2/6 08:41 a.m.
斜め上から降ってきたその問いかけに、俺も柏木も、口をぽかんと開けたまましばらく声が出せなかった。
………………いや、そこ?
急激に頭が重くなるのを回避できず、俺は額に手を当てざるを得なかった。
足踏みするところを完全に間違えてるぞ、百瀬。そこに説明が必要だなんて、俺たちの誰も疑わなかったって。
「いやいやいや」
はっはっは、と妙にわざとらしく笑いながら柏木が言う。
「なーに言っちゃってんの百瀬さん。おれだよ、おれ」
『あ? だから誰だっつってんだよてめえ』
「んだぁああああっ!!」
ガシッ、と柏木がスマホを握る俺の手を両手で掴んだ。
「おれだよぉ百瀬ぇーっ! おれたち同じ三組じゃんかぁあああーッ!」
『あぁ、おまえか』
血走らんばかりの目をした柏木とは対照的に、そういやあそんなヤツもいたな、くらいのテンションで百瀬は答えた。「ひどいっ! 薄情者っ!」と柏木が隣で泣き真似を始めたけれど、今回ばかりはちょっとかわいそうだなと思った。
「謝るなら今のうちだぞ、百瀬」
『は? なんでオレが謝んなきゃなんねぇんだよ』
「なんでって……さすがにひどいだろ、クラスメイトのことが咄嗟にわからないなんて」
『んなこと知るか。どうせ向こうだってオレになんか興味ねぇんだろ』
「そんなことない!」柏木が胸を張る。「こう見えておれ、おまえのこと結構知ってるんだからな!」
ほぉん、と百瀬は少しばかり愉快そうに声を上げた。
『たとえば?』
「うーんと……あっ、定期テストのこととか!」
『テスト?』
「うん。噂で聞いたよ……おまえ、どの教科もきっちり五十点分の問題しか解かないんだろ? で、解いた問題では一つも不正解を出したことがない」
「は? なんだよそれ、マジなのか?」
俺が驚いて目を瞠ると、「あぁ」と柏木はうなずいた。
「でも実際、それも納得ーって感じなんだよな。だって百瀬、授業で先生に当てられて、答えられなかったこと一度もないもん。毎日学校に来てるわけじゃないし、授業だって真面目に聞いてる風でもないのにさ、ちょろっと板書や教科書を見ただけでスラスラ答えちゃったりしてて」
嘘だろ、なんてヤツだ。それが本当ならとんでもない秀才じゃないか。
さすがと言うべきか、嫌味なヤツだと言うべきか。しかし、なるほど百瀬の頭脳ならそれくらいのことは小指の先で簡単に叶えられるのだろうと納得できることではあった。休みがちな百瀬をおもしろがって指名した先生たちの顔をちょっと拝んでみたい気がする。
『はん、つまんねぇこと知ってやがるな』
なんでもない風で百瀬は答えた。
『面倒だろ、いちいち全部の問題に律儀に答えるなんて。五十点あればまず追試にはならねぇんだ。無駄な労力を使って百点満点を狙うくらいなら、眠ってからだを休めたほうがよっぽど自分のためになる』
「……その理屈は高校生としてどうかと思うぞ、百瀬」
『バカ言ってんじゃねぇよ、池月。いいか? 人間にとって睡眠をとるという行為はなににも代えがたい非常に大切なものであってだな』
「本気でそう思ってるんなら、夜通しカミイチの街で遊ぶのをやめればいい」
『それとこれとは話が別だろ。睡眠時間をどこで確保するかは人それぞれじゃねぇか』
「だからって、テストの時間に居眠りしていいという話にはならない」
『あ? なんだよ池月。おまえ、いつから学校側の人間になった? テスト中に寝たことが一度もないヤツなんていねぇだろ。なぁ、柏木?』
「えっ? あ……うん、そうかもね」
「おい」
なぜ百瀬の肩を持つ。深い深いため息が漏れ出た。
柏木を巻き込み、もっともらしい理由を並べて淀みなく反論を展開する百瀬。目の前で殺人事件が起きているというのに俺たちは一体何の話をしているんだと、今日だけですでに何度目かの頭を抱えたい気持ちになった。
『で?』
ゴホゴホと遠くで重苦しい咳の音が聞こえてきたあと、百瀬は事件の話題に切り替えた。
『ホテルの見取り図は?』
「あぁ、ちょっと待って」
俺は柏木が手にしていた見取り図を写真に撮って百瀬に送った。絵がうまいと自称していたとおり、柏木の作成したものは簡略ながらも綺麗にまとめられていてとても見やすい。意外な才能があったものだとつい感心してしまった。
『へぇ、よくできてるじゃねぇか』
七階の客室フロアだけでなく、話に出てきた一階のロビーや大浴場までの道筋など、柏木は事件解決に必要と思われる細かいところまでよく拾った図を作っていた。百瀬に褒められ、「おれが描いた!」と柏木は誇らしげに主張する。
事件の起きた719号室は、廊下の突き当たりから数えて三部屋目。その隣、突き当たりから二部屋目が美和さんたちの泊まっている女子部屋・718号室。そして一番奥――別の一般客が泊まっているのか空き部屋なのかわからない717号室の廊下を挟んだ向かい側にある716号室が、中井・柏木の泊まっている部屋だった。ちなみに俺の723号室は719号室から見ると、エレベーター方面に向かって四部屋先だ。もっともエレベーターに近い部屋は725号室で、俺のクラスメイトが泊まっている。
『防犯カメラの位置は?』
百瀬からの指摘に、俺も柏木も一瞬言葉を詰まらせる。言われるまで、カメラの存在など気にも留めていなかったのだ。
「――エレベーターの前に一つあるだけ」
俺たちに代わって答えてくれたのは、いつの間にか俺たちのいるエレベーター前にやってきていた鶴見さんだった。
「この七階に限った話だけど、客室にはもちろん、ざっと見た限り廊下にもないみたい」
『そうか。……ま、そんなことだろうとは思ったけどよ』
「だよね。そうでなければ、犯人は陽太を廊下で襲ったりしない」
あぁ、と百瀬は相槌を打つ。なるほど、証拠が残らないとわかった上で犯人は事に及んだわけか。あの大学生たちは一年前にもこのホテルに泊まっていたというから、ある程度は最初から勝手がわかっていたのかもしれない。
『それで? この三十分の間におまえらはなにを調べてきた?』
俺は鶴見さんと顔を見合わせる。正直なところ、成果らしい成果を挙げられた自信がまるでない。
「昨日の瀧田さんの様子がヘンだったって話くらいだよね、気になるところは」
「あぁ、うん……そうだな」
『様子がヘン?』
鶴見さんの報告に百瀬が食いつく。
『どういう意味だ?』
「ほら、昨日の夜、柏木くんが瀧田さんとぶつかってもみ合いになったっていう話。瀧田さんはあまり酒癖のいい人じゃなかったみたいだけど、昨日はそれほど量をのんでいたわけでもないのにフラフラしていて、それがむしろわざとらしく見えたんだって」
ふぅん、と小さく言った百瀬はそのまましばし黙り込む。情報を整理しているのか、あるいはすでに組み上がっている推理にさらなる磨きをかけているのか。
『他には?』
百瀬が新たな情報を要求してくる。鶴見さんは俺を見て、視線だけで俺に話すよう促してくる。
「あー……瀧田さんが殺された理由だったらわかったかも」
『殺された理由? 動機ってことか』
「うん。一年前まで同じサークルに所属していた女の人が自殺したらしいんだけど、その原因を作ったのが瀧田さんなんじゃないかって言ってる人がいて……」
『池月』
なぜか百瀬は呆れたように大きくため息をついた。
『やっぱりバカだな、おまえは』
「……は?」
『もう何回言ったか覚えてねえが、本っ当におまえはなんにも考えてねえ。少しは学習しろよ。オレが与えた三十分っていう時間を、おまえは考え得る限り最悪の使い方をしたんだぞ』
「最悪って……」
そんなことを言われても。
口をつぐんでしまう俺に、『考えてみろ』と百瀬は言う。
『誰もが簡単に気づくような見え透いた動機があるのなら、犯人は最初から自分が疑われることを前提に殺人計画を立てたはずだ。だとしたら、動機がわかったところで相手の仕掛けたトリックを見破れなければそいつを犯人だと名指しできない。犯人がオレたちに施した目隠しをはずすために必要なことはなんだ? 動機を明確に探り当てることなのか?』
違う、と俺は小さく答えた。だろ? と百瀬は責めるように続ける。
『ほしいのは事件の背後にある犯人の感情じゃない。被害者を取り巻く人間たちの行動の軌跡だ。誰が、いつ、どこで、どんな行動を取ったのか。誰に被害者を殺し、中井を襲う時間があって、その一瞬の隙をどうやって、どのタイミングで作り出したのか。今オレたちに必要なのは、そういう具体的で確実な情報なんだよ。動機なんてもんは、あとから殺した本人に好きなだけ語らせてやればいい……真相が明らかになってからな』
迷いなく、自信に満ちあふれた口調で言い切った百瀬。その顔こそ見えないけれど、あの日……美姫を殺した犯人を名指しした時の、誰よりも雄々しく、勇ましかった百瀬の姿が蘇る。
――やっぱり。
思わず頬が綻んでしまう。
やっぱり百瀬はすごい。あいつの言うことはどこまでも正しくて、自らの無能さを認める以外、俺にできることはなさそうだ。
「ごめん」
素直に謝ると、百瀬が息をつく音がかすかに聞こえた。
『わかったらさっさと動け。今手もとにある情報だけでも、とっかかりになりそうなことがいくつかあるだろ』
「あぁ、うん……」
あまりに曖昧な返事だったせいか、「ったく」と百瀬は面倒くさそうに言った。
『もういい。今からオレが指示することを、手分けしてきっちり調べてこい』
了解の意を示した俺に、百瀬は必要な指示をいくつか出した。鶴見さんが自らのスマホでメモを取ってくれる。
『十分後にかけ直す。次は要領よくやれよ』
「あぁ」
電話が切れると、一気に疲れが押し寄せてきた。はぁ、と息を吐き出すと、他のふたりも緊張の糸が切れたみたいに脱力する。
「厳しい人なんだね、百瀬くんって」
鶴見さんが苦笑いで漏らした。
「失礼な話だけど、もっとヘラヘラしていてバカなことばかりやっている人だと思ってた」
「ほんと、意外だよなぁ。部活のキャプテンとかやらせたらすげーうまそう。弱小運動部をまとめ上げて全国大会に導きます、みたいな」
その喩えはやや大袈裟だろうと思うけれど、確かに百瀬は見た目と中身とのギャップが大きい。柏木がそのような感想を抱いても不思議じゃないことは理解できる。
どうでもいいけど、百瀬ってなにかスポーツをやるのだろうか。……いや、やらないだろうな。やらせてうまかったらそれはそれで腹が立つからやらなくていい。
ふっ、と鶴見さんが小さく笑った。
「美姫が彼と付き合っていた理由が、今ならわかる気がする。なかなかいないよ、彼ほど頼もしい人なんて」
いつかの俺と同じことを言い出して、俺も思わず笑ってしまう。
「中井が妬くぞ?」
「なに言ってるの。陽太と百瀬くんじゃ全然タイプが違うじゃない。それに」
遠くを見つめ、鶴見さんは感じ入るようにつぶやいた。
「美姫だから、うまくいってたんでしょ。わたしに百瀬くんは飼い慣らせない」
まったくだ、と俺も思った。どうしたら百瀬に、あるいは美姫に振り回されずに済むのか、今からでも教えてほしい。
「さぁ、やりましょう」
ポンと一つ手を叩いて、鶴見さんが場を仕切る。
「次こそ百瀬くんを怒らせないようにしないとね」
微妙にズレた目標を確認し合うと、俺たちは百瀬の指示に従い、事件の捜査を再開した。




