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第七話 銀の茨のディアネイラ

「たとえご友人が試し乗りしたいと言ってきても、絶対に断ってください」

「はい」


 その日、スズカはティータ・ディングランツ公爵令嬢を背に乗せ、ゆっくりと馬場を歩いていた。

 以前、ハルトを乗せていたときよりずっとおとなしい。

 だいぶ人になれたのか、それともハルトが乗り手として未熟だったからなのか。

 おそらく両方だろう。

 ともかく、ハルトがスズカに乗ることはもうないかもしれない。


「一頭一頭の馬に癖があるように、馬も乗り手一人一人に違いを感じているんです。

 どんなに達者な乗り手であっても、神経質な馬はそのちょっとした乗り方の違いに不安を感じる。

 そして乗り手が次々に変わったらスズカは混乱します」

「わかるような気がします。

 私も、先生一人一人が言ってることが違うとどれが正しいのかわからなくなります」

「はい。まさしく、それと同じです。

 ただ、ティータ様と違うのは、スズカは不安になっても誰かに相談して助けてもらうことができないということです。

 馬には乗り手の身分なんて理解できないし、なぜその人を自分の背に乗せなきゃいけないのかもわかりません。

 だから、今乗っている人間を振り落とすことで問題を解決しようとする」

「たくさんの人を乗せるということは、お互いにとって不幸なことなのですね」

「そうです。

 スズカは、決してバカで我儘なのではありません。

 普通の馬は人の命令に従うことで人と共生していますが、彼はそこが根本的に違う。

 まず自分の意志で走る。そして、より速く走るために人間を乗せる。

 おそらく、そのように鍛え上げられた馬です。

 だから、たとえ言うことを聞かなくても怒ってはいけません」


 生徒としてはティータは優等生だ。

 指南役の言うことをよく聞き、自分の頭でも考え、側近ともよく相談する。

 帝王学をしっかり教育されているのだろう。

 サラブレッドの姿はヴァリスタニアの在来馬と比べれば格段に美しい。

 それを目当てにギャラリーが湧いているが、あれでは馬ではなくパンダである。


「まったく、ニワカどもめ……

 君がサラブレッドが手に入るかも知れないとか言うからだ」


 ハルトはレオンハルトと共に、ティータの乗馬の様子を眺めていた。

 悔しいがさすが貴族だけあって、ハルトより乗り方がずっと様になっている。


「僕も牡がいい。もちろん去勢されていない奴を頼む」

「誰が卿にやると言った?」

「じゃあ、僕以外の誰にあげるというんだ?」

「ティータ様のときと一緒だ。

 金は要らんが、大事にしてくれる人にしかあげたくない」

「僕は大事にするぞ!」

「つまり、今の愛馬は乗り換えるってことだろ?」 

「そ、そんなことはない!! あれにもちゃんと乗る」

「まぁ、別に複数愛馬がいてもかまわないけどさ……」


 宮仕えの給料で何頭もの馬を責任持って飼えるとは思えない。

 クラシックカーならガレージで埃をかぶっていてもいいだろうが、馬は生き物だ。

 

「相応の収入のある人でないと無理だ。

 できれば領主であることが望ましい」


 馬を厩舎や牧場にあずけると、日本でも年間70~80万円の費用がかかる。こちらでも似たようなものだ。いくら愛護精神があってもカネがない奴は動物を飼ってはいけない。

 飼い主に見放されたら動物は死ぬしかないのだ。


「わかったよ。ナイトハルト。

 ならば出世するぞ、僕は!

 そしてサラブレッドを必ず手に入れる!!」


 レオンハルトの純粋さがあまりにも眩しい。

 主に捨てられ屠殺場で死を待つだけのサラブレッドが日本だけでも年間数千頭いるという事実を知ったら、激怒して剣を抜くかもしれない。


「なぁ、指南役殿よ……

 クリスティンみたいな子供が乗ってみせたから、みんな我も我もと思っただろうけど、実際乗ってみてスズカは楽な馬か?」

「うん。まぁ……ちょっとどころじゃない悍馬だな……。

 並の腕前では走り出したら止まらない。

 正直、ティータ様を乗せるのはまだ恐ろしいよ」


 さすがに騎士の子だけあって、クリスティンの技術は高い。

 指南役のレオンハルトに匹敵するほどだ。

 その巧みさは馬術初心者のハルトにも理解できる。

 ティータも、乗馬経験はハルトより長く、スズカとの相性もハルトよりは悪くない。

 だが、さすがのレオンハルトも職責がかかると賢明だ。

 素人がそう簡単に扱える馬ではないということはよく理解しているので、ティータにはまだ常歩で歩かせることしか許可していない。

 さらに落馬時の怪我を防ぐため、支援魔術でティータの肉体的な防御力を上げ、万が一のために治癒術士を待機させている。それでも主君が落馬したら責任を取らされるだろう。


「あれでもサラブレッドの中じゃあ、かなり人懐っこい方らしい。

 レースのためだけに高い金払っていつ暴発するかわからない馬一頭を維持するのか?」

「それがロマンだろ?」


 どうやら、知られていないところで2つの世界は古くから交流があるらしく、こちらの世界には英語やラテン語が流入している。

 異世界の古代国家の名前が語源だと知る者はほぼいないが、ロマンと言う言葉も合理主義の肯定的対義語としてこちらの世界で定着しているらしい。

 ティータ自身も危険を理解していながらスズカに乗るのは、それが彼女のロマンだからでもある。


---


 スズカの調教を終え、屋敷に戻ると来客があった。

 腰まであるボリュームのある長いプラチナブロンド。

 軍服を身にまとっているが、だからこそその見事なプロポーションがコルセットで矯正されたものではないということは一目瞭然だ。

 女にしては背が高く、姿形が一枚の絵になる。

 これほどの美人が、生き物として動いているのをハルトは直接見たことがない。

 彼女は、凛と透き通った声で尋ねる。


「息災か? レオンハルト」

「姉上。本日は何の御用で……」

「話題のスズカとやらを見に来ただけさ」


 彼女が、ヴァルトブルク子爵家の家督を継いだレオンハルトの姉――ディアネイラ・ヴァルトブルク。

 この王都では『銀の茨』と歌われる女騎士である。

 騎士としての資質に申し分のないレオンハルトが、家を出なければならなかったのは、ひとえにこの優秀な姉上がいたからだという。

 幸いなことに、レオンハルトにも腕一本で食っていけるだけの実力があるので、姉弟仲は決して悪くないらしいが……


「先程厩舎を覗いてきたが、いい馬だな。

 細身だが、柔軟な筋肉を纏っている。

 乗せてくれないかと頼んでみたが、ティータとクリスティンに取り付く島もなく断られたよ」

「調教中ですのでご容赦を……」

「かまわんさ。あそこまで言われて無理強いする気はない。

 理由も納得できるものだったしな」


 ディアネイラからは敵意も悪意も感じない。

 彼女もまた、物珍しさにやって来た来客の一人だろう。

 問題はその連れだ。貴族が伴を連れて出歩くのは当然なので、背後に侍る二人の女騎士もまあいいとしよう。

 気になったのは、ディアネイラの隣の席に腰掛ける小太りの男だった。

 両手の複数の指に翡翠や瑪瑙などの指輪をはめた身なりの良い中高年。

 その顔立ちは少々下卑たことを考えているように見えてしまう。

 ハルトの第一印象では、豪商というより、無理に背伸びをした成金である。


「公爵家はええ馬を手に入れたみたいやなぁ」

「ホッブズさん……」


 イレーネが嫌悪を必死で抑えているのがわかった。

 ハルトには引き合わせたくない人物だということだろう。

 それを察して、ハルトは自ら席を外すことにした。

 しかし……


「あ、いやいや。あんさんにも話がありまんのや!」


 ホッブズは席を立とうとしたハルトを引き止める。


「私に、ですか?」

「あんさん、あの馬をティータ様に売ったクロウフォーガン準男爵のご子息やろ?」

「まぁ、売ったというのはちょっと語弊がありますが。そうです」

「ごっつう速いそうやな?」

「速く走るだけならスズカは良い馬です。馬車を引くには向いておりませんが……」

「他にも何頭か飼うてはると?」

「さるお方より、お預かりしております」


 ハルトは思わせぶりな答えを返すと男はニヤリと笑う。


「レースみたでぇ!

 あれほど速いんなら、わても興味が湧きましてな。

 ホークウィードまではるばる人をやって、確かめさせたんだす。

 …………せやけど、見つけたんは、年食った騸馬だけやそうや」


 準男爵とはいえ、辺境領主であるクロウフォーガン家の領地は広大だ。

 面積にして、日本の一都道府県ぐらいの未踏の原野に、数十の開拓村が点在している。とても数日で見て回れるものではない。

 それでも辺境領主としては珍しくない規模なのだ。


「領内すべてを見て回ったわけではないでしょう?

 去勢を施した騸馬であれば、労働力として領民に与えることもあるでしょうし」

「まぁ、そうでっしゃろな。

 余所者がこそこそ村を嗅ぎ回っとったら、若い衆にどつき倒されるわ。

 けど貴重な馬を去勢するっちゅうのは、他にもおるっちゅうことや!

 ……んでな、思い切って名乗り出てご領主様にお尋ねしましてん。

 『さらぶれっど』ちゅうう馬がおるなら、何頭か譲って欲しいと。

 ところが、馬のことは息子に任せてあるから勝手に売れん、との一点張りだったと言いよるんですわ」

(丸投げかよ。親父……)


 ホッブズは細い瞼の奥からハルトをしたたかに見据え、訊ねた。

 

「単刀直入に申し上げまひょ……なんぼだす?」

「なんぼ、と言われましてもね……

 それ以前に条件が揃っておりませんが?」

「ほな、貴族じゃないと売らんと言いはるんでっか?

 あんさんもつい此間まで平民だったんやろ?」


 どうやらハルトのこともある程度調べてきているらしい。


「身分は関係ありませんよ。

 どんな取引をするにも最低でも3つの条件が必要です。

 まず、信用のおける供給者。品物を見る目のあるお客様。そして、品物。

 肝心なものがここにありません。

 とくに馬は乗り手との相性が大事ですから。

 『ウマが合わない』と、お互いに不幸なだけです」


 貴族たちから求められることが多くなったので、ハルトもNOという言葉を使わないお断りを、何パターンか用意している。

 ホッブズはカカカと笑った。己こそが商売のプロだという自負があるのだろう。

 弱みを決して見せないように振る舞うのは商売の基本なのだ。

 

「あんさんも素人やなぁ。品物がなくても商売はできまっせ!」

「知ってます。信用取引でしょう?」

「せや!

 そう難しゅう考えることはおまへんで?

 あんさんが卸す。わてが仕入れて、お客さんに売る。それだけや!

 これやったら、紙切れ一枚で出来まっしゃろ?

 いまここで一頭あたりいくらという値段を付けて一筆書いてくれたったらええねん!」


 なんて図々しい男だろう。

 いきなりやってきて証文を書けという輩は、日本ナントカ協会の下請け集金業者と同様に信用ならない。


「乗り手によほどの技術がないと、サラブレッドはただの暴れ馬です。

 お客さんが怪我をしたら誰が責任をとるんですか?」

「んなもんは買ったお客さんに決まっとるやないか。

 主婦が買ってきた包丁で旦那刺し殺したら、作った鍛冶職人が罪に問われますんかいな?」


 漫才師並の反射神経でああいえばこういう。

 どうやら、最初から断られることを前提に理論武装をしているようだ。


「包丁は生活になくてはならないものですが、サラブレッドはそうではない。

 まだこの国に浸透してはいません。

 最初の一歩で評判が悪くなれば、猛獣の一種として法律で禁止にされかねません」

「大丈夫やて! あんな小さな子が乗りこなしとったやないか……」


 この男は根拠のない「大丈夫」で、人を露頭に迷わすタイプだとハルトは確信した。

 すくなくとも丁寧な仕事をしてくれるビジネスマンではない。

 となれば、譲歩してはならないし、言質も絶対に与えてはならない。


「クリスティンの馬術の腕前はそこらの騎士よりも上です。

 あなたこそ乗ったこともないのに何を根拠に?」

「そっちこそ、わてがなんで乗ったことないと言えまんのや?」

「『ない』と思った私にそれを証明する義務はありませんよ。

 貴方が『ある』と言うなら、それを証明しなければならないはずです。

 自分でサラブレッドを持ってきて、私の目の前で乗って見せてください。

 まぁ、見せてくれたところで、私がお譲りする気になるかはわかりませんけどね」


 議論とはお互いにとって有益な結論を模索するための手段のはずだが、ホッブズにとっては、相手の言質をとるための戦術でしかないのだろう。

 あるいは嫌がらせの一種だ。

 最初からNOときっぱりと断ったほうが良かったのかもしれない。


「埒があきまへんな」


 埒が明くわけがない。

 この男は最初から自分本位で無理難題を他人に押し付けているだけだ。

 こういう堂々巡りの議論は中学時代ネット掲示板で卒業したはずだが、思わずハルトから自嘲にも似た笑みがこみ上げてくる。


「そうですね。

 無駄な努力を続ける人を、一般的には『無能』といいます。

 私に指図するのは諦めてください」


 ここで優雅に紅茶を飲んでいた美貌の女騎士が口を開いた。


「……どうやら君の出る幕はなさそうだな? ホッブズ」


 ホッブズは「あいたた」と頭を抱えて大げさに痛がってみせる。

 ディアネイラがハルトに尋ねる。


「サラブレッドという馬を他にも持っているのか?」

「ええ。領地に何頭かおります。

 しかし、数は限られておりますし、ご期待に応えられるかどうかわからないので、お譲りするかどうか悩んでおります。

 足は速いですが、怪我もしやすい。

 また気性が荒く、技術的に申し分のない乗り手でも扱いこなせない癖馬もおります。

 そのような馬にはさすがに商品価値はありません。騸馬にすることもあるでしょうね」

「…………なるほど。道理だな。

 しかし、駿馬とはえてしてそういうものだ。

 古来勇者に悍馬はつきものだからな」


 マケドニアのアレキサンドロス大王も、ブケファラスを乗りこなし、帝王の片鱗を見せたという。

 他にも有名どころでは楚の覇王項羽と愛馬・騅。

 人中の呂布、馬中の赤兎。

 天下無双の前田慶次と松風。

 スペインの勇者エルシドとバビエカ。

 かの伊達政宗も「名馬はことごとく悍馬より生ずる」という言葉を残している。


「馬の扱いが下手な奴には売らないと言われているように聞こえる。

 騎士にとってはかなり屈辱的だぞ?」

「そうは申しておりませんが……」

「そうだな。実に巧みに言葉を濁している。

 だから交渉がうまいものだと感心しているのさ。なかなか賢い商売だ」


 さすがにレオンハルトの姉上だけあって、馬に対する執着も似ている。

 別にハルトは利益欲しさに、出し惜しみしているのではない。

 日本で屠殺寸前のサラブレッドを仕入れ、こちらの世界で競馬を普及させればさぞ大儲けができるだろう。

 しかし、基本的人権すら怪しいこの世界で、期待に答えられなかった馬たちに居場所があるとは思えない。

 後悔するのはハルト自身なのだ。


「別に、お金がほしいわけではありませんよ。

 あれを求めてくる方は比較的身分の高い方々ばかり。

 万一金ばかりかかる負債を売りつけたとあっては、当家の家名に傷がつくんです。

 私は非才ですが、領民から血税を頂いて、比較的裕福な暮らしをさせていただいております。

 だからこそ、家の信用を貶めることだけはできません」

「ものは言いようでんなぁ。ほんま商売上手やわ」

「だから、商売ではないと……」

「まぁええやろ。言った言わないは水掛け論や! この話はおいおいな」


 自分が間違っているとは認めない。

 交渉相手をイラつかせるスタイルなのだろうか?

 ネット掲示板でならともかく、リアルでこれをやるのは政治記者だけだと思っていた。

 まぁ、これぐらいの面の皮が厚さがなければ王都で貴族相手に商売人はできないのだろう。


「ほな、本題にはいりまひょ!」


 ホッブズが取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。

 この世界にも紙はあるのだが、格式ある証書を作成するときは羊皮紙が使われている。

 それを見るや、イレーネが血相を変えた。一気に心胆を凍てついたかのような表情だった。


「ッ!! その話をこの場でなさいますか!」


 いつも冷静な彼女が声を荒げる。

 それでもホッブズは想定の範囲内と言わんばかりに飄然として言った。


「わては慈善事業でやっとるわけやおまへんからなぁ……」


 商人が持ってくる証書で、貴族であるイレーネを愕然させるものといえば、他にあるまい。

 どうやらディングランツ公爵家には多額の債務があるらしい。

 それを作ったのはティータではないだろう。

 彼女は蝶よ花よと育てられてはいるが、決して浪費家ではない。

 この世界の貴族にしてはかなり質素に暮らしている。この国の貴族の最高位にいる公爵令嬢が、だ。

 ならば考えられるのは、親族に救いようのない多重債務者がいるというケースである。

 他人が口を挟んで良いことではないと判断し、ハルトは再び席を立った。

 

「やはり私は席を外したほうがよろしいようですね」

「いやいやいや! 

 すぐ終わりまっさかい……

 そしたら、商いの話を続けまひょ」


 ホッブズは肉食獣が得物を観察するような獰猛な目つきでハルトの反応を伺っていた。

 ディアネイラとその従者たちは、目を伏せ一瞥すらしようとしない。知らぬ存ぜぬという態度である。

 この程度のことは見なかったことにすればよいということか、ハルトは動揺を悟らせぬよう可能なかぎり表情を殺し、椅子に座る。


「………少々お待ち下さい」


 イレーネは一礼して退席した。

 応接間に静寂が訪れる。


「ホッブズはん?

 金貸しはレースと同じや。賭けた馬がコケたとしても自己責任やろ?」


 ハルトがわざと相手の方言を真似て反駁すると、ホッブズは声を出して笑った。


「それも素人の考えや、ぼん。

 玄人はな、レースの前に、まず賭ける前に馬がコケたら、どうやって切り取るかから考えるんや。

 引き馬にしたらナンボか、仔馬を産ませたらナンボか、肉にしたらナンボか……

 コケてからもレースは続いとる。レースは諦めたところがゴールやで。

 配当金のことしか考えてとらん阿呆は、眼の前に吊るされたニンジンめがけて走ることしか考えてへん家畜や……」


 ホッブズは「借りたものは返すのが常識」などという、金貸しの常套句は使わないらしい。

 どこぞの財務大臣も言っていたが、それはあくまで日本の常識であって、他国では通用しない。

 彼もそれは弁えているのだろう。


「……まぁ、家畜に神はいないからな」

「おっ! ええ言葉やなぁ。

 よっしゃ! それもろとこ……

 あきらめたらそこで家畜や! 家畜に神はおらへんでぇ?

 ………どや? 真理をついとらへんか?」


 ペンとパインとアップルじゃあるまいし、名言の混ぜ物でドヤ顔されても困る。

 そもそもなんで自分はこんな脂ぎったオヤジと会話などしているのかと、ハルトは後悔していた。

 ホッブズ一人が愉快そうにおどけていた応接間に、イレーネが戻ってきた。


「今、お返しできるのはこれだけです」


 イレーネはずっしりと金貨が入った袋を机の上にやや乱暴に乗せる。

 ホッブズは見かけによらず手慣れた手付きで、すばやく金貨を数え、袋に戻した。


「……利息分と元金の三割でんな」

「では、証書を書き直していただけますか?」

「よろしおま」


 ホッブズが新しい羊皮紙に返済分を差し引いた額で借用証書を書き直し、イレーネはそこにディングランツ家の公印を押した。

 同じ控えをイレーネに手渡し、ディングランツ家とホッブス商会との取引自体は恙なく終了する。


「毎度おおきに………ほな、話の続きしよか?」

「せやな、ホッブズはん。すぐ終わるわ。

 お宅と取引する気はない。

 以上」


 馬を売るか売らないか決定権はすべてハルトにある。

 たとえ完全論破しようと、ハルトがNOといえばNOなのだ。


「別に構わないでしょう?

 私が預かっているものを誰にいくらで売ろうと、私の自由だ。

 私には別に借金もありませんし、金に困ってもいませんから」


 会話が途絶えるとレオンハルトがディアネイラに話しかけた。

 

「馬選びの前に、商人選びを間違えたようですね? 姉上……」

「そのようだな。

 まぁ、今日はスズカとやらを見れただけでいいさ。

 いずれ別の代理人を立てて交渉させてもらう」

「そらぁ殺生やで? ディアネイラ様ぁ」


 ディアネイラからの援護射撃はない。

 最初から期待していなかったらしい。

 ティーカップを置いて席を立つディアネイラに縋るように、ホッブズも席を立つ。

 ハルトは捨て台詞の一つでも言っておこうと呼び止めた。

 

「ホッブズはん。金貸しで儲けてんのなら、馬商人なんてやめときや。

 馬で破産する奴は客よりも、商人に多いっちゅう話やで?」

「あ~、たしかにせやろな。生き物やさかい……

 けど、ぼん。

 金貸しちゅうてもそない儲かるわけやないんやで?

 ぼんの言うととおり金貸しちゅうんはレースと一緒や。

 他人を走らせ、自分は働かんでおまんまにありつこうというほんまにあこぎな商売や。

 だからぼんの言う通りなんべんも痛い目を見たわ。

 だが、まぁ、この家は安泰やろ?

 ぼんがここの姫さんに肩入れすればするほど、わては儲かるんやさかいな」


 ホッブズは指で輪を作り、歯を見せて笑う。

 この男は人の自尊心を刺激し、人を苛つかせる技術にも長けているのだろう。


「わてが憎かったら、この家との縁を切ることや。

 ま、あんさんがどんだけ頑張っても、わてとこの家との縁はたぶん切れんけどな」


---


「いやぁ、思いもよらん収穫やったなぁ」

「一頭も買えなかったじゃないか。

 万事自分に任せておけと大言壮語しておきながら、何だそのざまは?」


 ディアネイラはそっけなく言った。

 彼女は、商人ごときに期待してはいない。

 サラブレッドという馬がいると知っただけでも収穫だったのだ。

 彼女にとって、馬は愛玩動物でも家畜でもない。兵器だ。求めるのは、在来馬よりも俊敏な軍馬である。

 サラブレッドはたしかに繊細そうだ。軍馬としては向かないというのも本当かもしれない。

 しかし、サラブレッドと在来馬とを掛け合わせ、耐久性と俊敏さを併せ持った馬を作ればその限りではない。

 馬匹改良は先の先の将来を見据えた話であり、焦る必要はない。

 一方、ホッブズの商人としての嗅覚は別のものを嗅ぎつけていた。

 

「『さらぶれっど』とやらより、ええ若駒が見つかったやないでっか。

 あれは走りまっせ?」


 その若駒が誰を意味しているのかは言うまでもない。

 貧民からのし上がってきたこの男は、人を見る目だけは確かなのだ。

 そうでなければ、ディアネイラも自分の馬車に同乗させたりはしない。


「その根拠は?」

「争いちゅうもんは、常に同レベルのもん同士でしか発生せんのですわ。

 自分よりはる格上や格下相手にほんまの闘争心は湧きまへん」


 偶然ではあるがディアネイラは馬車の窓から、町の若者同士の掴み合いを目撃する。

 歓楽街での些細な接触で、「俺が」「お前が」と互いに我を通せばよくある話だ。

 介入する必要もない些事である。

 

「あれは目が言うとりました。

 お前らなんぞその気になれば、いつでもぶち抜いたるわ、と……」

「そりゃあ仮にも領主貴族だからな。

 しがない金貸しなどどうにでもできるだろう。夜道には気をつけることだ」 


 ディアネイラの皮肉に、ホッブズはクツクツと含み笑いで答える。


「ちゃうちゃう。

 気に入らんからしばき倒すぞちゅう奴は、大抵レベルが低いんだすわ。

 相手を痛めつけ、屈服させて、その惨めな姿を見たいちゅうんでっしゃろ?

 そんなんなんぼイキったところで周りからみれば、目くそ鼻くそ。どんぐりの背比べ。

 自分は相手と同格やという自己紹介だす。

 ホンマにすごいやつは、そんな鐚銭にもならんもんに興味おまへん。

 一瞬だけ力を見せつけたら、あっという間に手の届かんとこにすっ飛んでいくもんや。

 自分にそれができると確信しとるやつは、わてごときに怒り狂ったりはしまへんな。

 ディアネイラはんが、まさにそれや」


 その程度のお世辞を真に受けるほどディアネイラも愚鈍ではない。

 が、確かに一つの真理を言い当ててはいるだろう。

 

「あれは夜道でわてを襲うなんてことはしまへん。

 この通り、手綱もつけましたしな」


 ホッブズは懐から、さきほどの債権証書取り出して言った。

 これがあればある程度、操ることはできるのだと。


「そうか、なら振り落とされんように気をつけろよ?」

「乗るのはわてやおまへんで?

 あのお姫さんだす。

 わてはレースになけなしのゼニを投資するだけや」


 不遜に見えて、己の身の程を知り尽くしているからこそ、ディアネイラはこの男には一目置いている。


「あそこの姫さんは羨ましいですなぁ……

 絶対に他人を裏切らんし、絶対に自分を裏切らん人材ばかりがあつまってきよる」

「お前は、人を見る目だけは自信があったんじゃないのか?」

「ええ、おます。

 しかし、わては裏切って、裏切られてばかりや。

 この差はなんやろなぁ?」


---


「あの男が言ったことは偽りではございません。

 たしかに、昨日ホッブズ商会の使いを名乗る者が領地を訪れ、常芳様と面会しております」


 ホークウィードから、王都まで400キロ。普通に移動したら一週間はかかる。

 情報伝達が速い。おそらく伝書鳩のような通信手段を使ったのだろう。

 そして、それをあえてこちらに示したのは、情報力の高さを見せつけ、交渉を有利にしようという意図もあったに違いない。


「他にも諸侯貴族の方々やその御用商人から続々と問い合わせがございました」

「親父はなんといってるんだ?」

「すべてハルトさまに任せる、と」

「………そいつらが全員俺のところに来るということかよ」


 おかげでナイトハルト・クロウフォーガンの社交界デビューはお預けだ。

 当分の間、ディングランツ邸に居候し、スズカの世話でもするしかない。

 

「もう、仕入れてきた馬を全部イレーネに任せて、転売させるのもいいかもな」

「たしかに彼女ならば喜んでやってくれるかもしれません。

 しかし、それだとディングランツ公爵家の名声はさらに高まります。

 今、それは良いことではないでしょう」


 スズカを譲る前にディングランツ家の信用調査をしてなかったのは悪手だった。

 こればかりはハルトの失態だ。


「ディングランツ公爵は王叔の地位にありますが、領地は所有しておられません。

 王城からささやかな禄を貰う法服貴族です。

 あくまで、この国の王家に万一があったときの予備でございますので……」

「要するに、『宮さま』か?」

「さようでございます」


 権威が高いからといって、王侯貴族が莫大な資産を持っているとは限らない。

 某国のいとやんごとなき方々も宮内庁の予算で慎ましやかにお過ごし遊ばされている。


「でも、乗馬ぐらいなら、そう金のかかる趣味でもないだろ?

 こっちでは自家用車に乗るようなもんだ。

 あのお嬢様は貴族としては慎ましやかに暮らしてると思うんだけど……」

「はい。極めて慎ましやかに暮らしておられます。

 問題は、父君である公爵ご自身です。

 冒険者を引き連れ、遺跡の探掘、古代の沈没船の引き上げ……

 そういったなんとも夢のある事業を追い続け、大陸中を飛び回っておられるとか。

 あの証文はおそらく旅先でつくった債務でしょう」


 王家のスペアである宮様がそれをやるか……

 イレーネや王城の官僚たちの心中は察して余りある。


「いいのか? それ」

「いいはずがございません。

 どうしても冒険をしたいなら家督や財産をすべて子供に相続させて、裸一貫から始めるべきです。

 そうでなければ家臣が迷惑します。あまつさえ公爵家の名前で借金するなど……」


 貴族は生まれながらの法人経営者のようなものだ。

 もはやディングランツ公爵に王位を継がせようなどと考える者は誰もいないだろうが、世継ぎが相続放棄すれば貴族ではなくなる。家臣にとっても悩みの種だ。

 主君が愚劣だからといって簡単に見捨てては、家臣としての忠誠心や力量が疑われる。

 故に、公爵に対する融資は金貸しにとっては安全な投資となっているのかもしれない。金利は家臣の給与や公女の生活費が切り詰められて支払われているのだ。


「きっと、夢を追ってる本人は幸せなんだろうなぁ。

 人の気も知らないで……」

「公爵家は、イレーネ一人で維持されているようなものです。

 王都内の飲食店や服飾店、雑貨店、家具店など、さまざまな事業に投資して、収益を集め、なんとか財政をやりくりしているようですね。

 屋敷の調度品やティータ様のお召し物が質素ではありながら悪趣味ではないのは、それなりの品をつくらせているからです。

 薄利多売のビジネスであれば、失敗しても大やけどをすることもございませんので」

「なるほど。実業家として有能なんだな。

 しかし、馬はなぁ……」


 競馬なんて、生産者が種を付けるのも、馬主が仔馬を競落すのも、レースに出すのも、ファンが馬券を飼うのもすべてが博打だ。そのスリルがあるから人を魅了するのだろうが、よほどの金持ちでなければ健全な投資とはいえない。


「胴元であれば稼ぎは確実です。

 マッチメークをする側であれば、莫大な投資をうけることもできるでしょう。

 まぁ、公爵自身の債務上限もきっと青天井になりますが……」


 おそらく、放蕩公爵が莫大な融資を受けられるのは、イレーネが知恵を絞って返済を続けているからだ。

 稼げば稼ぐほど負債が増えていくなら、働く気にはなれなくなる。

 だからこそ、多くの貴族が公女ティータ・ディングランツに同情しつつも、あまり肩入れもしない状況にあるのだ。

 

「八方塞がりじゃねぇか」

「だから貴族は冒険者になどなってはいけないのです!

 ハルトさまも反面教師としてくださいませ」

「お、おぅ……」


 魔物討伐や遺跡探索などを請け負う冒険者という職業に、実はハルトもちょっとだけ憧れていることを、かぐやは見抜いていたらしい。

 しかし、現実はゲームのようには行かない。

 実際、ゴブリンのような下級の魔物に返り討ちにあう冒険者も多いらしい。


「イレーネとしては、ティータ様が然るべき貴族に輿入れするまでの辛抱です。

 その時が来ましたら、きっと彼女も輿入れ先で乳母になるなどして、円満に主君替えができるかと……」


 ティータとイレーネはまだ貴族社会から完全に見捨てられてはいない。

 今彼女が培っているノウハウと人脈はそのときにきっと役に立つだろう。

 

「上級貴族は10歳ともなれば婚約者がいてもおかしくはないんらしいけど、ティータ様に縁談はまだないのか?」

「ハルト様がお望みならば、当家が立候補してもよろしゅうございますが?」

「冗談はやめてくれ」

「諸卿もその結論に達しております。

 ディングランツ公爵は王城からも社交界からも愛想を尽かされており、政治的に影響力がある人物でもありません。まして金遣いの荒い無能な働き者であれば……」

 

 債務は返せば終わりだ。

 しかし、金遣いの荒い無能な働き者は、延々と資産を食いつぶしていく。

 莫大な負債に苦心することになるだろう。

 いっそ冒険先で不幸にあってはくれぬものだろうか、と怨嗟の声が聞こえてきそうだ。


「ただまぁ、あと五年もすれば、ティータ様もさぞ美しい淑女に成長なさるでしょう。

 多少の損を覚悟してでも、妻に迎えたいと甲斐性のある思う男もいるかもしれませんわね。

 ハルト様がその気であれば当家もやぶさかでは……」


 あいにくハルトは結婚生活など想像もできない。

 貴族という非常に恵まれた環境に適応するだけで精一杯なのだ。


「で、馬のほうは?」

「…………こちらがリストでございます。

 領地では数十年も前からサラブレッドを生産しております。

 まぁ、当家の産駒に正式な血統書はありませんので厳密にはサラ系ということになりますが……」


 手渡されたA4のファイルを開くと、馬のプロフィールが並んでいた。

 驚くべきことに、どの馬も血統を遡れば、ハルトでも一度は聞いたことのある名馬に遭遇する。


「いいのか? こんなの……」

「たとえリーディングサイアーの産駒であったとしても、勝ち馬になれるのはわずか三分の一です。

 つまり、どれほど血統が良くても半分以上が一勝も出来ないまま引退するということですわ。

 それが競走馬の世界です。

 たとえ重賞を獲得しても去勢され、子孫を残せないことも珍しくはありません」


 競走馬として創られたサラブレッドを乗用馬や競技馬に調教し直すのは簡単ではない。

 そして、乗用馬になれなかったサラブレッドの運命はほぼ全てが「行方不明」である。

 奇特な人に拾われる場合を除いて、ほとんどの競走馬が屠畜場に送られているのだ。

 そういう名馬の子孫を高薙傘下の乗馬クラブを介して購入し、こちらで繁殖させるのが常芳の趣味らしい。

 

「親父もよく手放す気になったな」

「自己満足で育ててきた馬がレースに出られるとあっては無上のよろこびでございましょう。

 もはや棺桶に片足を突っ込んでおられますし、閻魔様への土産話にはちょうどよろしいのでは?」

 

 その毒舌は自分を試すためなのか、それとも常芳に対する心胆からの恨み節なのか、ハルトは測りかねていた。

 たしかに、財務を預かる者としては常芳の趣味は悩みの種なのかもしれないが……


「費用の方はリュヴァイツ辺境伯様と話がついているようです」

「じゃあ、準備ができたらさっそく始めてくれ」

「承知いたしました。

 セドリックならやってくれるでしょう」


---


 10日が過ぎた。

 サラブレッドの輸送が決まり、その到着を一番心待ちにしていたのはレオンハルトだろう。

 ハルトに便りが来るたびに横から覗き込んでくるのだが、あいにく手紙の内容は情報漏洩を裂けるために日本語で書かれている。


「……進捗はどうだ?」

「一行はクマール河を越えたらしい。

 まずは牝馬9頭が港町メディオに明日届くそうだ。午前中には厩舎に入る。

 牡馬さらに2日後に届く」

「それは重畳。耐久能力も証明されたというわけだ」

「正直、少し心配だったがな……」


 日本では飛行機や馬運車を使う移動も、こちらでは数日がかりだ。

 行く先々で厩舎や飼葉を確保しておかねばならない。

 中国大返しのような大仕事だっただろうが、その手配をイレーネはすべてやってくれた。

 そこまで段取りをしてくれたのであればハルトも否とはいえない。


「何頭か脱落することも覚悟していたが、セドリックもよくやってくれたよ」

「荷物じゃなくて、馬そのものを運ぶんだ。大したことじゃないさ」


 売り物にするわけではない。計画に協力してくれる貴族に、レースの対抗馬として進呈するための馬だ。

 スズカに競り合える相手がいないのでは勝負にならず、レースは盛り上がらない。

 それに、有力貴族には相応の分前を渡しておくことが商売をうまく進めるコツなのだ。


「で、そっちは?

 誰に譲るのかは決まったのか?」

「まずは王城に4頭を献上する約束になっているので、典厩令殿が吟味に来る」

「サラブレッドは儀仗用には向かないぞ。

 御召し馬にするなど、言語道断だ。

 偉い人になにかあっても責任が取れない」


 日本の皇居護衛官が使っているのは、騸馬だ。牝馬は発情すると扱いづらくなるらしい。

 ちなみに元競走馬だが、これも予算のせいだろう。

 宮内庁の予算は申し訳なくなるぐらい慎ましやかだ。


「近衛が使うわけじゃない。繁殖させ、いずれ外交の手札にしたり、勲功を挙げた騎士に報奨として下賜するための馬を育てるんだとさ。

 王城の厩舎が一番設備も人材も整っているしな。

 種はレースに勝った馬からもらえばいいから、牝馬が欲しいとのお言葉だ」

「そりゃ、他のお客さんと競合しなくていいな」


 王城もサラブレッドに政治的価値を見出したということなのだろう。

 スズカに興味を持った貴族たちは、手っ取り早くサラブレッドの血を引く馬を増やしたい。

 よって、牡馬が欲しい。

 リュヴァイツ辺境伯などは、速くなくてよいから頑丈な馬が欲しいという。

 それぞれの家の戦略のようなものが見えてきて実に面白いものだ。


「さて、いくら値が付くかな……」

「その件だがな。

 私は、オークションにはしないつもりなんだ。

 不平不満がでるからな」

「…………逆だろう?

 スズカほどの馬ならみんなが欲しがる。一番高い値をつけた客が手にした方が公平だ。

 そうでないと、売ってもらえなかった貴族は気を悪くする」


 1頭か2頭であればそれでもいいかもしれないが、サラブレッドが20頭だ。

 それを有力貴族を前にオークションにかければ、巨万の富を手にできるかもしれない。

 それゆえにトラブルを招くだろう。


「そういう考え方もあるかもしれないけどね。

 高額で競り落としたのに、買った途端に怪我をして、期待に応えてくれなかったらそれこそ愛想を尽かされるかもしれない。

 馬も私たちも、だ」


 異世界競馬の最初の一歩だ。

 たとえ不幸があったとしても、サラブレッドに興味を持ってくれたお客様には、今後も支援者であってもらわなければ困る。

 

「あのホッブズのような商売はしたくないんだ」

「じゃあどうするんだ?

 安値で叩き売るつもりなら、それだけ欲しがる奴も増えるぞ?

 買った途端に転売するやつもいるかもしれない。

 そうなれば金持ちや有力貴族から恨まれることになる」

「考えはある。

 そのためには、まず投資を集めないとな……」


 ハルトはその腹案をレオンハルトに話す。

 今後の打ち合わせを終え、しばらく二人で一緒に歩いていると、ふとレオンハルトが何かの気配に気づき干草小屋の中を覗きだした。


「なにやってんだ? レオ」

「しー!」


 レオンハルトはハルトも中を見るように手招きした。

 小屋の中では、干し草のなかでうごめく小さな人影が2つ。

 その正体に気づいて、ハルトは己の息を止める。

 

「……………おい、あれ止めなくていいのか?」

「君は止めないのか?」


 ハルトはあくまでは客分だ。止める権限がない。

 しかし、レオンハルトは家臣。諌めるのが仕事である。


「どこの馬の骨ともわからんやつなら諌めるけどな……

 これは邪魔したら馬に蹴られてなんとやらというやつじゃないのかい?」

「だからって、あいつらにはまだ早すぎるだろ!」


 中にいたのはティータとクリスティン。

 しかも、不純異性交遊の現場である。

 二人はしばらく干草の上で抱き合った後、身を起こした。


「ん……はぁ……これから、どうするんです?」

「……知らないのですか?」

「知りませんよ。やったことないんですから」

「エリザベスは、殿方にすべておまかせすればいいと言ってましたよ?」

「僕は、年上の女性が全部教えてくれるからと言われました」


 しかし、なにもおこらなかった。

 二人に施された性教育が不十分だったことにハルトはほっと胸をなでおろす。


「…………っ! 情けない奴だ」

「いいんだよ。あれで!

 ギリギリセーフだ! つか、やっちゃってたらどうするんだ?

 あの歳でっ!」

「…………君は、もしかしてティータ様をねらっていたのか?」

「んなわけないだろ。田舎貴族の準男爵ごときじゃ釣り合わん」

「じゃあいいじゃないか。

 次期ベイオルフ伯なら、公爵令嬢のお相手として格も財力も申し分はない」

「卿はクリスティンの家臣になるんだけど、いいのか?」

「別にかまわんさ。下剋上ってわけでもない。

 君だって彼が家督を継いだら、今みたいに呼び捨てになんてできないよ?」


 たしかに、それは些細な問題だ。

 後輩の実家がやってる会社の社員になるようなものだろう。

 珍しいことでもない。


「まぁ、あとは伯爵家にあの公爵様の縁者となる覚悟があるかどうかだなぁ……」

「私も話に聞いたが、そんなにすごいのか?」

「ああ、すさまじい人だぞ?

 並の破家なら、イレーネのような才媛があそこまで苦労することはない」


 ディングランツ家公爵自身について良い噂は聞かない。

 リュヴァイツ辺境伯からは「近づくな」とまで忠告された。

 そこまで言われるということは相当だろう。

 家を破すと書いて、バカと読む。

 昔の人はよく言ったものだ。


「卿はよくそんな人の家臣になったな……」

「僕はティータ様の家臣だ。イレーネもな」


 レオンハルトには不本意な言い方だったらしく、めずらしく憮然として訂正を求めた

 

 さて、侍女のイレーネには一応報告しておいたほうがいいだろう。

 二人の恋路を邪魔するためではなく、応援するために、とハルトは考えたのだ。

 交際するなら健全にやってもらいたい。

 ベイオルフ伯爵家は諸侯には劣るものの、国王軍の将軍職を歴任してきた有力貴族である。江戸時代で言えば、大身旗本だ。

 王家と血縁関係を結ぶことにメリットがないわけでもない。

 しかし、イレーネに耳打ちすると、彼女は平然といった。


「事情は把握しております。

 こういった下世話な話はメイドたちのほうが詳しいですから」


 背後のメイドたちは、そんなことは周知だといわんばかりに失笑している。

 情報弱者を暖かく見守る目だ。


「この件については一切の口出しは無用に願います」

「え? でも…………」

「クリスティン様のお父上。ベイオルフ伯爵は、お館様をひどく嫌っておられます。

 当家の縁者になってくださることはないでしょう」

「そう………なんですか?」

「卿は、お館様の悪評を耳にしても、当家と血縁関係を結びたいと思われましたか?」


 ハルトは言葉に詰まる。


「もちろんティータ様のことは憎からず思っておられますので、クリスティン様との交友は認めておられます。

 しかし、縁談はありえません。

 ベイオルフ家への報告も無用です。すでに私から連絡し、丁重なお断りを頂いておりますので……」

「ああ……そう、ですか……」


 すでに玉砕しているということらしい。

 イレーネも心労が募るだろう。


「大騒ぎするほどのことではありません。

 あのぐらいの年齢で色恋など麻疹のようなものです。

 あとで二人には言って聞かせます」


 まぁ、それがいいのではないのだろうか。

 初恋は実らない。

 縁談というイベントを一世一代の外交カードと位置づける王侯貴族であればなおさらだ。


ディアネイラ・ヴァルトブルグ 17歳

 ヴァルトブルグ子爵家当主 レオンハルトの姉


ジョン・ホッブズ 40代なかば

 テンプレ商人

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