秘色の炎
秘色の炎
最初の小さな騒動が起こったのは、本庄の宿場でだった。
正直の所、私はこの前日から既に嫌な予感に見舞われていた。
と、言うのも大宮の宿場で芹沢氏の悪癖を目の当たりにしてしまったからである。
……その悪癖とは”酒”だ。
芹沢氏は酒の嵩が増していく程理性を失う。要するに”酒乱”であった。それもなまじっかのモノではない。
この旅の序盤の日数の内に彼等を観察して解った事だが、数日にわたる傳通院の会合でも見せたように
芹沢は普段は、自分の手下達を冷静に制御できる立場の人物だと言う事が大体解っていた。
が、酒が一滴でも入ると、少しでも自分の気に障ることがあったダケで、相手が女であろうが、武士でなかろうが、誰彼かまわず異常な程に激昂するのである。
まず大宮の宿で起こった出来事はこうであった。
この日……大宮の宿場でたまたま試衛館一派と芹沢氏の一派が同じ宿に滞在する事になった。
「こんな芋臭ぇトコにいられるかぃ」
と最初に口にしたのは芹沢氏の身内の平間重助であった。
それを聞いて黙っていられなかったのは、原田氏である。
「へぇ、天狗ってやっぱり鼻が高いモンなんだな。へし折ってやりたいね」
と、間髪居れず、早口でピシャリと応戦する。
「なんだとォ!?」
野口健司、平間重助、平山五郎の三人が一斉に立ち上がった。
「お、やろうってぇのか!?」
身を乗り出したのは原田氏と藤堂氏である。
しかし、意外とも思われるかもしれないが、そこで焦ったのが永倉氏だ。永倉氏は芹沢氏の一派である野口とは同門で旧知の仲である上に、自分自身の血が上りきった時以外は、揉め事自体を回避するのが実際の永倉氏の性分である。
当然板挟みの様な気持ちになったのだろう。
立ち上がると、
「ちょ、ちょっと待て、皆落ち着けって!」
と静止の声をかけた。
が、そこで
「止めるなよ、しんぱっつあん」
と、土方氏が言い放った。
「なんでだよ!?土方さん!?」
永倉氏が声を荒げると、土方氏は大刀を左に抱いて座したまま、顎を上にあげると薄く目を開け、殆ど口を開かない格好でこう言った。
「俺とて馬鹿じゃない。自分や仲間が馬鹿にされて黙っていられる程お人よしじあゃないさ」
「へぇ、なるほど。コレが噂の“芋づる”ってワケか。仲間意識だけは異常に強いと見える!」
平間氏が又言った。
「煩ぇッ!アンタ、よっぽどその鼻ッ柱へし折られてぇらしいな!」
原田氏が怒鳴る。明らかに一触即発の気色であった。
山南氏も井上氏もいたし、同室の別の班の者も数名いたが、誰も何も言わなかった。
遅かれ早かれこうなるだろうと皆予測はしていたのである。
そういう私はというと黙って事の成り行きをみていた。…が…何ともいえない異様な気配を感じて、後ろを振り向いた。
……そこには芹沢氏がいた。
その時である。
芹沢氏の手の動きを見てとり、私の背筋に冷たいモノが一気に走りぬけたのと同時に、頭で考えるよりも早く体が反応して、反射的に畳に身を伏せた。
それと同時に〝ヒョオ″と鈍く空を切る音が、私の背後から頭上を掠めて騒ぎの中心部へ飛ぶ。
私の髪一筋が一瞬巻き上げられたのを感じてすぐに、這いつくばったまま顔を上げると、飛んでいったモノをそこにいた皆が
「うわッ」
と声を上げ、慌てて避けたのと、飛んでいったモノが襖に体当たりして、落ちる様がみえた。
私の背後をかすめ、皆を危うく背中を襲う寸前だったモノの正体……それは、一升の源蔵徳利であった。
徳利は放り投げた張本人の元へ帰ろうとするかの様に暫くの間床を転がり、やがて止まった。
本の一瞬の出来事であったが、今まで余計口を一切利かない芹沢氏のその異常とも言える行動に、皆一様に凍りついた。
が、よくよく見てみると、どうも最初に喧嘩腰だった三人の顔色は、我々等より数倍色を失って酷い有様だった。
「喧しい……」
芹沢氏の唸るような声が私の背後で響くのと一緒に、本当に微かだが、“カチリ”と刀の鯉口を切る音がして、私はぎょっとした。
――まさか、抜刀する!?……たかがこれしきの事で?
じわり、とこめかみに汗が滲む。
こんな至近距離で、しかも背後から斬られたら到底防げそうにない。
私の手も自然に大刀に伸びた。
が、それに気付いたのは私だけではなかったようだ。
土方氏も、まさか、と言う表情をありありと浮かべ、私と芹沢氏とを凝視している。
彼もまた、鯉口を切っていた。
すると、芹沢一派の一人が
「いけねぇっ……!」
と聞こえるか聞こえないかの小さな声で言って、
血相を変えて立ち上がった。新見氏であった。
私をグッと押しのけると、芹沢氏の前に滑り込むようにしてかがんで、
「芹沢さん、あの徳利、もう空けちまったんですかい?流石だねぇ」
と笑顔を作る。
「ね、芹沢さん、ココじゃ気兼ねナシに飲めやしませんよ、表へ参りましょう。ココにだってちょっとは気の利いた酒場がありますって」
それを聞いて芹沢氏は
「む…」
と又、ヒトツ唸ってゆらりと立ち上がった。
私は刀から手を離さずに、素早く身を避ける。
それと同時に
「行くぞ……」
と芹沢氏が一歩を踏み出した。
「ホラ、お前等もッ!」
と新見氏が三人を叱咤し、三人は
「ハッ!」と頭を下げると「お供します!」と叫ぶように返答して悠然と部屋を後にする芹沢氏の後を追った。
彼等の気配が去って、私はようやく刀から手を離した。
体の深い所から、思い切り溜息が洩れた。
土方氏を見ると、ふぅーと長く息を吐いて壁に背中を預けた所であった。
「驚かしやがる…」
土方氏が息を呑みながら呟く。
「申し訳ありません。まさか新見さんに助け舟だされるとは思ってもみなかった
私が言うと、彼は口端をクィッとあげ
「なんで謝る?」
と言って笑った。
「何もしてねぇお前が斬られたら洒落にならんからな」
「ちぇっ、そう簡単には斬られませんよ」
私が口を尖らせて反論すると、彼はまたニヤッと笑って目を閉じた。
……その夜、芹沢一派は宿へは帰ってこなかった。
+++
……そんなこんなを通り越して、その2日後の2月10日に、とうとう一つの事件が起きた。すっかり日も暮れてから本庄へ入って、割り当ての宿に着き、皆体を休めに入る時の事だった。
「……外が騒がしいな、何でしょう?」
そう言いながら藤堂氏がさっと膝を立てた。
「あ、本当だ」
私は立ったまま背中壁に預けていたがそこから離れ、窓際に寄る。
先にそこへ近寄っていた藤堂氏が、私の顔を一度見上げてからサッと障子を開けた。
「なんだァ……?」
藤堂氏が大きな目をすぼめたり、開いたりしながら騒ぎの声の群衆をみつめた。
「……もめてるの?」
私は呟くように疑問を口にすると、藤堂氏は
「どうでしょう」
とゆっくり、そして小さく首をかしげた。ふたりで人だかりに目を凝らし耳を澄ます。
二~三人の男の馬鹿に大きな笑い声と、
「お止めください、お止めくださいませ!」
という、か細い静止を懇願する声だった。
甲高いその大きな笑い声……どうも聞き覚えがある。
私は、胸に一抹の不安を覚え
「あの声はまさか……」
と口にした時、廊下で誰かが叫んだ。
「大変だ!」
私達は一斉に声の方を振り向く。
「芹沢が……っ、芹沢が街道で火をつけたぞ!と……とんでもねぇことんなってるぞ!」
「なんだって!?」
永倉氏と原田氏が素っ頓狂な声を上げて立ち上がる。
と、部屋の隅で壁にもたれ腕組みをしたまま目を閉じていた土方氏が、自分の両刀をひっつかみ、あっと言う間に立ち上がると、
「そうじ!」
とだけ囁く様に言い放ち、風の様に廊下へ躍り出る。その素早さに一瞬面食らったが私も慌てて両刀を取り、土方氏の後をおった。……皆も同じだった。
表へ出ると土方氏が、人だかりから数歩離れた所で、例の無表情を有り体に浮かべ立ち尽くしていた。
人の群れをかいくぐったその視線の先には騒ぎの中心部が見えているらしい。
私も人の隙間から様子をみて、息を呑んだ。
……そこには見覚えのある肩と背中が、立ち尽くしている。
「こ……近藤先生……ッ!?」
私はわななく声で呟いて目を細め、更に奥を見据える。
我が師匠の影の向こう側に見えたのは、方々の旅籠から剥ぎ取ってきたらしい木片が薪の代用品として、橙や朱に色付き金の火の粉が舞いとぶ炎に巻かれている所。そして、その炎の前にどこから引っ張ってきたものか椅子に腰掛け座している芹沢鴨その人の姿があった。
手には先だって私が、間一髪避けた源蔵徳利がしっかり握られている。
また飲んでいたんだ。
私の顔は歪んだ。
「一体何があったんだぁ……?!」
井上のおじさんが、怪訝な顔つきで、
私と同じ様に様子を伺って、
「うっ」と呻いて身を引いた。
後から来た仲間達も皆、同じ様な反応を示した。
「何故……芹沢と近藤さんが……!? 何でこんな事に……!?」
山南氏が全く理解できないと言って額に手を当てて首を横に振る。
一部始終を見ていたらしい二人組みの内一人の肩に、
「オイ、何があった!?」
と永倉氏が手を掛け、早口で尋ねた。
彼等は面食らったようだったがこう説明してくれた。
……なんでも宿割りを任されている近藤先生が、よりによって芹沢氏の宿だけを取り忘れてしまったというのだ。
それに腹を立てた芹沢氏が、
「拙者は所詮宿無しの風来坊で御座る。 自分の宿は自分で探します故、御心配めさるな」
と高笑いを残して、新見氏達に命を下すと、方々宿や民家の戸板や椅子や看板と燃える物を次々剥ぎ取ってきて道のド真ん中で火を焚きはじめたというのである。よりによって芹沢氏の宿割りだけを忘れてしまったと言う近藤先生に対しても驚いたが、ソレに対する芹沢氏の行動は余りにも常軌を逸していた。
……言い方が悪いが芹沢氏、とてもマトモとは思われなかった。武士としても信じ難い行為だ。
「沖田君!」
藤堂氏が私の肩を揺すったので、私ははっとして彼をみた。
「ハイ?」
「どうします?あれは……あれはマズイですよねぇ?!」
藤堂氏は怒りと焦りのまじった様子で興奮しながら現場と私を交互に見る。
「ええ、正直の所、余りにも驚きすぎて開いた口が塞がらなくなってたトコです」
「行くか!? 総司!」
原田氏の言葉に藤堂氏が刀の柄に手をかけ身構えた。
その時、周囲がざわめいた。
近藤先生が地面にどかっと膝をつき、そのまま正座をしたかと思うと、両手と額を地面につけた。
……土下座をしたのである。
離れた場所で声は微かにしか聞こえてこない。が、近藤先生は思いつく限りの謝罪の言葉を述べている様だった。
――じわり……
私は掌と胃の底が熱くなるのを感じた。
一気に汗が噴出し、私の左手は鯉口を切ろうとして右肩が前に傾く。
人と人との隙間へ突っ込もうと少し身をかがめた。
……その瞬間。
私の目の前に大きな掌が差し出される。
それで私の動きは抑制された。
「行くな…っ、そうじっ!」
柔らかだが芯の強い深い制止の声。
土方氏だった。それで私の体の動きが全て凍りつく。
「何故です!?」
吐き出すように、噛み付くように、彼を見上げそう尋ねる。
「土方さんは悔しくないんですかっ!近藤先生が……あんな目に遭ってるんですよっ?!」
だが吠える私を土方氏は一喝した。
「近藤さんがどんな思いで頭を下げてるか、お前になら解るだろうが!!俺たちがいったら今のあの人のしたことがどうなると思う!?…そうさ、全部無に帰すんだ。あの人の意地、俺達がブチ壊してどうするっ!!」
その言葉は重かった。心の臓を鷲掴みにされたような胸苦しさを覚え、
「う……」
と私は呻いた。下唇を噛み、怒りから来る震えを必死で抑えこんだ。
……解る。
近藤先生は、これ以上事を荒立てない為にも、今後の為にも己を必死で自制し、ああして頭を下げて自分の非を認めて詫びている事は。
嗚呼、けれど……だからこそ、悔しいのだ。
芹沢氏はなにやら皮肉を言っているようである。新見氏もそれを止める事はしない。近藤先生はさらに平伏し、頭を下げる。私は悔しさから喉の奥が締め付けられる様な感覚に襲われて、目がじわっと熱くなり、涙がどっと溢れ出すのを感じた。試衛館の者は、同じ様に泣いていた。……土方氏以外。
「堪えろ……」
土方氏が更に声を潜めた。
「今は、ひたすら堪えろ……。近藤さんの努力を決して無駄にするな……ッ」
私は土方氏の背中へ自分の左手を回して、彼の着物を強く握り締める。
ぽた、ぽたと大粒の雨の様に地面に涙が音を立てて落ちる。
土方氏は、そんな私の右肩に手を置きシッカリ掴んだ。その手はいつもの暖かさがなく、ひやりと冷たい。私が彼の顔を見上げると彼はほんの少しだけ笑みを浮かべ、ひとつ頷いてから、視線を赤々と燃える炎へ移し、言った。
「このままじゃあ……済ましゃしねぇサ。……絶対にな!!」
いつも通りの無表情。けれどその黒い瞳には、揺れる黄金色の炎が移りこみ、激しく踊っている。
怒っている。
掌の冷たさは怒りの余り血の気のが引いたのだろう。
無表情を決め込む時は却って腹を立てているのを悟られまいとする癖。
私はこんな時なのに奇妙と思われるかもしれないが、土方氏が怒ってくれている事に、何故か安堵してしまった。
+++
……結局その騒動は、池田徳太郎氏が近藤先生と共に謝罪をしてくれたことと、芹沢氏の宿を確保することでなんとか一件落着した。
火の粉が自分の家に降りかからないか心配し、水桶を手に屋根に登っていた宿場の人々も、ホッと胸を撫で下ろしたようだった。
山南氏は、夜になって宿で
「近藤さんがああして頭を下げた事でこの宿場は無意味な戦場になることも、罪なき人が血を流す事もなくて済んだのだよ。何より上様を護衛する前にそんな騒動では私達は物騒な集団として警護などさせては貰えんだろう。近藤さんはソコも理解してたんだろうね。そんな人が私達の頭なんて、嬉しい事だと思わないかね」
と微笑んで言っていたのを、私と藤堂氏は誇らしげに聴いていたものだった。
……兎も角。本庄でそんな出来事があったに、浪士の群れにも少々緊張が走るようになったのも事実だ。
荒っぽい連中は大勢いるが、大半の者は皆、多少の自制がきくであろう中で、我々よりも格上であるにも関わらず、そんな暴挙に出る者がいるのが解った事が要因の一つだろう。
その後、17日……中津川の宿で上役と各組長が呼び出された。芹沢氏が六番隊組頭を罷免され、次いで新見氏も三番隊組頭を下ろされた。その一連の流れから、三番隊を近藤先生が任され、六番隊にいた井上のおじさんや、林太郎義兄さんも三番組へ移る事になった。
恐らく、道中での無駄な争いを避ける為の上からの配慮もあったのだろう。
だが彼…芹沢氏はそんなことで怯む様な類の人間ではない。
本庄の事件の緊張も解けず日も開いていないその2日後には、どういう経緯かは解らないが、取締並出役手附という名称を手に入れたのである。
すなわち組頭なんぞよりも格が上になったって事だ。
そのせいもあってか近藤先生は又、宿割りへとんぼ返りだ。
当然我々は苦々しく思っていた。
が、……その話を聞いた土方氏は、鼻で笑って一言。
「危ないモンは高い場所に飾っとけって言うだろう」
土方氏の皮肉はどうしてこう、時々妙に冴え渡るんだろ……聞いて苦笑した私も私だが。
この後も、またしてもしたたか酒に酔った芹沢氏に、今度は井上のおじさんが危うく斬られそうになったり、芹沢氏と他の隊士との小競り合いがあったりと幾つかの面倒と騒動を孕みながら浪士隊の一行は長い中山道六十九次を越え……
目的の場所。
京都へ辿り着いた。
大半の浪士達が、これから更なる騒動に巻き込まれるとも知らずに……。