表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時の過ぎ行くまま  作者: 犬神まみや
2/38

暁の薄紅色

暁の薄紅色

今からお話しさせてもらうのは、日本という国の歴史が一つ大きく変貌をとげる非常に混沌としていた時代の話だ。 


その混沌の理由。

それは約四百年にも及んだ政治……すなわち“徳川幕府”と言う、不動と信じられていた存在の体勢が大きく傾き始めたからだ。 


上を下への大騒ぎとはまさにこの事だった。

兎に角、世の中はどんどん物騒になっていく。

その理由はおいおい話の中で語るとして、この期に乗じて中には立身出世…言わば一旗揚げようと言う町民・農民が、武士に転身を遂げるべく狙いを定める者も少なくはなかった。


成功例が殆どないだけで。

まぁいつの時代でも一攫千金を狙うのは同じって事だろう。

正直言えば敵にせよ味方にせよ、


当時の私の周囲もそう言った類の人々が多勢を占めていた。


私が信頼を寄せ、敬愛していた人物も確実にその中の一人だったと言える。


サテ、私…と言っても皆様には誰だか解り辛いと言うものなので、あえてこのあたりで自己紹介をさせて貰おうと思う。


私は幼名を『宗次郎』と言い、改名してからを『総司』とした。


……『沖田総司』……それが私の名前だ。


まずは私が『宗次郎』と呼ばれていた時の話からはじめたい。

『私』と言う『人間』の話をしていくのに当たって、不可欠な部分なので少しおつきあい頂ければと思う。


私が生まれたのは、江戸陸奥白河藩阿部播磨守藩下屋敷内…麻布だ。

ま、正直生まれた時の事は覚えてないのでなんともいえない。

重要なのは物心ついてからだろう。

私の父…『勝二郎』と言う人は当時の流行り病のヒトツ『労咳(結核)』で死んだ。


先に言った様に陸奥白河藩阿部邸に父が内勤していた折り、金銭の揉め事に巻き込まれ責任を追求して行くウチに大した禄も(二十二俵二人扶持だったし)持たない父がとばっちりを食らったって話だったと思う。


不況も底辺を彷徨って居た状態だったから少しでも食い扶持を減らそうと白河藩も躍起になっていたのかも知れない。

父は脱藩と言う形を取らされその職を追われる身となった。


まぁその当時からしてみれば良くある話だったみたいだが、下級とは言え生まれてこの方武士以外のなんぞやをした試しのナイ父母は、突然起こった我が身の不幸に途方に暮れるばかりだった。

が、そうこうしても飯の種に成るワケじゃナイ。


まずは引っ越し。


良くある長屋みたいなトコロへ越した。

…やっぱり麻布周辺だったが、場所は詳しく覚えてないからハッキリしたコトは言えない。


武士以外はしたことがないとはいえ、元々手先の器用だった父は慣れない長屋暮らしの合間に近所の家々の家具などを直してたりして生計を立てていた。


……が、やはり彼や私を含め家族5人をの生活支えるには到底十分とは言えない。

母も色々の内職や外勤めをしようとしたようだが元々が病弱だった為、結局いつでも長続きはしなかったようだ。

当の私と言えば、そこはやはり子供特有の順応性でその生活をごく当たり前に捕らえていたと思う。


…そうして それから数年たったある日の事だ。


心労も祟って、父はとうとう発病した。


労咳、というあの病は、一般に『血を吐く』と言うのを思い浮かべる人も多かろうと思う。

だが実際それよりも、妙な咳の方が耳に残る。



まだ五歳にも満たなかった私は薄暗く狭い部屋の中で背中を丸めて激しく咳き込む父の姿だけが目に焼きついているだけだ。今想えば、家族に見せないように必死だったのかも知れない。


いまわの際もそうだった…


父の逝った日、冷たい雨と灰色の空の感覚的な記憶の方が鮮明で、ただぼんやりと、「嗚呼、父はもう起きあがれないのだなぁ」と感じたのを記憶している。


泣いた様な気もするし、泣かなかったかもしれない。

兎も角、葬式だって金がないんだからまともに出来やしなかった。

が、浪々の身と言えども当時の常識として武家である以上、しきたりめいた事をある程度まではやらざるを得なかったようだ。


子供の私を抜きにして母や姉や親戚筋とが全てを滞り無く終わらせたらしいが 先も行ったように余り記憶に残っていない事なので、ちゃんと状況を説明することは出来そうにない。


…私の五つ程上に一人『茂助』と言う兄が居たのだが私がまだ赤ん坊の頃に病気で亡くなっていた為、事実上、私が跡取りと言う事に成っていた。


だが、そんな状況では跡取りもクソもナイ。


にも関わらず、母はしきりに幼い私に


「あなたはこの家の唯一の男子で家長となる身なのだから色々の覚悟をして置いて貰わないと困りますよ」と譫言の様に呟くのを聞いて、はたしてどんな覚悟をしたモノなのか思案を巡らせていた。


……まぁそんな考えも結局はあまり意味を持たなかったなぁというのは、後々になって感じた事。


それよりも父が死んだのだから、収入が絶たれた訳で今後の生活が全く成り立たない。


となれば、残された家族の身の振り方を早い所考えよねばいけないと言う話になった。

要するに、葬式の前後から子供の私の知らない所で“とある計画”が持ち上がっていたのである。


そして私は最終的にそれに従わざるを得ないハメに成る。


それが人生最初で最大ともいえる転機であったとは五つに成ったばかりの子供であった私は夢にも思わなかった。




【幕末用語簡易解説】

沖田おきた 総司そうじ


幼名を宗次郎とも、宗治郎とも、

惚二郎春政ともされている。


いみな房良ふさよし


天保13年(西暦1842年)6月1日の日蝕の日の生まれ、

天保15年の4月末か弘化元年(どちらも西暦1844年)の説があり、未だにどちらが正しいかは解明されてはいない。(ちなみに犬神の小説では天保15年説とってやす)

奥州白川藩阿部能登守正備の臣、沖田勝次郎の次男、又は長男と伝えられる(一説に総司の上の男児が早い内に死亡した為総司を跡取りにすえる為にそうなったと言う)

が、父が白河藩士と言うだけであって、実際沖田が生まれたのは江戸だったそうだ。


故、実質上白河藩脱藩者なのは父であり、総司ではナイとされる。

(一応資料に安政2年/1855年の14歳の時に脱藩と成っているが、コレは近藤の案で形式上作ったモノだとも言われている)

母はミキ…だったと言うが、これは正確な文献が残っていない為、事実とは言い難い様子。長姉をミツ(光)、次姉をキン(金)と言う。

ミツの方は井上源三郎の甥にあたる井上林太郎を、入り婿として迎えて実質上、沖田家の跡目を継がせた。

キンは越後三根知行所中野伝之丞由秀に嫁いだ。


15歳位で、既に剣術指南する程にまでなっていたらしいが普段の愛想の好い明るい兄ちゃんと言うキャラとは打って変わって、イキナリマジギレ級の超短気な所があって、真面目にやらない人間に対して

教え方が非常に荒っぽかったので門弟達にはムチャクチャ怖がられていたそうだ。



近藤等と浪士隊参加、上洛後 京都に残留、新撰組一番隊隊長として活躍するが、池田屋騒動の折、労咳により、喀血・昏倒(実際にこのときに喀血していないとの説もある)。

その後も色々隊務をこなしてはいるが実際は病気の進行の為、相当な無理があったのではと言われている。


伏見の戦争の折は、負傷した近藤と共に大阪城で待機。参戦する事は叶わなかった。

新撰組残党と共に富士山丸(艦)で江戸へ引き揚げる。

その後は神田和泉橋の松本良順氏の医学所で診療を受けたが、慶応4年5月31日(西暦1868年7月1日)に永眠。


享年27歳とも、沖田家の文書の残る、25歳とも伝えられる。(墓碑には24歳と記されている)


最期の地に関しても、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅他、台東区今戸の説もあり、その場所はハッキリしない。官軍の手を避ける為、場所をひた隠しにするのに、相当の苦労があった当時の事情が垣間見える。

(当時は無茶苦茶された為)



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ