第一話 一人で生きると誓ったら
突然ではなかった。受け入れる準備はできていた。
母の危篤の報を聞いたとき、すでに絶望の時期を通り越していたのだ。
だから、肉親の死を諦観し、これといった感情もなく現実を噛みしめながら、ただ粛々と葬儀を取り仕切ることができた。
火葬場のスイッチを押すときに心に抱いていたのも、「ああ、もうこの人と会話することもできないんだな」という感想だけだ。
その無感動な態度は傍から見れば気丈にも、薄情にも見えたかもしれない。
しかし、この三上悠斗という若干十六歳の少年は、たぶんそのどちらでもない。
極近しい人間だけで母の葬儀を終え、季節は夏の終わり。
悠斗は、黒いスーツの女が運転する車の助手席に座っていた。
2シーターのスポーツカーはまだ辛うじて安全運転と言える速度で都市郊外へと向かっている。
「悠斗くん。一人暮らしは、寂しくないですか?」
運転席に座るのは、母亡きあと悠斗の保護者に名乗り出た弘前智子という女だった。
大手に勤めていたが、まだ二十代の内に独立し、法律事務所を立ち上げたという女傑だ。
もう中年で、美人かと問われれば、さほどではないかもしれない。
しかし、持ち前の明るさと成功者としての自負心を身に纏う………と、悠斗はそう評することにしている。
「ええ、まぁ……」
世間話というより、まるで証人喚問のような問いを、悠斗は素っ気なく肯定する。
キャリアウーマンが孤児にここまで親身になる理由は理解できないが、一々ダメ出ししてたら厄介なタイプなどと自身の勘が告げていた。
「進路について何か希望はありますか?」
「……まだ、考えていません」
「成績も悪くありませんし、しっかり勉強すれば難関大学も狙えるでしょう」
「だといいですけどね……」
幸いなことに悠斗は、ペーパーテストの対策で苦労したことはなかった。
決して天才というわけではないが、統計的に見れば十人に一人ぐらいの要領の良さではあったのだろう。
しかし、ナンバーワンになろうなどと考えたことはない。
周囲の期待を背負うなど、まったくもって鬱陶しい。
優等生などという肩書は、無用の長物である。
集団というものは非常に厄介なもので、勝手に持ち上げ、期待に応えられなければ叩かれる。反発すれば同調圧力で潰される。
平均よりちょっと上ぐらいで、ちょうどよいのだ。
「ここ数か月、自分の将来のことは考えていませんでした」
「そう……
まぁ、たしかにそうよね。大変だったんだから。少し落ち着いたら考えてみてください」
「はい。お気遣いありがとうございます」
将来のことを考えていないというのは、嘘になる。
あまり見通しが明るくはないので、赤の他人と議論する気にはなれなかったが、三上悠斗が抱える当面の問題は学費だ。
母が残してくれた定期預金があるので、今日明日生活に困るほどではない。高校卒業までは何とかなる。だが、もし大学まで進学したいのであれば、自衛隊にでも応募してみるしかないだろう。
学費のためだけに国に奉公するというのも噴飯者かもしれないが……
「お金のことなら心配いりませんよ」
「弘前さんにそんなことまでお願いするわけにはいかないでしょう?」
「別に私が出すわけじゃありませんよ? とある方がちゃんとお金を出すと言ってくださっています」
「とある方?」
悠斗にとっては初耳である。
公団住宅住まいの母子家庭にそんな裕福で気前の良い知り合いがいたとは聞いていない。
「実は、お母様のお知り合いにちょっとした資産家の方がいらっしゃいましてね。
あなたの窮状をお話したところ、大学院まで進学できるぐらいのお金は出してくれるそうです」
高校にあと二年半。大学にも四年行くとしたら、生活費と学費を合わせて一千万近い金が要る。
そんな大金を無償で出してくれる人が本当にいると信じるほど、三上悠斗も純粋ではない。
この国は少子化だ晩婚化だ車離れだなどと危機感だけは煽りながら、奨学金などという大嘘で学生を借金漬けにする仕組みだけは出来上がっているのだ。
高一のうちから債務者になるのは嫌なので、悠斗は融資であればきっぱりとお断りするつもりだった。
「ありがたいお話ですが、大丈夫なんですか?
変な契約書にサインさせられて、借金を背負わされたりしません?」
「未成年に債務を背負わせて誰が得するんですか?
それに今後、あなたが何らかの契約をする場合、保証人になるのはおそらく私ですから」
確かに保証人は必要になるだろう。
今の悠斗は、保証人がいなければアパートだって借りられない。
「私が、その方とお会いしたのは一昨年です。
事務所に終活のご相談をいただいたので……」
「終活……ということはかなりご高齢だということですか?」
「ええ」
詳しく話を聞くと、この都市の郊外にその男の屋敷があるらしい。
一代で巨万の富を成したという財界の大物、高薙常芳。
経済雑誌の表紙を飾ってもおかしくないような人物だが、彼には妻子がいなかった。
齢七十を過ぎ、心臓を患った彼の前に次々に現れたのは、名前も知らない友人や遠い親戚だったそうだ。
もちろん、彼らの目当ては高薙氏が残す莫大な遺産だ。
人間不信になった高薙氏は、自分の財産を前途ある若者たちを支援するために使うことにしたらしい。
そして、その白羽の矢の一つが三上悠斗に当たったというのだ。
「…………でも、そんな話が実際にあるんですか?」
「あら? 弁護士なんて仕事をしていたら小説より奇妙な話はしょっちゅうありますよ?
最近は、少子高齢化で後継ぎがいない人も少なくありませんからね。
あなたを見て気に入っておられたそうです」
高薙という人物を悠斗は知らない。
どこかで会っていたのだろうか?
それとも母の知り合いだったのだろうか?
まぁ、会えばわかるかもしれない。そのときは悠斗も深くは考えなかった。
「………正直、どうしていいのかわかりません。
自分としては、高校卒業まで援助していただくだけでありがたいのですが……」
少し間をおき、弘前は進行方向を見据えながら告げる。
「残念ながら、高薙常芳様は、もうこの世にはおられません。
手術後の経過がよくなく、二か月ほど前に旅立たれました。
あなたへの支援は、遺言ということになります」
「そう……ですか……」
思いがけない幸運も、他人の死によるものであれば素直には喜べない。
人生経験の浅い悠斗には、どう答えていいのかわからなかった。
「とりあえず、これから遺産を管理されている方に会いに行きましょう」
交通量が極端に少なく見通しの良い道路に出ると、弘前は一気にアクセルを踏み込んだ。
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資産家・高薙常芳の屋敷は、まるで時代劇にでてくるような大名屋敷だった。
広大な敷地に鎮座する重要文化財のような木造平屋。仰々しい瓦葺の棟門の向こう側には、手入れの行き届いた石畳。植栽の木々に、清流を泳ぐ錦鯉。離れの茶室。
固定資産税だけでも、悠斗の想定を上回るだろう。
資産家を通り越して富豪の域だ。
「松本清張の世界みたいでしょう?」
「………え……ええ、まぁ」
弘前の背中を追いかけて玄関をくぐると、品の良い女中さんが立派な仏壇のある座敷に通してくれた。
仏前に飾られた遺影の老人が悠斗への支援を決めたという高薙常芳という篤志家らしい。
悠斗の記憶に、このような老人はいない。
しかし、とりあえず作法に則り、焼香する。
礼拝が終わり、山水画をそのまま具現化したような贅沢な庭を眺めていると、屋敷の管理者とやらが襖をあけて入ってきた。
「はじめまして。三上様。
旦那様より、遺産の管理を任されております。
月詠かぐやと申します」
飾り気のない黒い和服を身に纏い、烏の濡れ色のような長い髪が印象的な清楚可憐な美人が入ってきた。京都の祇園を思わせる、非の打ちどころのない礼法である。
顔立ちは童顔。十六歳の悠斗よりもやや幼くも見えるので、少女と言ってもいいかもしれない。
しかし、同年代よりも落ち着いている。
少女のその洗練されたたたずまいが、悠斗に非礼であることを許さなかった。
礼を示されたからには、礼を尽くして対応しなければならない。
「三上悠斗です。この度はお悔やみを申し上げます」
「これはご丁寧に、ありがとうございます」
黒髪の少女は、恭しく頭を下げて弔意を受け取る。
「高薙常芳様という方は、どのような方だったのですか?」
「はい、旦那様はとてもお優しい方でした」
「そう……ですか」
闘病中の母の治療費も高薙氏から支払われていたという話を悠斗は弘前から聞いていた。
残念ながらその余命を伸ばすことはできなかったが、恩人にはちがいない。
「きっと立派な人だったのでしょうね」
そんなあたりさわりのない世辞を言うと、少女は上品に微笑む。
彼女から故人を悼むような悲しみは感じられなかった。
喪に伏すべき時期はすでに通り過ぎているのかもしれない。
「そちらも、お母様が身罷られたとお聞きしました。御悔みを申し上げます」
「ありがとうございます」
「これから大変ではないですか?」
「ええ、まぁ……でも仕方がないことですから……」
「落ち着いておられるのですね?」
「母の死因は癌でした。
だから、長い時間をかけて覚悟を決めることができたと思います。
不慮の事故だったりしたら、もっと取り乱していたかもしれません」
和の庭園独特の長閑さの中で会話が途切れたころ、一人の女中が玉露茶を振る舞ってくれた。まるで高級料亭の客になったような気分だ。
味わったことのない清涼な味だが、所詮ペットボトルのそれしか知らない貧乏学生の舌では、本当に美味しいお茶の基準などよくわからない。
質問を続けられなくなった悠斗をおっとりとした表情で見つめながら、少女が尋ねた。
「他にご質問は?」
「……いえ、特に何も」
「お尋ねにはならないのですか?
たとえばこのお屋敷のことや、当家の財産のことなど……」
風情豊かな庭や、絵皿や掛け軸、金箔をちりばめた屏風や襖絵など調度品には圧倒されるが、他所様の財産について尋ねる気にはなれない。
それらが美術品として価値の高いものであることは理解できるが、その素晴らしさを金額でしか語れないのも、なんとも情けない話だ。
「とんでもない。私は、お悔やみを申し上げに来ただけです。
それと母が生前お世話になったそうで、ありがとうございます、と……」
強欲な連中に渡したくないがため、財産を分与していたという話は聞いている。
その恩恵にあずかる一人が故人が残した家財に値踏みの視線を向けるなど、申し訳がないではないか。
「そもそも仏前でそういう話をするのはちょっと不謹慎だと思いますし……」
「たしかにそうですね」
まるで幼子を相手にしているかのように、少女は微笑む。
仕方ないだろう。母の葬儀を済ませたばかりとあって、マナーブックには一通り目を通しているが、悲しいかな小市民たる三上悠斗は、こういう場所に招かれたとき何を尋ねていいのかわからない。
スマートフォンをいじって検索してみるわけにもいかないだろう。
借りてきた猫とはまさに今の自分のことだな、と自嘲する。
援助の件については弘前との間でどの程度話が進んでいるのかわからない。
すべて向こうの一存で決まることだ。あまり当てにしない方がいいかもしれない。
悠斗は、なるべくさっさと退散するための口実を模索した。
「お申し出は大変ありがたいのですが、私もなるべく早く自立できるように努力いたします。
そちらでいいように計らっていただければ、と……」
「なるほど、しっかりした方のようで安心いたしました。
では、ご案内いたします。ほかのお客様にもご紹介いたしましょう」
「他にお客様がいらっしゃるのですか?
そういえば、お亡くなりになった旦那様は、他にも災害遺児や母子家庭を支援なさっていたとか……」
「はい。今後も高薙の名前で財団を作り、彼らが独り立ちするまで支援することになっております。
それが遺言でしたので……」
ということは、悠斗と同じような身の上の未成年を招き、似たような境遇の人間がいることを紹介し、励ますつもりなのだろうか。
悠斗は案内されるまま、彼女に着いていった。
「月詠さんは……」
「かぐや」
「は?」
「かぐやです。そうお呼びください」
「……かぐやさんは、どのようなお仕事をなさっているのですか?」
「あら……わたくしが働いているような年齢に見えますか?」
彼女が初めて年相応の無邪気なしぐさを見せた気がした。
たしかに、改めてみると中高生にしか見えない。
「たしかに財産の管理や接客も仕事といえば仕事ですね。
わたくし、学生ではございませんし……」
「…………あ、いえ。すみません。
非常に落ち着いておられたもので、若く見えるだけで年上なのかなと」
渡り廊下を歩くかぐやは、悠斗から見ればまるで異世界人。戦国大河ドラマの姫君のようだ。
傅く女中や庭師を一瞥することもなく、堂々たる態度で庭園に面した廊下を進んでいく。
いろいろと聞きたいことはあったが、悠斗は舞台装置に圧倒されて質問できず、大人しく彼女の後をついていくことにした。
月詠かぐやとは、どうせ別世界の住人だ。悠斗が知っても得する情報などここにはない。
「こちらでございます。どうぞお入りくださいませ」
悠斗はたどり着いた扉に、先に入るように促される。
そこは純和風の邸宅において、アンティークの西洋家具や調度品が運び込まれた和洋折衷のリビングだった。
身なりの良い中高年の男女が待ち構えていた。
彼らは学生服姿の少年に胡乱な、敵意にも似た視線を向けてくる。落ち着かぬ様子で、ぱたぱたと扇子を仰ぎながら小太りの男が尋ねた。
「なんなんだ。その小僧は?」
若輩とはいえ、弔問に来た相手にする態度ではない。
悠斗はあまり目を合わせないことにした。
「ふん、どうせハイエナのようにおこぼれにあずかりに来たのだろう?」
一瞬戸惑ったが、すぐに得心がいった。
どうやら彼らが『高薙氏の遺産目当てに集まった人たち』らしい。
初対面の人間を捕まえ、しかも自分のことを棚に上げて、ハイエナ呼ばわりとは、なんとも凄まじい。
もしかしたら、そのぐらいの厚顔無恥さがないと上流階級の相続問題は片付かないのかもしれないが……まぁ、悠斗にとっては、どうでもいい。一生おつきあいしたくない連中だ。
しかし、月詠かぐやは自分をなぜこんな連中に引き合わせるのか?
疑念を視線を向けると、かぐやは悠斗に前に背を向けて立ち、そして耳を疑うようなことを告げる。
「この方が、高薙常芳の相続人。三上悠斗様です。
高薙家の財産は、すべて悠斗様のものになりますのであしからず」
三上悠斗 16歳
公立高校の一年生。優等生ではあるが、学業にもスポーツにもかなり冷めている。
弘前智子三十代半ば
弁護士 やりてのキャリアウーマン
月詠かぐや
外見15歳はぐらい ???