テオドラ視点~お嬢様と治癒魔法・前編~
第一章 第四話(1)の頃。
最初は、お姫様かと思った。昔、お母様が死んじゃう前……よくお姫様と王子様のお話しをしてくれた。そのお話しに出てくるお姫様は、きっとこの人だ、となぜか思った。
次に、女神様だと思った。神話に出てくるどの神様とも違うけれど、光り輝いていたし、私達を救ってくれたから。救ってくれる人なんて、いないはずなのに。だから、きっと神様に違いない、と思った。
そして今は、普通の女の子なんだ、と思っている。私たちに見せる笑顔は友達みたいで、兄ちゃんとのやり取りを心から楽しんでいるように見える。お嬢様は私ができないことをたくさんできるけれど、それでも本当は普通の女の子なのだ。
初めてお嬢様にお会いしたのは、いやお見かけしたのは、ご飯をもらうために並んでいる時だった。きっと兄ちゃんもお嬢様も覚えていないだろうけれど、兵隊さんに守られてピシッと立っているお嬢様は、私にはお姫様に見えた。
兄ちゃんに手を引かれながら、ほぼ毎回並ぶ列。私にとっては、ご飯はここでもらうのが普通だ。配っていない時はご飯を食べないか、兄ちゃんがどこからか持ってきてくれる。私は兄ちゃんに心配をかけないよう、できるだけ人に見つからない場所にいつも隠れている。暗くて細くて、みんなが行きたがらない場所が良い。
母ちゃんは、私が生まれてすぐ死んだ。父ちゃんはいたらしいけど、私が夜泣きをしなくなる頃にいなくなったらしい。どこに行ったのかは、兄ちゃんも知らない。そういえばお家がなくなったばかりの頃は、ご飯を食べられない日も多かったような気がする。ご飯の列に並ぶようになったのは、いつからだっただろう……でも、お腹が空いてもうだめ、と思った頃には、ご飯が配られるようになったと思う。
なんであの日だけお嬢様がいたのかわからなかったけれど、それからすぐ、デイジーという女の人が話しかけてきた。お姫様は、聖女様だったらしい。
次にお嬢様にお会いしたのは、引き取りに来てくれた時だ。クレースを怖がる様子もなく立ち向かって勝ち、私たちに祝福の光を与えてくれた。どこをどう見ても、女神様だった。
クレースの考えに乗ったのは、クレースたちも私たちを心配しているようだったし、兄ちゃんも不安がっていたから。でもまさかあのお姫様が、二年かかっても私たちを信じなかったクレースに信じてもらえるようになるとは、思っていなかった。
クレースは私がもうすぐ死ぬと思っていたのか、情を持たないようにしているみたいだった。私は四歳にしては小さくて、なかなか大きくなれなかったし……たぶん兄ちゃんでさえも、私が死んでしまわないか不安がっていた。
……特に、ついこの前キュウが死んでから顕著だ。キュウは、私より少し小さいぐらいだった。泣いてるところを拾ってクレースの家の前に連れてきたけれど、ほとんどご飯も食べられずに死んでしまった。
でも私は、自分のことより兄ちゃんのことが心配だ。
兄ちゃんだって子どもなのに、いつも気を張ってぴりぴりしている。私が頼りないからだとは思うけど、兄ちゃんがぴりぴりせずに生きられるようになったらいいのに、と最近はずっと思っている。私がいなければ、兄ちゃんはこんなにぴりぴりせずに過ごせるのかもしれない、とも思う。
未来のことはわからないけれど、さらわれたことにしておけば、聖女様のところに行くにしても行かないにしても、兄ちゃんはなんとかなるだろう。
そう思っていたけれど、お嬢様は私たちの全てを救い上げてくれた。
お嬢様は、私たちを良い意味で裏切る方だった。私たちに与えてくれたお家はびっくりするぐらい大きくて、なんでもあって、今でも夢じゃないかと思ってしまう。
そんなお嬢様なのに、離れに遊びに来てはなんでもない話をして帰っていく。兄ちゃんとの友達同士みたいなやり取りは、お嬢様がお姫様でも聖女様でも女神さまでもなく、五歳の女の子だと感じさせてくれた。もちろん兄ちゃんの言葉づかいや態度に思うところはあるけれど、お嬢様もそれを心地いいと感じているみたいだった。
私だけじゃない、カリオペだって、きっとお嬢様付きのジニア様だって、そう思っていたんだと思う。だから軽く注意するだけにしていたし、お嬢様にだって、またこっそり来たんですか、怒られちゃいますよ、と言うだけにしていた。
あの日も、いつものように四人で植物園に行った。
特に囲いがされているわけではなく、なんとなく敷地が区切られて、色々な木や草がそれはもうたくさん植わっているところがあるのだ。離れの近くで座れる場所と言うとここの長椅子ぐらいしかないというのもあるし、少し木が多すぎて暗くなっているからか、他の人があまり来ないのが私たちにはちょうど良かった。
でもまさか、魔獣が出るなんて。
「ベラ?」
話すのをやめたと思ったら、お嬢様が茂みを見つめてそう呼びかけた。ベラは毛足の長いネコで、いつもお嬢様と一緒にお散歩に来ている。でもジニア様が近くにいないし、と私はきょろりと辺りを見回した。
お嬢様は特に疑いもせず茂みに近寄り、カリオペはその後ろから茂みの中を覗き込んだ。ベラはまだ私たちには慣れてくれていなくて、私たちの方から近寄るとすぐに逃げてしまうのだ。兄ちゃんはお嬢様の斜め前を歩いて、一応ベラじゃないかもしれない、と考えているようだった。
ジニア様がいないのに、ベラだけこんなとこに来るだろうか、まさか、と不安に思ったその時、カリオペの叫び声とお嬢様の悲鳴が聞こえた。ジニア様を探していた視線をお嬢様に向けると、真っ赤な水が嘘のように噴き出していた。次いでお嬢様の向こう側にある茂みの中、ギラリと血のように光る二つの目が見えた。
下町には自然なんてないから、魔獣はほとんどいない。初めて見た魔獣だった。
怖くて歩けないけれどお嬢様だけは逃がさないと、と思っていたら、お嬢様が兄ちゃんを半ば引きずりながら下がってきた。先ほどの真っ赤な水は、兄ちゃんの腕から噴き出した血だったらしい。急いで駆け寄ると、お嬢様は肩にかけていた薄布で兄ちゃんの肩をぎゅっと縛った。綺麗な薄布なのに迷わずそれで血をぬぐうと、お嬢様が魔獣へと向き直る。
私はお嬢様に渡されたまま、兄ちゃんを腕の中に抱え込む。噴き出るほどではなくなったけれど、ざっくりと切り裂かれた腕からはどくどくと血が流れ出ている。腕の中でだんだんと顔が青ざめ、血の気を失って冷えていく兄ちゃん。私より先に死ぬなんて思ってもいなかった兄ちゃんが、どんどん弱っていく。
届くか分からないけれど、必死に兄ちゃんを呼ぶ。あの目つきの悪い目で私を見て。素直じゃない口で皮肉を言って。明日のお肉は私の分もあげるから、お願いだから目を覚まして。
気付いたら魔獣は退治されていて、お嬢様がすぐ目の前まで来ていた。
「今、カリオペが大人を呼びに行ってくれているわ!あと少しよ、頑張って!」
いつもならお嬢様に声をかけられれば嬉しそうに憎まれ口を叩くくせに、腕の中にいる兄ちゃんは何も言わない。
「テオドラ、肩の布を縛り直すわ。手伝って!」
お嬢様だってこんな怪我なんて見たことないはずなのに、どうしてこんなに落ち着いて対応できるんだろう。お嬢様に言われるまま、二人で力いっぱい薄布を引っ張る。腕をシンゾウよりも高い位置に、とお嬢様に言われて、シンゾウの位置はよく分からなかったけれど、とりあえず高くすればいいのかと持ち上げる。間違っていなかったようで、お嬢様が傷口を確かめ始める。
その間も少しでも声が届けば良いと思って、それが兄ちゃんをこの世に引きとめる何かになってくれれば良いと思って、必死に声をかけ続けた。
お嬢様が神様に祈りをささげて、傷口を水で洗い流す。お嬢様の服も血と水と土で汚れていくのに、それを嫌がりもしないで神様への祈りの言葉を次々につむいでいく。
神々への祈りが途切れて、一瞬この世から音が消えたかと思った。
何事かとお嬢様を見ると、お嬢様が兄ちゃんの傷口に指を当て、そっと優しくなぞっていくところだった。少しだけ開いた傷口から光り輝く何かが見えた気がしたけれど……お嬢様の指に沿って傷口は閉じられ、最初から何もなかったかのように消え去った。
「……うそ……」
思わず声がもれたけれど、お嬢様の耳には入っていないようだった。先ほどあった傷口は見間違いだったかとお嬢様の動きを追ったけれど、二本目の傷口も、三本目の傷口も同じように消し去ってしまった。
信じられなくてお嬢様の顔を見ると、お嬢様の顔も真っ青だった。何かを確認するかのように兄ちゃんの首と手首に触れると、魂が抜けたかのようにふらりと倒れてしまった。焦って手を伸ばすが間に合わず、あっと思ったらゼノヴィオス様がお嬢様を受け止めた。
「……聖女様……」
つぶやいたのは、誰の声だったのか。
ゼノヴィオス様がお嬢様を軽く調べてほっと息を吐くと、厳しい眼差しを向ける。ジニア様と私たちはびくりと身体がふるえ、思わず地面へと視線を落とす。
「ジニア、テオドラ、ついてきなさい。カリオペはケフィソドトスを連れて戻っていい」
ゼノヴィオス様は兄ちゃんの腕をちらりと見るとそれだけ言い、お嬢様を抱き上げてさっさと歩き始めた。急いで兄ちゃんを膝から下ろし、血と泥で汚れたお仕着せのままでいいのか迷いつつも、とりあえずゼノヴィオス様の命令に従わなくては、と後を追う。遅れて動き始めたジニア様の動きはギシギシとぎこちなく、顔を見るとお嬢様に負けず劣らず真っ白だった。何と声を掛けていいかわからず、気付かなかったふりをしてジニア様の一歩後ろを歩いていく。
ゼノヴィオス様は、離れの前にちょうど到着した馬車にお嬢様と二人で乗り込む。じろりと私たちの全身を見ると歩いて来るよう言いつけ、さっさと本館へと戻っていってしまった。アンティたちが離れの前で呆然としているのを横目に、気まずい空気のままジニア様と本館への道を進む。
本館に着くと、ゼノヴィオス様だけではなく領主様と領兵の隊長様も待っていた。華やかな本館に似つかわしくない何もない廊下に通されると、先にジニア様だけが部屋へと連れて行かれた。私はそのまま廊下で領兵と待たされる。足は冷え切って立っているかもわからなくて、嫌なことばかりが頭をかけめぐる。どれぐらいの時間が経ったのかもわからない。ジニア様が出てきて、次に私が部屋へと通された。
何の飾りもない部屋だった。領主様とゼノヴィオス様だけ椅子に座り、ゼノヴィオス様の前には何やら紙が重なっている。隊長様は領主様の横に立っていた。もちろん私に座る場所はなく、領主様から少し離れた真ん前に立たされる。
ゼノヴィオス様に名前を確認されて頷くと、領主様が口を開いた。
「今回の経緯を聞かせてくれるかい?」
領主様の顔に笑顔はないけれど、こちらを一方的に責め立てるような感じはなく、あくまで話を聞く体を取ってくれた。息を吐いて大きく吸い込もうとしたけれど、震える息しか吐けず、深く吸い込むこともできなかった。
「おじょう、さまは……たまにベラを連れて、遊びに来てくださっていました。今回も、いつも通りジニア様とベラを連れていらっしゃって……ベラをジニア様が見てくれている間に、少しだけ、四人でお話しするんです」
恐る恐る口を開いたが、やはり声はふるえていて、ちゃんと領主様たちに届いているのかも不安になる。涙がどんどんあふれていくけれど、ぬぐうのも間に合わずに冷たい床にぽたりぽたりと落ちていく。
それでも領主様に質問されるまま、その日にあったことを覚えている限りありのままに伝えていく。血が噴き出した光景が浮かび、動かない兄ちゃんの様子を思い出し、涙がぼたぼたとあふれ出る。声もふるえているけれど、領主様に頷きで促されて、続きをつむぐ。
お嬢様が治癒魔法を使った段になった時、それまで領主様と小声で話すだけだったゼノヴィオス様が、私に話しかけた。
「どれぐらいの傷だったんだ?」
「右腕の肩から……肘ぐらい位まで、大きく切り裂いたような傷が、三本です」
その私の返答を聞き、ゼノヴィオス様が信じがたいとでもいうように目を細める。
「骨は?」
「……見えていなかった、と思います。でも、お嬢様が、そっと指先でなぞったら……綺麗に、消えたのです……」
誰も口を開かない中で、ごくり、と誰かが息をのむ音がした。
「その後すぐ、ゼノヴィオス様がいらっしゃいました」
三人が目で何かをやりとりすると、領主様がもう帰っていいと言ってくれた。
「沙汰は追って出す。三人はしばらく離れから出ないように」
その後すぐゼノヴィオス様が調べにきて、植物園と兄ちゃんを見て、カリオペからも話を聞いて、兄ちゃんが起きたら呼ぶように命じ、ばたばたと帰っていった。
しばらくして私たちに下された処分は、一か月の謹慎処分だった。お嬢様の命が危なかったのだし、私たち三人は死の覚悟もしていたけれど……お嬢様が、何か言ってくださったのだろうか。
お嬢様のその後が心配でたまらなかったけれど、それを知る方法はなかった。
三か月後にお嬢様が元気な顔を出してくれるまで、私たち三人は部屋からもほとんど出ず、引きこもって生活をした。でもその間に、たくさんたくさん考えることができた。今までのこともたくさん考えたし、これからのこともたくさん考えた。もうあんなことがないように。もしあんなことがまた起きても、今度は自分たちがなんとかできるように。
私は、治癒魔法を学びたい。
もう二度と、自分の腕の中で誰かが冷たくなっていくのを感じたくない。
続きます。