5.貴婦人セシリア 〜侯爵令息〜
『知識の王国』屈指の名家であり、剣士の家系であるルィトカ侯爵家の三男エイルマーは、父の命令で民情視察のため、その領地を回っていた。
本来なら一年もかからず終わるはずの仕事。しかし、彼は家まで借りて、もう何ヶ月も同じ町に留まっていた。
王立学院を数年前に卒業したばかりの青年は、そこで恋に落ちたのだ。
「あら、エイルマーさん。おはようございます」
自らが光源のように輝く黄の髪、強いのにどこか憂いを含んだ灰色の瞳。毎日見ても見飽きないほど美しい女性に、今日もエイルマーはみとれた。
「……ああ、おはよう」
「今日も良いお天気ですね。おかげで薬草がよく育ちます」
「そうか。女医殿は仕事熱心だな」
太陽の下で薬草の世話に精をだす彼女は、この町の医師の助手である。
もとは遠い町の医師の娘だったそうだが、もう十年以上も前から、ここで老医師の世話と手伝いをしているそうだ。
今では彼女も“女医様”と呼ばれ、皆の尊敬を集めている。
そして、彼女こそエイルマーの意中の人なのだ。
当然彼女に思いを寄せる男はたくさんいる。しかし今まで誰にも、彼女の心は射止めることはできなかった。そう、今までは。
「結婚してくれ。不自由はさせないし、幸せにする」
「まあ、今日もですか。お断りします」
世間話のひとつのように、今日もまた彼は求婚し断られた。これで九十八回目。どんなしぶとい人間でも、今までの男達は十回ほどで諦めたそうだ。
なんて気骨のない。だが、どうして彼女はそんなに強情なのか。
「女医殿は結婚されぬのか? 失礼だが、あなたの年齢なら子供がいてもおかしくないだろう」
「……するつもりはありません。相手のかたにご迷惑がかかります」
「迷惑?」
憂うような表情の彼女に、エイルマーは破顔した。
「あなたのためにこうむるのなら、どんな迷惑だろうと大したことではない。あなたのためなら………」
「げほげほっ。えーと、あの、女医様」
声変わり途中の少年の声。口説き文句を中断されて、不服そうにエイルマーが振り向けば、思った通りの喪服姿があった。
彼女に似た金髪に灰瞳、ひと月前に町外れで香水店を開いた婦人の息子だ。
「ライルくん? どうしたの、カゼかしら」
自分に似ているせいか、ライルを弟のように可愛がっている彼女は、心配そうな声を出す。
「大丈夫です、ちょっとなんとなく咳が出ただけで」
「だけだなんてダメよ。咳から何かにつながるときだってあるんだから。ちょっと待っててお薬作ってあげる」
「いえ、あの……………」
そのやりとりに、エイルマーは眉間にしわを寄せた。どうしてそんなにライルに構うのだ。
診療所の中に入ってしまった彼女の背を見送って、彼は少年に目を移す。ここひと月、ほとんど毎回口説いている途中で邪魔をしてくる子供に。
「おいライル、おまえは私に何か恨みがあるのか」
「いいえ…………むしろ俺があのかたに恨まれてる気がしますよ。このごろは夜中に細切れにされるんじゃないかと。止めてこいと命じるくせに」
意味のわからないことをぶつぶつ呟いた灰色の瞳の少年は、疲れたような顔で首を横に振った。
風に乗って甘いりんごのような匂いがする。
その後薬草畑を離れたエイルマーは、町外れに近い通りに向かった。そこには自警団の鍛錬所があり、ひまを持て余した彼は「この町にいる間だけ」という約束で入団し、ほぼ毎日ここに通っていた。
「よおエイルさん。今日もビシッと指導頼むぜ」
「ああ」
団の中でも年少のエイルマーだが、その実力から彼は剣の指導役をしている。王立学院在籍中も、剣で負けたのはたったの一度だけなのだ。
夕方近くになり、鍛錬所を出たエイルマーは家に帰ろうと思い、ふと唐突にここがライルの家、香水店の近くであること思い出した。
――香水か。娘達に人気だと聞いたが……。
今まで前を通ることすらしたことが無かったが、何となく気になって足を向ける。良いものがあったら女医殿に贈るのもいいかもしれない。
「邪魔をする」
手入れの行き届いた前庭を抜け、声をかけて入った店内に客は誰もいなかった。
ただ、壁を埋め尽くす色とりどりの瓶の飾られた棚と、やはり瓶だらけの机、何よりカウンターの向こうから出てきた背の高い人影に圧倒された。
「いらっしゃいませ。どんなものをお探しですか?」
玲瓏としているのにどこか甘い美声。真っ黒のヴェールを隠すように顔にたらした貴婦人がそこにいた。王族と比べても遜色のなさそうな婦人である。
初対面のエイルマーはいささかたじろいだ。顔は見えないが、すばらしい色気と品格。ぜったい息子に似ていない。いささか態度を改める。
「その、意中の女性に贈ろうと思いまして」
「素敵ですわね。どのようなかたですの」
「少しライルに似た印象的な灰色の目をした女性で……ライル、いえご子息はお話ししませんか? 医師の助手をしているかたなのですが」
貴婦人は上品に首を傾げた。
「さあ……存じませんわ。息子はどこかに遊びに行ったまま、まだ戻っておりませんし」
いくつかの香水を勧められながら、たわいない話をする。いつの間にかエイルマーは恋愛相談にまで乗ってもらっていた。
「ありがとうございました――ああ、失礼。そういえば、お名前を伺っておりませんでした」
「セシリア・カロンですわ、エイルマー殿」
結局彼は香水を買わなかったが、数日に一度、セシリアの店を訪れるようになった。
*・*・*
魂で叫ぶような悲鳴、蒼白な頬。
ふっ、と崩れた華奢な体をエイルマーは慌てて支えた。ほどけた黄の髪が腕に広がる。
「女医殿!?」
友人に勧められて来たという彼女と偶然香水店の前で会い、そのまま一緒に入って来たエイルマーは、突然のことにどうして良いかわからなかった。
いったい何が起こったのだろう。ただ店に入り、セシリアが「いらっしゃいませ」と声をかけただけだったのに。
「まあ。どうなさったのかしら……」
落ち着いた口調とは違い、どこか慌てたような速足で、カウンターからセシリアが出てくる。
この婦人がいつも通り「いらっしゃいませ」と声をかけた途端、彼女は倒れたのだ。
「奥で休ませたほうがよろしいわ」
婦人は穏やかにそう言って、しかしエイルマーの腕から、やや強引に感じるほど素早く彼女を離し、楽々と抱き上げた。止める間もない。
エイルマーは驚愕して、彼女を連れて行く婦人の背を見つめた。
ここまで近づいたことは無かったが、近くで見ると婦人の身長は背が高いと言われるエイルマーと、ほとんど変わりがない。
黒い肩かけに隠された肩も広そうで、まるで……男のようである。
奥の部屋にはなぜかライルがおり、ソファーに下された意識の無い彼女を見て、青ざめながらも慌てて水と布を取りに行った。
「セシリア殿、彼女は大丈夫なのでしょうか」
容態を調べるように、手袋をはめた手であちこちに触れている婦人に、エイルマーは恐る恐る聞いた。
婦人は答えない。
「その女性こそ、私が妻にと思っているかたでして。もし万一のことがあったら……」
「…………ねえ」
最初は、それが声だとは思わなかった。音が、違ったから。だからただ、どこかで心地よい低音の楽器が爪弾かれたかのように思った。
「この子は何度も求婚を断っているのに、本当にまだ諦めないの?」
音が声に、意味を持って言葉となって、それでもまだ、エイルマーには誰が喋っているのかわからなかった。
ただ、セシリアとふいに目があって、瞠目した。
驚愕、疑い、恐れ。
エイルマーは唇を震わせた。
「…………あなた、は」
「誰だと思う?」
ヴェールを外した白い顔が、肩ごしに振り向いている。瞳の色は薄茶、結い上げた髪も茶。持つ色彩は、記憶と違う。でもエイルマーはその顔を知っていた。
「アーリーン叔母上」
父ルィトカ侯爵の唯一の妹、エイルマーの兄達が生まれるより前に王族に嫁ぎ、公爵夫人となった人。
子も無く体も弱く、存在すらほとんど知られず亡くなった人。肖像画の中にしか知らない女性。
その叔母によく似た佳人は、おや、と首をかしげた。やけに幼げな仕草。
「その名前を言った人は初めてだよ。似ている?」
「……少しだけ」
「ふぅん」
絵の中の叔母は、か弱げな憂いをおびた美貌が清らかな人だった。見るからにしとやかな。
確かに似ている。…………似ているけれど、でも、この目の前のひとは、違う。
よく似た繊細な顔立ちだが、もっと鋭く強く、明らかに女性ではない。
酷薄そうな目を持って。王のような表情で。
「それじゃあ、その叔母ぎみに似た顔のよしみで、僕のお願いを聞いてくれるかな」
「お願い……?」
エイルマーはゴクリと喉を鳴らした。
琥珀というには平凡すぎる、けれど何よりも高貴に見える薄茶の瞳が、紅の似合う形の良い唇が、ただただ恐ろしかった。
「そう、お願いだよ」
圧倒される――――。
それは難しい『お願い』ではなかったが、容易には承諾したく無いものだった。
けれど、手袋の下の指輪の、その紋章を見て、また彼の顔を見れば、もう首を縦に振るしかなかった。王家に忠誠を誓う者が、どうしてその紋章に逆らえる?
気づけばエイルマーは、香水店の扉の外でライルに見送られるところだった。他に人はいない。
ライルの灰色の瞳がエイルマーを見上げていた。それを見下ろし、かすれるような声で聞く。
「……女医殿は大丈夫だろうか」
答えは簡潔だった。
「心配はありません。あの方は彼女を誰より大切に思っていらっしゃいます」
「そうか…………なら、いい」
深い、奈落の底を見た気持ちで歩き出したエイルマーに、最後にライルが声をかけた。
「あの方はあなたに敬意を払ったんです。人知れず消すことだってできました。でも――あなたが唯一学生のころ、剣であの方の利き腕に傷を負わせた人間だったから」
「そうか」
エイルマーはわざわざ振り返りはしなかった。そんな必要はないことだ。でも、少しだけ後悔した。
学生のときに負けたのは、あの男にではなく、あの男の一番近い位置にいた人間。
彼は影が薄かったので、名前など興味もなかった。
でも、知っていれば良かったと思う。きっとそれも偽名だっただろうけど、それでも。
――少なくとも、セシリアなんて女性名じゃ無かったはずだからな。
そんなことを考えて、最後にもらったりんごの香水の瓶を握りしめ、侯爵の三男は香水店から立ち去ったのだった。