新しいお母さんだよ』と言ってきたけど、私は断固として認めなかった。私を生んでくれた親は一人しかいないから。私も反抗して新しい母親という人の口を聞かないようにした。それから三カ月くらいたってからかな、その人はまたお父さんと離婚したの。こんな娘いらないって。お父さんは泣いていた。けど私は嬉しかった。これでまたお父さんと二人で暮らせるんだって。だけどそれも一瞬にして崩れ去った。お父さんは二年に一回はまた再婚相手を見つけてきたの。辞めてって言ったのに……」
優音のお父さんは優音のために、再婚したのか。だが、それは悪い判断だったと。
「だから私は親が嫌い。この学校に来たのも、またお父さんが見つけてきた相手に家を追い出されちゃったからなの。でもこれで良かったのかもね。だって、こうして君と会えたんだもん。それだけは感謝してる」
あぁ、俺もそう思うよ。だって、優音は俺が初めて理解し合えた友達なんだから。
「私、一生このままがいい。穂隆と一緒に高校生活を送りたい。何の希望もなかった私の青春が、ここに来て初めて味わえたの」
「優音……俺もそう思う。俺も、優音と会って全てが変わった気がした。言葉で言い表すのは難しいけど」
「わかるよ。私も、最後に君と話せてよかった」
「最後? どういうことだ?」
「ううん、何でもない。さ、戻ろ。そろそろ五限目始まるし。あ、聞いてくれてありがとね」
「え、あ、あぁ……」
久しぶりに見た。もう一か月以上も俺にその笑顔は見せなかった。嘘の、笑顔……。それも悲しそうな、すぐに消えてしまいそうな……。
俺が何かを言う前に優音はそそくさとその場を離れた。
今日あのタイミングで優音が突然言ったのには何か意味がある。なければその様なことはしない。何かを、ここで捨てたみたいな感覚だった。
その後も、優音に喋りかけてもはぐらかすばかりで、一切向こうから話しかけてこなくなった。
教室ではたしかにいつもあまり話してなかったが、今日ばかりは完璧に俺を避けているようだった。周りには相変わらず愛想笑いでその場を過ごしている。
五限の休み時間。俺は思い切って優音に話を持ち掛けることにした。
「なあ、優音。今日──」
「あ、ごめん友達に呼ばれてるから行くね」
そう言って優音はその場を離れて、女子たちが集まっているとこに割り込んでいった。女子達は、優音のいきなりの登場で少し戸惑っていたが、すぐに優音を話の中に入れてまたわいわいと騒ぎ立て始めた。この反応から見るに、呼ばれているは嘘だったのだろう。やはり完全に俺を避けている……。
六限も始まり、グループワークも何もなかったのでそのまま話さずに今日の授業は終わった。
終礼が終わると、俺は反射的に帰る用意を始めた。用意が終わると、横にいる優音に声をかけ──ようと思ったが、いつの間にか優音の姿は消えていた。机の横に掛けてあるバッグはそのままだ。ということはまだ、この校内にいるということになるのか? トイレに行っているという可能性もあるが……。少しだけ待ってみるか。
五分ほど、優音が帰ってくるのを待った。何のために待っているのか、今思うと何故俺がこのようなことをしているのかわからない。だけど、何故か俺は優音に会わなければいけない気がした。
五分待って何も変化はなく、教室も静かになっていた。優音がバッグを忘れるはずもない。だから絶対この校舎にいるはずだ。
確か、今日は先生の出張か会議か何かで部活はなかったはず。優音は部活なんて入っていないし、一体どこにいるのだ……。
何となく、思い返してみる。優音と話した最後の言葉……『あ、ごめん友達に呼ばれてるから行くね』……いやそれじゃない。もっと前の……まさか、それはないと信じたい。いや、俺がやろうとしたことなんだ。あいつがやってもおかしくない。ということは本当に……?
俺は嫌な予感がして、足の赴くままに走った。
何故最初から気付かなかった。今日の行動全てを考えてみたらわかる話だ。俺はまだ何もしてやれていない。それまで、俺を置いていかないでくれ……! 間に合え……。
◆
「屋上ってさ、なんでいつも閉まっているかわかる?」
突然の質問だった。
夏休み明けの話。二人屋上で弁当を食べていた時、優音が突然そう言いだしたのだ。
まあ、そこら辺の話はよく知っている。俺も中学の時気になって調べたし、俺のために閉まっていたことものちのち気付いた。
「生徒が自殺しないようにだろ?」
「そ、生徒が自殺しないように」
俺もそのせいで簡単に自殺できなかった。効果はあるのだろう。
「でも自殺願望の人って本当少ないんだよね。屋上って、こんなにも綺麗なのに……開放しないのはもったいない気がするの」
確かに、それは俺も同感だ。だけどそうなるとこの静かな時間が奪われてしまう。皆にも味わってほしい感覚だが、やっぱりどうしても独占欲が上回ってしまうな。
「私も本当は独占したいよー」
優音は俺の思考を読み取ったのか、そう言った。
「けどね、私が独占しちゃったら、よからぬことが起きそうなの」
「よからぬこと?」
「うん、よからぬこと。この網を飛び越えて、その下へと……」
それが何を意味するか。
「今は穂隆がいるから大丈夫だけど、ひとりになったとき、私はどうするんだろうね……」
「じゃあ俺がひとりにさせなければいい話だ」
「何かっこつけちゃって……えへ、言ったからには絶対私をひとりにさせないでよ?」
「あぁ、しょうがねえな。俺も、そういう時期があったからさ……」
その時、俺は優音をひとりにさせないと誓ったはずだ。
あいつが一人でどこかに行っちゃったら、あいつはどうなるんだよ……。駄目だ、絶対、そんなことはさせない……!
◇
俺は優音がいるだろう扉を開け言い放った。
「やめろ優音!」
曇った空が広がり、俺の声が貯水タンクなどに反響する。
いつも俺が飯を食べている場所に目を向けると、今まで毎日のように見てきた姿が目に映った。だが今までと違う。
「あぁ、やっぱり来ちゃったか……穂隆くん」
優音は俺を振り返り、懐かしい敬称付きの俺の名前を呼んだ。
優音が立っている場所は、網を越えたところ。この校舎の屋上は、網と塀の二段階転落防止を取っている。優音はその塀に立っていた。一歩足を踏み外せばそのまま命を落とす、そのような危険な場所に立っているのだ。
俺は全速力で優音がいる網の方に向かった。そして網に手をついた時──
「来ないで!」
優音が叫んだ。今まで、聞いたことのない声量で。
俺は思わず止まってしまい、少しの距離を開けたままその場に立ち尽くしてしまった。
少しの間が開き、優音は言った。
「……お父さんが……再婚したって……」
そう、だったのか……。だから、今日その話を……。
「この力を使えば、そんなこととっくに辞めさせられたのに……自分が、醜いの……」
「そんなことない。優音は、醜くなんてない」
「穂隆に……私の何がわかるのよ!」
「俺に優音の何がわかる、か」
俺は優音の何がわかるんだろうな。ただ、似たような境遇だったから、俺は同情をしていただけなのかもしれない。だとしたら、俺は何もこの子のことが分からないのかもしれない。
わからないかも、しれないけど……。
「俺は……優音の事が好きなんだ」
俺の言葉に、優音の身体が硬直する。
「だから、俺は君を助けたい。何もわからないかもしれない。何も出来ないかもしれない。だけど、いつものように寄り添うことくらいなら、俺にだって出来る。悩み事も、全部俺が受け止める。辛い時だって、俺にその痛みを分けて欲しい。俺はずっと君といたいんだ」
優音の足元に、きらりと何かが落ちた。
「だからさ、俺のもとに来てくれないか……」
「…………私も、穂隆が好き……」
胸が痛んだ。普通の痛みではない。感じたこともない痛みだった。
落ち込んだ、とかじゃなくて嬉しい痛みなのだ。痛くないのかもしれないけど、言葉で表現するには痛みだとしか言えなかった。
「だけど、やっぱり私にはこの道が一番楽かな……。ごめんね」
「優音!」
優音の足が少し、前に出た。少しずつ……。
俺は唇を噛み、網に掛けている手に力をいれた。そして地面を蹴り、思い切り自分の身体を持ち上げた。中学の時のように、毎日そうしたせいで、身体が覚えていた。網の上りかたも、全部死にたかったために。
優音の片足が崩れた時と同時だった。
俺は優音を抱きしめ、網と塀の間の空間に連れ戻した。
ずっと運動してこなかったためか、緊張のためなのか息が上がる。
俺は優音を抱きしめたまま、その場に居続けた。
どうしても、死なせるわけにはいかなかった。自殺を止めたのには少し、悪いと思っている。俺が辛い未来をここで継続させることになったからだ。
優音は、いまだに泣いていた。ずっと、嗚咽を漏らして、泣いている。
「優音……ごめん。俺は……君とずっといたかったんだ……」
腕から、優音の熱が伝わってくる。暖かい。
「うぅ……責任……取ってよね……」
ついに言葉を出したと思ったら……はは、優音らしいな。
「ああ、俺が責任取るよ。いつまでも、絶対に、見捨てたりなんかしないから」
「うううもう好きいい!」
いきなり優音が俺に抱き返してきた。強く、離さないという意思が現れるくらいに。
「俺も、好き」
◇
「本当に、行くのか?」
「うん……」
優音が自殺しようとした時から一週間。
学校帰りは優音に家までついていくようにしていた。すぐに壊れてしまいそうな優音を、ひとりにはさせないようにと。
「まあ、優音の好きなようにすればいいと思うけどさ」
「ありがと。やっぱり、私はお父さんの事を見捨てられないの。次はちゃんと新しいお母さんとも仲良くするから」
「そうか、なら良かった。絶対いい子ちゃんを描くんだぞ?」
「わかってるってー。穂隆も、変わったよね」
「俺が変わった? うーん、そうかぁ。そうだよな。変わった気がする」
空を見上げた。雲一つない快晴だ。
暖かい風が俺たちの横を通り過ぎる。
「優音のことが好きって気持ちを隠さないようにしたら、俺も丸くなったものだ」
「だよね~。私自身も穂隆のおかげで変われた気がするし。人が変わるのって、やっぱり人の助けが無きゃね。自分だけで変わるなんて無理だよ」
人は、ひとりでは生きていけない。そう簡単に変わることもできない。けど、出会いがあるのならば、変えられる。全ては出会いから始まるのだから。お互い、協力し合えば、何でもできる。
「そういえばさ」
「なあに?」
「あの時死ぬ気なかっただろ」
「え……なんでわかったの?」
「だって、死ぬ気があるのならばとっくに飛び降りてるだろうし。完璧に俺を待ってたよな」
俺が優音の自殺を止めようとした時、明らかに遅れた。十分も優音はあそこで立ち尽くしていたのだろう。俺と話すために。
「……今更そんなこと言わないでよ。恥ずかしい。確かに死ぬ気なんてまっさらなかった」
「俺もな、本当は死ぬ気なんてまっさらなかったのかもしれないな。だからわかったのかもしれない」
「ふーん。言ってなかったけど、私穂隆の事何も知らないからね?」
「あ……本当だ。俺の過去の話何も優音に伝えてなかったな」
完璧に忘れていた。優音ばかり俺に話してくれて、俺は優音に何も話していない。これはいけない。
「んーもう聞く時間もないし、また会ったときね」
「わ、わかった」
「どうしたの?」
「いや、もう俺たちは離れるんだなと……」
優音は、父親の再婚に合わせまた転校することになった。こうゆうことはよくあることだって優音は言ってるけど、俺は普通に悲しい。
「ま、また会えるよ。私たちは深い絆で結ばれてるんだからさ」
「そうだと信じたい」
「もー心配性なんだから。私の目を見て」
俺は言われるがままに優音の目を見る。
「澄んだ、綺麗な目……」
「そ、もう私は昔の私じゃないんだから。嘘なんて吐かない。私を信じて。ね、穂隆」
会った時の優音を思い出した。濁った目だった。嫌いな笑顔だった。だけど、今はそんな影もなく、コロッと入れ替わったのかと思えるほどの綺麗な優音だった。
「そう、だな。君の目を見て思った。今の優音だったら信じれる」
「なによ、前の私だと信じれないみたいじゃない」
「事実だからしょうがないだろ」
実際腕にシャーペンを刺すくらいだからな? 傷もそこまで深くなかったから痕は残っていないが、あの記憶だけは絶対忘れない。
「シャーペンのこと根に持ってるでしょ」
「なんでわかったんだ!?」
「だから穂隆の事だったらなんでもわかるって言ったでしょ?」
「そ、そうだけど……」
やはりこいつはやばいやつだった。
「そういえば、能力はどうするんだ?」
「どうするって……いつも通り封印するよ。あ、けどたまには使ってもいいかなーって。その方が穂隆の特別感が増すしね」
「ん、そう気負わずにな」
「だねー。あ、家見えてきたー」
見えてきたのは、ボロボロの安っぽいアパート。優音はずっとこんな辛い生活を続けてきたのか……。俺も人のこと言えないが。
「それじゃ、今日はここまでかな」
「うん、楽しかった。今まで、本当に……」
優音の声が沈んでいく。
「本当に……楽しかった……」
赤くなった横顔に、また一滴。
「そう泣くな。また絶対会えるって言ったのは誰だよ」
「うん……だけど……やっぱりさみしいよぉ……」
「俺も寂しいよ。だけど、ここで寂しがっても意味ないだろう?」
君が決めたことなんだ。俺は何も言わない。
「……うん。わかった。ありがと。じゃあ帰るよ!」
「ん、気を付けてね」
「それじゃ、またいつかね!」
そう言って優音は家に向かって走っていった。もう未練などないような姿だ。
「最後に、俺は君の声が嫌いだった。笑顔が嫌いだった。だけど、やっぱり俺は君が好きだ。君の全てが好きだ」
まさか俺がこんな感情を持っているとはな。生まれた時に全てを失っていたと思っていた。
でも、君が気付かせてくれた。俺は、皆と一緒の人間なんだって。どこにでもいる高校生なんだって。
ありがとう、優音。
優音の背中を追い続けた。優音が何もなく家に入ったのを見て、俺はその場を振り返った。もう後ろは見ない。あとは俺が家に帰るだけ……。
「はは……俺が泣くなんて……俺が泣くなんて……」
俺の頬に涙が伝った。初めての涙だった。涙の味は、酸っぱかった。
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