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時の過ぎ行くまま  作者: 犬神まみや
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常盤柳の呟002

常盤柳の呟002

 それから忘れてはイケナイのはこの男。

斎藤さいとう はじめ』氏だ。


播州明石藩の脱藩者で、年齢は土方氏と変わらず背格好も彼と近かった。

土方氏が道場に立ち寄る時は斎藤氏もよく見かけたのを考えると二人はこの頃からよく一緒にいたのだろうと思う。


この男……正直初めの頃はどうにもとっつき辛くて非常に難儀をした。

初めて対面して、すれ違いざま頭を下げて来た彼の笑顔の裏に、どうも得体の知れない何かをみてとってしまった為かもしれない。


後で聞いた話によると彼もその時、私に対して、そういった類の得体の知れないモノを感じていた、と言われた。


……要するにそれが解ると言うことは、どうやら彼と私は、随所において共通点が多かったのかも知れない。


もしかするとだが、互いに理解し合うまで自分を見ている様で気まずかった可能性はあるだろう。

そういうのは年齢とか性別とかは一切関係ナイ。一目みて、何か感じるものだ。

そして互いの気まずさの壁を取っ払ってしまえば、後はどうと言うことはない。


サテ、この斎藤氏も、土方氏同様、あまり道場には寄りつかない、どうにも腰の落ち着かない人物であった。


まぁ彼が一体何をしていたのかと言う疑問は後々になって、全て解消されるに至る。


……まぁ恐らくそういう性分の男なのだ。


普段は無口、物静かなたたずまいで、愛想は良い。

ただし、その愛想の良さは、実際の所、周囲と潤滑に事を進める為だけに振る舞われるモノで、危険なのはそれを迂闊に信じて、彼を本気で怒らせたり逆鱗に触れた時である。


それを私が目の当たりにしたのは、たまたま出稽古の帰りの街中だった。

斎藤氏とその男は路地裏の手前の薄暗がりにいた。

その相手は町のごろつきみたいな男で、斎藤氏とは談笑しており、一見何事もない様な雰囲気であった。私は声をかけようか迷ったが、話の腰を折っては悪いかと思いその場を離れようとしたその瞬間である。


ごろつき風の男が斎藤氏の肩をぽんぽんと叩いたと同時に笑顔のままの斎藤氏が、男の肝の臓辺りめがけて拳を捻りこんだのだ。


多分に男は何が起こったかわからなかっただろう。白目をむいてその場にへなへなとだらしなく倒れこんだ。斎藤氏はそれを一瞥すると物でも跨ぐようにして男を越えて表通りに出るとスタスタ歩いて行ってしまった。


隠れて様子を見ていた私が身震いしたのは言うまでもない。


その後日、初めて彼と手合わせしたのだが、その剣の素早さと、正確さには流石に圧倒された。

私が三本の内、二本をとったが素直に喜ぶ事は出来ないで終わった。


――……この人、絶対に実際はこんなもんじゃあない……


どこか手加減されている。


悔しさを持て余した私は、水浴びを終えてからもう一度道場へふらりと足を運んだ。





すると珍しく斎藤氏が道場の縁側の柱にもたれたまま、腕を組んでたたずんでいる。

思い切って彼に声をかけてみた。


「斎藤さんてお強いんですね」

正直なヒトコトだった。

が、突拍子もなくこんな事を言われ余程驚いたのだろう。

「はぁ・ありがとう」

斎藤氏は小さく溜息を吐くように言うと

少し間を置いてから私を見下ろしてにこっと微笑んだ。


「でも君は、僕から三本に二本は取っていったやないか?君の方が、強いんと違う?」

私は少しムッとしたが、それを気取られないよう笑顔で答えた。

「その“一本”が生死の境を分ける事の方が多いワケでしょ?貴方の一本は精密かつ確実に私の急所に狙いを定めてた。アレを強いと言わんで何を強いと言いましょう」


斎藤氏は目を細めて「ナルホド」と首を傾ける。

笑顔が消えていた。


――真剣勝負だったら死んでいた――


そんな私の言わんとしている事が伝わったらしい。


「斎藤さんは」


私からも笑顔が消える。


「人を斬った事がおありなんですね」



斎藤氏の目がきゅっと開かれた。


そして、彼は静かに頷く。


……竹刀・木刀・真剣……

決してこれらを一緒くたにしてはいけない。


当然これら全ての武具の危険性は高いし、当たり所が悪ければどんな状況でも死は隣にいる。


意外と知らない人もいるようなので改めて言っておきたいのだが

竹刀での剣術は室内剣技である。“打つ”事が基本だ。

竹刀は中に芯棒が入っているとは言え、しなる。竹刀が当たった相手は転ぶとか、打つ側の力が強ければ吹っ飛ぶ。

例え“突いた”としても防具などに身を守られるのだし、当然危険性は低くなる。

しかし木刀は力のある者が“打つ”となれば確実に命を落とす者が出てくる。胴に入れば臓腑は割れるし骨だって砕ける。

“突く”にしても急所に当たれば死の確率は高くなる。


真剣はまた少し違う感覚なのだが、更に刃物が付くワケだから恐らく人が思っている以上に恐ろしいシロモノなのだ。


……人を斬るというのは力任せでは斬れない。竹刀とは違って相手に“当てる”のでもない。相手の一瞬の筋肉の弛緩に刃を“嵌め込んでいく”のだ。


もしかすると包丁を使った人なら少しは想像がつくかもしれない。


余程切れる刃や、力任せに押し当てれば別だが、ただ当てただけではそんなに傷はつかないし、そうそう切れないものだ。肩の力を抜いて、すぅっと刃を引くのを想像してみてほしい。余程のなまくらでない限り、調理しているものは切れると思う。


今度はウッカリ包丁を落とすのを想像してほしい。その下には貴方の足がある。包丁には自体の重みで加速がついている。貴方の足の脇を刃が掠める。又は足の甲に刺さる。

……無論・包丁は貴方の足をスッパリと斬るだろう。

そうでなければ貫くだろう。


真剣とはそういうモノなのである。

ただ闇雲に振りまわせばいいわけではない。

相手と自分の“呼吸を読む”ことなのだ。


斎藤氏の太刀筋は、竹刀でやりあっているにも関わらず想像以上にそういう“呼吸”を読んでいる。


この当時、私はまだ真剣をマトモに握った事も人を斬った事も無い。

けれど彼と向き合ううちに、肌と空気で彼に存在する“現実”に気付いてしまった。


そう、斎藤氏は既に人を斬った事があるのだ。

……私はそんな人の太刀を受けていたのだ。

その後、暫くの間二人に言葉は無かった。

ただ巨大赤いな夕日が黒い山影に呑み込まれていくのをみつめていた。


「なんだか丸で私達の生死の全てを知ってるみたいですね」


先に口を開いたのは私。


「全く同感だねぇ」

答える斉藤氏のは穏やかな口調だ。

「なんだかこうやって落ち着いてちゃぁ、イケナイ気分にさせられるよなあ」

そう言う氏の言葉には、芯の様な何かがあった。


木々が“ざわ”と揺れて、

夜の気配のする風が二人の頬を掠めていく。


私も彼もその冷たさに一瞬身震いした。


それにしても、既に人を斬った事のある斎藤氏と仲の良い土方氏は一体どんな人間なのか更に疑問は膨らむばかりであった。


斎藤さいとう はじめ


斎藤 一と言うのは一般で良く知られている名前。

元の名前を『山口やまぐち はじめ』と言う。


天保15年(西暦1844年)1月1日生まれ。(天保6年/西暦1835年説有り)

播州明石藩脱藩とも播磨藩脱藩とも言われているがどれをとってみてもハッキリした資料とは言い難い。


そんな事からも会津藩の隠密と言う噂もチラホラ。

一説に、19歳で口論から旗本を斬り、京都の父方の親戚筋である斎藤家に養子縁組で引き取られ、近藤周助氏と何らかの交流のあった義父と共に江戸へ来た折り、試衛館に食客として居着くコトになったと言う話もある。


流派は一刀流。

上洛時の浪士隊参加の名簿には彼の名は記載されていない。彼がキチンと現存する資料に登場するのは新撰組になる一歩手前、清河が京都を後にする折りに残った24人…すなわち新撰組の母胎となる24人にいつの間にか組みしている。その得体の知れない行動からもスパイ的な要素が伺える人物といえよう。


新撰組になってからは、副長助勤三番隊隊長。諜報・監察方等も束ねていたと言う。

池田屋事件の折りにも活躍している。確証はないが、武田観柳斉・谷三十郎粛正も彼の手で暗殺されたと言われる。彼の最も有名なスパイ活動のエピソードは伊東甲子太郎等高台寺党潜入だろう。

…近藤・土方等の密命を受けて行動したと言うものだ。

が、高台寺党の阿部十郎は伊東の金を使い込んで近藤に救いを求めたと言うが、状況的にみてもこの意見の真相は前者にありそうだ。この復帰の時に山口 次郎と名を変え戻ったと言う説もある。


京都から江戸、会津へ土方と共に転戦。

会津戦争においては負傷した土方に代わり山口 次郎の名前で新撰組隊長を務めている。


この後、土方は蝦夷へ行き榎本軍と合流。

斎藤は会津へ残るコトになる。

この事から、斎藤は会津方の隠し目付役ようするにスパイだったと言う説は取り沙汰された理由のひとつだが、会津敗走後に土方を蝦夷まで追っていった等という説も飛び交いやはり何が本当か解らない。

(実際蝦夷追いは、故司馬遼太郎氏の創作とも言われてるしな~;)


明治年間に入り、下北半島開拓に従事。

その間に会津の女性と結婚。媒酌は松平容保。

警部補の役にまで付いたが、新撰組を賊軍として追求する政府の手が厳しかったコトもあり、名を藤田五郎と改名。

西南戦争の折りには巡査部長として参加、九州まで赴いたと言う。後、東京高等学校師範や、東京教育博物館館主を務め、大正4年(西暦1915年)9月28日に東京本郷区真砂町30番地で死去。享年72歳。


しかしココまで書いて置いて言うのもなんだが、この藤田五郎が実際に斎藤一だったかも謎だという。

兎に角余計なコトは一切語らなかったらしい。

しかし死ぬ間際、結跏趺坐をとり、堂々とした死に様をみせたと言うエピソードを聞くと、斎藤ではないかと信じてみたくもなる。



追記/2014/05/26


すごい情報きましたよ。

いや、実は結構前から言われていたのですがやはり明治に存在した、藤田五郎=斎藤一説はどうも覆されそうです。どういう理由かはわからないのですが、実際斎藤一の同郷で後輩にあたる男に「山口」なる人物がいたのは事実なのです。もしかしたら何らかの理由でその男が斎藤一を名乗っていた可能性が濃厚になってきた様です。今後の流れが楽しみですねえ。



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