2日目
2日目は筑豊に行こうと決めていた。一大産業である石炭産業の発展と衰退、そういった歴史は大好物である。博多駅地下のカフェでクロックムッシュとミルクのモーニングセットを注文し、早朝のぼやけた頭を覚醒させる。今回の目的地は直方市石炭記念館。おそらくほとんどの人が正しく読めないであろう直方は、「のおがた」と読む。「なお」が「のお」に訛ったのだろうか。難読地名ランキングがあれば上位に食い込むことだろう。
最寄り駅である直方駅から降りて10分ほど歩き、件の記念館に到着。記念館敷地内のちょっとしたスペースには、2台の蒸気機関車が展示されていた。1つは炭鉱における資材運搬用として、もう1つは石炭輸送用として活躍したそうだ。
石炭記念館には本館、別館、化学館という3つの建物があり、別館で受付を行った。対応してくださったのはこの記念館の館長だった。
「おはよう。学生さんかね」
「いえ、一般です」
平日の開館早々に来ているし、そりゃあ学生に間違われるよなあと思い、その後はあれこれとやりとりを繰り返した。私のほかには誰もいなかったからなのか、館長自らが展示を案内し、石炭産業の歴史を語ってくれた。
「石炭産業について、お話していきますよ」
石炭産業の歴史は想像以上に深い。本格的に始まったのは江戸時代。江戸時代から明治大正にかけ、大きく分けて田川や飯塚という2つのエリアで石炭を掘り出し、「川ひらた」という石炭船に載せて遠賀川を下ることで輸送していた。直方はその両者が合流する地点だったのだ。石炭船は最終的に若松湾へ到着し、そこからさらに福岡・中国四国、大阪へ販売されていたという。石炭船はのちに蒸気機関車に取って代わられ、昭和まで石炭産業は続く。現在も石炭を採掘しているのは北海道釧路市だけとのことなので、機会があれば行ってみよう。
印象に残った展示は、表面を滑らかにした石炭である。展示物の中でもかなり異質で、これは一個人の作品とのこと。川で丸くなった石炭を見つけ、それを磨くことで円形の滑らかな石炭にできるという。いつか流行ったアルミホイル磨きを彷彿とさせるものだった。
館長の語りも同様に滑らかで楽しいものだった。石炭エピソードとして、こんなものがある。石炭を掘り出して選別した後は、ただの不要な石の山である「ボタ山」が出来上がるが、選別は手作業のため、ボタ山には一部石炭が残ってしまう。その結果、残った石炭が自然発火し、しばしばボタ山は燃えていた。そのように燃えたボタ山は、かなり強度のある石「やけボタ(シャモット)」へ変貌した。このシャモットは道路工事や鉄道敷設時の基礎材料として良質とされ、東海道新幹線の高架工事にも使用されたという。役に立たない山のはずが、巡り巡って別の役に立つ、これは実に面白いことだと思った。ちなみに、シャモットを売ることで炭鉱業者側は莫大な利益を得たらしい。まさに「棚ボタ」だ。
結局、石炭記念館では12時近くまで滞在し、石炭産業の歴史を十分に学んだ。
午後は博多駅に戻り、九州では最大級という献血ルームに足を運び、ゆったりと過ごした。別に今日でなくてもよいのだが、ちょうど今日から献血可能となっており、タイミングが合ううちに行っておこうと思ったのだ。献血マニアの私としては逃せないのである。献血が終わった後はホテルへ戻り、明日の面接対策である想定問答を読み返し、足りないと思うところは追加で考えを付け足した。その夜は早めにベッドに潜った。