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短編集

私の隣人

作者: 佐藤朝槻


 私の隣人は声が大きい女性だった。

 いや、彼女の名誉のために詳述するならば、彼女は、透き通った、かつ鋭くもある声を持っていた。


 不運なことにこのアパートの壁は薄い。紙ほどではないが、それでも薄い。隣人のさらに隣にいる住人のピアノ演奏が聞こえるのだから間違いない。


 このアパートにすみはじめて三年くらいになるが、壁の薄さが心底気に入らない。が、安月給の私に住まいを選ぶのは贅沢すぎた。トイレや風呂が共用じゃないし虫がわかないことも考えると、壁が薄いことくらいどうってことない。

 加えて私には使命がある。大学に合格した妹の学費を工面してやりたい。そのためにどうしても使うお金は減らしておきたかった。


 ともかく、隣人だ。彼女は鋭い声を持ってしまっているせいで他の人に比べて声が響きやすいようだった。

 ただ、あの隣人が越してきた一年前は、騒音レベルに達していなかったことについては触れなければならない。


 引っ越しの挨拶はなかったが、一年前を境に女性の声が隣から聞こえるようになったので、異性が越してきたという推測は容易にできた。ゆえに私の隣人は警戒心が高く、言い換えれば、何が起こるかわからないこの時代を生きるに適した女性だった。


 状況が変わったのは半年前頃である。

 仕事から帰った私が食欲もなくベッドに倒れ込み寝落ちを待っていると、隣人の甘い声が響いてきた。そういう日もあるだろうと思ったが、これが全ての始まりだった。


 数日後の休日には念仏を唱えるかのごとく、呼吸する間もなく話し続ける隣人の声がした。誰かと話しているのかと思ったが、朝昼晩と続いたとき、隣人の独り言だと気がついた。

 さらにあるときには地団駄を踏みながら何か叫んでいた。どすどすと鳴り響く足音は隣人の私にはさほど迷惑がかからなかったが、下の階の住人に同情した。


 日々疲れ果てている私には、隣人の声がもっとも不快だった。甘い声か、鋭い声か、ぶつぶつと吐露する低い声か。音の種類などどうでもいい。ただ隣人の発する音が嫌いだった。誰が好き好んで素性を知らない隣人の声が聞きたいか。

 仮にそんなものに欲情できる体になれたら楽ではあるが、……と考えたところで首を振る。世間からの私に対する目が冷たくなるだけだ。ストーカーと称され、非難され、ゆくゆくは犯罪者のレールにのせられかねない。


 無難な策は大家への相談であり、誰もが考える選択肢であろう。しかし妹のことを思えば、私は踏みとどまってしまう。

 揉め事を起こせば、あるいは隣人に目をつけられでもすれば、引っ越さなければならなくなる。多忙な業務をこなしながら今より安い賃貸を捜すために休日を使う疲労を想像するだけで溜め息が出そうである。この不満を飲み下すほうが楽だ。

 恐怖に打ち勝てない私は、休日に声がすれば工事が始まったと思い込み出掛けた。平日の夜には神に祈る思いで耳を塞いだ。そのような行為も虚しく、隣人の奇行は続き、私の機嫌はますます陰鬱に染まっていった。


 否、このままではいけない。脳内で警鐘が鳴り響き、一度だけ壁を殴ったことがあった。

 その日は日曜日の夜。台風でも迫っているかのごとく豪雨であったのは覚えている。とても気が立っていたときに隣人の世迷い言が聞こえてきて、握りしめた拳で壁を突いた。軟弱な壁も私の拳には厳しく、穴は空かないどころか手を痛めた。骨にまで響く痛みは翌日の仕事を妨げ、厳しい上司に頭を下げてなんとかこねくりまわした言い訳を使い半休をもらった。骨を折っていなかったのが幸いだったが、痛みが発すると壁の向こうを恨まずにはいられなかった。


 痛みが引いたその後も、休日には不動産屋をめぐった。予想通り今の賃貸より安いところを見つけるのは苦労した。もし引っ越すことになった際にはわずかに凹んだ壁の修繕費もかさむのではないかと心配の種となり、引っ越しに踏み出せずにいた。


 休日になると頭のずきずきと胃のきりきりとした痛みに襲われ、世界は金属がこすり合うような耳鳴りが響いていた。

 服用している薬の説明書を斜め読みしながら、呪文のように唱える。

 私はあの隣人の名前を知らない。顔すら知らない。そう腹立てるものじゃない。落ち着け。落ち着け。

 それでもおさまらない日はビジネスホテルに泊まった。


 ある日、珍しく帰りがはやかった。隣人のぼやきに付き合いたくない思いから、どこかに出掛けようかと思った。流行り病が蔓延る時世柄、遠出は難しい。明日も仕事だから体を休められるところがいい。ビジネスホテルで過ごすかと考えたが、枕が家のと違い寝づらかったことを思い出すと気乗りしない。


 あれは違う、これも違うと迷っている間にアパートに到着してしまい、私は私を恨んだ。けれどもなんと運がいいのか。隣人が前から歩いてきたではないか! 今から出かけることはしばらく帰ってこないということ。

 嬉しく駆けだそうとした。



 ――目を覚ますと白い天井が私の視界に広がっていた。ぼやけた景色のなかで点滴が視界に入りぎょっとした。


「まだおきないでください」

「……ああ、お隣の」

「澤田です」


 聞き覚えのある声に、まず恐れ、そして、睨んだ。これまでの鬱憤を晴らしたい思いと関わりたくない思いとの狭間で生まれた最大限の抵抗だった。

 しかし隣人は私の視線など気にしていないのか「突然倒れられたんですよ」と心配そうに話している。


 隣人の姿に目を凝らす。

 少し痩せた顔には漆黒の瞳が添えられている。銀の眼鏡は知的な印象を与えるだけでなく、ミステリアスさをあわせ持ち、妖艶さを漂わせる。眉だけ他のパーツに比べると少し濃く、そのアンバランスさが隣人らしくもあった。

 黒髪は縮れ一つなく艶があり、スレンダーな姿も相まって、容姿だけなら美人の部類に入る。

 ……いつだったかの甘い声が脳裏に浮かび、思わず眉を寄せた。

 目線をさらに下げていくと、喪服をまとっているのがみえた。


「すみません。大事なご予定があったでしょうに……。私のことはどうぞお構い無く」


 と私は優しい声音を保ちながら、(てい)よく出ていけと言う。


「いえ、助かりました。元旦那の葬式なんて行きたくありませんでしたから」


 そういわれてしまうとそれ以上なにも言えず、適当に相づちを打った。

 不意に看護師がどこからか現れて「旦那様起きられたんですね」というから驚いた。何時間眠っていたか今の私に知る術がないとはいえ、隣人が断りをいれる時間はあったはずだ。一度も否定しなかった隣人にますますの嫌悪感を覚えた。こんな妻、求めていない。


 その後、医師から疲れによるものだろう、よく休むようにと診断を受けた。その間も隣人は私のそばから離れることなく共に話を聞いていた。

 私は礼を述べたあと帰るよう促すと、隣人は頷き、病室からでていった。彼女が背を向けたときの脚をみて、わずかに目を細めた。


 退院して以来、私が仕事から帰宅する際には決まって隣人と通路ですれ違うようになった。その度に挨拶と短い会話を交わした。「お仕事のほうはどうですか」「きちんとごはんは食べていますか」「眠れていますか」と毎度決まった質問を投げかけてくるものだから、私も決まって「ありがとうございます」と笑顔を向けるのだった。

 もっとも、マスクの下で笑むに過ぎないので隣人に伝わるのか怪しい。隣人もまた目を細めるが、笑っているのか別の思惑が潜んでいるのか判然としなかった。


 これだけはわかる。隣人がどれだけ優しく接してこようとも扉を潜ればぶつぶつと話す低い声音の持ち主であり、地団駄を踏むような子供じみた人だということ。

 そんな隣人に邪な気持ちを寄せるほうが難しい。しかしながら、あのときたしかに感じてしまった情を忘れずにいる。

 隣人のことなど知りたくなかった。


   ○


 その後妹が優秀な学生の一人に選ばれ、学費の免除が認められた。仕送り額が減った私は逃げるように引っ越し、隣人の声を聞くことはなくなった。

 時々、脳が発作的に隣人だった彼女を思い出させる。私の前では一度も聴かせなかったあの鋭い声と適度に肉のついた艶かしい脚が、今なお私を犯し続ける。


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