3.魔術師エリアス 〜伯爵令息〜
王立学院。その男子寮の一室で、父親譲りの赤銅色の瞳をした少年は、父親にちっとも似ない凛とした知的な顔に微かな驚きを浮かべ、自分の補佐として送られてきた、同い年ほどの少年を見つめた。
明るい髪色が多いこの国では珍しいほど暗い、黒と見紛うような髪色。滑らかな白い肌を引き立てる。
「あなたが新しい護衛、なのか?」
「はい、エリアス・アボットと申します。お目にかかれたこと光栄に存じます」
蜜のように甘く、でもどこか冷たく高貴な美貌。その唇に柔らかな微笑を湛えたエリアスは、そう言って優雅に一礼した。
赤銅の少年は小さく頷いた。その瞳にはまだ驚きの色がある。編入試験も簡単に合格したという彼。………父は、どこで彼を見つけて来たのだろう。
「私はバーナンハード伯爵家、第二子フィオン。あなたに会えることは楽しみにしていた」
「もったいないお言葉です」
エリアスの声は年ににあわず、慇懃で、静かで低く、甘くて冷たくて……心地よかった。生徒として学院に在籍することになる彼は、実は魔術師で、フィオンの護衛であり、さらに彼が言うには監視役でもある。
この美しい少年は、どれほど役に立つのだろう。
期待している、と個性のない言葉を贈れば、彼は楽しげな薄茶の瞳を細め、また微笑んだ。どこか高位の貴族を思わせる、優しげなのに冷たい微笑。
「ご期待に添えるよう、つとめます」
――二年後。
通常卒業まで六年はかかるところを半分以上華麗にすっ飛ばし、二人は学院を卒業した。
フィオンは首席、エリアスは十一位。両者共に十七歳。……学院最年少主席卒業記録は塗り替えられた。
「十一位とは、驚いたよエリアス」
外務の職に就くことが決まっているフィオンは、王都にある伯爵家の屋敷の自室で、正式に自分の補佐となる護衛兼親友に視線をやった。
三年の間に、艶麗さと高貴さが増した美貌の親友は、果実水を一口嚥下し、微笑んだ。
「何のことでしょう」
「トボける必要はない、お前が私より賢いのは分かっているんだ。特に語学なんぞは」
「おや、十数年ぶりの最年少首席合格者が何を仰います」
静かで深くて、イタズラっぽい薄茶の双眸に、冷ややかさと甘やかさを同居させた静かな美声。彼はいつも不均等だ。
「僕を買い被りすぎですよ、フィオン様」
「……十一位とかギリギリ上位十名に入らない、明らかに『僕計算したんですよ、ほらピッタリ!』みたいな不気味な順位を出してくれたのにか」
「計算なんて、そんな事ができる人間がいるとは驚きです。天の使いか悪魔じゃないですか」
「お前が人外だったとは知らなかったよ。だが……お前のことだ、それができないとは言わないだろう?」
エリアスの笑みが凄艶なものに変わった。人を圧倒し、ひるませる笑み。
ゾクリとした。
フィオンはもう、彼の髪色が偽物なのを知っていた。一度だけ見た首飾りの指輪の意味も。
王家の秘宝。王に相応しい者にしか従わず、それがいなければ現れることのない古代の指輪。認められた唯一の人間以外は触れる事すら叶わない。
だが、主人たる者が現れた時は、必ずその者のもとに現れ、忠実に従うという。たとえ手放されても必ず戻り、仕える。最後の持ち主は……
――十八年前に亡くなった、現王の兄で当時の王太子ベネディクト。
百年ぶりに現れた指輪の持ち主に相応しく、誰より聡明で、美しく、覇気に満ちた王子だったと聞く。誰もが跪かずにはいられない、生まれながらの王だったと。
別に、フィオンはエリアスの親が誰だろうと興味はない。彼の自分に出会うまでの経歴が全て嘘なのも、父が自分につけた監視役なのも気にしない。
でも、たまに感じるのだ。
人を身分でしか見ない貴族たちに、馬鹿げた言葉を投げられた時に高貴な美貌に浮かぶ不遜な表情。
ひたすら地味に振る舞っていてもにじみ出る気品、時折見せる冷厳な覇気。なにより、自分などより余程明晰な頭脳。
「……お前は、王子として産まれるべきだったな」
フィオンの珍しい赤銅色とは違う、平凡な薄茶色の双眸が無感動に瞬いた。笑みを消したエリアスは無言で置いてあるパンに長い指を伸ばす。
横に置いてあったジャムは、瓶をほんの少し小指でなでただけで、開けもしない。……りんごジャムだ。
――またか。
りんごもジャムも嫌いじゃないくせに、りんごジャムになると食べない不思議。でも愛しげに眺める。
何を……誰を思いだしているのだろうか?
一度だけ、まだ出会ったばかりの頃に聞いたことがあった。
『あなたは故郷に手紙も出さないようだが、家族はどうしたんだ?』
『僕は孤児です。両親の顔も覚えておりません』
事もなげにそう答えた少年魔術師。
『道で生活していたところ、領主であるバーナンハード伯爵に拾っていただいたのですよ』
だが、どこまでも優雅な仕草や、たくわえられた多くの知識、綺麗な言葉遣い。どれを取っても拾われた孤児には見えなかった。
だから没落して路頭に迷った貴族の子弟かと思っていた。でも、違ったのだ。
『あ、エリアス・アボットがまた負けたぞ。……あいつ、あれで本当にお前の護衛か? バーナンハード』
短剣やら暗器やらは上手に使えるのに、なぜか普通の剣術は人並み以下のエリアスは、学院が年に数回定期的に開催する剣術大会では、ほぼ無傷ながら必ず最初の方に負けていた。
そうして、これは昨年の冬こと。
試合で珍しく深めの傷を負ったらしいエリアスの部屋を、大会終了後、準優勝者のフィオンが訪れた。
『大丈夫か? いきなり大会三位と当たるなんて、なかなか運が悪かったな』
『フィオン様……。ええ、今回は僕の仇をとって下さり大変感謝しております』
フィオンは軽く笑った。
『我が国が誇る第一騎士団長、ルィトカ将軍の三男だからな、新入生のくせに強い。私も勝つのに苦労したよ。傷を見せてみろ、お前のことだ、どうせまた医務室にも行かず、自分で手当しただけなんだろう』
かすり傷です、と平凡な言葉で対抗するエリアスのシャツを引っぺがす。エリアスは口以外での抵抗はしなかった。視線も合わない。……何かが、おかしい。
見れば、滑らかな白磁の肌に、指輪に鎖を通しただけの簡素な首飾りがかかっていた。
指輪は光をまとって輝く。
赤、青、黄、白、紫――――。
小さな光が指輪を囲んで舞い踊る。指輪に彫られた印が視界に入り、クッと瞠目した。
王家の紋章だと?
囲んでいるのは……古代文字か!!
ぞっとして恐る恐るエリアスの顔に視線を戻しても、高貴な双眸はフィオンなんて見ていない。
薄茶の視線は窓の外に固定されていた。指輪の周りの光は増えて、また増えて、きらめき、揺らめき、絡まって―――
飛んだ。
ぶわりと飛び立った光たちは窓の外に飛んで行く。全てを飛び越え、突き抜け、素晴らしい速さで飛んで行く。愕然とした。
『なん、だ? あれは』
『……「王家の涙」です』
『わが国に残る唯一の古代魔法か!』
エリアスがゆったりと視線を戻した。王の、瞳。
その瞬間、フィオンの意識は色に飲まれた。
どこかの町、夜、裏路地、目の前には数人の男。男達は下卑た笑みを浮かべ、周囲を取り囲んでいる。
『嫌だって言ってるでしょ!』
凛とした少女の声が響いた。少しも怯えなど含まない、きれいな声。フィオンはそれが自分の……いや、この視界の持ち主の声だと気付いた。
――ここは…………この娘は、誰だ?
男達が手を伸ばしてくる。彼女がいくら抵抗しても無駄だった、連れて行かれる。視界が涙で曇った。
泣くと、思った。助けを呼ぶと。
でも違った。
『ぜんぶ、全部あんたのせいよ。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないのよ、リアっ』
涙をぐいっと袖で拭って少女が叫んだ。助けを求める声ではなく、悲痛な、憎しみに見せかけた強がりの声だった。何の役にもたたない叫び、ただリアという者に対する怨嗟。ここにはいない者への恨み、虚勢。
助けなんてこない、と知っている声。
ぱた、と涙のような雫が落ちてきた。
空から落ちてくる雫。
雨ではない。それらには色がついていた。
ぱた、ぱた、ぱた……夜なのにしっかりと分かる色と、娘の足下を中心に地面にゆっくりと浮かび上がる紋様は、その外と中を別の世界としていた。
――なんだ? また古代文字?
男達が少女から手を離し、何かに操られるように跪いたとき、フィオンは理解した。これはエリアスが飛ばした魔術だ。その、飛んで行った終着点。
たった一人で逃げることもできず、呆然と周りを見回すす少女を残し、時が止まったようだった。
ぱた、ぱた、という音だけが響く。
周りの男達は色が降る中、全て首を垂れて固まっている。それは王に対するように。
『…………リア?』
娘がポツリと呟いた。憎しみではなく、確信入りの、戸惑いと驚愕の声。
色が止まった。空から響いた命令は密やかで。
『消えろ』
王家の紋章の上、混じり合う色たちがゆらりと持ち上がり、静かに男達を包みこんで、飲み込んでいく。
全てがただただ美しく、無音だった。
誰もが逆らわずに飲み込まれていき、地面に沈んでいった。全部が神か何かの意志のように。
トプンと全てを飲み込んだ色たちが柔らかく消滅していく中、フィオンの意識も娘から抜けた。
元の身体に戻る――――その瞬きよりは長く、一秒よりは短い時間、魔術の最後のきらめきに照らされた少女を見た。
これは……
消えゆく色たちのおかげでハッキリとした色は分からなかったが、明るい髪色の勝気そうな少女だった。
王都の美女たちにも負けない美貌。
中でも意志の強そうな目が、フィオンの脳裏に焼き付いた。哀しいけれど、色を踊らせ、激しさを秘めた嵐みたいな瞳。
――エリアスが好きそうな目だな。
そう思うのと同時に、フィオンの意識は翔んだ。
……………その後元の身体に戻ったフィオンが何度、あれはどこで、あの娘は誰かとたずねてもエリアスは答えなかった。
学院卒業後、フィオンとエリアスは外務官となる。
のちに外務府長官まで上り詰めたフィオンは、自身に最も影響を与えた人物を聞かれたとき、必ず早世した友人エリアス・アボットの名を挙げたという。
『彼はこの国の宝だった』
そう家族に語ったといわれている。
しかし彼の言葉の真意が何であったのか、分かるものは誰ひとりとして存在しない。