浅葱の乾坤一擲001
浅葱の乾坤一擲001
ではこれから八月十八日までの間に起きた話をしていこう。
そもそもこの騒動自体は、間違いなく幕府側からの要請であったことだけは明記しておきたい。
幕府を倒す意志と、朝廷……すなわち天皇を政治の頂点に奉る為には、どんな過激で物騒な事も厭わない長州の刺客たちは、実際手練れの武士達ですら手を焼くほどに怖いもの知らずの連中ばかりであった。長州の人たち全ての気質がそうなのかどうかは良く解らない。けれど、過激な行動で存在を知らしめる傾向が当時の長州の人々の多くにあった。加速していく過激行動は留まるところをしらない。そこでとうとうそんな危ない長州の身元の知れない浪人達は京へ立ち入らせないという決定が幕府から降りてきたのである。
京へ入れるな、見付け次第追い出せ、と言うのだから幕府側の威光は長州にとっては効力を為さなくなっていたわけだ。まぁ勢いよく喧嘩腰で押し入ってくるのだから手に余るのも無理はないが。
そこでそんな得体の知れない底力を持った長州の人々を一掃するのに我々にも声がかかったわけだ。
ところで、尊皇と勤皇と攘夷。佐幕派と倒幕派と公武合体派。
改めてこの言葉の意味を理解できている人はいくらほどいるだろうか。
知っているけれど理解は出来ていない事の方が多いと思う。
“尊王”とは天皇陛下を御守りして敬っていく事。
“勤皇”とは天皇に忠義を尽くす事。
“攘夷”とは外国との交わりを一切排除して日本へ来た外国人を排斥(追い出したり)する事。
“佐幕派”とは三百余年続いた徳川幕府を守ろうと考える人々の事。
“倒幕派”とは三百余年続いた徳川幕府を解体し、新たに政治を始めようという考えの人々の事。
“公武合体派”とは天皇家(公)と徳川家(武)を合体させ強固にし、政治の機軸として政権の建て直しを測ろうという考えの人々の事。
私たち新撰組は目下佐幕派で、我々を雇った会津藩、援護する桑名藩は当然 志を同じくする人たちであった。
公武合体派は薩摩藩。あくまで幕府と朝廷が同盟を組むべきだと主張していた。
一方の長州藩は“勤皇思想の尊皇攘夷を掲げる倒幕派”だった。しかし残念な事に、“勤皇”と“尊王”を掲げているにもかかわらず、その過激な行動ゆえ孝明天皇から長州藩はその存在を煙たがられていたのだ。
前置きが長くなった。ここから本筋にまた戻ろうと思う。
兎に角そのために急激に加速する尊王攘夷派の反幕府行動にあわせ我々も少しずつではあるが、昼夜問わず、隊の中から数名で組を作り市中を警備して回るようになっていた。ただし、名目はあくまで“市内の警備”である。町の人たちを傷つける様な事や、無用な斬りあいを避ける為に、怪しいそぶりを見せた者に対してのみ、きちんと藩や姓名等を名乗ってもらう事を義務付けた。
あやしいとおもってすぐに人を斬って捨てるのでは長州藩の不貞浪士たちと同じ穴の狢になるという山南氏の意見だった。
「甘いなあ山南君、それじゃあいつこっちが斬られても文句は言えないぜ」
と野口氏がひやかすようにいうのを、苦い顔で
「やられたらやりかえすでは、いつか共倒れになる」
と珍しく一歩も引かずに答えていたのが印象的であった。
それ以外のことでも少々言い合いがあった。
仕立てた制服を着るべきか否かで、である。芹沢氏や近藤先生は着るほうが良かろうといった。何しろ目立つ上に、長州の連中の目をひきつける事ができるという考えだったらしい。
しかし土方氏と山南氏と新見氏がそれに反対した。実際この頃まだ新撰組の隊士自体、実践に不慣れなものばかりであった。人を斬ったことがないのである。
そんな連中が矢面に立つ事の危険性は実際の所目に見えている。折角揃ってきた人数を減らしたくない、と言うのも実情だった。事実、長州の過激浪士によっての暗殺事件や闇討ちが横行し、新撰組の一員であった佐伯又三郎と佐々木愛次郎が相次いで殺されている。
結果、浅葱色の件の陣羽織は、揃って出動になったときに着用しようと言う話になった。
そうしているうちに屯所に会津藩、桑名藩の伝達が何度も足繁く出入りを始めた。ちょうど時を同じくして、山崎氏と桑名藩の探索方の面々からも土方氏に話が伝わった。
そのあわただしさもあって、同月十三日の芹沢氏の起こした大和屋焼き討ちの一件が
少々据え置きになっていた感があるのは事実である。




