2/10 11:01 a.m.
波瀾万丈だった修学旅行が終わり、土日を挟んだ月曜の朝。
百瀬は、学校に来なかった。
せめてものお礼にと、中井、柏木、鶴見さん、俺の四人でなけなしの小遣いを出し合い、京都で百瀬への旅行土産を買った。それなのに当の本人が顔を見せず、どうしたものかと俺たちはすっかり肩を落としてしまった。
その後すぐにわかったのだが、百瀬はインフルエンザの治癒証明を発行してもらうため、病院に寄ってから登校するとの連絡を学校に入れていたらしい。インフルエンザなどの感染症に罹患した場合、医者から登校の許可をもらわなければ出てこられない決まりになっているそうで、俺はこの時はじめてそのシステムを知ったのだった。
一生に一度の高校修学旅行をある意味で思い出深いものにしてくれた、例の美大生殺人事件。
広島県警の河畠刑事を介し、俺たち四人で百瀬から伝え聞いた事件の真相を話して聞かせたところ、「間違いありません」と美和さんは自らの犯行であると素直に認めた。
事の顛末はおよそ百瀬の推理どおりで、美和さんの旅行用カバンから、アリバイトリックに利用したエアーマネキンなどの小道具と、瀧田さんの血液が付着した衣類が見つかった。風呂を断るために体調不良を装うつもりが、旅行直前に本当に風邪をひいてしまい、あらかじめ計画に巻き込んでいた被害者の瀧田さんから心配されてしまった、なんていうエピソードまで、彼女は余すところなくすべてを語った。
美和さんの弁によれば、あの日、719号室ではこんなやりとりが行なわれていたらしい。
◇◇◇
四人が一階の大浴場へと向かうのを見送ると、私は計画に必要な荷物をすべて持って、隣の719号室へ向かいました。
「要くん、私。開けて」
扉をノックして呼びかけると、彼はすぐに応答してくれました。
「なんだよ、ずいぶん早いじゃねえか」
そう言いながらも彼は私を室内に招き入れ、まだ吸い始めたばかりだったタバコを灰皿でもみ消しました。つい二、三分前まで鬼の形相だった彼が、私を振り返った時には信じられないほど穏やかな微笑みを湛えていたことを、今でも忘れられません。
「相変わらずせっかちだな、おまえは」
灰皿から離れた彼は、丁寧に敷かれた布団の上へゴロンと仰向けに寝転がると、驚くべき一言を口にしました。
「――最期くらい、もう少しゆっくりさせてくれたっていいだろ」
はっとしました。私はこの時になってようやく、彼は最初からすべてを悟っていたのだと気がついたのです。
「なに驚いてんだよ」
彼は私を見ることなく言いました。
「オレを殺すつもりなんだろ?」
あまりにも落ち着いた彼の姿に、私のほうがむしろ戸惑ってしまったくらいでした。
「要くん……」
「その呼び方、もうやめていいぞ。おまえの目的は最初からわかってた……オレが真美を犯して、あいつが自殺した時から、いつかオレは、おまえに殺されることになるんだろうなって」
――そうです。真美は彼にレイプされ、それを苦に自殺しました。
彼が真美のことを好いていたのは事実で、ちょうど一年前の広島旅行の時、私たちの知らないところで彼は真美と夜な夜なふたりきりになったそうです。お酒の力も借りて、おもいきって気持ちを伝えたらしいのですが、真美からの返答が彼の想像のはるか上を行くもので、彼にはそれがひどく気に入らなかったらしいのです。
――真美は、同性愛者でした。そして彼女は……私のことを、ずっと好きでいてくれたのだそうです。
彼女が自殺する直前に書いた私宛ての手紙を受け取るまで、彼女がレズビアンであることなんてまったく知りませんでした。もちろん、私のことを恋愛対象として見ていたことや、瀧田との間に起きていた出来事も。彼女自身、私と彼以外には誰にも話したことはなかったそうです。
彼の酒癖の悪さは誰もが知るところで、おそらくは当時も悪酔いしていたのでしょう。真美に断りの返事をされ、彼女が処女のレズビアンだと知った彼は、彼女の同意なく、強引に行為に及びました。……えぇ、紛れもない強姦です。とても怖かったと、手紙には震える文字で綴られていました。結局その時の恐怖と絶望から立ち直れないまま、彼女はひっそりと、自ら命を絶ったのです。
彼女からの手紙を読んで、とても悔しい気持ちになりました。彼女になにもしてあげられなかった、彼女を救ってやれなかった自分が、腹立たしくて仕方がなかった。そして同時に、瀧田要への猛烈な怒りが首をもたげ、私を復讐へと駆り立てたのです。
真美が自殺する原因を作った広島を殺害場所に決め、彼を殺すためだけに彼と秘密の恋仲になりました。嫌にあっさり事が進むなと思ってはいたのですが、まさか最初から彼にすべてを見抜かれていたとは……。彼が賢い男だということを、もう少し考慮しておいてもよかったかもしれません。
「おまえに分けてやった睡眠薬な」
殺害の直前、彼は言いました。
「あれ、医者からもらったやつでさ。真美が死んで以来、あれがないとろくに眠れなくなっちまってな。……もううんざりなんだよ、後悔の念に苛まれて生きていくのは」
だから早く殺してくれと、彼は希うように私を見ました。あまりにも自分勝手で、望みどおりに殺してやるのは癪だとさえ思いましたが、真美の無念を晴らしてやりたいという気持ちだけは、最後まで揺らぎませんでした。
私は、彼を刺し殺しました。
少しも迷うことなく、彼のからだに、刃物を突き立てたのです。
私自身はレズビアンではなく、友達以上の気持ちを持って真美に接したことは一度もありませんでしたが、かけがえのない友達として、彼女を大切に思っていたことは確かです。
だから、これでよかったのです。悔いはありません。
◇◇◇
巻き込んでしまった中井に対し、「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた美和さんは、河畠刑事に付き添われてホテルをあとにした。
去り際、彼女は俺を振り返ってこう言った。
――あなたは私のようになってはダメですよ、祥太朗くん。
その時ようやく、彼女に美姫の面影を見た理由がわかった。
彼女も美姫も、己の目的を成し遂げるための大きな力を内に秘めた女性だ。
倒すべき巨大な敵に立ち向かえるハートの強さ。そして実際に、目的を達成してしまえるだけの意思の強さ。
ビビりな俺には、何年経っても手に入りそうもない力だ。だからこそ俺は、彼女たちのような強い女性に惹かれるのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えているうちに二時間目が終わり、俺はひとり廊下へと出る。そろそろ百瀬が来る頃だろうか。
「あ」
ちょうどその時、目の覚めるような金髪が視界に飛び込んできた。
「百瀬!」
ポケットに両手を突っ込み、気怠げに歩いてくるその男は、相変わらず不機嫌で、駆け寄る俺を睨みつける目つきはすこぶる悪い。
「大丈夫?」
「あ? どの口が言ってんだよ、人のこと散々こき使いやがって」
「ほんっとごめん! その件についてはマジで悪いと思ってる」
パチン、と顔の前で両手を合わせた俺に、「ったく……」と百瀬は悪態をつきながら足を動かす。その姿はすっかりいつもどおりで、俺はようやくホッと胸をなで下ろすことができた。
「そうそう、あれから柏木が大変だったんだよ」
「は?」
一組の前を過ぎ、二組の前に差し掛かると、俺は早速修学旅行の土産話をし始めた。
「おまえの推理にめちゃくちゃ心動かされたみたいでさ。もうずっと百瀬百瀬ってうるさくて」
半分笑いながらそう言うと、百瀬の足がぴたりと止まった。そのままくるりと進行方向を変え、スタスタと早足で今しがた上がってきた階段のほうへと舞い戻る。
「お、おい百瀬!?」
「帰る」
「は!? ……ちょっ、待て待て!」
遠ざかる背中を慌てて追いかけ、その肩を引っ掴む。
「帰るって、どうして!?」
「ふざけんな! オレは他人にベタベタされんのがいっちばん嫌いなんだよ! ぜってーあとからめんどくせえことになるに決まってる!」
「――あ、やっぱり百瀬くんだ」
一組の前ですったもんだしていると、教室の窓から鶴見さんがひょっこりと顔を出した。
「よかった、元気になったみたいだね」
「よぉ、雪女」
「誰が雪女よ失礼な」
ニシシ、と百瀬が嬉しそうに笑う。すると、少し離れたところで「百瀬ぇーっ!」という聞き覚えがありすぎる声が響いた。
「げ」
「心配したんだぞぉーっ!」
俺たちのほうへ猛然とダッシュしてきた柏木が、覆い被さるように百瀬の背中へと抱きついた。
「だっ!? てめえ柏木……! さっさと離れろッ! うぜえ!」
体格で勝る柏木に、百瀬は完全に弄ばれている。こいつは面白いものが見られたと、つい声に出して笑ってしまった。
「百瀬」
ギャーギャーやっているふたりのもとへ、誰よりも冷静な男・中井が京都土産を提げてやってきた。
「安心したよ、元気そうで」
穏やかに笑う中井の姿に、柏木が一瞬気を取られる。その隙を突いて、百瀬はスルリと柏木の腕の間から抜け出した。
「ったく……何なんだよ、全員で寄って集って」
「それだけ心配だったってことだよ、おまえの体調がさ」
言いながら、中井はゆっくりと百瀬に歩み寄ると、スッと右手を差し出した。
「ありがとう。助かったよ、おまえのおかげで」
本心をそのまま口に出したような、大きな想いのこもった一言だった。百瀬はけれど、フンと冷たく鼻であしらう。
「言ったはずだぜ? オレが動かなくたって、警察がきっちり調べりゃいずれ事件は解決したって」
「それでも、おまえはおれのために動いてくれた。たった三時間だぞ? 事件発覚から解決まで。おまえだったから為し得たことだ。本当にすごいよ。誰もおまえの真似はできない」
ありがとう、と中井は再度感謝の言葉を口にした。百瀬は面倒くさそうに肩をすくめる。
「買いかぶりすぎだ」
「そんなことない。おまえに定期テストで本気出されたら、おれなんかじゃとても勝ち目がなさそうだ」
ここではじめて、百瀬がニヤリと笑みをこぼした。
「試してみるか?」
「……おまえ、マジで全教科満点取りそうで怖いよ」
苦笑いで応えながら、中井は「そういえば」と思い出したように言った。
「おまえって確か左利きだったよな」
提げていた京都土産の袋を右手に持ち替え、「じゃ、こっち」と中井は改めて左手を差し出す。その手にチラリと目を落とした百瀬は、パシンッ、と自らの左手で中井の左手を払うように叩いた。
「礼なら池月にでもくれてやれ。オレを引っ張り出したのはこのバカだ」
「悪かったな、バカで」
いかにも百瀬らしい照れ隠しに、五人で作る小さな輪が柔らかな笑顔でいっぱいになる。その中に百瀬がいることを、俺は心の底から嬉しく思った。
これまでいろんなことがあって、そしてこれからも、きっといろんなことが起きて。
決していいことばかりではない人生を、ひとりで生きていくのは苦しい。
大勢の人に囲まれることをしんどいと思う時もあるけれど、ふと気づいた時、周りに誰もいなかったら、それはある種の恐怖なんじゃないかと俺は思う。
夜の街にいる時は、きっとたくさんの人が百瀬のことを気にかけてくれるのだろう。
けれど、学校ではそうじゃない。百瀬の頼れる場所はまだまだ少ない。
高校生である以上、百瀬にも学校での居場所が必要だ。美姫の言葉を借りるなら、あっという間に思える三年間の高校生活も、ひとりきりで過ごすにはあまりにも長い。ひとけのない渡り廊下へ逃げ込むような毎日は、一刻も早く終わらせるべきだ。
参加こそできなかったけれど、今回の修学旅行は百瀬にとっていい機会になったのではないかと思う。
あの百瀬がこんなにもたくさんの笑顔に囲まれることになるなんて、一体誰が想像しただろう。
「なぁ、百瀬」
声をかけると、百瀬の視線がゆっくりと俺をとらえた。
「悪くないだろ? 高校生活も」
中井。柏木。鶴見さん。
友達という存在があれば、それだけで学校へ来る理由になる。笑顔の数が増えた分だけ、人は誰かに会いたくなるものだ。
やがて百瀬はひとつ小さく舌打ちをして、「うるせえよ」とまんざらでもない顔で笑った。そんな百瀬を中井と柏木が囲み、三人並んで三組の教室へと歩き出す。
ようやく高校生らしい百瀬の姿が見られ、俺はやっぱり嬉しくなった。
――こういうことだろ、美姫?
そう心の中でつぶやいたら、『やるじゃん、祥ちゃん』と、美姫の笑顔が返ってきたような気がした。
【Liar 2/了】




