若草の語るを聴く002
若草の語るを聴く002
……食客はいつの間にか、いついている状況が多い。
『 原田左之助』氏もその1人。
彼は大抵、庭か台所を居場所にしていてその界隈をウロウロしているコトが多かった。
行く宛も金もナイらしく、永倉氏の様に何処かへ外出するコトは滅多になかった様に記憶している。
身長はそんなに高くは無いが、横幅が広くガッシリとした逞しい体躯で、意志の強そうなきっと結んだ唇に、目鼻立ちのくっきりした男前であった。
普段、道場の中にいる時は血気盛んに動き回る人であったが人から離れた場所で1人で居たりなどすると、時折ふとした拍子に妙に寂しそうに……その上神妙に何かを深く沈む様にして考え込んでいるような癖の人だった。
だが、話かけると途端に人なつっこい明るい笑顔になって、丸で子供の様に喋り出すので、私は彼の気の置けない感じが非常に好ましくて何かにつけよく声をかけた。
……その日は晴れていたにも関わらず、原田氏は案の定どこへもでかけずにいたらしい。
寒いのにもろ肌を脱いで縁側に腰かけ、足の親指にかけた下駄をぶらぶらさせてぼんやりと空を眺めている所に出くわしたので思い切って土方氏の事を尋ねてみる事にした。
「ねえ、原田さん」
「お、そーじろうじゃねえか。どしたい?」
彼の隣に腰かけると、彼は足をぶらぶらさせるのをやめて私を視た。
「ちょっときいてもいい?」
「いいよ、なんだい?」
「こないだの集りの時のこと覚えてます?」
「ん?なんだったかな」
「ほら……道場移転の話で、集会があったでしょう」
んん、と彼が首をかしげた。
「ああ、あれかあ……実はさぁ俺、ああいう集まり苦手でよ。出てないんだよなあ。それに移転するにしたって俺、何も言えんだろ。ここでタダ飯食わせてもらってんだし。恩返しって恩返しもしてねえしさ。それに、俺縛られるモンなんもないからひたすらどこでもついてくよ」
「そっか、じゃあモメた事は知らないんだね」
「それは知ってる」
そういうと私をじっとみつめた。
黒が強く、まつ毛の長い眼なので目力がある。
「トシさんだろ? 近藤先生や勇さんに文句つける野郎がいたってトシさん本人からきいたよ。そんなの百万年早えやな。意見だって恐れ多いのに師匠に口答えするなんざよ。そりゃあトシさんは激怒するよ。嫌いだからな、そういう無礼者が」
「……へえ、土方さんて、意外に熱血漢なんですねぇ?」
「そうだねぇ」
「実際どんな人なんです?」
私のその問いに、うぅん、と眉根を寄せて唸る。
が、次の瞬間ぱっと顔をほころばせてこう答えた。
「良い人さ。この上ナイほど俺にぁ良くしてくれるよ」
「そうなんですか」
「ああ、飯、良くおごってくれるしなぁ。それに俺よ、あの人に助けてもらった身だからねえ。大げさにいうとな、命の恩人みたいなもんなのよ……トシさんは」
……そう言うと照れ臭そうに頭を掻く。
彼の日に灼けた顔は、妙に嬉しそうだった。
詳しくは語ってはもらえなかったが、試衛館に来る前に原田氏は賭場にいて大分面倒な相手と斬りあいになって大怪我を負った事があったらしい。その時に土方氏が助太刀をして、
(ってことは土方氏も賭場にいたという事だろうけどそこは突っ込まないでおいた)
原田氏の大怪我の介抱をしたのだという。
もっとも土方氏は薬売りが生業だから当然と言えば当然か。
まぁそんな経緯でソレを機に、この道場を紹介された、というのが筋であった。
それから大分 後になって、ある時土方氏がポツリと語ったのだが、
まだ原田氏が彼自身の地元で藩勤めの足軽をしていた頃に上役と、ちょっとしたいきちがいで、もめて切腹騒動を起こした事があったそうだ。
そこまでしなくてもと皆に切腹を止められ、その名残が彼の右腹に大きな縫い傷として残っている。
「そんな勢いのある人間なので、大怪我をしたことを悔やんでまた切腹でもされたらもったいないだろう。そもそも原田は他の連中が思っている以上に仕事の出来る忠義者だし、どんな相手でも臆することなく突っ込んでいける人間だ。あいつはそのウチ必ず俺の役に立ってくれる。だから助けた」
……と語っていた。
その事情故にか、原田氏と土方氏の信頼関係は
他の者達と少しばかり違った間柄だった様な気がするのである。
◆原田 左之助◆
原田左之助は本名。それ以外の名前等は一切不明。
天保11年(西暦1840年)、伊予松山藩(現在の愛媛県松山市緑町矢矧町)で生まれたとされる。松山藩足軽、原田長次の長男。
15、6歳の頃、藩邸内小使をした後、国元で若党を務めたりもしたようだが、何にせよ松山藩を脱藩したのは事実の様である。流しなんかもやっていたと言う噂もあるが本当か(笑)
まぁ腹に切腹をしかけた傷跡があり、何かというと
「俺の腹は金物の味を知ってるんだ」と言っていたそうだからなにか色々ヤクザな行為が多かったのかもしれない。
その後、江戸の三田藩邸に取り立てられたが、試衛館へ出入りするように成ってから間もなく道場へ居着いてしまったそうだ。ただし、彼の基本は剣術ではなく種田宝蔵院流という槍術である。
近藤と共に京都へ上洛。京都残留。
新撰組になってからは副長助勤十番隊隊長を務める。
京都では所帯をもっていた。仏光寺上ルにある薬種問屋椿生堂の娘、まさと結婚、男子をもうけている。
が、鳥羽伏見の戦乱以降、永倉同様妻子とは生き別れの状態になってしまったようだ。
近藤と決別後、永倉と共に精鋭隊に一度は加わるモノの、会津へ行く途中で、下野(現在の栃木県)鹿沼(山崎宿との説もある。)で永倉等とも袂を分かち、上野で彰義隊に加盟する。が、上野戦争で彰義隊は壊滅。
原田も戦闘の折り、銃創を受けそれが元で慶応4年5月17日(西暦1868年)に死去。享年28歳。
息を引き取った場所は本所猿江町旗本.神保伯耆守の屋敷とされる。
一説に、原田が上野で死んでいないという記述や逸話も残されてはいる。松前藩の縁者の元へ慶応4年の5月以降に挨拶に来ているという話が現存している。妻子を探しているのだが手伝ってもらえないかというような内容であったとのことだ。もし、本当であれば妻子が見つかって幸福な余生を過ごしたと信じたい所ではある。
また一説に、大陸に渡り馬賊の長になって日露戦争のおり、日本軍を影ながら支援し、
64歳まで生きた……と言う逸話もあるが、こちらは相当信憑性が薄い。
坂本龍馬・中岡慎太郎両名の殺害嫌疑もかけられていたが、近年になって厳密な調査が重ねられ、その疑いは晴れつつあるようなので、犬神的には非常に嬉しい所だ。




