3.再来
ありきたりな茶色い髪。
ありきたりな薄茶の目。
光の見えないような暗闇の中にいるはずなのに、その少年の姿だけそこから浮かび上がっているかのように、はっきりと見える。
色合いと違って、ぜんぜんありきたりなんかじゃない、綺麗な顔立ちと傲岸な眼差し。笑み。
『お嬢様』
彼が呼ぶ。表情に合わない優しげな口調で。
招くように、引きずり込むように。
真っ白な手が差し出された。
『ケティお嬢様』
地獄からの呼び声のようなそれに、私はぞっとして耳をふさぐ。したたる蜜のような呼び声は続く。
『ケティ……』
いや、と私は叫んだ。いやっ!
――――そして寝台の上で目を覚ます。
*〜*〜*
ここ最近、夢見が悪い。
お茶の時間に遊びにきてくれた友人に相談すると、気分転換に買い物を勧められた。ついでに新しくできた香水店の女主人と友達になるといいわ、と。
『いつも喪服のヴェールで顔を隠してらっしゃるのが残念だけどね、とっても素晴らしいかたなの』
美しく手入れされた前庭、その向こうに達つ赤レンガの家。開きっぱなしの門には『カロン香水店』と優美な書体で彫られた札がかかっている。
近くまで連れてきてくれた友人は、用事があったとかで帰ってしまい、住人であるはずのライルくんの姿も見えず、少し気後れしてしまって入れない私は、しばらく門の前でうろうろとしていた。
「どうしよう」
やっぱりまた友人が一緒に来てくれるときにしようかな、と引き返そうとしたとき、こちらへ向かってくる見覚えのある姿に足を止めた。なんて間の悪い。
「おや、女医殿」
「エイルマーさん……」
「女医殿も香水店へ?」
「ええまあ」
「では共に入ろうか。ここの店主をしているご婦人は、とても聡明な女性で良いかたなのだ」
私は少し驚いて、豊かな深い笑みを浮かべる青年を見上げた。香水店の店主様と仲が良いとは知らなかったが、友人も貴族の奥様のようなひとだと言っていたし、貴族的なエイルマーさんと話が合うのだろうか。
エイルマーさんはさり気なく私の手をとって、入り口の扉に向かって歩いていく。庭の中には様々な花が咲き、少し奥にはりんごの木も見えた。ちょうど真っ赤なりんごがなっている。…………りんご。
ふいにゾクリとして、立ち止まった。
ひどく嫌な予感がした。
隣で同じく立ち止まったエイルマーさんが、扉の取っ手に手をかけるのが見えた。いつの間にか、立ち止まっても不自然じゃない場所まで来てしまっていたのだ。だめ、と私はつぶやいた。
立ちすくんだまま、震えてかすれたかすかな声で、エイルマーさんには聞こえない。
でも、だめ、そこはだめ。開けちゃいけない。
夢の内容を思い出した。理由もなく……白い手を。
ギィィと扉が開いていく。チリン、と扉に付けられた鈴が綺麗な音をたてた。手を引かれて一歩入った私を、店内にあふれる色とりどりの瓶が出迎えた。それから、カウンターの向こうの黒い人影が動いて。
「いらっしゃいませ」
ばちん、と視界が白く染まった。
……………誰かが私を運んでいる。
この世でいちばんの宝物を運ぶみたいに。
でも、私はまたあの暗闇の夢を見ていた。
意識が浮上したとき、目の前には夢の中と同じに薄茶の瞳があった。ただし眼差しを甘くとろけさせて。
「あ……………っ!?」
私は息を吸おうとして失敗した。混乱する。美しい顔立ち、どこかで見たような気がするけれど、やはり知らないような顔。このひとは誰。
そのひとは、血の気が引いておそらく蒼白になった私の顔を眺め、愛おしげに口元に微笑を浮かべた。
昔と同じ嘲笑混じりの蠱惑的な笑み。
そして彼は私を呼ぶ。
「お嬢様」
嫌。急に生まれた町の人達の視線を思い出した。少年が来て、急に変わってしまった人々の態度を。
「ケティお嬢様」
やめて。頭の中『過去』という箱の中に突っ込んだはずのものが、そろそろと這い出るのがわかる。
「僕のケティ」
これは現実のことだろうか? 現実になった悪夢? ああ、なぜ、彼はなぜいるのだろう。どうして、そんな当たり前のような顔で。
「リ、ア?」体を起こして、私はつぶやいた。
死んでしまったはずの少年の名だった。
生きていれば二十八歳になったはずの彼は頷いた。
「うん」
「どうして、今ごろ」
消えない微笑が私を捕らえている。とっくの昔に忘れていた恐怖が戻ってきて、身体にからみつく。
「あいたかったんだ」
悪魔のささやきそのものみたいに、耳からとろりと猛毒を流し込むみたいに彼は言う。どうして。
たくさんの「どうして」が、恐怖と一緒に私の中で濁流となり、渦となる。自分が震えるのが分かった。
「あいたくなかった?」
ゆるりと上品に首をかしげて、彼が聞く。
「会いたくなんて、なかったわ」
これ以上さがることのできないソファーの上で、それでも逃げようとする身体を必死になだめながら、私は言葉を返す。彼は冷笑を浮かべたまま。
「ケティ……どうしても?」
夢と違って黒い手袋に包まれた手が伸ばされる。
嫌だ。震えが止まらない私は叫んだ。
「っあなたは過去のものだと思っていたのに!」
怖かった。過去からの脅威。
ああ、幽霊になって取り憑いていても、百万歩譲って生きていたとしてもいい。実体を持って私の前に現れることなく、過去の悪夢に棲む悪魔のままでいてくれたのならば良かったのに。
それなら。私はあなたの行いに何か理由をつけて許すことができていたのに。遠い町に来て、忘れることができたのに。前を向いて歩めていたのに!!
「なんで、どうして出てきたのよ!」
気付けば私は恐怖を紛らわすためにか、彼を睨みつけてわめき散らしていた。怖くて怖くてたまらない。
過去なら……ああ、本当にあなたが。私は。
「過去なら許せたのにっ!!」
呪いのような怨嗟の言葉を吐き出しきって、息を吸う拍子に我に返る。差し出された手は消えていた。
そして私が睨みつけている相手は、まさしく悪魔的な嘲笑を浮かべるものと思っていたのに、違った。
私を見つめ返す薄茶の瞳も、先ほどまで確かに微笑みを作っていた形の良い唇も、ひたすら静かだった。
ゆっくりとその唇が開いていく。こぼれ落ちたのは「…………ごめんね」初めて聞く謝罪の言葉。でも、不思議そうな表情をしているのは私じゃなくて、彼。
「でも、僕にとって君が過去のものになってしまったたことなんて、一度もないんだよ」
そうして彼は美しい動作で膝を付いた。喪服のような黒いドレスの裾が床に広がって、ようやく私は彼が女装していることに気付いた。……香水店の女主人。
なんのために。エイルマーさんはどうしたのだろう。現実逃避のような疑問に、今の私の頭は答えを出せない。恐怖をも忘れて彼に見入った。
目の前で茶色の頭が下がっていく。髪飾りが床に落ちて、綺麗に結い上げられていた髪がほどける。
「……十三年前の僕は幼く、不安定で、君を傷つけることしかできなかった。愛情の示し方を知らずに」
気のせいか、その声はかすかに震えていた。
それでも。普通の人間みたいな声で彼は続けた。
「再び逢うためだけに生きていたんだ。……僕が持つものは全て君に捧げ、君の望みは何でも叶える」
神の前に跪く神官のように、彼は顔を上げない。もしくは、その神官に懺悔する罪人のように。
「なんでも叶えるって、本当に?」
返ってきたのは「神にだって誓う」という返事。私の内部を過去のいくつもの光景が駆け巡る。癒えたはずの傷はしかし消えてはいなかった。顔も忘れたと思っていた悪魔の少年の姿を、簡単に思い出す。
『かわいそうなケティお嬢様』
思わず、嗤ってしまった。頭は相当混乱している。
「お金とか地位とか名声とか、たとえば…………この国の王様になりたいとかでも? あなたはそんなこと、できないでしょう」
柔らかそうな髪が揺れて、薄茶の双眸が私を再びとらえた。彼は真剣な目で「君が望むなら」と言った。
彼は本当に私の言うとおりにするつもりだった。
でも。
本当は、私が欲しいのは優しい幸せだけ。
あなたが来る前に持っていたような幸せや、あなたがいなくなって、この町で手に入れたような幸せ。
だから消えて。と言おうかと思った。――それなのに。私を見上げる彼の表情が、あまりに記憶の中の少年と違って切なく苦しげだったから、そんな気もそがれてしまった。ゆっくり、ゆっくり。
激情も恐怖も少しずつ消えていく。
へいき、わたしはもう、小さな女の子じゃない。
「……あなたは何?」
「君のリアだよ。それだけ」
「いままで何をしていたの?」
「うん、君になら教えてあげる」
彼は私に尋ねられるまま、静かに今までのことを語った。十五歳で死んだとされた理由、友人のこと、ライルくんを拾ったこと、今までのこと。
私は目を伏せた。実感した。
あれから十三年、経ったのだ。
私は変わった。彼も、変わった。もう自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか分からないくらいの年月が経った。
「リア」
途方に暮れて名前を呼ぶ。
「……うん」
呼ばれたリアは信じられないことに私に口付けた。触れて、すぐに離れる唇。驚きのあまり呆然としていれば、吐息混じりの声でささやかれた。
「ここに来てくれてありがとう」
実は会いに行くだけの勇気が出なかったんだ――
………それから数ヶ月。唇を奪ったくせに、リアは慎重に私との距離を詰めてきた。急に町を出ていってしまったエイルマーの代わりのように、 ライルくんを連れて朝診療所まで散歩してくるようになった。
町の人達は香水店の女店主が女じゃないとは少しも気付かない。
ある日、私は何年ぶりかでりんごを煮てジャムを作った。味見をした老医師やライルくんは、おいしいと褒めてくれたけれど、残念ながら褒められるために作ったジャムではない。
「リア」
呼んで、紅がやたらと似合う口にスプーンごとジャムを突っ込む。おいしい? そう聞けば、少年だったリアはいつも嘘くさい笑顔で『おいしいよ』と返したものだった。私のほとんど唯一の嫌がらせ。
「おいしい?」
昔と同じ私の問いかけに、けれど大人になったリアは口の中のものを飲み込んだあと、人を惑わせる魔性の微笑みを浮かべてみせた。やっぱり悪魔みたいに。
「おいしいよ。本当に。……実は初めて食べたときから、いつも幸せの味がするって思っていたんだ」
「それなのに、なんで昔はまずそうだったの」
「怖かったからだよ」
「今は?」
微笑んだまま答えない彼は、私の手からそっとスプーンを抜き取って、りんごジャムの瓶に沈めた。
「おいしいね、ケティ」
昔々、魔除けのように思っていたジャムは今はまったく役に立たない。でも、中身がどんどんなくなっていく小瓶を見ながら、私はまた作ろうかな、などと考えていた。
――――幸せの味がおいしいのなら、今目の前にいる彼はきっと、私が恐れる悪魔じゃないだろうから。