第二話 遺産を告げと言われたら
リビングの中にいる人間たちが、月詠かぐやの言葉を咀嚼するのに、数秒間の時間を要したらしい。
しばらくの静寂の後、呆気に取られていた小太りの初老の男が権幕を変えて叫んだ。
「い、一体何の冗談だ!?
こ、ここは御前の遺産相続について話し合う場所だろう?」
「あら、冗談ではありませんよ?
話し合いも何も結論はすでに出ております」
かぐやに命じられて、弘前弁護士はビジネスバッグからノートパソコンを淡々と取り出すと、客人たちに画面を見せるよう配置し、動画ファイルを再生した。
「これは被相続人が手術前に残した遺言です」
液晶ディスプレイに映し出されたのは、先ほどの遺影の老人、高薙常芳だった。
場所はどこかの病院の一室らしい。
彼はまず、カメラに向けて全国紙の一面を提示する。
その日付は記録によると臨終の前日。しかし、故・高薙常芳はとても死が迫っているとは思えない矍鑠とした視線をカメラに向けながら告げた。
「私、高薙常芳は、これより心臓外科手術を受ける。
主治医の腕は信用しているが、帰ってこれるかどうかはわからない。
よって、ここに遺言を残しておく。
私の預金のうち20億円を、公益財団法人つくよみ会に寄付する。
事故や傷病などで親を亡くした子供たちを支援するのに使って欲しい。
そして、私の所有にかかわる残りの預金、動産、不動産のすべてを三上悠斗に相続させることとする。
なお、この遺言が開封されたとき三上悠斗が未成年であった場合、弘前智子弁護士を後見人とすること……」
動画は、高薙常芳がそれを書面に記して日付を記述し、封筒に押印するところで終わっていた。
「………は、話が違うじゃない!!」
50代ぐらいの厚化粧の女がヒステリックな声を上げる。
悠斗に向いていた敵意がはっきりと憎悪に変わった瞬間だ。
「そもそもつくよみ会ってなんや! 聞いたこともないで!!」
「なんで御前がそんなどこの馬の骨ともわからないガキに全財産を相続させるんだ!!」
「馬の骨とは心外な……」
悠斗だって心外だ。
(この家屋敷を俺が引き継ぐ? 一体何の冗談だ)
悠斗が応酬される言葉に右往左往していると、弘前がクリアファイルを提示した。
「これはさる企業に依頼した高薙常芳様と三上悠斗様に関するDNA鑑定結果です」
全員の目がそれに集まる。
「お二人は法医学的に父子関係にあることが確認されました。
ケチのつけようもない法定相続人ということになりますね」
悠斗は驚き、やがてめまいを覚えた。
悪夢を見ているようだ。
母、三上静香は齢60の老人と関係を持っていたというのだろうか?
「んなアホな! 御前は70過ぎやで!
どうせこのガキの母親も遺産目当てで近寄ったんとちゃうんか!!」
関西弁の男が悠斗に罵声を浴びせてくる。
自身への敵意はともかく、母親への侮辱は許しがたい。
しかし、法治国家において、真の強者とは法を知る者である。
月詠かぐやが前に出た。
「高薙が現在の財をなしたのは、ここ十年のこと。
悠斗様が生まれてからですわね。
そもそも遺産目当てであろうと何であろうと、悠斗様は被相続人の血縁者であり、遺言も明確な形で存在しております。
皆様こそ、高薙常芳とは血縁はなく、法定相続人にはなりえません。
どうぞお引き取り下さい」
「なんやて!?
あの最高傑作が、我が国の至宝が!
こないなガキのものになるんかいな!」
どうやら高薙常芳は国宝級の美術品か何かを所有していたらしい。
まぁ、いまさら何を持っていたとしても驚くことではないが……
「貴方のものになる道理こそございませんが?」
「素人やぞ!」
「管理は専門家に任せますので、誰のものになっても同じです。
余計な口出しをしない素人の方が現場もやりやすいかと思いますが?」
「なにぃ!!」
「異議のある方は裁判所へ提訴していただいて構いませんわ。
ちなみに、先ほどの彼と彼の母上に対する侮辱的発言はすべて録音させていただいております。
彼の代理人として重ねて勧告させていただきます。
どうぞ、お引き取り下さい。
正当な理由もなくお引き取りいただけない場合は、不退去罪として通報させていただきます」
関西弁の男は救いを求めるように背後を視るが、弁護士らしき男がやがて落胆したように首を横に振る。
クライアントに「あきらめろ」という合図らしい。客人たちはしばし呆然としたのち、一人ずつ部屋を出て行った。抜け目のなさそうな弁護士は、悠斗個人にさりげなく自分の名刺を渡して、地団駄を踏んでいた小太りの後を追う。
「これはひどい裏切りだわ!!!」
厚化粧の女が捨て台詞を吐き、そして誰もいなくなった。
修羅場が終われば、まるで嵐が過ぎ去った後のようだ。悠斗が腹を立てる暇もない。
「静かになりましたわね」
「そうですね。
まぁ、後でいろいろ難癖をつけてくる可能性はありますが……」
「万事、弘前に任せます。俗物の相手は疲れますので……」
「承知しました」
悠斗にとっても寝耳に水である。どうしていいかわからない。
宝くじに当たった貧乏人が身を滅ぼす悲劇はしばしば耳にする話である。
ぬか喜びなどできようはずもない。悠斗は、とりあえず抗議の声を上げてみることにした。
「…………そんな話、聞いてませんよ?」
「でしょうね。言ってませんでしたから」
「……お、俺は……別に遺産なんて……」
思わず狼狽して一人称が素に戻ってしまっていたが、無理もない。
これまでの常識のスカウターがぶっ壊れたような、そんな感覚だ。
しかし、弘前弁護士はかぐやと顔を見合わせ、諭すように悠斗に告げた。
「今のあなたは未成年ですから、後見人の同意なく相続を放棄することはできません。
そして私は、必ずあなたに遺産を相続させることを条件に後見人となり、高薙様から報酬までいただいております。
契約上、相続放棄に賛同することはありません。
もちろん、悠斗君が成人したのちであれば、財産をどうするのかは自由ですが……」
「相続税とかはないんですか?
あとで相続財産以上のお金を請求されたりするぐらいなら……」
悠斗も人生経験が浅いなりに最悪の事態を想定し、懸念を表明した。
むしろそうであってくれた方が、悪い夢から覚めてくれるような気がする。
「私は一応法律のプロですよ?
税金についてはご心配なく。あらかたの手続きは済んでいます。
たとえ今後債権者が名乗り出てきたとしても、財産をわたくしするためにやましいことをしていない限り、何も問題ありませんよ」
「そう、ですか……」
どうやら外堀は完全に埋められてしまっているらしい。
「高薙様には、死後にさきほどの方々に財産をむしり取られるぐらいなら、という思いもあったのでしょうね。
特にあの田所という男は、高薙家の遺産を当てにして身の程をわきまえない投資をしていたみたいですので……」
なるほど、その遺産が入るあてが全くなくなったとあれば、さぞ苦労することだろう。
同情してやる気もないが……
「ハルト様。
たしかに正直と無欲は美徳の一つではございますが、それが必ずしもいい結果を招くとは限りません。
現に今、遺産なんて欲しくないなどと言ってしまったら、彼らは手のひらを返してハルト様に接近してくるでしょう。
お近づきになりたい者たちだと思われましたか?」
先ほどのかぐやの言葉に、強い軽蔑の色が含まれていたのもわからなくはない。
かぐやは一変し、悠斗に対して恭しく頭を下げる。
「ハルト様が継いでくれなければ、困る者もおります。
ここで働く使用人は皆、定年までは雇用する契約となっておりますので……
どうかしばらくの間。ハルト様のお名前だけでもお貸しくださいませ」
「名前だけ……ですか?」
「はい。名前だけです。
財産をすぐに使えるようになるわけではありません。
株式の配当金や不動産収入のほとんどが、彼らの人件費や退職金に消えるでしょう。
心苦しくございますが、当面の間、ハルト様へはささやかな生活費を仕送りさせていただく程度になると思います」
つまり、高薙常芳という老人は使用人たちに自分の財産を形見分けさせるために、見ず知らずの隠し子を後継者に据えたということか。
それならば納得のいく理由ではあるのだが……
「ただ、高薙家のお墓を守ってほしいというのが旦那様の願いです。
そこでお母様と一緒に供養してほしいと……」
「お墓……ですか」
母の納骨先について、悠斗も急いではいなかった。
しかし、天蓋孤独だった母に縁者がいたのであればありがたい。
今、悠斗自身がサインしなければならない書類があるわけでもない。
選択肢は与えられておらず、なるようにしかならないのだ。
「…………とりあえず、わかりました。
自分は一切、遺産に手を付ける気はないので管理はお任せしていいですね?」
「はい。お任せください」
もうどうにでもなれ。
都合よく丸め込まれたような感じもしたが、結局悠斗は考えることを放棄したのだった。
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「……くそ。しくじった!」
スポーツバッグに衣類を乱暴に詰め込みながら、悠斗は独り言ちる。
悠斗の自宅は、公団住宅の一室であり、安い家賃の割にはスペースがある。
テレビを撤去した場所に母の位牌と遺影を飾り、仏壇替わりとしていた。
弘前からの仕送りで多少の経済的余裕ができて一安心はしたが、悠斗自身は当分の間生活スタイルを変える気はなく、慎ましやかに暮らしていくつもりだった。
しかし、彼の本意不本意にかかわらず災難は押し寄せてきたのだった。
「この度はお悔やみを申し上げます」
「はぁ……ご丁寧にどうも」
まず、どこから嗅ぎつけたのか、有名企業の重役に大銀行の頭取。地方議員やその秘書。独立行政法人のお偉いさん。有名芸能人の代理人を名乗る方々。
そんな連中が、エレベーターなしの公団住宅の五階に、悠斗が在宅する日曜日を狙ってやってくる。どうやら高薙常芳とは、そこらの田舎の小金持ちレベルの人間ではなく、政財界のお歴々がなりふり構わずお近づきになりたいほどの大物だったらしい。
(隠し子の俺にまで媚びに来る必要はなかろうに!!)
弔問客がいつ来てもいいよう、身ぎれいに暮らしていたことも仇となってしまったかもしれない。
そして彼らの厚かましさに気迫負けし、思わず「高薙の遺産を継ぐ気がない」などと嘯いてしまったことが取り返しのつかない大失態となった。
莫大な遺産を相続したのは、世間知らずの子供。
彼らの業界ではもしかしたら、そんなことが噂されているのかもしれない。
学校から帰宅する時にも、尾行の気配を感じるようになり、さらに遠い親戚や、うさんくさい自称財界の大物や慈善団体。はたまた偽造文書を携えた詐欺師までやってきて、パトカーを呼ぶ羽目になってしまった。
悠斗は結局、このままではトラブルの素だと思い、物心つくときから暮らしてきた公団住宅の一室を引き払うことにした。
そして、どこかにアパートを借りられないかと弘前に相談してみたのだが……
「ここは悠斗様のお屋敷です。どうぞごゆるりとなさってください。
ご入用のものがありましたら、屋敷の者たちになんなりとお申し付けください」
とりあえずと紹介されたのは、部屋の有り余っていた高薙屋敷の一室だった。
もちろん、こんな重要文化財のような屋敷で我が世の春を謳歌するなど悠斗の許容範囲を超えている。
「……ど、どうか、お構いなく」
高級料亭の女将さんのようなベテラン女中に世話をされて暮らすのも甚だ落ち着かない。
しかし、やがて悠斗も観念した。
(しかたない、今日は旅館に泊まっているものと思って早急にアパート探しに行くことにしよう)
しばらくは休学もやむを得ない。
不本意だが、退学もあるかもしれない。
しかし、嘆いてもどうしようもないのだ。
たぶん人生では、数奇な運命に翻弄されることが何度かあるのだろう。
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日が落ちた。
悠斗は、巨大な屋敷で、スマートフォンをいじって無為に時間を過ごしていた。
屋敷の女中さんたちは悠斗のプライバシーに配慮してくれているが、やはり落ち着かない。
理解してはいる。
この屋敷は三上悠斗の個人の所有物にはならない。
働かずに飯が食える他人に対し、普通は嫉妬の感情を抱くものだが、社会人ならばそういう負の感情を自覚し抑制することができる。悠斗が戸惑っているということについても理解してくれているのだろう。
ただ、そんな他人に囲まれて貴族的な生活を謳歌できる神経は、三上悠斗にはない。
悠斗はただ欲の皮の張った連中から、彼らの職場と退職金を守るために、御輿に乗せられているにすぎないのだ。
自分の力で稼いだ金でなければ、堂々と消費できない。
三上悠斗は、いうなれば生粋の小市民なのだ。
会ったこともない親から引き継いだ遺産なんて、どうせ使えないし、それでいい。
悠斗は敷かれた布団の上に大の字になって天井を見上げていた。
「失礼いたします」
襖の向こう側に、突如人の気配が現れた。
鈴を転がすような声の主は、月詠かぐやだ。
「…………かぐやさん? 何か御用ですか?」
「はい。相続の件で折り入ってお話がございます」
すでに夜の帳はおりている。
部屋に取り付けられた照明は、あまり強いものではなく、少し薄暗い。
かぐやは悠斗が引き戸を開けるまで廊下で待機していたが、部屋に招かれると敷かれた布団の横に膝をそろえて座る。
「悠斗さまには、高薙常芳の遺産をすべて相続していただきます」
今さら何を改まって言う必要があるだろう?
「………あの、ほとぼりが冷めるまで、お名前をお貸しするだけですよね?
自分は、会ったこともない父の遺産で贅沢をする気はありません。
関与する気はない、とお伝えしましたよね?」
有価証券が紙切れになろうと も、彼女たちが共謀して遺産をだまし取ろうとしていたとしても、そもそも自分の金ではない。
高薙という老人がマヌケなだけだ。自分の知ったことではない、と悠斗はそう決めている。
むしろ関わることで犯罪の片棒を担がされかねないという不安の方が大きい。
「はい。それについては感謝しております。
しかし、高薙常芳の形見は受け継いでいただかねばなりません」
「形見?」
悠斗は、部屋を見渡す。
簡素ではあるが、床の間にさりげなく飾ってある花器や掛け軸などは、見る人がみればそれなりに値の張るものなのかもしれない。
そういえば弘前から目録を手渡されているのだが、興味もなかったのでまだ目を通していなかった。
「骨董品とか美術品とかですか?」
「それもいささかございますが、そのことではございません」
不動産でも、証券でも、お金でも、品物でもない。
となるとなんだろう?
「わたくしでございます」
「は?」
「わたくしと契りを結んでくださいませ」
一瞬何を言われたのか理解できなかった。
しかし、悠斗も思春期の健康な男子である。
寝所で契りと言われて、それ以外を連想できなかったことを誰が責められよう。
「はぁ!!? なにバカなこと言ってんですか!」
「あら? 莫迦ではないでしょう?
あなたは将来を約束されたお方。
これからお金目当てにすり寄ってくる女も、きっと次々に湧いてくるでしょう。
悠斗様が相続されたのはそれほどの財産ですので……」
「お、俺は、財産を受け継ぐ気なんてありませんから!!
つーか、お金が欲しいなら、わざわざ俺に言い寄る必要なんてないでしょう!
遺産の管理はおまかせしたんだから!」
「勘違いをされていますね?
…………わたくしは、あなたが欲しいのです」
かぐやがその整った顔を近づける。
吐息を感じられるような距離にまで。
瞳の色は緑がかった宝石のような黒。成長期を迎えて丸みを帯びた理想的なプロポーション。
そんな少女が慕情に燃えた雌の顔を自分に向けてくる。
「あなたの手、あなたの指、あなたの心、あなたの魂、そして、あなたの命……
すべてが欲しいのです」
もし、こんな表情を意図的につくれるのであれば、女とはなんと恐ろしい生き物か。
四つん這いになって迫るかぐやに、悠斗は後ずさる。
かぐやは首をかしげた。
「もしかして、童貞でございますの?」
「…っ!…………あたりまえでしょう!
普通の高一ですよ! 俺……」
そりゃあ、同級生にはもう経験した奴もいるかもしれないが、あいにく悠斗にはデートの経験すらない。
恋愛などという金のかかる趣味は社会人になってからでいいのだ。できるかどうかは知らないが……
「…………もしやお古はおいやで?」
「は?」
「わたくしは、先代とも契りを結んだ仲ですので」
高薙常芳とやらは二十代前半の頃の母とも、関係を持ったことになる。
性欲を持て余した老人が、金の力で若い愛人を作ろうと知ったことではない。
しかし、仮にも自分に血を分けた父親らしいのだから、それ以上の追及はしたくなかった。
「そんな話聞きたくありませんから!!」
「…………そうですか、残念ですわ」
何が残念なのだろうか?
悠斗は脳内で常識と幻想が崩壊していく音を聞いた気がした。
「時間がございません。手早く済ませましょう」
「だから、なにを……」
月詠かぐやが顔を近づけ、柔らかいものが唇に触れた瞬間、平衡感覚を失い、悠斗の意識は暗闇へと転がり落ちていった。
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再び目を覚ましたとき、悠斗が最初に目にしたのは見知らぬ天井だった。
あのあとどこまで行ったかなど、記憶にはない。
当然だ。
悠斗は儚い妄想であると、結論付けた。
しかし、なんという恥ずかしいものを見てしまったのだろう。
自分は月詠かぐやという初対面同然の女をあそこまで意識してしまっていたのだろうか?
羞恥のあまり自分の頭蓋を抱えて転がりまわった後、悠斗は上体を起こして、あたりを見回した。
いったいどこからが夢だったのだろう?
悠斗が身に着けていたのは浴衣だった。高薙家の女中さんにパジャマ代わりに用意してもらったものだ。
となると、高薙の屋敷に泊まったことは現実らしい。
しかし、今いるのは見たこともない空間だ。
広さは二十畳ほどの西洋風の一間。床にはタイルが敷き詰められ、白亜の壁には油絵が飾られている。高い天井はリブヴォールトと呼ばれる石造りの西洋建築によくみられるものだ。
こんな部屋に案内された記憶はない。
洋式箪笥の上には、一振りの刀が飾られていた。
拵えは昭和初期の軍刀。きっと土産物屋で売っている模造刀の類だろう。そう思った悠斗は、軽い気持ちで刀を手に取った。
しかし、抜刀し、刀身が放つ輝きを目にした時、悠斗は考えを改めた。
「これ………真剣じゃないか……」
悠斗は都内の美術館で催されていた刀の鑑賞会に行ったことがある。
だからといって、刀の良し悪しまで解るわけではないが、クロムメッキの模造刀との違いぐらいは一目瞭然だ。
磨き抜かれた地肌に目を凝らすと浮かび上がる刃文は、鋼を素延べして粗製乱造された昭和新刀のそれではない。
屋敷にあるものはすべて自分のものだと言われているが、こんな危険物を振り回して遊ぶ気にはなれない。凶器でもある日本刀を客の手の届く場所に置いておくのは不用心だなどと思いながら、悠斗は刀を丁重に元の場所に戻した。
「それにしてもここはどこだ?」
古めかしい暖炉に、西洋アンティーク風のテーブル。
部屋の片隅には、高薙の屋敷に持ち込んだ悠斗の上着やスポーツバックが置かれていた。
ベッドのそばには履いていたスニーカーが揃えられている。
まるでどこかのリゾートホテルのスイートルームだ。
就寝中に誰かが運んだのだろうか?
それができるとすれば、月詠かぐや以外にありえない。
両開きの扉からそろり外を除くと、そこはマクシミリアン式の全身甲冑や色絵磁器の壷、絵画、そして全身鎧などが飾られた長い廊下だった。
窓からは一枚絵のような長閑な田園地帯が見える。
悠斗が今いる建物の全貌は確認できないが、どうやら見晴らしの良い高台の上に建てられた洋館のようだった。
水辺に近い場所には、かやぶき屋根の民家が並んでいた。
壁は石造りで、日本の古民家とは少し違う気がする。
急峻な山の斜面から渓流に向けて棚田が広がり、山の向こうに海が見える。
夏なのに、少し肌寒い。
部屋の中が温かいのは暖炉に火がともされているからだった。
とりあえず、枕元にあった自分のスマートフォンで、場所を確認しようと思ったのだが……
「………圏外?」
よほどの田舎なのだろうか?
しかし、GPS信号も受信できない場所など、地球上にありえるのだろうか?
Wi-Fiの電波は届いているのだが……
「誘拐されたのなら、手の届くところに武器や携帯が転がってるわけがないもんなぁ。
いや、まてよ……」
悠斗は考える。
もしかして、これは、かぐやが仕掛けた悪戯ということはないだろうか?
昨夜の夜這いも、夢でなく現実。
あのとき睡眠薬か何かを飲まされて、ここに運び込まれたのなら辻褄が合うのではないだろうか?
そうであれば、契りだの中古だのという話も、俺をからかうための悪趣味な冗談だということになる。携帯にも何か細工をされたのかもしれない。
となると次はどんな不意打ちが待ち構えているのだろう?
金持ちは何をするかわからない。
ベッドに逆バンジーがセットされているとか、いきなり浴槽の床が抜けてウォータースライダーに落とされるとか、壁を破ってゾンビの軍団が襲ってくるとか……
悠斗は某国民的映画監督の悪ふざけを想定して、部屋中を探し始めた。
幸い壁は全面漆喰が塗られた石壁であり、発泡スチロールでできた場所は一か所もなく、仕掛けのようなものは見当たらない。隠しカメラもない。
「何をしてるんですか?」
いつそこに現れたのか、不意に背後から声を掛けられた。
振り返るとそこにいたのは黒髪の少女である。
「………かぐや……さん?」
「かぐやでいいと言ったでしょう?」
矢絣模様の小袖に、紺の袴。
編み上げブーツという大正浪漫あふれる恰好だった。
「契りを結んだ仲でございますし……」
そんなリア充な一夜を過ごしたのなら、せめて記憶に残していってほしいものだ。
……などという軽口が思い浮かんだが、男の方から言えばセクハラかもしれない。
口に出すのをためらった悠斗は、面白みのない質問をなげかけることにした。
「ここはどこなんです?」
「ここも悠斗様に相続される不動産です」
質問の意図をまったく理解してない答えが返って来る。
「俺が知りたいのはここの所在地なのですが?」
「口で言っても信じられないでしょう。
ご案内いたしますので、お着替えをお願いします」
かぐやがそう告げた途端、品のよさそうな背の高い外国人の老執事が入室してきた。
老執事は、かぐやと目を合わせることもなく悠斗に衣服を手渡した。
文明開化時代の白黒写真でしか見たことのないような、格式ばった礼服だ。
執事が持ってきたそれを着ろというので悠斗はしかたなく、袖を通した。
「良くお似合いですよ。
立ち振る舞いが、若いころの旦那様にそっくりです」
老執事が流暢な日本語で世辞を述べる。
物腰は穏やかだが、瞳の中に鋭さがある老紳士だ。
中学時代、悠斗が師事していた剣道の師範と同じような空気を纏っていた。
「申し遅れました。私は、この屋敷の執事を任されておりますセドリックと申します」
「日本語、御達者なんですね。長く滞在しておられるのですか?」
セドリックが疑問の表情を浮かべ、悠斗は一瞬後悔した。
もし、帰化人だっりしたら、失礼に当たる質問だったかもしれないと思ったからだ。
「あ、いえ。敬語表現まで使える外国の方は少ないですので……」
悠斗が苦し紛れに取り繕うと、老執事は朗らかな笑みを返す。
「あいにく日本に滞在したことはございませんが、日本語の書物や教材はたくさんありますでしょう?
言葉を憶えるのに不自由は致しませんでした。
我が主の母国語を心得るのは執事として当然でございます」
なるほど優秀な人なのだろう。
しかし、そこまで日本語を熱心に勉強していて、留学や観光で来日したことはない?
いや、そもそも、ここは日本のはずだ。
いくら高薙家が金持ちでも、寝ている間に人を海外に拉致できるほどの力はないだろう。
日本の警察や入管がそこまで無能だとは思いたくない。
「写真でしか見たことがございませんが、東京、京都、大阪、日光、札幌、金沢……日本はどこも素晴らしい。日本には一度行ってみたいものです」
言葉の端々に矛盾を覚えたが、外国人だから多少は仕方ないのだろうと察し、その時は悠斗も追及しなかった。
「では、まいりましょうか………」
悠斗はセドリックに案内されるがままに、城の回廊を歩き出した。
そして、重厚な木の扉を開くと……
「―――ッ!!」
最初に目に飛び込んできたのは、巨大な犬だった。
犬は最初、床に寝そべっていたが、のそりと立ち上がって悠斗に近づいてくる。
毛の色は灰色、ピンと立った三角形の耳に淡いブルーの瞳。
シベリアンハスキーに似ているが顔立ちが少しいかつい。
特徴的なのは、すらりとした長い足とその左右の間隔が犬より狭いということ……
つまり、これは犬ではない。オオカミかその交雑種である。
こんなギネス級の超大型犬に噛みつかれたらひとたまりもないが、セドリックとかぐやが動じていないので、襲い掛かって来ることはないのだろう。
オオカミは悠斗のにおいを学習するかのように体中のあちこちを嗅ぎまわり、やがて仲間と認めてくれたのか、尻尾を振りながら前足を肩に乗せて立ち上がり、しきりに顔を舐めてきた。
オスライオンの体重が200キロだそうだがその半分がかかっていたとしても、悠斗の筋力的には限界重量である。
「…………お、重い」
犬がマウンティングするのは、上下関係を明確にするための習性だが、同じ群れの仲間だと思われている証でもある。よって、人間の方が上だと躾けなければならないのだが……
こんな熊も噛み殺せそうなオオカミに、それをやる勇気は悠斗にはなかった。
「ベンケイ………お座り」
セドリックに命令されると、オオカミは尻尾を下ろしてその場に腰を下ろす。
どうやら、老執事はこのオオカミを躾けることに成功しているらしい。
一見、好々爺だが怒らせると怖いタイプだと悠斗はこの時理解した。
「……来たか」
部屋の奥から、しわがれた声がした。
そこには天蓋付きの巨大な寝台が置かれ、医療機器の機械音が聞こえてくる。
寝台に横たわるのは、呼吸補助器を付けた老人だ。
その老人に向けて、かぐやとセドリックが傅く。
「………待ちかねたぞ。我が子よ」
帳の奥にいたのは、死んだはずの悠斗の父……
高薙常芳だった。
高薙常芳 77歳
資産家。実子・三上悠斗に莫大な遺産を残して他界したはずだが……