2/6 08:50 a.m.
◇◇◇
「クソが」
電話を切った直後から、咳が止まらなくなってしまった。
――あのバカ。
なにが楽しくてこうも回り道ばかり選びやがる? 今回の事件、ピースさえ揃えちまえば並べて絵にするのはとんでもなく容易いっつーのに。
池月に対して心の中で悪態をついている間に、もはや息をするだけでいっぱいいっぱいになっていた。ちくしょう、少ししゃべりすぎたか。
仰向けではいられなくなり、体勢を右下の横向きに変える。布団の中で膝を折り、背中をぐっと丸めると、呼吸が少し楽になった。
「めんどくせえ」
数十分前の自分はなんて浅はかだったのだろうとつくづく思う。どうしてこんな面倒なことを引き受けた? 熱のせいか、判断を誤ったのは。
だいたい、旅先で殺人事件に遭遇するなんてフィクションの世界の話だろう。つい数ヶ月前に美姫が殺されたばかりだってのに、どういう星の下に生まれつけばそんな事態に陥るんだよ、池月のヤツ。
……いや、違う。
悪いのは池月じゃない――オレだ。
オレなんだ、誰かの死を引き寄せているのは。
たまたま体調を崩して修学旅行に参加できなかっただけで、本来ならオレは池月たちとともに広島へ向かっているはずだった。もしオレが現地にいたら、事件に巻き込まれて犯人扱いされたのは、中井ではなく、オレだったのかもしれない。
そらみろ。
やっぱりオレは疫病神だ。
いつだって誰かの死が、オレのすぐそばにはある。
姉貴の自殺未遂。美姫の死。それから、……それから。
「ちくしょう」
思い出したくないことを思い出し、もう何度目かわからない後悔の念が押し寄せてきた。再び仰向けになり、左腕を額に乗せて目もとを覆う。
どうして池月は、オレなんかを頼りにする?
オレは無力だ。なに一つ満足に守れた試しがない。ほしいと願ったものはすべて、指の隙間をサラサラとこぼれ落ちていくだけ。
わかっているなら応えなけりゃいいのに、応えちまうオレもオレだ。無意味な情に流されて、放っておけない気持ちになって。
オレは一体、あいつになにを期待している?
あいつに、なにを求めてる?
この関係が長く続けば、行き着く先は美姫と同じだ。
あいつとはいずれ、最悪の形で別れなければならなくなる日がきっと来る。
失うことを恐れるくらいなら、最初からなにも持たなければいい。そんなことはわかってる。
それでもオレは、あいつの存在を求めてしまう。あいつがオレを頼っているのではなく、オレがあいつに寄りかかっているんだ。
美姫とは違う、オレを惹きつけて止まないなにか。
目には見えないそのなにかを、ついたぐり寄せようとしてしまう。
あいつが必死に伸ばしてくれた手を、自分から離してしまうこと。
それが今は、怖くて怖くてたまらない。
あいつのほうから離してくれればあるいは楽になれるのかもしれないなんて、どこまでも他力本願な考えが回らない頭をサッと過った。
肺の痛みが頂点に達し、すぅっと意識が遠のいていく。
閉じた瞼の裏側で、美姫と池月が笑っていた。
◇◇◇
百瀬からの指示は次の三つだ。
①被害者・瀧田要さんの死亡推定時刻を警察から聞き出す。
②事件現場である719号室で、瀧田さんが飲酒した形跡があったかどうか調べる。
③718号室に泊まっていた五人の大学生のうち、昨夜午後十一時以降に目を覚ました人物がいなかったかどうか調べる。その時、室内で妙な物音や足音などを聞いた人がいないか同時に確かめること。
①を俺、②を鶴見さん、そして③を柏木がそれぞれ調べることになった。警察を相手にしなければならない俺と鶴見さんは苦戦を強いられそうだったけれど、ここまで来たらやるしかない。
それに、これほどまでに具体的な指示を出してきたということは、おそらく百瀬はすでに真相に検討がついているのだろう。ならばなおさら、俺たちが下手を打つわけにはいかない。なんとしても、百瀬の所望している情報を手に入れる必要がある。
それぞれの目的を果たすべく廊下を進んでいた俺たちは、718号室の一つ奥、717号室から出てきた西山さんと河畠刑事に出くわした。やはり717号室は空き部屋だったようで、事情聴取のために開放されているらしいことがわかった。
これ幸いと俺たちは駆け出し、俺は河畠さんを、柏木は西山さんをそれぞれ捕まえて話しかけた。
「おや、君かね」
河畠さんは俺を見るなり、好々爺然とした優しい微笑みを浮かべた。
「どうした? なにか私に言いたいことがあるのかな?」
「あ、いや、えぇっと……」
さて、どう切り出したものか。なにかとっかかりになりそうな話題はないかと瞬時に考えを巡らす。
「あの……中井のこと、なんですけど」
真っ先に浮かんだのは、病院に搬送された中井の容体についてだった。「おぉ、彼ね」と河畠さんは丁寧に応じてくれる。
「さっき病院に付き添っていった警察のヤツから連絡があったよ」
「あいつ、大丈夫なんですか?」
「うん。首の打撲は軽傷で済んだみたいだな。意識もはっきりしているそうだ。治療にひと段落がついたところで事情を尋ねてみたらしいんだけど、君に話したのと同じことを繰り返すだけで、嘘をついているようには見えなかったと言っていたよ。……ただなぁ」
河畠さんは渋い顔で頭を掻いた。
「そうすると、少々困ったことになるんだよな」
「困ったことって?」
「中井くんの証言と、被害者の死亡推定時刻が噛み合わないんだ」
おっと、こいつはとんだ棚ぼただ。河畠刑事のほうから死亡推定時刻の話を振ってくれるとは。
俺の顔を見てなにを思ったのか、河畠さんは苦笑いで肩をすくめた。
「すまんね、君にするべき話じゃなかった。じじいの独り言と思って聞き流してくれ」
「いえ、むしろそのあたりの話、具体的に教えてもらえませんか?」
「うぅん?」河畠さんの表情が険しくなる。「どうして君がそんなことを知りたがる?」
「あ、いや……俺じゃなくて百瀬が……」
百瀬? と河畠さんは首を捻った。
「誰のことだい?」
「あぁ、えっと……スーパーバイザー、みたいな?」
「ほう」と河畠さんが目を丸くする。「おもしろいことを言うねぇ。君たちのバックには凄腕の名探偵でもついているのかな?」
「まぁ、そんなところです」
河畠さんは大きく声に出して笑った。
「いいねぇ。私は好きだよ、そういうの」
小馬鹿にしたような言い方だったけれど、突っぱねられるよりはマシだと努めてポーカーフェイスを貫き通す。
「それで? その名探偵さんとやらは、死亡推定時刻について知りたいんだったかな?」
「はい」
「うむ、ではお答えしようか。詳しくは解剖結果待ちだが、発見時、遺体は死後九時間が経過していたそうだ」
「ということは……?」
「被害者が殺害されたのは、昨日の午後九時から十時頃……ちょうど被害者が部屋に閉じこもり始めた頃ということになる」
「そんな……!」
そんなバカな。
あり得ない。だって中井は、昨日の午後十一時頃に瀧田さんの生きた姿を見ているんだから。
「な? 困ったことになるだろう?」
河畠さんは苦笑する。
「もちろん、検死官による推定が間違っている可能性もある。逆に、中井くんの証言に誤りがあるか」
「まさか! 中井は嘘をつきません!」
「いやいや、嘘をついているとは言っていないさ。たとえば瀧田さんだと思っていたのが別の男だったとか、そういった見間違いや勘違いの可能性も考慮すべきだろう?」
無論、その可能性は大いにある。そもそも中井は瀧田さんとは昨日が初対面だったのだ。薄暗い部屋の中で顔や背格好の似た人が立っていれば見間違えたとしてもおかしくはない。
ただ、西山さんだと瀧田さんに比べて背が高すぎるし、沢代さんは顔の作りがまるで似ていない。他は全員女性だから、まず見間違えることはないだろう。もし本当に瀧田さんが午後十一時の時点で殺されていたのだとしたら、中井は一体、誰の姿を目撃したというのか。
「付き添いの刑事がまもなく中井くんを連れてこっちに戻ってくるそうだから、一度中井くんには現場へ入ってもらって、当時の状況を詳しく訊いてみるつもりだよ」
そうですか、と俺は答えた。確かに、実際に現場に立ってみるとなにか新しい事実を思い出すことがあるかもしれない。
「しかし、奇妙な事件だよねぇ」
腕組みをした河畠さんが、ぽつりぽつりとぼやき始めた。
「被害者の瀧田さんは部屋でひとりきりになっていたから殺すにはちょうどよかったんだろうけど、彼は鍵のかかった部屋に、それも鍵を持ち込んだ上で閉じこもっていたわけだ。カードキーなしに外から扉を開けることはできないから、犯人は被害者自身に部屋の中へ招き入れてもらわない限り現場へ踏み込むことさえも叶わなかったはずなんだよねぇ。そして、風呂上がりに立ち寄った友人ふたりは入室を拒否され、犯人は入れてもらえた……こいつは一体、どういったカラクリなんだろうなぁ」
なるほど、言われてみれば不可解だ。
ふたりで訪れた時はダメで、ひとりで訪ねれば開けてもらえた? たとえば犯人が西山さんの場合、沢代さんと一緒ではダメで、西山さんひとりでならオーケイとか。……なんだそれ。自分で考えておきながら意味不明だ。
では、瀧田さんが部屋の中から扉を開けて犯人を招き入れたのではなく、犯人がなんらかの方法で部屋の外から扉を開けて無許可で入室したという可能性はどうか? ……うーん、そんなことができてしまえばホテルのセキュリティとして大問題だろうから、やはりこの線はあり得ないか。
そこまで考えて、俺は一つ重要なことを思い出した。
そもそも瀧田さんが719号室に閉じこもることになったのは、柏木との間に起きた衝突騒動がきっかけだった。理沙子さんの証言によれば、その時の瀧田さんの様子はどことなくわざとらしかったという。
ついさっきぼんやりと立てた、瀧田さんがわざと柏木ともめ事を起こしたのではないかという仮説……もしそれが事実だったとしたら、瀧田さんの目的は、部屋でひとりきりになることだったのではないだろうか?
けれど、なぜ?
なぜ瀧田さんは、部屋に閉じこもる必要があった?
さらに言えば、せっかくひとりきりになることに成功した瀧田さんが、自ら犯人を部屋の中に招き入れるなんてことをするだろうか? 沢代さんや西山さんは拒絶して、犯人だけを都合よく部屋に入れるなんて、そんな偶然が……。
――偶然?
本当にそうなのか?
さっき百瀬は、犯人は計画的に殺人を実行したんだと言っていた。だとするなら、瀧田さんがひとりきりで部屋に閉じこもってしまうことまでをも犯人は最初から計算に入れていたという話になる。
とすると、おかしなことにならないだろうか。
仮に瀧田さんが部屋に閉じこもったことが偶発的な出来事ではなく、彼が狙ってやったことなら、犯人はあらかじめ瀧田さんの意思、あるいは行動予定を把握した上で自らの殺人計画を実行に移したということだ。それは同時に、瀧田さんと犯人が裏でつながっていた、他の人に知られることなく水面下で意思の疎通を図っていたということを意味する。そうだとしたら、瀧田さんが犯人だけを部屋に招き入れたことにも納得がいく。それも計画のうちだったということだ。
……ちょっと待て。計画ってなんだ?
ここで言うところの計画って、つまりはなんのことを指している?
言わずもがな、犯人の狙いは瀧田さんを殺害すること。ならば、瀧田さんが犯人とつながっていた理由はなんだろう? 殺されるとわかった上で部屋に入れることはまずないだろうから、なにか別の目的があったはずだ。それは一体……?
「おーい」
ぐるぐると考えを巡らせていると、河畠刑事が俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫かい?」
「あ、はい……」
一旦思考回路を断ち、「ありがとうございました」と河畠さんに頭を下げる。「名探偵さんによろしく」と、河畠さんは茶化し気味に言いながら718号室へと入っていった。
廊下にひとり取り残された俺は、百瀬に電話をかけることにした。忘れないうちに今抱いた疑問を解消しておきたかったからだ。約束の時間まであと五分弱あるけれど、早くて怒られることはないだろう。
スマホを取り出し、履歴をたどって発信する。しかし、十コールを過ぎても百瀬は応答しなかった。
「あれ……?」
トイレにでも行っているのだろうか。もう一度かけてみたけれど、やっぱりつながらない。
仕方がない、約束の時間になって向こうからかけてくるまで待つか。
手持ち無沙汰になってしまい、俺はひとまず718号室で聞き込みを行なっている柏木と合流することに決めた。鶴見さんはひとりでもきっとうまくやってくれるだろうが、柏木はどうも心配だ。……俺に心配されるなんて、柏木にしたら不本意極まりないのかもしれないけれど。
718号室の入り口で、河畠刑事とゆかりさんとすれ違った。次はゆかりさんが聴取を受ける番らしい。
靴を脱いで上がり込むと、開け放たれている障子戸の向こうから楽しげな会話が聞こえてきた。言うまでもないが、その中心にいたのは柏木だった。




