第五話 サラブレッドには夢があるッ!
ハルトは宿舎周辺のフィールドワークを続けていた。
こうして乗ってみると、馬が自動車よりも優れている点はいくつもあることがわかる。
未踏の原野であろうと、獣道であろうと馬は人を運んでくれる。
馬一頭がいれば、大草原を疾駆し、森も小川も、越えて行けるのだ。
そして、馬に乗ると視野が広くなる。
愛馬ブケファラスがいなければ、アレクサンドロスは東方遠征など思いついただろうか?
馬がいたからこそ、人は勇者になれたのかもしれない。
あまり社交をしないのも問題だと、クリスティンが馬術のサークルに誘ってくれた。
なれてくると馬の世話も楽しいものだ。
書籍やDVDを取り寄せ、尻尾の先まで美容師のように手入れをすると、ついつい手をかけすぎてしまって、隣の馬房の馬がやきもちを焼いたりする。
ハルトが厩舎に愛馬をつなぎ、その体をブラッシングしていると、一人の騎士に話しかけられた。
「ずいぶんと熱心に世話をしているのだね」
「初心者なので……
最近はこいつにつきっきりです」
「ずいぶんと細身の馬だね。その分身軽そうだ」
「スズカといいます。
まだやんちゃ坊主ですが、私にはあっております」
乗馬用の馬とは違い、騎士たちが駆る軍馬は、どこぞの世紀末救世主伝説を思わせるほどに骨太で雄々しい。
体格の大きな騎士が重い装備を纏い、さらに馬鎧も着せられるのだから重量級でなくてはならない。
一方、ハルトの愛馬は日本で買い手がつかなかったとはいえ、サラブレッド。
他の軍馬に比べて明らかに細身であり、重い装備で戦うのには向いていない。
しかし、速いということはひと目で分かるだろう。
「あ、失礼いたしました」
ふと、ハルトは自分が上級貴族から話しかけられていることに気づく。
一端の貴族であれば紋章などから有力貴族の家名は存じ上げていなければならないのだが……
とりあえず自分から名乗っておくことにした。
「ナイトハルト・クロウフォーガンです」
「存じている。
英雄卿ジークフリート・クロウフォーガン準男爵のご嫡男だね?
僕はレオンハルト・ヴァルトブルクという。
ディングランツ公爵家の武芸指南役をしている」
答礼した若者は、ハルトよりも少し年上でなかなかの二枚目。
物腰は柔らかだが、腕に自身ありという態度が見て取れる。
長身で体格もよく実際強いのだろう。
『貴族』とは人間の上位種である。上位貴族は、強大な魔力を内包する。
魔力を帯びた剣で岩を切り裂き、加護を受けた鎧で矢弾を弾き返す。
貴族の騎士と平民兵では、無双系ゲームのプレイヤーキャラとMOB兵士ぐらいの差があるだろう。
もっとも魔力を消費しての戦闘はそれなり疲れるので、何時間も働けるわけではないが、彼ら貴族はこの世界の戦場においては絶対的な暴力装置である。
命は等しく慈しむべきものとはいえ、その血の価値を平民と同列に語ることなどそもそも出来ようはずがない。血統書付きの名馬と驢馬の扱いは違って当然だ。
レオンハルト・ヴァルトブルクとは、特にその現実を見せてくれるような美丈夫だった。
そんな前途有望そうな騎士がわざわざ声をかけてくるのだから、親の七光りとは厄介なものだ。
「レオンハルトで構わない。
…………君はたしか、庶子だと聞いているが?」
「はい。母は平民です。
剣を握ったり馬に乗るようになったのも、つい最近でして……」
騎士家の嫡男は幼少期から訓練を始める。
しかも親元を離れ、小姓として雑用をこなしながら、戦闘技術や学問を学ぶのだ。
一人前になるころには、みな罪人の一人や二人試し斬りした経験ぐらいあるのではないだろうか。十六歳になって初めて手綱を握ったハルトなど、戦場では足手まといもいいところだろう。
レオンハルトもそういった事情を察したのか、「それは大変だね」と配慮してくれた。
嫡男の急逝によって、庶民に預けていた非嫡子が祭り上げられることも珍しくはないのだが、いわば一般大学から自衛隊の幹部候補生教育を受けるようなもので、環境の変化になかなか適応できず、苦労するらしい。
「熱心に世話をしている割には、あまり馬場を使ってはいないようだが?」
「私は幼少期より騎士の修行をしてきたわけではありませんから、まず馬術よりも馬の世話の仕方から学ばなければなりません。
こいつは私が馬の世話を憶えるために連れてきたようなものですから……」
ブラッシングをしていると、クリスティンがやってきた。
おなじ年頃の女の子を連れている。
乗馬用のキュロットパンツを履いていなければ、まるで西洋人形と見間違えるぐらい可憐なお姫様だ。
「ごきげんよう。レオンハルト」
「おはようございます。ティータ様」
どうやら彼女がレオンハルトが仕える公爵家のご令嬢らしい。
シャンデリアの下で社交ダンスでも踊りだしそうな紳士と小さな貴婦人の邂逅である。
上級貴族の学友になったり、指南役として子弟に武芸を指導するということは、騎士にとってとても名誉なことであり、輝かしいキャリアである。
「お二人はお知り合いですか?」
クリスティンが尋ねる。
「いや、さっき会ったばかりだよ。
まぁ、クロウフォーガンという名前を知らぬ者はいないがね」
「ヴァルトブルク先生の名前を知らない人もいないでしょう?」
あいにくハルトはそのいないはずの人間の一人だ。
非常に無礼を働いているような気がして困っていたハルトに、クリスティンは気を利かせて教えてくれた。
「ヴァルトブルク先生は、貴族でありながら昨年の御前試合で優勝した勇者です」
下級騎士と貴族。剣で勝負をしたらどちらが強いかと言われれば前者だ。
爵位を持たない騎士は、兵を率いて最前線で剣を振るういわゆる叩き上げの下士官である。
片や貴族は幹部軍人であり、戦闘技能よりも、部隊の指揮や経営学、法律、外交儀礼などを学ばなければならない。
もちろん貴族にも剣の達者な者もいるだろうが、親から役職や領地を継ぐので、本気で剣や学問に打ち込んでいる者はほんの一握り。
そんな貴族が数多の勇者を打ち倒して御前試合で優勝するなど、東大生のスポーツマンが国体やインカレで優勝するようなものだろう。
「じゃあ、この国で一番強いかもしれない人ってことですか?
すごいんですね」
見かけによらず、ということもない。
鍛え抜かれた筋肉は、一流の武人の証だろう。
男であれば、天は彼になぜ二物も三物も与えたのかと、恨み言の一つも言いたくなるかもしれない。
「この国で一番など、とんでもない。
まだクリスティンのお父上にも勝ったわけではないからね」
どうやら、クリスティンの父親もかなりの腕前であるらしい。
そして、レオンハルトはかなりの自信家であり、野心家のようだ。
「まだということはいずれは父にも勝つつもりなのですか?」
「目標がいてくださると、訓練にも身が入るということさ」
「もしその時が来ましたら、油断せぬように父に伝えておきます」
談笑している様に見えて、ふたりとも目が全然笑っていない。
クリスティンの連れの少女が、スズカの馬房の前で足を止める。
「まぁ、きれいな子……」
ハルトが日本から取り寄せた馬用のシャンプーで磨き上げたことで、スズカの栗毛は陽の光を浴びて輝き、その下からサラブレット特有のりゅうとした筋骨が浮かび上がっている。
「私、今日はこの子に乗ってみたいですわ!」
どうやらスズカに一目惚れしてくれたらしい。
しかし、この世界の一般的な乗用馬に比べれば、サラブレッドは気性が荒い。
ハルトが身をもって一番知っている。
セドリックはちゃんと調教すれば馬術競技に使えないこともないというが、万が一のことが起こればハルトには責任が取れない。
背後の侍女も、視線で「断れ」との合図を送ってきた気がした。
ハルトは不興を買うのを承知で申し出た。
「……お嬢様。どうかそれはご容赦くださいませ」
「どうしてですか?」
「この子は以前の持ち主から、あまり良い扱いを受けていなかったようで、ちょっと気性が荒いのです。
高貴な方々にお乗りいただく馬は、馬丁が丹精を込めて育て上げ、指南役がその能力や性格をしっかりと吟味したものでなければなりません。
彼らにも自分の仕事に対する矜持がございましょう。どうかご自重くださいませ」
ハルトが丁重にお断りの言葉をえらぶと、侍女は小さく無言でうなずいた。
直言は不敬かと思ったが、今ので問題はないらしい。
「……そうですか。
一番丁寧に手入れされていましたので、てっきり今日はこの子に乗れるのかと思っていました」
お嬢様はしょんぼりとしていた。
夕日の浜辺で栗毛馬が戯れる金髪のお嬢様は、確かにハルトのような冴えない小市民よりも絵になりそうな気がする。
しかし、競走馬とはそんな温厚な生き物ではない。ハッキリ言って猛獣だ。
フォローをもとめるべく、レオンハルトの顔色を伺うと………
「―――ッ!!」
レオンハルトはまるで、この世の終わりかのごとく落ち込み、そしてショーウィンドウのチワワを見つめる貧乏人のような視線でスズカを見つめているのだ。
そこまで落ち込まれると、ハルトも妥協案を提示せざるを得ない。
「えーっと、しかし、もしスズカが指南役のお眼鏡にかなうのであれば、ちゃんと調教し直した上で、後日お乗りいただく機会もあるかと存じますが……」
「どうなのですか? レオンハルト」
「え!? はい! そ、そうですね!
……試してみましょうか」
本来なら、ハルトではなく彼が主君を諌める立場なのではないかと思うのだが、成り行き上もうしかたがない。
レオンハルトは気を取り直し、スズカを馬場へ連れ出し、颯爽とした身のこなしでその鞍にまたがった。
馬術指南役という肩書は伊達ではない。そして、スズカもやはりサラブレッドだ。
駈歩で馬場を一周すると、思い切りよく外縁の柵を飛越する。
その栗毛は、日差しの加減で茜色にも金色にも見え、流麗な鬣と尾が風になびく。
そして、その走る姿の美しさこそ、サラブレッドが人類の最高傑作と言われる所以である。
周囲からも感嘆の声が上がるほどだ。
「こいつはすごい! まさに優駿です!
しかし、力があるぶん抑えるのが非常に難しい。ティータ様には少し早いかもしれません」
「では、私の腕が上達すればこの子に乗れるのですね?」
「はい。練習を続ければ、その日は遠くはございません」
上手いお断りだ。
否定的な言葉を一切使わず、自分の能力をきっちりと売り込んでいる。
レオンハルトの営業の上手さに感心していると……
「約束ですよ?」
「この剣にかけて、お約束いたしますよ」
「楽しみにしています。
……では、貴方にはこの子の飼育を命じます。
競技会の日まで、決して手抜かりがないように……」
「……え?」
どうやらお嬢様の中ではスズカはもう自分の所有物らしい。
彼女には、本来の持ち主であるハルトに有無を言わせないオーラがあった。
「……あ、はい。かしこまりました」
言質を取ったことを確認するとお嬢様は満足そうにクリスティンの手を引き、厩舎に自分の馬を取りに行った。
「ずいぶんと気前のいいことだね」
レオンハルトが苦笑しながら言った。
「あー、別にあげるつもりはなかったんですけど。
私のことも厩務員か何かだと誤解してたみたいだし……」
君臨者として、まったくの迷いがない態度で悪意も感じない。まさに天性のジャイアニストだ。
しかし、彼女がいくつかの条件を飲んでくれるのなら、譲渡するのもありだろう。
こちらの人々にとって馬は、自分の命を預ける大切なパートナーであり、決して金儲けの道具ではない。
所詮経済動物だと開き直る日本競馬界から、サラブレッドが受けてきた仕打ちを考えれば、愛馬精神に満ちあふれている。
ハルトは数年後には、日本に帰るのだ。
その生涯をお嬢様の青春と共に過ごし、彼女が結婚してその子供が成長するころに惜しまれながら天寿を全うするとしたら、スズカにとって決して悪い余生ではない。
スズカの顔をなでながらハルトは日本語で話しかける。
「何の因果か、異世界にやってきて片や騎士になれと言われ、片や貴族の愛馬になれと言われたり、お互い数奇な一生だなぁ」
侍女はため息をつきながら、尋ねる。
「で、おいくらですか?」
「いくつか条件を飲んでいただけるのであれば、そちらの言い値で結構です」
「………お伺いいたしましょう」
「まず、スズカは気性が荒いので、腕のいい調教師をつけてしっかりと教育し直してください。乗る方も十分な訓練を受けてください。
それをせずに万一のことがあっても当家は責任をとれません。
また、この子は足は速いですが怪我もしやすいです。
たとえ期待に応えられなかったとしても、捨てたり、殺処分したり、当家に無断で第三者に譲渡したりしないでください。
ただし、大怪我をして回復が見込めないときに限り、専門家の判断で安楽死をお願いします。
戦場に連れて行くことも禁止します。
あと、繁殖に関しては………」
「ちょっとお待ち下さい。要点をお伺いしてよろしいですか?」
「要約すれば、スズカが天寿を全うするまで、末永く大事にしてほしいということですけど?」
おそらく役職などをお金以外のバーターを要求してくると思ったのではないだろうか?
彼女が呆気にとられているところでレオンハルトも尋ねてきた。
「……なぁ、兄弟はいないのか?」
「いませんよ。兄弟がいたら家督相続は辞退しています」
「………君じゃないんだが」
「へ?」
「いや、すまない。
君じゃなくて彼に兄弟はいないのかと聞いたんだ。いたらその……少し考えてほしいのだが?」
レオンハルトもサラブレッドをいたく気に入ったらしい。
兄弟ならたくさんいるだろう。もう一頭ぐらい見繕ってくるのはたぶん造作もない。
しかし、あまり安請け合いはしたくない。
「さぁね。この子は少々ワケありで、引き取ったんです。
騎士が乗るには向いていないと思いますけどね」
「向いているか向いていないかは、使ってみないとわからないだろう?
正直、騎士たちが好んで使う重種の時代は終わると僕は思う。
これからは機動力だ。僕が見た限りその中でもこいつは抜きん出ている。
君はその能力がもったいないとは思わないか?」
「思いませんね」
使ってみなくてもハルトにはわかる。
サラブレッドは軍馬には向いていない。
軍馬としてなら、おそらくアラブ種の方が耐久性を兼ね備えているはずだ。
「なら、賭けないか?」
「何をです?」
ハルトが問い返すと、レオンハルトは提案した。
「こいつをレースに出そう。
そこで一等が取れるかどうか」
ハルトは露骨に鼻で笑った。
ほとんど初対面の相手にこんな態度をとるのは失礼だとわかっているが、愛馬をくれてやったのだ。
多少の無礼は許してもらおう。
「なんだよ? 何がおかしい?」
「それは賭けにならないよ。たぶんぶっちぎるから」
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軍楽隊のファンファーレが、初夏の草原に鳴り響いた。
こちらの季節は、日本とはちょうど真逆らしい。
つまり、日本ではもう十一月である。
「さぁて! やってまいりましたエフテンマーグ恒例、襲歩競走です。
やはり注目は、ディフェンディングチャンピオンであるクラニツァール卿のヴァイシオン号。
今日も素晴らしい仕上がりです。3度めの王座防衛なるか!!」
ダートコースを木製の埒で囲ったトラックのスタート地点には、二十八頭の馬がひしめき合っていた。
ヴァリスタニア王国は騎士の国であるが、ほとんどの馬術競技で主役となるのは馬を操る騎士であって馬ではない。乗り手の腕前よりも馬の性能が問われる襲歩競走は、これまで貴族たちに重視されるスポーツではなかった。
エフテンマーグで週末に行われる生徒会主催のレースに優勝しても、あくまで名誉だけで賞金は出ない。
早駆けは騎士ではなく、騎兵の役目だ。馬を無駄に疲労させるだけと評する者もいる。
そもそも騎士が馬に求める能力とは、総合力であり、走る速さなど能力の一つに過ぎないのだ。
乗り手に従順で、勇猛果敢に障害物を飛越し、ときに川を渡り、崖を駆け下り、数ヶ月間の遠征となったとしても粗食に耐え、重い荷物を運び、怪我をしにくい。それが名馬の条件である。
戦訓としては甚だ正しいだろう。
人の背比べに大した意味がないように、1レプスを走る速さが1秒違ったところで何だというのか?
騎兵による突撃は、馬を隊列通りに並べて行う戦術であり、一騎が我先に突出して行うものではない。
しかし、この国ではスポーツとしての競馬が、今まさに黎明期を迎えようとしていた
。
かつては貴族の遊びとしてマッチレースやステークスレースが行われていたが、近年になって競馬は種馬の選別という目的と同時に、賭け事として観客たちの娯楽にもなっている。
出場する馬は、絶対とは言わないまでも、ある程度の勝算を見込んで出場してきたオーナー自慢の優駿ばかりだ。
そして、ここは一匹の家畜が、英雄となりうる唯一の場所である。
当初、ハルトはスズカをレースに出す気はなかった。
スタート位置で嘶きを上げるのは領主たちが故郷から連れてきた、さまざまな品種の在来馬たち。
地方競馬どころかムツゴロウ動物王国レベルの競走会。その程度がこの国の真剣勝負なのだ。
(これは、競馬とかそういうレベルではないだろうなぁ……)
発馬機はない。
スタートラインにテープを張り、それが切り落とされたらスタートだ。
勝負は目に見えている。距離はこちらの単位で1レプス半。
1レプスは約1.6キロメートルだから、ダービーやオークスほぼ同じ2400メートル。つまり、彼らサラブレッドの多くが、この距離を最も早く走り抜けるべく生まれてきたのだ。
負けるはずはない。
「…………僕が一番……スズカにうまく乗れるのに!」
レオンハルトは鞍上のクリスティンにまるで恨みがましい視線を向けていた。
ハルトが彼の騎乗を断った理由はその体重だ。
レオンハルトはクリスティンの倍は重い。斤量オーバーだ。駈歩ぐらいならまだしも、全力疾走させたらスズカが怪我をするかもしれない。
「後輩に花ぐらいもたせてやれ」
テープが来られると、案の定、スズカは序盤から先頭に立った。
『先頭に出たのはゼッケン17番、かなりのハイペースで飛ばします。
これはさすがに無謀ではないでしょうか!?』
作戦なんて必要ない。在来馬では全力疾走かもしれないが、サラブレッドがバテるペースではない。
終盤スズカはそのペースを落とすが、スタミナ切れでないのは明白だ。フォームを崩さぬまま流している。加速することもできただろう。
たとえ同じ軽種のアラブ馬でも、中距離レースを走らせるとサラブレッドとは数秒差がついてしまうらしい。
大航海時代、世界の覇者となった大英帝国の貴族たちが、アラビア半島の遊牧民が飼っていたアラブ種や、北アフリカのバルブ種を輸入し、その血統を管理し、膨大な数の人工繁殖と気の遠くなるような選抜淘汰を三百年間も繰り返して生まれたのが現代のサラブレッドである。
この世界の在来馬では相手にならないのは当たり前なのだ。
『これは……すごい馬が出てきました!
二着以降を大きく引き離したのは、ディングランツ家のスズカ号!
まさに圧勝です!
影さえ踏ませない!!』
大会記録どころかエフテンマーグの歴史にすらのこる大勝利に実況が熱狂する。
少年騎手クリスティン・ベイオルフは客席からディングランツ公爵家の旗を受け取り、それを高々と掲げて余裕のウィニングランを敢行する。
クリスティンの騎乗フォームは、近代競馬の騎乗法であるモンキー乗りではないが、それでも馬と呼吸を合わせることは抜群にうまく、腰を浮かせて膝で衝撃を吸収する乗り方を体得している。
凱旋するスズカとクリスティンを、ティータが取り巻きを引き連れて出迎える。
どこからともなく現れたかぐやがハルトに尋ねた。
「大変な人気ですわね。 いかがなさいますか? ハルト様」
「いかがなさいますかって……もうこうなったら、くれてやるしかないだろ?」
彼らは決して有象無象ではなく王族である公女殿下に直言が許されている身分だ。
つまり、それぞれが領地や役職を持ち、一声で数十名の兵を召集できる実力者。
ハルトがいまさら返せなど言えば、馬一頭で戦争になるかもしれない。
そして、スズカにとっては悪い話でもない。
最早名馬の評価を受けているスズカを、ハルトごときが持っていたら飼い主ともども悪意に晒されかねないが、公女殿下のお召し馬であればみんなに守ってもらえるのだ。
心なしかスズカの面構えは競走馬のそれになっていた。セドリックの調教は、おそらくこのレースで完全に無駄になっただろう。
「わざわざ乗馬用に調教してくれたセドリックには申し訳がないが、スズカはもう名実ともにあのお姫様の持ち馬だ。
……というか、こうなることはわかってたんじゃないのか?」
悔しくないかと言われれば嘘になる。
ハルトだって彼を乗りこなしてみたかった。
「スズカは乗用馬としての調教なんて受けてませんわ。
あれには最初から競走馬として美浦や栗東のトレセンと同様の訓練が施されています。
クロウフォーガン家の育成牧場でつくられた本物のサラブレッドでございますわ」
道理で気性が荒いわけだ。
血統的に悍馬であるサラブレッドを、後ろから車で追い立てて限界まで走らせたり、他の馬と競り合わせたりすれば闘争心が身についていく。
「常芳様の唯一のご趣味でございますので……
3歳の競走馬に乗れるのなら、大抵の乗用馬を乗りこなせるでしょう。
ハルト様が馬の扱いの基本を覚えられたのでしたら、スズカは晴れて御役御免でございます」
確かにハルトは、スズカで馬術を学んだ。
暴れ馬から何度も転げ落ち、落馬の仕方も覚えろというのがクロウフォーガン流らしい。乗馬のトレーニング法として間違っている気はするが……
「カ◯リー・ドミニオンでく◯モンの餌にならずに済んでようございました」
「某県をルドン高原みたいにいうな」
ハルトは馬肉食が悪いとは思わない。
どんなにかわいがっても馬は家畜。人間は鬼畜だ。レースに勝てない競走馬に未来はあたえられない。
スズカがもし本当に日本競馬で億単位の賞金を稼げる名馬であれば、如何に常芳が金持ちとはいえ、こちらの世界には連れてこなれなかったはず。ならば彼は日本の活躍は期待されなかったのだろう。いくら訓練しても、結果を出せなければ廃棄されるのが競走馬の宿命である。
しかし、スズカはまがりなりにも異世界で未来を掴み取ったのだ。
レースから帰ってきたスズカとクリスティンは、馬上槍試合に出場する騎士たちに最敬礼で出迎えられた。
一人の騎士がティータに尋ねる。
「姫さま。あのような名馬を、一体どこで見つけてこられたのです?」
「厩舎にいました」
嘘ではない。
しかし、まるで拾ってきた野良犬が芸を憶えてくれたように無邪気に喜ぶ小公女の答えは、質問者の意を捉えていない。
「前の持ち主に酷くいじめられていたみたいなのです。
欲しいと言ったら、快く譲ってくれました」
これも嘘ではない。競走馬の調教なんて、人間で言えば甲子園強豪校の野球漬け生活みたいなものである。一般人から見れば虐待のレベルだろう。
しかし、多分に誤解を招く。
騎士に取って馬は大切な相棒だ。
案の定、それを聞いた武官は義憤に震えていた。
「信じられませぬ!
あれほどの名馬の価値もわからぬとは!
いったいどこの蛮族ですか!」
(ニホンジンとかいう蛮族ヒトモドキです。生まれてきて本当にすいません)
「姫さま!
もし、そやつが買い戻したいなどと言ってきても絶対応じてはなりませぬぞ!
万が一因縁をつけてきたら、このジェラルドをお呼びください! いつでも駆け付けますゆえ!」
「私も!」
「私もでございます!!」
どうやらたかが一レースで親衛隊まで結成されてしまったらしい。
貴族科の女子生徒たちも、鞍上の天才少年騎手に黄色い声援を送っていた。
もちろん、馬を褒めることで、誼を結びたいという下心もあるのかもしれないが、異世界人たちにとってサラブレッドという馬はそれほど衝撃的だったのだ。
レースが終わるとハルトはいつもどおり、厩舎に戻ってきたスズカの体を洗い、尾や鬣にブラシを通し、蹄に詰まった泥を落とす。
一般の馬の寝藁は、糞尿の染み込んだ麦藁を天日干しにして再利用するが、スズカの馬房だけは新しいものが手配されている。
小公女様の計らいでほかの馬たちとは一線を画する特別扱いをうけているからなのだが、もちろんスズカは自分の持ち主が変わったなど知る由もない。
レオンハルト・ヴァルトブルク 16歳
ディングランツ公爵家武芸指南役
ティータ・ディングランツ 11歳
ディングランツ公爵公女(王姪)。天性のジャイアニスト。
「◯◯には夢があるッ!」 出典:ジョジョの奇妙な冒険 ジョルノ・ジョバーナ
カ◯リー・ドミニオン …… 前・阿蘇クマ牧場
そもそも、熊本はもともとは隈本(日本列島の隅っこの根本だから)
それを、中二病をこじらせた某名古屋の戦国大名(馬刺しが有名なのも、熊本弁と名古屋弁が似てるのもたぶんこいつのせい)が熊本に改名。現代でも県民は執拗にクマにこだわっているが、環境省によると九州の野生のクマはすでに絶滅している。
ルドン高原 …… 皇帝陛下御用達の屠殺場。ちなみに筆者はハリア半島派。