2/6 08:05 a.m.
「百瀬ッ!」
『用件を言え』
ようやくつながったかと安堵した次の瞬間、俺は大きな衝撃を受けた。
聞こえてきたのはひどい鼻声で、かすれてうまく音になっていなかった。いつものような覇気も、ピンと張り詰めた鋭さもない。
「百瀬……おまえ……!?」
『いいからさっさと用件を……っ』
言え、と続くはずが、重苦しい咳の音に掻き消された。口を半開きにしたまま、俺はその場に固まった。
――うそだろ。
マジだったのかよ、インフルエンザって。
「あー、その……大丈夫?」
まだゴホゴホと咳の続いている百瀬に対し、やっとの思いで絞り出した労りの言葉を、あろうことか百瀬は鼻で笑った。
『世も末だな、てめえに心配されるなんて』
「おい」
相変わらずの減らず口にツッコミを入れると、波立った俺の心はほんの少しだけ落ち着いた。よかった、体調を崩しても百瀬は百瀬だ。
『用がねぇなら切るぞ』
「ちょっ、待て待て待て! 切るな! 大変なんだよ中井が!」
『中井が誰を殺したって?』
「違う! 中井は誰も殺してない!」
俺は盛大に頭を抱えた。あのメッセージをどう読んだらそういう解釈になるんだ。
舌打ちしたい気持ちを抑え込み、俺は努めて冷静に事情を説明した。
「俺たちが泊まってるホテルで、人が殺されたんだ。うちの学校の生徒じゃなくて一般のお客さんなんだけど、その人が殺されてた部屋の中に、なぜか中井も一緒になって倒れててさ……」
ふぅん、と相槌を打った直後にまた咳き込んだ百瀬は、呼吸を整えてからいくつか質問を繰り出した。
『中井の意識は?』
「あるけど、混乱してる。誰かに後ろから殴られて、ヘンな薬も飲まされたって」
『薬? 睡眠薬か』
「そこまではわからない。殴られたっていう割にケガはたいしたことないみたいだけど、念のため病院で診てもらうことになったよ」
少し間を取って、百瀬は続ける。
『今の話、おまえが直接中井から聞いたのか』
「あぁ、そうだよ。俺も一応、遺体の第一発見者ってやつで」
『なんでおまえが第一発見者なんだよ。死んだのはうちの高校のヤツじゃねぇんだろ?』
「それが……」
俺は瀧田さんの遺体を発見するまでの経緯を簡潔にまとめて百瀬に伝えた。この話をするのは二度目だ。
しばらく黙っていた百瀬だったが、やがて静かに口を開いた。
『警察は中井が犯人だって言ってんのか』
「いや、明言してるわけじゃない。ただ……殺された瀧田さんっていう大学生と一緒に広島へ旅行に来ていた人たちが、中井を犯人扱いしてて」
『へぇ。……まぁ、気持ちはわからないでもねぇな。仲間が殺された現場にいた人間だ、疑わねぇほうがどうかしてる』
「けど中井はやってない!」
『でけぇ声を出すな。くそ……頭いてぇ』
「あ……ごめん」
ぼやいた百瀬が、はぁ、と息を吐き出す音がした。本当に調子が悪そうだ。
『だいたい、中井が犯人じゃねぇなんて、おまえが勝手にそう思ってるだけだろ』
「違うって! 現場の状況から考えて、中井は犯人じゃないって……鶴見さんが」
『鶴見?』百瀬がたっぷりの疑問を含んだ声で言う。『誰だそれ』
「一組の鶴見さん。中井の彼女だよ」
「――池月くん」
トントンと肩を叩かれ、振り返ると鶴見さんが「スピーカーにして」と言った。指示に従い、スピーカーにしたスマホを柏木も含めた三人で囲む。
「百瀬くん、はじめまして。鶴見杏菜といいます」
鶴見さんが丁寧に名乗ると、『杏菜?』という百瀬の声が聞こえてきた。
『おまえ、美姫の連れだな?』
意外なことに、百瀬は鶴見さんのことを認知しているようだ。鶴見さん自身も驚いている。
「知っててくれたんだ、わたしのこと」
『あぁ。苗字じゃピンとこなかったが、美姫がよくおまえの話をしてた……「杏菜はすごい、将来お医者さんになるんだって」ってな。立派な友達がいることがよっぽど誇らしかったらしい』
そう、と答えた鶴見さんは、哀しげな目をして微笑んだ。
彼女と俺、柏木、そして美姫は、一年の時に同じクラスだった。中でも彼女と美姫は二年に上がってもまた同じクラスになり、ふたりが特に仲がよかったことは俺も美姫を通じて知っていた。
百瀬の言うとおり、学年トップクラスの秀才である鶴見さんと友達であることを美姫はとても誇りに思っていて、人として尊敬できる、なんて話を俺に聞かせてくれたこともあった。優しくて賢い中井とは誰が見てもお似合いのカップルで、その事実もまた、美姫の憧憬の対象になっていたようだった。
『で?』
痰の絡みと格闘しながら、百瀬は俺たちに先を促す。
『中井が犯人じゃねぇっていう根拠は揃ってんだろ? だったらおまえらは、オレになにを求めてる?』
「今はまだ状況証拠しかないの」鶴見さんが言った。「わたしたちは、陽太の無実を証明するための決定的な証拠を探してる。でも、それをどうやって見つけ出せばいいのかわからなくて……」
『はぁん、なるほどな』
納得したように百瀬は言う。
『簡単な話じゃねぇか。要するに、真犯人が誰なのかをはっきりさせればいいんだろ?』
「できるの?」
『さぁな。なにせオレは現場にいねえわけだから』
「百瀬くん」
一歩俺に近寄り、鶴見さんは力を込めて百瀬に懇願した。
「ふざけないで、真面目に聞いて。このままじゃ本当に陽太が犯人にされちゃうかもしれないの。それなのに、指をくわえてみているわけにはいかない。……あなたが美姫を殺した犯人を追い詰めたって、池月くんから聞きました。お願い、百瀬くん……わたしにも、力を貸して」
お願いします、と鶴見さんは俺のスマホに向かって頭を下げた。当然百瀬には見えないけれど、彼女の真摯な態度はきっと百瀬にも伝わっているに違いない。
「頼むよ、百瀬」
俺も鶴見さんに加勢する。
「体調が悪いのはわかってる。無理をさせるつもりもない。けど、俺たちだけじゃ最初の一歩だってうまく踏み出せそうにないんだ。……アドバイスをくれるだけでいい。ほんの少しでいいから、手を貸してほしいんだ」
これはあまり使いたくない手段だったけれど、俺はダメ押しの一手を打つ。
「やってもいない罪で警察に疑われるのがどれだけつらいことか、おまえにはわかってるはずだろ」
――美姫を殺したのではないかと、かつて百瀬は警察から疑いの目を向けられた。
あの時百瀬が感じたであろう憤りを、今は中井が、そしてここにいる俺たち全員が感じている。
真犯人を見つけろと百瀬は言う。確かに、百瀬ならそれが叶うのかもしれない。
でも、俺たちは違う。誰も彼もが百瀬みたいに、何事もうまくやれるわけじゃない。
できないのなら、頼るしかないのだ。願いを叶えられる人に。
俺たちにとって、それが百瀬龍輝という男なのだ。
『三十分だ』
やがて百瀬は、静かに答えを口にした。
『三十分後にかけ直す』
「え?」
『それまでに事件の概要と現場の状況、被害者周辺の人間関係、それからホテルの見取り図と部屋割りをまとめてオレの携帯に送っとけ』
百瀬が腰を上げてくれたことを悟り、俺たちの顔が一斉に明るくなる。「わかった」と俺は答えた。
「すぐに準備するよ」
『あと、被害者の連れやホテルの人間、同じフロアに泊まってたヤツらなんかの証言をできる限り多く集めろ』
「証言って……そんなのどうやって集めればいいんだよ?」
『は?』
チッ、と電話越しに大きな舌打ちが聞こえてきた。
『甘えんな。それくらいてめえで考えろ』
「てめえでって……」
そんな無茶な。刑事じゃあるまいし、俺たちみたいな高校生がいろいろとかぎ回ってたら怪しさ満点じゃないか。
『鶴見』
俺が顔をしかめていると、百瀬は鶴見さんに呼びかける。
「はい」
『池月をうまく使え』
「えっ?」
『あいつの自主性には期待するな。だが、曲がりなりにもあいつには美姫の事件の時に動いた経験がある。立ち回り方は弁えてるし、指示さえきっちり出してやればそれなりの成果は挙げてくる。ただし、基本的にはヘタレだからな。大事な局面は自分で動いたほうがいい。使いどころを間違えるなよ』
「う、うん……わかった……」
そう答えながらも、俺を見つめて首を傾げている鶴見さん。いい、深く考えないでくれ。あいつに俺をほめる気が一切ないことは十分すぎるくらいわかってるから。
『とにかく、三十分だ。三十分後にかけ直す。いいか、池月? うまくやれよ』
「あ、ちょっと……!」
そう言った時には、すでに電話は切れていた。〝通話終了〟と表示されたスマホを見つめ、俺は大きくため息をついた。
「なぁ、祥太朗?」
ぐりぐりとこめかみを揉んでいる俺を、柏木が心配そうに覗き込んでくる。
「おまえ、百瀬とは友達なんだよな……?」
「やめろ。それ以上言われると瀕死の重傷を負う」
もうすでに心はズタズタで今にも倒れそうだったけれど、どうにか足に力を入れて顔を上げた。うなだれている時間がもったいない。三十分なんてあっという間だし、なにより、俺たちがこのホテルにいられるのは今日の午前中いっぱいまでだ。
「けどさぁ」
うーん、と唸りながら腕組みをした柏木が言う。
「百瀬のやつ、どうして『三十分後にかけ直す』なんて言ったんだろうな?」
「薬を飲むんでしょう」
答えを口にしたのは鶴見さんだ。
「まだ八時すぎだもん。きっと起きたばかりなんだと思うよ、百瀬くん。今から服薬すれば、三十分後には効いてくる。話はそれからだってことでしょ」
なるほど。つまり、俺が電話をかけていなければ、百瀬はもっとゆっくり寝ていられたってことか。緊急事態とはいえ、あいつの体調不良を疑ったことを今さらながら申し訳なく思った。
「手分けして作業しましょう」
場を取り仕切るように鶴見さんが提案した。
「まずはみんなで事件の概要を整理する。そのあと、私と池月くんは関係者への聞き込み、柏木くんはホテルの見取り図と部屋割り一覧の作成。これでどう?」
「わかった、それでいこう」
「よっしゃ! おれ、こう見えて絵は得意だから任せてくれよ!」
与えられた三十分間の活動方針が決まり、百瀬へのバトンをつなぐべく、俺たち三人の高校生による殺人事件の捜査が、ひっそりと幕を開けた。