出会いの橙々色
出会いの橙々色
まぁ、兎に角そんなワケで私は住み慣れた家を後にして、井上のおじさんの紹介でその道場で内弟子(悪く言えば使用人)として住み込む事と相成った。
……その道場の名は“試衛館”。
場所は江戸の市ヶ谷牛込。かなりの住宅密集地の中にあった。
流派は“天然理心流”だという。今まで聞いたこともなかった。
道場までの道々に井上のおじさんから色々の話を聴いたのだが、その時はまだ、いまいち状況を理解できないでいた。
道場にたどり着き、よれよれの門にかかった看板をみて指さすと、私は思ったことを素直に口に出す。
「これ……なんと読むんですか?」
「ん?ああ。 これぁ “しえいかん” と読むのサ。」
「“しえいかん”……? いったいどういう意味なんですか?」
「さぁなぁ…… ま、読んで字の如しだろ?」
私の質問におじさんは笑って肩をすくめた。
そのままおじさんに導かれてその崩れかけの門を潜って中へ入る。
……入って私はその有り体に酷く驚いた。道場はどうやら長屋を改装したものらしかった。
長屋も大体似たようなものだが何せ年季が入っているのであちこちが崩れかかっている。
挙句だ、道場から見える渡り廊下に男共がゴッチャリと半裸の状態で日向ぼっこをしていたり、狭い庭で井戸の水をばんばか浴びていたりと、兎に角あけすけない。
振り向いてみれば、そのおんぼろ道場の中でそれはそれは凄まじいイキオイで木刀の応酬が繰り広げられている。
女の数の方が多い環境で育った身としては圧倒されて言葉を失うのも至極当然な訳だ。
放たれる奇声と怒号。
響く素振りの音。
……奇声は耳障りで気持ちの良いモノではなかったけれど、
素振りの時の木刀が空を斬る音は心地良かった。
今までの子供同士の埃まみれになる、“ちゃんばらごっこ”だの“鬼ごっこ”だのとは明らかに違う環境に圧倒されつつも、何か得体のしれないものが……ぞくぞくと背筋を這っていく感覚に陥ったものである。
これから始まる生活に本の少し光明を見い出していると
「ぼんやりするな、宗次郎、こっちだぞー」
と呼ぶ井上のおじさんの言葉で正気に戻り、私はそのまま屋敷の奥の部屋へ向かっていった。
そこでその当時の道場主、『近藤周助』氏を紹介された。
周助氏は、のんびりとした雰囲気の穏やかな気色の人であった。
(言い方を変えればのらりくらりと言う方がより正しいかも知れない)
この時、周助氏の奥方にも引き合わされたのであるが、……どうもこの奥方、様子がおかしい。
子供心に怪訝に思いはしたものの、まさかそこを突っつく訳にもいかないので姿勢を正したままキチンと一通りの挨拶をすませた。
……と、その時だ。
渡り廊下をバタバタと歩く音がふいに耳に入る。
目をそちらにやると、大柄な影が障子の向こうに見えた。
何事か様子を窺っていると、モノの数秒もたたぬウチその影の映った障子がゴトゴトと開いて
(屋敷が古くて建て付けが悪かったのだ)、その影の主が姿を現した。
障子に映った影も大きかったが、当の本人はもっと大きく感じる。
なんだか体全体が角張った感じで、目が小さく細い割に、やたら口が大きいのが特徴的だった。
「お義父さん、相変わらずココの戸は建て付けが悪いですなぁ!」
……体ダケではなく声も大きかった。
ビックリして目を見開いたままその人物を凝視する私に気付いた彼は、
「なぁ」
と急に声を掛けてきた。
「お前さんもそう思うよなぁ!?」
面食らう、と言うのはまさにこの事だろう。
どう答えて良いか解らずに、口をあけたままのびっくり顔のままでいると井上のおじさんが助け船を出して私の代わりに楽しそうに笑いながら答えた。
「勝太さんこいつは今日ここへ来たばかりだし、そっちの渡りから入って来てナイから解るハズないよ」
「ああ、そうかそうかそうなのか、なるほどそれじゃワカラン。でもな、そっちの廊下側の襖だって大分酷いぞ?源さんだってそう思うだろ?お義父さん、早い所あちこちを直さんといつか私はコレを壊して入るように成りそうです」
『勝太』と呼ばれたその人はアッケラカンと言った。
一方の奥方は、大分目くじらをたてている様子だ。
それを知ってか知らずか周助氏はニヤニヤしながら言う。
「おい勝太よ、何はともあれこの子を連れて屋敷案内してやんなィ。しゃっちょこばったご挨拶ぁ、 若いモン同士いらねぇだろう。家ん中で案内してるウチに、お互いの話でもすると良いぜ」
「ハイ、心得ました!お義父さん。おい、ぼうず 行くぞ」
私は一瞬その言葉に戸惑って、井上のおじさんと周助氏、そうして奥方の三人の顔を見回した。
無論おじさんと、周助氏は頷きながら行け、行けと小さく呟いている。
……が、しかし奥方は眉間にシワを寄せたまま相変わらず仏像のように黙りこくっていた。
成る程……ココで幾ら子供の私でもこの周辺の大体の関係は匂いで解ったも同然だ。
私は手をついて頭をぴょこんと下げ、
「失礼致します」とだけ告げると『勝太』氏の方へ走り寄っていった。
勝太氏は、楽しそうに笑いながら、私の頭をごしごしと分厚い手でなでつつ渡り廊下を歩き始めた。
「お前、今年で幾つになる?」
「い……五つになります」
「ほーそうか、俺は今年で十九んなる。十五近く離れてるのかぁ。ハハハ!ま、俺のコトぁ歳の離れた兄貴だとでも思ってなんでも頼ってくれよなァ。あ、そうそう。俺の名前は勝太。…で、お前は?」
「おきたです、沖田宗次郎。」
「ふぅん、“そーじろう”か。まぁヒトツよろしくたのまぁな!」
「こちらこそ何卒宜しくお願い致します。」
頭を下げると勝太氏は
「子供がそんなかしこまるなよ」と
ゲラゲラ笑いながらその太い首を縦に振るのだった。
この人が後の 『 近藤勇藤原昌宣 』
……後の新撰組局長となる人と私の出会いである。
【幕末用語簡易解説集】
◆近藤 勇◆
幼名を宮川 勝五郎と言う。
武州多摩軍上石原村の百姓、宮川久次郎の三男として天保5年10月9日(西暦1834年11月9日)に生まれた。
嘉永2年に近藤家に泥棒が入ったのを、三男である勝五郎がはやる兄達を諌め、見事撃退したと言うのを耳にした近藤周助氏が、彼を見初め、同年の10月19日(西暦1849年12月3日)に、天然心理刀流の跡継ぎとなるべく周助の生家である島崎家の養子とし、名を勝太と改めさせた。
後、島崎 勇と改めなおし、更に近藤勇藤原昌宜と成ってから天然心理刀流の四代目宗家を継ぐ。
万延元年(西暦1860年)に松井ツネと結婚。娘ももうける。(タマ子。漢字は旧漢字により表記できず)
文久3年2月8日(西暦1863年3月26日)に、清河八郎の浪士隊に加盟。後、清河と袂を分かち、本庄宿で色々の因縁のある、芹沢鴨氏一派と他数名京都へ残留。壬生浪士隊を結成。
ここで新撰組の基盤ができた事になる。会津守護を得、新撰組発足後は芹沢、新見錦と共に局長として籍を置く。芹沢一派粛清後は、実質上の新撰組局長として君臨。池田屋での活躍もあり、その存在を世に知らしめる事になる。女性関係もかなり派手で、姉妹の芸妓に手を出して、妹の方を孕ませちゃった為、所帯を持っちゃうなどと言う(江戸に奥さん子供がいるってのに…まぁ…;/苦笑)事もあったりで
周囲も相当扱いに困る部分が結構多かったようだ。(この辺りからも、土方一人が鬼と呼ばれる程、厳しくならざるを得なかった理由が伺える)
が、その後、数々の時代の転変で近藤の立場は急変していく。
鳥羽伏見の戦いに置いては、先の新撰組内部粛清でその刃を切り抜けた高台寺党の残党に襲撃され、銃弾を右肩に受けた為、参戦できず、沖田と共に大阪城に待機する事になる。
その後、富士山丸で江戸へ帰還し、一時期は沖田と共に松本良順医師の医学所で厄介になっていたようだ。その後、幕府より若年寄格を申し渡されて大名屋敷も与えられた。甲陽鎮部隊を土方氏と設立し、甲府城接収に赴いたが勝沼の戦で敗れ、下総流山で新撰組を再編成しようと言う話が持ち上がるが、官軍の奇襲に遭い土方等と別れ、一人投降した。
土方達を逃がす為に犠牲になったのだ、と一説には言われている様だが余りにも大物が簡単に投降しすぎた感が否めない。
土方に言い残したとされる「もぅ疲れた」のヒトコトを、どう受け止めるかだろう。
大久保大和の名を官軍に名乗ったが、京都で彼を狙撃した高台寺党の残党が官軍に入っており、正体を見破られて、慶応4年4月25日(西暦1868年5月17日)板橋において処刑される事となった。
斬首であった。
その首級は、板橋宿外の一里塚に晒された後、塩漬けにされて京都へ送られ閏年の4月8日(西暦1868年5月29日)に京都の三条河原で梟首された後、何者かによって持ち去られ、未だに行方知れずであるという。