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第十四話 粉砕!玉砕!大団円!

 今まで、ハルトは彼を走らせてなどいなかった。

 ただ、抑えていただけだ。

 自分の仕事は、メテオスティールの体力を極力消耗させずにこの直線まで連れてくること。

 ハルトはただそれだけに徹していた。

 付け焼き刃のモンキー乗りも、ボクサーのような過酷な減量もそのためだ。

 レースの主役は馬。騎手は主役の引き立て役に過ぎない。

 今ここに自分の仕事は終わった。

 あとは、神に……

 否、家畜に神はいないというなら、彼自身に己の全霊を捧げるのみ。

 ハルトはあらん限りの力を振り絞って馬鞭を振り下ろす。

 

『後方から猛烈な勢いでもう一頭上がってくる!

 ゼッケン18番――』


 思えば、高薙常芳が残した莫大な遺産に群がってきたハイエナたち。

 なんとあさましい連中かとあのときは軽蔑したが、今思えばたとえ数十億の遺産があったところでハルトごときのもとに財界人が押し寄せるわけがない。

 あの日、弘前に渡された財産目録の中に『彼』がいたからである。

 あの時点で、皐月賞、東京優駿の二冠。

 そして、秋の菊花賞を制して無敗のクラシック三冠を達成し、宝塚記念、ジャパンカップ、そしてつい先日、有馬記念の六冠を達成した史上最強の怪物。

 問答無用のグランプリホース。

 不世出の天才ランナー。

 天翔ける流星。

 サンディサイレンスの最高傑作。

 日本競馬の至宝。

 様々な異名を与えられたが、その豪脚以外に名乗る術など彼は持ち合わせていない。


『ゼッケン18番、メテオスティールだーーー!!』


 そして、この王都競馬場は、世界で最も美しく、もっとも困難と言われるコース。かの世界中の競馬の頂点、凱旋門賞が開催されるパリ・ロンシャン競馬場の完全なるオマージュである。

 常芳は若き王者にロンシャンを走らせるべく、このコースを創らせたのだ。

 すべてはこの一瞬のために……

 まったく金持ちの思考は理解できない。

 常芳の目論見通り、並み居る強豪古馬を蹴散らした驚異の末脚は異世界の大地で炸裂した。

 この舞台は疑いようもなく彼のものだった。


 ホームストレッチに疾風が駆ける。

 その瞬間ディアネイラの動物的な直感が警戒を発した。

 追うはずだった自分たちが追われている。

 末脚においては他馬を寄せ付けぬはずのセラフィエルが、後方から差を詰められている。


 否、追われているわけではない。

 その黒い瞳はセラフィエルなどを見ていないのだ。

 ディアネイラが知る襲歩という概念を超越した驚異の走法。

 優雅に芝を蹴り、跳ねるように高く走るセラフィエルとは違う。

 ただ低く、それでいて遠く、速く、風を切り裂くような走り。

 これだけはいかにディアネイラでも真似ることは出来ない。


 流星は瞬く間に、セラフィエルを追い抜き、その半馬身先を走っていたリトルファヴニールに並ぶ。

 鞍上でクリスティンが叫んだ。


「食らいつけ! ファヴニール!!」

 

 だが、その一瞬、クリスティンは己が冷静さを失っていたことを即座に悟る。

 食らいつく?

 こいつに? どうやって?

 一完歩を飛ぶごとに半馬身、二完歩を飛ぶごとに一馬身の差がついていく。

 他を寄せ付けぬ圧倒的な最高速度。勝負根性などでは永久に比肩できなぬ絶望的な性能差。

 同じ10ハロンの距離を走ってきて、なぜこの速度が出せる?

 こんな速度はありえない。

 たとえスタート直後のスズカやセラフィエルであったとしてもだ。

 こんな切り札があれば、ペース争いになど何の意味もない。

 どんな下手な乗り方をしようが、ラストスパートだけで帳尻が合ってしまう。

 まさに怪物だ。

 しかもその騎手は、まるで自分が怪物の部品の一つであるかのごとく、ただその四肢を走らせることに徹していた。

 彼我の斤量差を無にする未知の騎乗技術は、二人の天才を置き去りに、メテオスティールをさらに加速させていく。

 ディアネイラの脳裏に、あの商人の言葉がよぎる。


 ――ホンマにすごいやつは、そんな鐚銭にもならんもんに興味おまへん――

 ――一瞬だけ力を見せつけたら、あっという間に手の届かんとこにすっ飛んでいくもんや――

 

 ディアネイラ・ヴァルトブルクは自分が他者より優れた者であると自負していた。

 他者もそれを認め、彼女自身もそうあらんと不断の努力を続けてきた。

 だからといって、能力の劣る者たちを貶めたことなどは一度もない。

 皆、自分に足りない部分を補ってくれるかけがえのない者たちだからだ。

 彼らの期待と献身を一身に受け、ディアネイラ・ヴァルトブルクは戦場に立っている。

 しかし、それを踏み越えていく者がディアネイラの目の前に現れた。

 馬が良いから?

 違う。

 自分が、この世の広さを知らなかったからだ。

 情報戦において遅れをとるということは、戦場では致命的なまでの敗北。

 自らの血で購わねばならぬ大失態だ。

 しかし、ナイトハルト・クロウフォーガンはこのことを知っていた。

 彼は情報線においてディアネイラを完封し、勝つべくしてここにやってきた。

 そして、その権謀を成就させ、眼の前にいる。

 人事を尽くして、力及ばぬならまだ良い。

 たとえ馬に性能差があったとしても、一つのレースで敗北するだけだ。

 しかし、このディアネイラを掌で躍らせ、つかの間の勝利を錯覚させるだと?

 これほどの屈辱があろうか。

 ディアネイラがこの世で最も嫌いな行いは悪事ではない。敗北でもない。

 無駄な努力だ。

 幼子であれば、我武者羅に走ることもいいだろう。

 あがき続けることで何かを見出すことも許されるだろう。

 しかし、彼女は家臣を率いる立場、領民たちの道標となるべき立場だ。

 彼女の行いを見て多くの者達が学び、模倣するのだ。

 勝利をもたらすための努力でなければ意味がない。

 自己満足で終わるなど、人の上に立つ者として最も許されない結果である。

 しかし、それでもディアネイラは追った。

 届かぬと知って、尚も追い続けた。

 追えども追えども遠くへ離れていくメテオスティールを馬影を、力の限り追った。

 合理主義を徹底してきた彼女が非合理と悟りつつ、愛馬に鞭を入れ続けたのである。


 そして、スズカ――

 ハルトは人知れず驚愕していた。

 一完歩で仕留めたと思った栗毛の馬体が未だ前方にいる。

 差が縮まっていない。

 スズカはすでに死力を絞りつくしている。

 なのに脅威の二の脚を発揮し、首一つ前でこの怪物に競り合っている。

 ラスト1ハロン。そこからスズカが加速したのは、鞍上のリゲル・アドモスの異能によるものだった。

 勇者にあるまじき手段で、勝ち馬を奪い取り、金と栄光を手にれるはず。

 あと少しなのだ。

 負けてなるものか。

 そんな執念がスズカを突き動かしていた。

 死力を振り絞って発動したリゲル・アドモスのもう一つの奥の手。 

 それは己の魔力を消費して、獣に力を与えるというもの。

 スズメの涙ほどではあるが、乾いたスポンジがわずかな水分を吸収する。

 その最後の一搾りでスズカは息を吹き返したのである。

 並の馬ならば、走るのをやめれば済む。

 しかし、彼はその一搾りを走るために使う。それを見抜いた上での奥の手である。

 リゲル・アドモスもまたスズカの闘志に賭けたのだ。


「なるほど、親父が当て馬に選んだだけはあるってことか……」


 逸材だということは間違いない。

 上手くいけば重賞も狙えるというのも頷ける。

 これで鞍上にディアネイラ並の技量があれば、勝負の行方は分からなかった。 


「くそ! 走れ! 走れ!」


 しかしそれも無駄なあがきだ。

 メテオスティールが残しているものは体力だけではない。

 真の強敵と相対したときのみに使う奥の手は、彼もまた残している。

 二の脚があるのはスズカだけではないのだ。

 メテオスティールも業を煮やしていた。

 

 何をしている、早く叩け! この栗毛はボクがねじ伏せるべき敵だ。


 彼の催促に従い、ハルトは二段目のエンジンを点火した。

 ラスト百メートル。

 ちぎるには、十分すぎる距離だ。

 青鹿毛に隠れた全身の筋肉に力が漲る。

 ゴムのように柔らかかった筋肉が一瞬だけ鋼鉄製のバネのように弾けた。

 そして、馬鞭を放り捨てる。

 あとはもう余計なことはしなくていい。


「なん……だと……」


 離れていく。

 競争相手が、ではない。ゴールが離れていく。

 未来をつかみ取るべく、己のすべてを使い果たしたのに。

 その瞬間、勇者リゲル・アドモスのすべてが打ち砕かれた。

 

『優勝はサンディ・サイレンスからの刺客!

 メテオスティィィィーーール!

 二位以下に大差を付けての圧勝ーーー!』


---

 

 最後の直線でヴェールを脱いだダークホースに、馬主席でも興奮が冷めやらなかった。

 しかし、貴族たちの話題はそればかりではない。


 王都に珍しい男が来ている。

 ジークフリート・クロウフォーガン準男爵。 

 ここに立ち入ることが許されているのは、出走馬のオーナーとその同伴者だけ。

 皆、爵位持ちの上級貴族であり、その従者もほとんどが馴染みのある顔ばかりだ。

 優勝馬の鞍上にいるのはかの英雄卿の子息であるという報せは、貴族たちの情報網で瞬く間に伝播していった。

 彼と知己を得られる機会などほとんどない。

 しかし、馬主席の貴族たちは、彼に声をかけることを躊躇い、遠巻きに見ているだけであった。

 なぜならその隣には悪名高き放蕩公爵がいるからだ。

 

「卿も物好きな御仁だ」

「そうでしょうな。

 臣と殿下の違いは、物好きが結果を出したか、出していないかの違いに過ぎません」

「耳の痛い話だ」

「しかし、それは運次第のこと。

 臣はこの世で最も幸運な人間の一人であると自負しております」

「勝負に出なければ、運はつかめぬ、か……」

「さよう。一度きりの人生でございますのでな」


 会話するのはいいが焚き付けないでほしい、とイレーネは心の中で叫びを上げる。


「ところで、殿下はずいぶんとあの若者を買っておられるようで」

「うむ。なかなか見どころのある男でな。

 まぁ、今日は残念な結果であったが……

 冒険の中で背中を預けるのには申し分のない冴えがある」

「そのようですな。

 武芸の腕前も抜きん出たものがあるでしょう。

 幾多の冒険者たちの中で頭角を表したのであれば、たしかに勇者ともうせましょうな。

 あいにく我が愚息にはそこでまの実力はございません。

 今日は馬と運が良かっただけでございます」

「卿は反対か?

 あれを我が縁者にすることを……」

「いいえ。

 家柄については成り上がり者の臣がいえることでもございませぬ。

 ただし、栄誉とは権力者に強請るものではなく、自らの力で勝ち取るもの。

 試練が与えられるのは当然ではありませぬか……」


 その解答は、公爵の琴線に触れるものであったらしい。

 公爵はこころから愉快そうに豪笑した。


「卿は賢者であるな!!」


 そのさなか、背後より王家の侍従官が声をかけてきた。

 どうやら王都に来ていることが、女王陛下のお耳に届いたらしい。


「気にすることはない。

 陛下のお召しとあらば、行かぬわけにはなるまい?」

「はい。失礼いたします。

 申し訳ありませんが、殿下。

 しばらく、イレーネ殿をお借りしてもよろしいですかな?」


 ディングランツ公爵には断る理由はない。

 英雄卿ジークフリート・クロウフォーガンはイレーネに車椅子を押させ、女王陛下への謁見に望んだのだった。


---

 

 メテオスティールはとても賢い馬だ。

 彼はゴール板の意味を知っている。

 そして、観客の反応から、自分が勝利したということを確信するのだ。


 最初にターフを走った時、観客席からはどよめきが起こった。

 二回目からは、声援に、三回目からは、喝采に変わった。

 それが勝敗というものであるということを、彼は漠然的に理解していたのである。

 そして、レースには格というものがあることも察していた。

 格の高いレースには、手ごわいライバルたちが出場し、観客の数も多い。

 自分の身の回りの世話をする人間たちもどことなく緊張している。

 そして、レース前にはいつもあの相棒がやってくる。馬とレースを知り尽くした細身の男だ。

 今日の鞍上はその男ではなかったので、実力を十全に発揮したとはいいがたいかもしれない。

 でも、まぁ、及第点だろう。

 この興奮と、快感はいつも通りだ。

 7つめのタイトルを手にした無敗の王者は、多少出来の悪い臣下にも寛大だった。


 鞍上のハルトの緊張がほどけ、メテオスティールが歩調を緩めたころ、セラフィエルが、リトルファヴニールが、その他の後続馬が続々とゴール板を駆け抜けていく。

 メテオスティールに比べれば、体力を使い果たして何とかゴールに漕ぎ付けたという様子だ。

 まぁ、格が違いすぎるのだから仕方ないのだが……

 ふと、ハルトは気づいた。

 ゴールした馬たちの中に、あの栗毛の姿がない。

 スズカはどこだ?

 辺りを見回すと、スズカはゴールの手前数十メートル地点でその体を横たえていた。

 騎手のリゲルは、落馬の衝撃でラチの内側へ放り投げられている。


「スズカ!!」


 最悪の事態がハルトの頭をよぎった。

 慌ててメテオスティールの馬首を返すが、馬を自在に操る技術などハルトにはない。

 あまりの突然の指示にメテオスティールは戸惑い、再び折り合いがつかなくなってしまう。

 スズカのもとに真っ先に駆け付けたのは、レオンハルトとセドリックだった。

 観客席が静寂に包まれた。

 足を折った馬は、殺さねばならないことをこの世界の人々も知っている。

 しかし、大観衆が見守る中、スズカはゆっくりと立ち上がる。

 セドリックが跪いて、スズカの四脚を確認する。そして安堵と共に告げた。


「大丈夫でございます。おそらく体力を使い果たしただけかと……」


 そして、スズカは次の瞬間、ゴールへと向かい駆けだそうとした。

 レオンハルトは力の限り頭絡を抑えるが、スズカは彼を引きずりながらも歩みをやめない。


「スズカ! もういい! おわったんだ!」

「行かせておやりなさい」

「し、しかし……」

「ゴールはすぐそこです。これは彼のレースなのですから……」


 本馬場で空馬を走らせる行為をルール違反だと知りつつ、レオンハルトは手を放す。

 スズカは駆け出した。

 何という馬だろう。

 やはり、スズカはレオンハルトが見込んだ通りの名馬だった。

 静寂に包まれていた観客席から、喝采が沸き起こる。

 それは、名馬スズカの無事を確認できたことによる安堵の喝采であった。 

 ハルトもまた、胸をなで下ろす。


「よかった。

 接触してもいないのにレース中に馬が倒れるなんて、骨折以外に考えられないからな。

 しかしまさか力を使い果たして倒れるなんて……」

「異世界でございます。

 異能が作用すればそういうこともございましょう」


 気が付くと、月詠かぐやがメテオスティールの隣にいた。

 ここは本馬場である。その姿を人目にさらしていいのかと危惧したが、どうやら衆目はスズカに集まっているようだ。

 競馬場の厩務係の制服を着ているので不自然でもないだろう。


「これも親父の読み通りか?」

「さぁ?

 しかし、旦那様にとっても望ましい結果を得られたことは間違いございません」


 憎たらしい奴だ。

 知にすぎた者が人の上に立てない理由がよくわかる。

 ただ純粋に走り続ける馬の方がよほど人に愛される。

 

「俺の仕事は終わった。ちゃんと結果を出したぞ」

「はい。御見事でございました。

 これを機にジョッキーを目指されるおつもりは?」


 小賢しい笑みをうかべてかぐやは言った。

 ハルトは大本命の馬に乗って、勝つべくして勝っただけである。

 しかし、命の危険すらあるレースで、強い馬を順当に勝たせるのがどれだけ難しいか。

 改めて、とてつもない勝負の世界だと思い知らされる。


「ねぇよ。

 それより仕上げはそっちでやってくれるんだろうな?」

「はい。おまかせくださいませ

 ただハルト様にも幾つか雑用はあるかと思いますが……

 責任重大なお仕事というわけではございません」

「雑用?

 まぁ、いいけどさ……」


 それは何なのかと、かぐやに問いかけた時だった。

 空馬となったスズカが、メテオスティールを後方から追い抜いていく。


「あらあら」


 その瞬間、メテオスティールの中で何かがキレた。

 重い騎手を乗せて走るのは良い。レースに勝つための訓練だ。

 後方で足を溜めるのも良い。勝負に勝つための作戦だ。

 しかし、後ろから追い抜かれることだけはどうしても我慢できない。

 敗者の分際で、勝者以上の喝采を浴び、そのウイニングランを追い抜いていく。それは彼の中では決して冒してはならない禁忌だったのだ。

 そんな無礼はメテオスティールに流れる王者の血が許さない。

 そして厄介なことに孤高の王者は、その無礼者をねじ伏せる手段を一つしか知らないのだ。

 すなわち、その気力が萎えるまで力の差を見せつけるという、平和的な闘争心に火がついたのである。

 豪脚をいかんなく発揮した急加速で、鞍上を振り落してしまったが、メテオスティールは構いはしない。

 人の制御を外れ、その本能のままに開始された草食動物たちの場外乱闘。

 栗毛と青鹿毛は互いの馬体をぶつけ合い、ゴールのないチェイスを開始したのである。


「冗談じゃねぇ!! やめろーーースズカーーー!」


 野に放たれた日本競馬の至宝を捕まえるため、ハルトや王都競馬場のスタッフが文字通り、精根尽き果てるまで本馬場を走り回ったことは言うまでもない。


----


 ジョン・ホッブズが王都に帰ってきたのは、王都大賞典の当日だった。

 思いのほか交渉が長引いてしまい、大賞典をこの目で見ることはできなかったが、儲けの大きなビジネスの方を優先するのは商人として当たり前だ。

 しかし、レースの結果は、ホッブズを愕然とさせた。


「スズカが負けたやと?」

「はい。ゴール直前に騎手が落馬しまして……」


 ホッブズは羽根付き帽子を床に叩きつける。

 スズカであれば最悪、三着には入るだろうと見込んでいた。

 しかし、落馬失格では当然賞金は入らない。

 スズカの賞金で埋め合わせるはずだったディングランツ家の債務は返済されない。

 実績が伴わねば当然、種付け料も値切られる。

 あの栗毛を種牡馬にするという話も当分おあずけだ。


「あのガキ。ほんま口ほどにもないわ!」


 しかし、商売にリスクはつきものだ。リスクのない仕事とは労働であって商売ではない。

 まあいいだろう。

 今はそんなことに煩わされている場合ではない。

 クロウフォーガンの小倅にクロノグラフを受け取って後、ホッブズはすぐにそれを港町メディオの海運ギルドに売り込みに行った。少々吹っかけたが、船乗りにとってクロノグラフという技術は垂涎の代物のはずだ。

 しかし、ホッブズの誤算は船乗りたちが思いの他、慎重だったことだ。

 海運ギルドの頭目連中はなかなか首を縦に振らなかった。

 ホッブズも十分譲歩したつもりであるが、交渉はまとまらなかった。

 毎日毎日、高価な菓子や香辛料をふんだんに使った料理が振舞われるだけだ。

 その可能性に興味を持ってくれたことは間違いない。

 考えられるのは時間稼ぎであるが、連中も商人である。千載一遇の商機であれば即断即決が肝要だと知っている。

 時間稼ぎなど必要はない。必要ないはずなのだ。

 ホッブズの商人としての頭脳は、その交渉相手の腹の中を探ることにフル回転していた。

 そこに横槍が入る。


「その件ですが、一つ問題が……」

「なんや? まだあるんかいな?」


 部下は恐る恐る告げた。


「優勝した18番の馬券を大量購入した奴がおるやと?」

「オオオオオッズは48倍……はは配当金はききき金貨4800枚です!」

「よよよんせん……ははははっぴゃく? なんで買いに走らせんかったんや!」

「掛金は金貨100枚ですよ?

 遣いの連中にそんな現金は持たせておりません」


 たしかに、単勝買いでオッズ48倍は微妙なところだ。

 そもそも金貨100枚も賭ける客など想定していない。


「それを買ったのは? 買ったのは誰かと聞いとるんや!」


 ホッブズは海千山千の商人だ。

 素人相手ならまだどうとでも言いくるめられる自信があった。

 しかし、そんな甘い考えをすぐに捨てる。

 金貨100枚も馬に突っ込む奴はよほどのお大尽である。

 部下の報告を聞き、いかに被害を最小限に食い止めるかを策を巡らせながら、今その客を接待しているというVIPルームに向かう。


「千里~走るよな藪の中を皆さん覗いてごろうじませ~♪

 金の~はちがね鎧の勇者様がえんやらやと捕らえしけだものは~あ~

 どらどーら どーらどら♪ どらどーら どーらどら♪」


 部屋の中から聞きなれない囃子が聞こえてくる。


「珍妙じゃな。それには何の意味があるのじゃ?」

「間に衝立を挟んで二人が踊ります。

 おどりの最後にポーズを決めて、勝敗が決まるのです。

 剣を構える勇者はドラゴンを殺せる。火を吐くドラゴンは老婆を殺せる。

 そして勇者は、自分の母親である老婆には勝てないという、いわゆる三すくみになっておりまして……」

「なるほど。

 そして、負けた方は罰として酒盃をあおるのか」

「左様でございます」


 ホッブズは知る由もないが、それは日本では『虎々』といわれるお座敷遊びだった。

 どうやら主賓は若い女らしい。

 そして、それを接待している年寄りの男。

 いったい誰だ? どちらも、どこかで聞いた声ではあるのだが……


「ははは! そちは下々の遊びにも詳しいのだな!」

「下々の者は、もうすこし品のない遊びをいたします。

 この程度がお目汚しにならぬ最低条件かと……」

「なんだ? ずいぶんと気を遣わせておるようじゃのう。

 無礼講というたではないか」


 主賓は護衛を引き連れた礼服を纏う女騎士。どうやら上級貴族のご婦人らしい。

 そして、接待をしている老人には見覚えがある。

 女の客はホッブズの入室に気が付いて、目くばせをした。


「忍びじゃ。

 余の顔は見忘れてくれて構わぬ」

「余だと……?」


 訝しがりつつも、ホッブズは自分の記憶から、女の風体人相を必死に検索する。

 そしてその答えにたどり着いたときは、愕然とするしかなかった。

 これほどの奇襲を受けた経験はない。


「じょ……じょじょじょじょじょ……ぉぅへぃ?」


 口を開こうと瞬間、周囲から殺気を込めた視線に射貫かれる。

 主賓の女の左右に侍るのは眉目秀麗な侍女と女騎士。そして、その周囲を固めるのは屈強な男性騎士である。

 みな精鋭であるらしく、武芸者特有の気配を纏っている。慌てて跪くホッブズに女は言った。


「これこれ。

 余は()()()()というたのじゃ、支配人。

 見忘れぬというのなら、そちの口を封じるしかないのだが?」


 容易に実行可能である脅しにホッブズの思考は凍り付いた。

 我関せずと女たちと遊びふけるのは、軍師ジークフリート・クロウフォーガン。

 数年前にあった時よりはかなり衰えは見える。

 だが、妖怪の外見など当てにできるわけがない。

 これが自分ごときを陥れるために切ってくる手札か。

 だれか、嘘だと言ってくれ。


「陛下、それはあまりに御無体かと……」

「冗談じゃ。くるしゅうない。楽にせよ。

 もちろん直言も許すぞ。

 余とて好き好んで流血など見とうはないからな」

 

 全く笑えない冗談に対し、ホッブズは媚びるような笑みを浮かべて対応するしかない。


「それで余からの贈り物は受け取ったか?」

「……は? おおお贈り物、とおっしゃられますと……」

「クロウフォーガンの小倅に持たせたであろう?

 そちには我が不肖の叔父上が世話になっておるからな。

 あれがどれほどの値で売れるのか調べるために、そちは港町まで行っておったのであろう。

 その首尾はどうであったのかと尋ねておるのだ。

 報告、連絡、相談は商売の基本ではないか」

「し、しかし、あれは、クロウフォーガン家の産物だと……」

「…………何を言うておるのだ?

 田舎領主にあんなものを拵えられるわけがなかろう。

 あのクロノグラフは王城の技官の手によるものだ」

「し、しかし……そちらの……

 ご、ごごごご子息も、親から言付かった、と……き、きき聞き及んで」


 ホッブズはクロウフォーガン卿の背後に侍るセドリックにすがるように視線を向ける。

 しかし、それを彼に尋ねる愚を自ら悟った。

 最早、ホッブズは完全にはめられている。

 たとえ、あの小僧が嘘をついたことを証明したからと言ってなんなのだ?


「我が息子はそんなことを言うたのか? セドリック?」


 老軍師が背後の執事に問うと……


「はい、旦那様。たしかにおっしゃられました。

 しかし、嘘ではございません。

 クロノグラフを包装するために用意したあの絹の風呂敷と桐の箱は、不肖私めが当家の職人に命じて作らせたものでございますので」

「そして、余はあれの()()()()()じゃ」


 嵌められた。

 あれは国家機密。

 世界を変える発明品だということを王城も理解していた。

 そんなものを、一介の商人を嵌めるために使うというのか。

 その機密が国外に漏洩するかもしれないというのに……

 勝負師などというレベルではない。

 あの放蕩公爵以上に、このバケモノの頭は狂っている。

 狂気の沙汰だ。

 そして狂気の沙汰であることを理解した上で、常人には予測すらできない、強烈無比の殺し技を放ってくるのだ。

 面白半分で……


「まぁ、その話はいずれ王城に報告書を提出してもらおうか。

 もう一つの商売の話をしよう」


 そして、女王ジークリンデは、ジョン・ホッブズの逃げ場を完全に塞いだ上で止めの一撃を放つ。


「……で、配当金の金貨4800枚はいつ王城に払ってもらえるのか?」


 この瞬間、彼はもはや活け締めにされた鯛のごとく、生ける屍と化したのだった。

メテオスティール

 青鹿毛・牡三歳

 モデルは言わずと知れたあの馬です。カス◯ード。


虎々

 江戸時代からの伝統でございますので、著作権は問題ございません。


「粉砕!玉砕!大〇〇」 出典:社長

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