とある家畜のエピローグ
「スズカの騎手。リゲル・アドモスに不正疑惑。収賄容疑で連盟から無期限の追放処分」
メテオスティールの優勝が報じられた翌日、王都競馬新聞の一面を飾ったのはそんなゴシップ記事だった。
事実かどうかは民衆には関係ない。王都の市民にとっては、不自然な落馬で一番人気のスズカの馬券を紙くずにした罪、そして女王陛下の顔に泥を塗った罪はなによりも大きいのだ。
そして、連盟の裁定に立証義務など存在しない。
連盟は公共組織ではなく、営利団体である。
疑わしきは罰する。どこぞの小説投稿サイトと同じで、凋落者の言い訳などに耳を貸す必要はない。
あの男は、おそらくこの世界初、ポピュリズムの餌食となった勇者様ではないだろうか?
何事も世界初というのは名誉なことだ、とハルトは他人の不幸を寿ぐことにした。
ああ、芝生の匂いが美味い。
「さすがは辺境伯閣下だ。仕事が早い。
ノミ行為はさっさと潰しておくに限るからな」
ヴァリスタニア王国の公営競馬は、日本のシステムを踏襲して作られている。
つまり、馬券の売り上げの25%が大会の運営費や賞金、王城への上納金に割り振られるのだ。
ノミ行為とは、その25%を胴元が懐に入れる行為である。
地方の冒険者ギルドはヤクザ組織みたいなもので、シノギのために賭場を開いたりするものもいるらしい。
ならば王城はというと………王都最大の『同業者』なのだ。
犬が竜の尾を踏んで無事で済むわけがない。
間接的にはあるが、ホッブズにノミという商売を入れ知恵したのは、もちろん常芳だ。
いずれ似たような業者が蔓延ることは自明だったから、自ら育て、見せしめに叩き潰したのである。
ホッブズには独自の情報網がある。それを封じるために、常芳はクロノグラフという目くらましを用意した。
そして、彼が営業に行くであろう海運業界には前もってクロウフォーガン家の手の者が回り、王都大賞典まで彼を引き止めるように要請した。
この国の最高権力者まで巻き込んだ盛大なマッチポンプである。
ただし、費用対効果はどうでもいいらしい。策士というより発想がドッキリカメラだ。
「メテオスティールはどうした?」
「サンディ・サイレンス卿に返したよ。
あれは今回の仕掛けのために特別に借りてきたんだから……」
三冠馬メテオスティールは、無事に所属厩舎に帰ったらしい。
古馬となったメテオの次の目標は、阪神大賞典。その次は春の天皇賞だという。距離適性に死角なしという恐ろしい馬だ。
「そして、サンディ・サイレンス卿ももうこの国にはいないよ」
「そうかぁ。残念だ。僕は彼にもう一度乗ってみたかった」
ハルトはもう二度と乗りたくない。
あれは乗り物ではない。猛獣であり、爆発物だ。
というか、日本で今一番、異世界に来ちゃいけない生き物だ。
メディカルチェックで問題もないというのが、本当に幸いだった。
「私も乗ってみたいですわ! メテオスティールに」
知らないというのは本当に怖いなと思いつつ、ハルトは栗毛に跨る公爵令嬢を諫める。
「おやめください。ティータ様
せっかく帰ってきたスズカがやきもちを焼きますので……」
決して口から出まかせではない。
スズカはあれ以来、メテオスティールの名前に敏感に反応するようになった。
人の会話まで理解できているとは思えないが、耳をくるりと回して注意を傾けてくる。
「これはやきもちではありませんわ。ライバルだと思っているんです。ね?」
スズカはそれを肯定するかのように、雄々しく嘶きの声を上げた。
あの三冠馬をライバル視か……
人間だったら身の程知らずも甚だしいが、競走馬はそれでいいのだろう。
スカウトの目にも留まらなかった無名の元高校球児の浪人生が、甲子園の話題を悉くさらった怪物投手を意識するようなものかもしれない。
結果こそ落馬失格であったが、あのレースで唯一敗北を認めなかったのはスズカだけだ。
「この子はまだ走りたがっています」
「そうですね。今のスズカを種馬にしてしまうのは確かにもったいない。
しかし、よろしかったのですか?」
レオンハルトの問いに、ティータは微笑みながら首を振る。
その決断に後悔も未練もないらしい。
「ディングランツ家が馬主だと、また先日のようなことが起こります。
それで悔しい思いをするのは私だけではないのですから……」
大賞典では失格になったものの、スズカの評価は全く下がっていない。
その割を食ったのがあの勇者様なのだが、不正行為の責任を取る形でディングランツ家もスズカの馬主権を手放すことになった。
「スズカには毎日会えますので……」
跳ね橋を渡り、石造りの城門をくぐると、ファンファーレが鳴り響く。
蒼天から紙吹雪が舞い落ちるとともに、湧き上がる大喝采。
城門の中では、鈴なりになった学生たちが待ち構えていた。
まるで勇者の凱旋のようだ。
「ようこそ、エフテンマーグ騎士学院へ!」
騎士学院主催のサプライズ歓迎会である。
王都大賞典は若い貴族たちにとって、それほどまでに衝撃的だったのだ。
あの怪物メテオスティールに力尽きるまで挑んだスズカの雄姿を知らぬ者など一人もいない。
おっとりとした女子学生が進み出て、スズカの首に花飾りのレイをかけた。
スズカがそれを素直に収めたところで、ティータは鞍から降りる。
「生徒会長。スズカをよろしくお願いいたします」
「はい。もちろんです。ティータさま」
ティータはレオンハルトからスズカの曳き綱を受け取り、それを生徒会長と呼ばれた女子生徒に手渡す。
生徒会長が丁重にそれを受け取ると、学生たちからは再び喝采が沸き上がった。
ティータが選んだ新しい馬主は、エフテンマーグ騎士学院の生徒会。
いななくスズカの額をなでながら、生徒会長は言った。
「雪辱の機会はこれから何度もありますよ。
連盟は王都大賞典の成功を機に、年に何度かあれと同じ規模の大会を開催するそうですので」
「はい。会長。
まずは、学生たちから最高の騎手を選びましょう」
「そこはクリスティン・ベイオルフでよくないか?」
「いえいえ。
確かに彼は有力候補の一人ですが、来季からは公平を期すために鞍上の負担重量を統一するそうです。
子供だからと言って、有利ではなくなります。
当学院でもレースを開催して、最もふさわしい騎手を決めようではありませんか」
騎士科の学生たちが雄叫びを上げる。
大賞典規模の大会でスズカが優勝すれば、日本円で数億円規模の賞金が生徒会に入ることになる。
そして、学生たちの目の色が変わるのも無理もない。
日本の制度を踏襲して、競馬連盟もジョッキーの取り分を獲得賞金の5%と決めている。
他に、調教師の取り分が10%、厩務員の取り分が5%、馬主の取り分が80%である。
学生たちの心中はさまざまだろう。
名馬に触れ合える機会に素直に喜ぶ者。
彼が稼ぐ賞金や、その経済効果に夢を膨らませる者。
あるいは、英雄として神格化してしまう者。
スズカの鞍に乗っているのは、そういう人間たちの夢の結晶だ。
その様子を遠目から眺めてイレーネが言った。
「どんな家でも傾くことはありえます。
けど、学院のものにしてしまえば、生徒会が守ってくれます。
一本の矢では折れやすくとも、百本束ねれば流石に折れませんから」
「なるほど、今後、スズカを奪おうとする者は、この国の大多数の貴族を敵に回すことになるってことですか。
よく考えましたね」
「卿はなにもかも御見通しだったのでは?」
「とんでもない。買いかぶりです」
ハルトは常芳が敷いたレールの上を走っただけだ。
サラブレッドたちと同じように、ただ我武者羅に、ただ全力で……
そして自分の力で成したことなど何もない。
誰が乗っても勝てる最強の三冠馬のおかげだ。
「私は父の指図通りに行動しただけです。
まさに家の奴隷。家畜ですよ」
「本当にそれだけですか?」
イレーネが意外そうに尋ねる。
たしかに、ハルトがレースに出場した理由は、実家からの命令だけではない。
ハルト自身、かなり腹に据えかねていたのも事実である。
しかし、それは否定しておこう。
表向き彼女の主君であるディングランツ公爵への批判になってしまう。
「それだけですよ。
だからと言って、あんなしんどいのは二度と御免ですが……」
しかし、がんばった甲斐もあった。
おかげでナイトハルト・クロウフォーガンへの勲騎士位の授与と、家督相続が正式に認められたという。
大賞典の優勝騎手になった功績は「見事に初陣を果たした」ものと同等の栄誉と評価されたのである。
馬に乗って2400メートルを走るか、兵の命を預かってゴブリンと戦うか……
どちらがマシかと問われれば、ハルトは前者を選ぶ。
「クロウフォーガン家の名声も上がりましたしね」
「名声なんていりませんよ。
私は田舎でのんびり暮らせれば、望むものは他にはありませんので」
「田舎ですか。いいですね。平和そうで……」
「田舎特有の歪な風習やら慣例やら、面倒な人間関係の拗れはあるでしょうけどね。
たまに保養に来るならいいところです」
「税もかなりお安いとか?」
常芳が梃子入れしてきた領地だ。
よその開拓村とくらべれば遥かに生産性は高いし、外貨獲得の手段はいくらでもある。
税金など取る必要はない。
「さほど贅沢する必要もありませんので。
……って、なんでそんなことまで調べているんです?」
「クロウフォーガン家とは今後も誼を結べそうですので……
同盟相手の財務状況を調査するのは貴族として当然ではありませんか」
「あ~、そうでしたねぇ。
耳の痛い話です。まぁ今となってはどうでもいいことですが……」
ディングランツ公爵はホッブズに対して莫大な借金を負っているかもしれない。
しかし、ホッブズは王城に対して莫大な借金を負ったことになる。
クロウフォーガン家は王城に貸しを作り、ハルトは他家の嫉みをうけることなく家督を相続することができた。
あとは謙虚にやっていけばいい。
八方すべてが丸く収まったのだ。
「よかったな。スズカ」
と、ハルトはスズカに歩み寄り首をなでようとした。
「……え?」
しかし、その手は鎧姿の屈強な青年たちに跳ね返される。
男たちのそれはまるでアメフトにおいて、クオーターバックを守る堅牢なオフェンスラインのごとき、鉄壁の布陣であった。
「あ、あの……私はですね」
「存じております。
スズカの前の馬主だったナイトハルト・クロウフォーガン卿ですね?」
生徒会長が告げると、その場にいた学生全員から敵意の視線が向けられる。
「そして、先の大賞典の優勝馬メテオスティールの騎手だったとお聞きいたしますわ」
「……そう……です…が?」
動揺するハルトに生徒会長は更に告げる。
まさに氷の微笑だ。
「なるほど、あれほど速い馬をお持ちであれば、スズカごときはぞんざいに扱ってもよいというわけですね?」
「え?」
ハルトは考える。
俺が、いつスズカをぞんざいに扱った?
むしろ、俺のほうが生傷をいくつも拵え、スズカの気性難に耐えてきたつもりだ。
だがハルトも彼らの批難と敵意の理由はすぐにわかった。
ハルト自身が撒き散らした欺瞞情報のせいである。
――スズカは前の持ち主からいじめられていたようで、少し気性が荒い――
しかし、それは正しくはない。
気性が荒かったのは、育て方が悪かったわけでも、スズカが悍馬だったからでもないのだ。
馴致中の若いサラブレッド特有のものであり、人間で言えば反抗期だったからである。
そして、反抗期を卒業する頃に、スズカはクリスティンやレオンハルトと出会い、競走馬として成長していったのだ。
実際触れ合ってみると、スズカは人懐こく、とても優しい馬だ。
ティータやクリスティンが馬房に近づくと上機嫌でお出迎えしてくれる。
レオンハルトなど「一緒に連れ歩きたい」などとトチ狂ったことを言い出すくらい、可愛くて仕方がないという。
その様子を遠目に見ていれば、微笑ましくも見えるだろう。
となると、「前の持ち主から虐められていた」という嘘は、彼らの中では完全な既成事実になってしまう。
彼らは完成したスズカしか知らない。
荒削りだった頃のスズカの黒歴史を知らないのである。
ああ、なんてこった。
ハルトが頭を抱えているところにイレーネが追い打ちをかけた。
「あ、そうそう。御父上から伝言がございます」
「伝言?」
王都に来たのなら直接言えばいいのに、なぜイレーネに頼むのか。
「家督相続には力を貸してやったのだから、嫁は自力で探してこい。
それまで実家のシキイはまたがせん。
………だ、そうですわ」
『シキイ』というのが何なのか現地人のイレーネにはわからなかったが、おそらく領地に帰ってくるなという意味だと察していた。
しかし、ハルトにとっては、「婚約者を見つけるまでは日本には帰さない」という脅迫として聞こえ、それは確かに的を射ていた。
「英雄卿・準男爵家の花嫁であれば、そのあたりの騎士家や商家の娘というわけにはいかないでしょうね。
少なくとも爵位持ちの貴族の姫でなくては……
でも幸い、この学院には国中から妙齢の貴族令嬢が集まっておりますわ。
王都大賞典の優勝騎手ともなれば、選り取り見取りではございませんか」
「………嘘だと言ってください。イレーネさん」
イレーネは苦笑いしながら、目を伏せ、あの老人のことを思い出す。
---
「クロウフォーガン卿、それは……まことか?」
「臣の一存だけではどうにもなりませぬ。
しかし、もし同意をいただけるのであれば、願ってもないお話」
あのレースの直前、あの老軍師から持ち掛けられた賭けをイレーネが聞き違えるわけがない。
彼女自身が最も心を砕いてきた問題だからだ。
「公爵姫ティータ・ディングランツ様を、わが不肖の息子に下さりませ」
この放蕩公爵が縁者となるのであれば、財政が傾くことは想像に難くない。
ゆえにティータがどれだけ可憐な姫であっても、敬遠されてきたのだ。
「ほう? ならばあの栗毛の名馬は、結納の品ということかな?」
「殿下がお受けいただけるなら、結果的にそうなりますな。
無論、いまさら返せなどと申しません。
結納金が必要ならば、いくらでも当家にお申し付けください。
金品で片が付くことなど高が知れております」
この老人は一体何を考えているのか。
たとえ山のような金貨を積み上げたとしても「王家の血を金で買った」と揶揄されることは目に見えている。
王家にとっても、クロウフォーガン家にとっても不名誉な汚点となりかねないというのに。
「まぁ、臣はあくまで殿下の意向を伺っておるまで……
無論、殿下だけではなく、王城の許可も頂かねばなりません。
姫様が否といわれても、この話はご破算でございます」
「…………考えておこう」
公爵はまんざらでもなさそうであったが、即断即決を是とする公爵がそう答えたのは、少なくともイレーネの記憶にはない。
これまでの商談でも、その玉虫色の解答がでてきたらどれほどよかっただろうか……
そして、ナイトハルト・クロウフォーガンはダークホース・メテオスティールを駆り、見事王都大賞典に勝利した。
観客席から湧き上がったどよめきとその後の強烈な大声援は、まさにイレーネの心中を反映しているようだった。
矛盾した表現かもしれないが、圧倒的な逆転劇。
何もかもがこの男の掌の上。
不安に襲われたイレーネに、老人は告げた。
「安心なされよ。
たとえ、この目論見が上手くいかなくても、貴女と姫様を見捨てたりはせぬよ」
---
まぁ、あんな人間を推し量ろうとするだけ無駄だろう。
イレーネは「せいぜい頑張ってください」と突き放すことにした。
(どうしてこうなった!?)
恋愛経験など三上ハルトにはない。
中学時代に意識した女子はいたが、ラブレターを書いたことも、告白に踏み切るにも至らなかった。
そんな彼にとって、結婚前提に付き合ってくれる彼女を探してこいというのは、三冠馬という下駄を履いてGIに勝利するよりも高い障害である。
しかも、学生の代表者たる生徒会長は、勘違いも甚だしく宣戦を布告してきた。
「今更嘆いたところで、取り戻すことはできませんわ」
周囲を見渡しても敵、敵、敵。
身分の低きも高きも、女子も、男子も、文化系も、体育会系も……
この中で婚約者を見つけろとか、もう笑うしかない。
「あはははははははは!」
それはハルトにとっては自暴自棄の哄笑であったが、エフテンマーグ騎士学院の学生諸君には傲岸不遜でなんとも憎たらしい、仇敵の態度として受け取られたのだった。
---
泥と砂塵を巻き上げ、馬たちが駆け抜けていく。
勝ち馬がゴール板をすぎるごとに、馬券が飛び交う。すっかり王都ヴァリスの名物だ。
「勝ったのは、11番バルドストーム!
鞍上は、ディアネイラ・ヴァルトブルク!」
ジュラルミン製のヘルメットと、虫魔の抜け殻から削り出したゴーグルを外すと、その輝くような銀の髪がたなびく。
たとえ泥にまみれようと彼女のかいた汗が美しいと感じるのは、それがディアネイラ・ヴァルトブルクだからだとしか言いようがない。
いまだサラブレッドの数が揃わない王都競馬場では、在来種のレースが続いていた。
牝馬のレースのほうが賞金が高いのは、種牡馬となったサラブレッドの繁殖相手を選ぶためだ。
ただ、国中から馬が集まるものの、まさに玉石混交。
その中でどんな馬であっても銀の茨を鞍上に迎えた馬は、評価を上げていく。
その日、彼女は、自身の勝鞍を50にまで伸ばしていた。たった二ヶ月でである。
王都競馬場では、レースは一週間に12レースしか開催されない。
一ヶ月で48レース。
つまり、王都で開催されるレースの半分が、彼女に食われているということになる。
連対率は7割強。彼女の辞書に自重という文字を書き加えることは、最早不可能かと思われた。
「ディアネイラ様、少しは自重してください。
貴女が賞金を独り占めにしてしまったら、他の騎手が可哀相でしょう」
「弱いやつが悪い!
強いくせに出てこないやつはもっと悪い!」
強いくせに出てこない奴とは、銀の茨に唯一屈辱を与えたあの騎手のことだ。
出てこないのではなくて、出てこれない事情があるのだ。彼にも……
それは、目の前のクリスティン・ベイオルフに対する皮肉でもあるのだろう。
「ハルトさんは騎手にはならないそうです。
連盟の規定で騎手には体重制限ができたでしょう?
彼だって成長期。これから剣や武芸も学ばねばならない。
腹一杯食えなくなるのは、騎士としては不利なんですよ」
「そのくらい根性があればなんとかなるだろ!」
銀の茨らしくもない言葉だ。
どうやらあの敗戦以降、相当ヤキが回っているらしい。
「赤の他人に無茶をさせないでください。
というか、早駆けは伝令兵の仕事です。
ディアネイラ様の仕事ではないし、彼の仕事でもない」
騎士――しかも爵位持ちの貴族であれば、一軍の指揮官である。馬を速く走らせる技は、爵位を保たない下級騎士か従士にこそ必要な技能だろう。
ディアネイラのふるまいは、彼らの立身出世の機会を奪っていることになる。
「この私に負けっぱなしで終われというのか!?」
「貴女は人生で一度ぐらい、そういう屈辱を味わったほうがいいと思います」
天からの授かりものだけは、いくら嘆こうとどうしようもない。
彼女に会ったほぼすべて人間が思うことだ。
「だいたい、ハルトさんは騎手としての技術や才能は、ディアネイラ様に遠く及ばない言ってましたよ?
自分が勝てたのはメテオスティールという馬のおかげだと。
それでいいじゃないですか……」
「良くない!
王者不在で何勝しようと、真の勝者ではない!
この私など眼中にないと言わんばかりではないか!」
「だとしたら、今のままでは、その屈辱を払拭することは永久に不可能です。
競馬というものは馬の競走なんです。乗り手の競走ではない。
もっといえば、競馬は、血統の競争です。
その血統を守り、伝え、高めていく事ができてはじめて真の勝者になれる」
いわば真の意味で貴族のスポーツと言える。
財力、人材、情熱、どれが欠けても勝てない。
だからこそディアネイラは心底、悔しがっているのだ。
「ディアネイラ様が勝たねばならないのは、サンディ・サイレンス卿ですよ。
セラフィエルだって、頂いたようなものでしょう?
それに乗っているうちは、たとえ何勝しようとその手のひらの上……
今、若い騎手たちの稼ぎを奪ったところで、何の意味もありません」
もっともサンディ・サイレンス卿は、「てのひら」などお持ちではないのだが。
こちらの世界の人間たちがそれを知る由も無い。
ディアネイラは腰を下ろし、腕を組んで思案する。
「それはそれで腹立たしいな」
「ヴァリスタニアの競馬は始まったばかり。サラブレッドは、たった21頭。
これから何十年もかけて増やしていかねばならないんです。
そして、メテオスティールに匹敵する名馬を育てるのは、我々が生きている間に叶うかどうか……
如何に姉上が出来者だとしても、百年の伝統が一人の頑張りでなんとかできると思います?」
「むむむ」
「第一、サラブレッドも21頭しかいないんじゃ年に何回もレースはできません。
他の馬と走らせるにはスピードが違いすぎる」
「それでは千頭揃えるのに何年かかる?」
「うーんと……
サラブレッドの数を10年で倍にできたとしても、20年で4倍、30年で8倍、16倍、32倍、64倍……
70年ぐらいじゃないですかね?」
「ババアではないか。私は!」
ティアマルト大陸では、新年は、春小麦の収穫が終わった頃、秋とともにやってくる。
季節は日本のほぼ真逆であり、新年は10週間の遅れである。
ハルトも日本にいたら、春休みに何をするか考えるころだろう。
新しい年が始まると、若者たちが自らの学び舎の門をこじ開け、将来を切り開いてゆく。
騎士科、学士科、魔術士科の生徒たちは、勉学や訓練に余念がない。
自ら働き、あるいは親に出してもらってなんとか捻出した学費を無駄にせぬよう、爪に火をともすような思いで苦学している。それでも、全員が結果を出せるわけではない。
王城や諸侯にその才能が認められ、家臣として召し抱えられるのは一握りだ。
彼らもまた走り続けなければならない。
ターフを駆ける、サラブレッドのように……