十六話目
図書館の屋根裏まで来ると、イチカは最後に見た光景と全く同じ状態で、ソファーに転がって本を読んでいた。
「やあ、ラニ。また会ったね」
「頼みがある」
ラニは単刀直入に言った。
コリーにどれほどの猶予があるのか、わからないからだ。
嫌な顔をされるかもしれないと思ったが、空気を読んでくれたのか、イチカは上体を起こして向かい合ってくれた。
「なんだか、急いでいるね。うん。いいよ、聞いてあげる」
「コリーがやべえ。なんか虚ろで、生きてはいるけど返事しなくて。飲んでた薬のせいだと思う。あいつ、薬が切れてること言わなくて。毎日飲むように言われてたのに、いつから飲んでないかもわかんなくて」
「その袋、貸して?」
イチカに言われて、俺は持ってた巾着袋を手渡した。
袋に書かれた成分表を見て、イチカは眉をひそめた。
「ラニがこの薬を飲んだのは一回だけ?」
「ああ」
「もう飲んじゃ駄目だよ。帰ってこれなくなる」
「どういう、意味だ?」
巾着袋を返してから、イチカはソファーの上で膝を抱いた。
「それは合成麻薬の一種よ。脳を覚醒して脳細胞の崩壊と分泌物質の増加を促す。そうする事で、精神をトランス状態に持っていき、五次元に接続しやすい状態を作る」
「俺にも、わかるように言ってくれ。コリーは、治るのか? それとも治らないのか?」
「治る、か。うん、まずは、その認識から改めよう」
ヨイショ、とイチカが立ち上がる。
「人生という道程は、十人十色、百人百様。人それぞれ様々だけれど、ひとつだけ共通することがある。それは、この道が下り坂だってこと。引き返すことは誰にも出来ない。たとえ、魔女でもね」
「さっきから話が長え。単刀直入に頼む」
「つれないなあ。その薬はね、転がり落ちるだけの断崖絶壁を、なだらかな斜面に変えるもの。どのみちコリーちゃんは、そう遠くない将来。ヒトとして終焉を迎える」
「そんな……」
「ところで」
イチカは、ゆっくりと、こちらに歩き始める。
「ボクなら、その下り坂をもっともっと緩やかで、安全なものに変える薬を調合できる」
「本当か!? だったら」
「交換条件」
イチカが目と鼻の先まで迫り、耳元でそっと囁く。
「ボクと寝よう」
「は?」
俺は、思わず一歩後退る。
しかし、イチカはゆっくりと距離を詰めてきた。
「我が儘は言わない。一回でいいよ。ボクとしよう」
「何言ってんだ、ちょっと待て」
「コリーちゃん、取り返しがつかなくなってもいいの?」
「なっ……」
そう言われて、俺は固まった。
頭が、うまく回らない。
「よし。いい子だね」
押し倒された。
床に仰向けになった俺の上に、イチカが被さる。
緩く垂れた長めの金髪が、頬に触れてくすぐったい。
「ボクに任せて。大丈夫、天井のシミの数を数えている間に終わるから」
頬に手を添えられる。
イチカの整った顔がゆっくりと近づいて、唇が触れそうになり、俺はイチカを蹴り飛ばした。
イチカは、丁度ソファーの上で跳ねて転がった。
「何が天井のシミだ。ここは屋根裏だろうが」
「ひどいじゃない。乱暴にするのも、嫌いじゃないけれど」
俺は上体を起こして、立ち上がる。
「いいの? コリーちゃん、助けられなくなっても」
「いや。救う方法があるって、わかっただけでもよかったよ。あとは、なんとかしてみる」
そう言い残して、俺は屋根裏部屋を去る。
「待ちなさい」
イチカは、その辺にあった本のページを無造作に破って、メモ書きして渡してきた。
「そこに書いてある物を揃えたら、さっき言った薬を処方してあげる。どれも市場に行けば、手に入るものばかりだから」
俺は受け取るのを少し躊躇ってから、そのメモを手にとった。
「……いいのか?」
「最初に言ったよ。お願い、聞いてあげるって」
「じゃあ、さっきまでのやりとりはなんだったんだよ」
「んー。冗句、とか?」
とか、じゃねえよ。
絶対こいつ襲いかかる気満々だっただろ。
「恩に着る」
「着なくていいよ。束縛するのもされるのも、嫌いだから」
イチカはにやりと笑って、高らかに言った。
「私がしたいから、そうするだけ。魔女は、この世で最も自由で、自在なのよ」