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「えっ!?」
俺と柏木は勢いよく立ち上がった。それから気づいたように大学生たちを振り返って、「ありがとうございましたっ」と慌ただしくお礼を述べ、鶴見さんに続いて部屋を飛び出した。
廊下に出ると、中井が付き添いの若い刑事さんと一緒に719号室の前で佇んでいた。
「中井!」
「中井ぃーっ!」
俺も柏木も、およそ二時間ぶりの中井との再会に歓喜とも言える声を上げた。
「大丈夫か?」
「心配したんだぞぉ、マジで!」
「ごめんな、ふたりとも。おれは大丈夫だから。……それより」
ちらりと鶴見さんに目を向けてから、中井はやや声を落として話し始めた。
「杏菜から聞いたよ……おまえら、犯人を見つけようとしてるんだって?」
半ば責めるような視線を向けられ、俺と柏木は困ったように目を見合わせる。「わたしがお願いしたの」と鶴見さんが助け船を出してくれた。
「杏菜が?」
「うん……陽太が疑われて、黙っていられなかったから」
鶴見さんの弁明に、ふっ、と中井はからだの力を抜いて笑った。
「杏菜らしいな」
「茶化さないで。わたしたちみんな真剣なんだから」
「真剣って……」
「池月くん」
戸惑いを見せる中井を遮り、鶴見さんは鋭い目つきで俺を見た。
「百瀬くんから連絡はきた?」
「あぁ、それが……」
電話はまだない。十分後という約束から、まもなく五分がオーバーしようとしている。
「中井くん」
その時、俺たちの輪に近づいてくる声があった。河畠刑事だ。見せる必要もないのだろうが、サッと身分証である警察手帳を掲げる。
「河畠といいます。どうだい、からだの調子は?」
「はい、大丈夫です。……まだちょっと痛みますけど」
首筋をさすりながら答えた中井に「そうか」と満足げにうなずいた河畠さんは、先ほど俺に話してくれたとおり、中井にもう一度現場に入って昨夜の出来事を振り返ってほしい旨を説明した。実況見分というやつだ。
了承の意を示した中井は、河畠さんに連れられて現場である719号室に入っていく。その後ろ姿を、俺たち三人は扉の陰から固唾を飲んで見守った。
中井の足取りは端から見てわかるほど重かった。事件発生当時に感じた恐怖心が蘇っているのだろう。しきりに手を口もとに運んだり、額の汗を拭ったりしている。
河畠さんははじめに、傷害事件発生時の中井と犯人の動線を丁寧になぞった。
廊下で何者か――犯人の顔は終始見ていないとのことだ――に後ろから殴られ、部屋の中へと連れ込まれる。打撲の痛みがひどく、目を開けることさえままならなかったという中井だが、犯人に髪を引っ掴まれて無理やり顔を上げさせられた際、室内に佇む瀧田要さんの姿を目撃したのだという。もめ事を起こしてまもなかったこともあり、間違いなく瀧田さんだったと中井ははっきりと言い切った。
その後も河畠さんはさまざまな角度から中井に事件当時の様子を尋ねていった。目で見たこと、耳で聞いた音、肌で触れたもの……記憶を蘇らせるきっかけになりそうなことを次々に挙げていく河畠さんに対し、中井は必死に食らいつこうとしたものの、それ以上中井から有力な証言が挙がることはなかった。
犯人によって強引に飲まされた薬というのは、睡眠薬でほぼ間違いないだろうとのことだった。なんでも、瀧田さんの持ち物の中から、常用していると思われる睡眠導入剤が発見されたのだそうだ。犯人がそれを使用したかどうかはさておき、この事件に睡眠薬の使用の有無が大きく関わっていることは、これで疑いようがなくなったと言っていいだろう。
河畠さんら複数人の刑事たちから丁寧に礼を言われて解放された中井を連れて、俺たちは再び俺の泊まっている723号室に戻った。首の打撲の影響もあってあまり顔色がよくなく、三組の担任・坂野先生の了解を取り付けるのは難しくなかった。他の生徒たちが集められている大会議室では、休まるものも休まらないだろう。
「疲れた……」
部屋に入るなり、中井は壁にもたれて座り込んでしまった。目は閉じられ、額には脂汗が浮かんでいる。鶴見さんが傍らに寄り添い、心配に瞳を揺らしていた。
中井とは高校入学時から数えて二年の付き合いになるけれど、俺の前でこんなにも弱々しい姿を見せるのははじめてのことだった。
俺たち早坂高校男子バレーボール部をキャプテンとして率いる中井は、いつだって俺たちチームメイトのことを気遣い、どんなことにも冷静沈着に対応できる男だ。誰かに嫌味を言われても微笑み一つでひらりとかわし、背負っている苦労を俺たちには決して見せようとしない。たまに心配になって俺のほうから声をかけたりするけれど、たいてい「おれは大丈夫だから」と微笑みを湛えるばかりだった。
要するに中井は、人を頼ることが下手なのだ。そういう意味でも、俺とは真逆の男だと言える。
誰かに寄りかかってばかりの俺と、誰かを支えることが得意な中井。
俺が今、中井に手を差し伸べたら、中井は握り返してくれるだろうか。
「なんて顔してるんだよ、池月」
つらそうに吐息を混じらせて、中井は部屋の真ん中で立ち尽くしている俺を見上げて苦笑いをこぼした。
「大丈夫か?」
バカか。なんで俺が中井に心配されてんだよ。
あまりの情けなさに、俺の視線は下がるばかりだ。
「ねぇ、池月くん」
鶴見さんに声をかけられ、俺はもう一度顔を上げる。
「百瀬くん、まだ電話してこない?」
そうだった。百瀬からの連絡を待っていたことをすっかり失念していた。
スマホを取り出して確認する。着信があったことを示す通知は表示されていない。
「百瀬……」
時刻は午前九時二十分。いよいよ心配になってきた。
履歴をたどり、百瀬の電話番号に発信する。耳に押し当てたスマホからは、呼び出し音が聞こえるだけだ。
二度、三度と、切っては発信を繰り返す。しかし、何度かけても百瀬につながることはなかった。
――なんでだよ。
どうして出ない? なにかあったのか。
不安が急速に込み上げてくる。嫌な予感さえし始めた。
ただの風邪じゃない。百瀬が罹っているのはインフルエンザだ。
急に体調が悪化したのだろうか。電話に出られないほど? ……いや、着信そのものに気づいていない可能性もある。つまり、意識を失っているということだ。
俺たちは今広島にいて、百瀬の姿をこの目にとらえることができない。その事実が、俺の不安を必要以上に煽ってくる。
疲れて眠り込んでいるだけならいい。けれど、もしも体調が悪化して身動きが取れなくなっていたら?
……俺が悪いのか?
俺が百瀬に、無理やり事件解決の手助けを頼んだから――?
スマホを握る手が震えた。
あいつは今、ひとりきりでいるのだろうか。そもそも、きちんと家に帰っているのか。あいつの面倒を見てくれる人が、あいつのそばにはいるのだろうか。
あいつは、あいつは――。
「祥太朗」
スマホを握りしめたまま立ち尽くしている俺の背に、柏木がそっと手を添えてくれる。
「少し落ち着けよ。なんか息の仕方おかしくなってるって」
言われてはじめて気がついた。呼吸が浅くなっている。
「……わかってるよ」
そう、わかっているのだ。焦ったってどうにもならない。今俺にできることは、百瀬が無事でいてくれると信じて祈ることだけだ。
……だけど。
もう一度、百瀬に電話をかけてみる。
頭の片隅で、美姫の笑顔が蘇った。
美姫が死んで以来、大切ななにかを失うことが怖くて怖くてたまらない。
二度と戻らない時間を、命を、知らぬ間に手放してしまうことが怖い。
絶対なんてものがこの世にはないことを、俺は四ヶ月前に知った。
いつだってそこにあると信じて疑わなかったものが、ある日突然、何の前触れもなく消えてなくなってしまうのだ。
「池月」
いつの間にか腰を上げ、俺に歩み寄ってくれていた中井が、ぽんと俺の肩をたたいた。
「大丈夫だよ。あの百瀬だぞ? インフルごときでくたばるようなタマじゃないだろ」
なにも言っていないのに、中井は俺の気持ちを正確に読み取ってくる。スマホを握りしめたまま、俺はぎゅっと目をつむる。
「……わかってるって」
「わかってるなら、一旦落ち着け。ほら、こっち見ろ」
ガシガシと俺の両肩を掴んで揺すり、中井は無理やり俺の顔を上げさせる。
「大丈夫だ。おまえが心配することなんてなにもない」
「でも……!」
「『でも』じゃない」
中井ははっきりと首を振る。
「しっかりしろよ。百瀬はおまえを頼りに犯人捜しを請け負ってくれてるんだろ? 今おまえがつぶれたら、どれだけ百瀬が優秀だろうが、その才能をうまく使えないまま終わっちまうぞ?」
な? と中井は穏やかに、そして力強く微笑む。殺人容疑がかけられているというのに、どこまでも他人の心配ばかりする中井の強さがまぶしくて仕方がない。
「大丈夫だよ、池月くん」
中井の隣で、鶴見さんも綺麗に笑う。
「きっとすぐに折り返しかけてくるよ。それまでに、もう一度状況を整理してみましょう。わたしたちの力だけでも、なにかわかることがあるかもしれない」
「そうだな。ついでだからおれのために一から説明してくれてもいいぞ、杏菜」
「そーじゃん!」柏木が嬉しそうに声を上げた。「中井って実はめちゃくちゃ頭いいんだよな! 百瀬がいなくても犯人がわかっちゃったりして!」
「おい、『実は』ってなんだよ柏木」
「あはは、ごめんって! よっ! 才色兼備カップル!」
「ふざけんな。絶対バカにしてるだろ、おまえ」
ケラケラと軽快な笑い声が響く。
三人とも、俺のために明るく振る舞ってくれているらしい。そうとわかってしまったから、みんなに合わせて俺も小さく笑ってみせる。
それでも、俺の中から百瀬の身を案ずる気持ちが消えることはなかった。
つい、想像してしまう。あいつがいつか、ふらりと俺の前からいなくなってしまうことを。
どうしようもなく襲いかかってくるこの恐怖心を払拭する術を、今の俺は、まだこの手に掴むことができずにいた。




