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第十三話 異世界レースで本気出す

「あまり気負うなよ。馬がバテるぞ?」

「ディアネイラ様……」


 セラフィエルを鞍上に上がったのは、そのオーナーにして女騎手。ディアネイラ・ヴァルトブルク子爵である。以前戦ったときよりも、完璧に近い馬との意思疎通は、クリスティンに敬意と驚異を同時に抱かせる。


「気がついているか? 非常に難しいコースだ。

 しかし、逆に言えば、いかに奴の切り札が強力でも勝ち目は十分にあるということだ」


 クリスティンは知っている。

 スズカは、スタートからほんの数秒で最高速度に達することができる。

 しかも、その最高速度を1レプス近くも持続できるのだ。

 おそらくリトルファヴニールは、それには及ばない。

 しかし、スズカやセラフィエルのようなスピードはないかもしれないが、馬体重の軽いぶん足場が悪いところや坂道を走っても疲れにくい。

 コースの芝は深い。スタートは上り坂だ。

 そこからは下り坂となるが、そこで下手にスピードを上げればおそらくサラブレッドであっても、最後の直線まで脚が保たない。

 しかも、斤量という点において、クリスティンには最大のアドバンテージがある。

 リゲル・アドモスはレオンハルトほどではないが、小柄とは言えない体格だ。


「このコースでは、やはり体重が軽い君や私は有利だ。

 ま、来年からは鞍に重りをつけるなどして対等な条件で馬を走らせるようになるのだろうが……」


 確かに、馬主であり、子爵でもある彼女にはそれを働きかける人脈と権力があるだろう。


「そうなる気はしていました。

 僕が奴に一矢報いられる機会は今しかない」

「勝負に臨むときは、何事も肯定的に考えることだ。

 このレースで卿が奴に勝てば、いかに馬術に長じていようと、体が大きいと子供にも勝てないという一つの結論に達する。

 以後、彼に鞍を委ねる馬主はいなくなるだろう。

 卿の目的の一つは達成したことになるではないか……

 そして卿の背丈もこれ以上伸びぬわけでもあるまい?

 来年からはハンデではなく純粋な技術で勝負すればいいさ」


 それはクリスティンも臨むところだ。

 体が軽いからと自分と馬の能力が疑われるのは、不本意だった。


「無論、私は卿を卑怯だとは思ったことは一度もないぞ。

 それどころか、大きな意義があると思っている。

 卿に憧れ、騎手を目指す子供が増えれば、いずれ優秀な騎兵を養成できるからな」


 神代の異能などに、ディアネイラは何の魅力も感じない。

 英雄とは民を鼓舞し、民の道標となるべき存在だ。

 一人ひとりの民草に努力の虚しさを知らせるだけの人材などただの珍獣だ。


「勝負の前にそんなことを考えていたんですか?」

「常に考えているよ。それが指揮官の仕事だ」


 馬が一頭ずつ、真新しいゲートに収まっていく。

 身動きが取れない場所へ押し込められることを嫌がる馬も多いが、ここから最高のスタートを切らせるのが騎手の腕の見せ所だとクリスティンは理解していた。

 ファヴニールは………大丈夫だ。

 彼も自分の役目を理解している。

 

 そして、スタートの瞬間。

 クリスティンの世界から音が消え、そして、色が消える。

 灰色になった世界に聞こえるのは、己と、愛馬の鼓動のみ。

 極限まで研ぎ澄まされた集中力の中、クリスティンが駆るリトルファヴニールはこれ以上ない最高のスタートを決めた。


---


 激しい上下動を繰り返す鞍上に、つま先立ちの中腰姿勢という極めて不安定な体勢で、時速60キロ近い速度で疾走する。

 高い、速い、怖い。

 しかし、ジェットコースターが与える恐怖とは明確に違う点がある。

 すなわちこの恐怖に体が竦めばたちまち振り落とされ、死に直結するということだ。

 しかも、ハルトの相棒は、前に行くことしか考えていない。


 走らせろ! 走らせろ! 走らせろ! 走らせろ!


 メテオスティールの我慢の限界が近づいていることが、手綱から伝わってくる。

 頼むから。お願いだから。無茶を言わないでくれ。

 素人の俺にお前を全力で走らせる腕なんてないんだ。

 しがみついているだけで精一杯だ。

 しかしそんな声にも出せないハルトの嘆きは、彼には聞こえない。

 彼の鞍上には、ハンドルもブレーキもない。いつ爆発するかわからないミサイルに掴まって空を飛んでいるようなものだ。

 こんなバケモノに嬉々として乗れる連中の気が知れない。

 タフだとか、勇敢だとかを通り越して絶対に頭がおかしいだろ!

 

 一方、彼――メテオスティールもあまりにも頼りないパートナーに歯噛みしていた。

 誇り高き彼がその指図を甘んじて受けているのは、いつも言われていることだからだ。

 ゴールはまだ遠い。行くな、我慢だ。辛抱だ。

 ああ、知っている。わかりきっている。

 どんな頼りない騎手だろうとレース中に振り落としてしまうことは許されない。

 レースとは、騎手(にもつ)を運ぶゲームなのだ。

 しかも、350度の視野で冷静に周りを見渡せば、衝撃の事実。

 ろくなライバルはいないし、乗り手はもっと酷い。

 背にまたがっているだけではないか……

 騎手に邪魔されず満足に走れている奴は、この馬群にはいない。

 背にのせている小僧は、自分のいつもの相棒の真似事をしようとしているだけマシなのだ。

 なるほど、今日はそういう条件のレースなのか。

 意味はよくわからないが……

 ………ああ、でも、やっぱり我慢ならない。

 せめてコイツらの前で走りたい。

 このレースでものになるのはせいぜい2、3頭。

 先頭の栗毛と、それを追う青毛、そして、自分の少し前を走っている黒鹿毛。

 他はどうせあの坂で脱落する。

 かまうものか。

 メテオスティールは、やや躊躇いながらも徐々にペースを上げ始め、第二集団の先頭へと躍り出た。


 鞍上のひよっこ。頼むから落馬してくれるなよ。


---


 その技術を世界で最初に有名にしたのは、1897年イギリスに渡った若きアメリカ人騎手トッド・スローンだった。

 「猿しゃがみ」という奇妙は騎乗姿勢は、当初こそ嘲笑の的になったものの、ほどなくして世界の競馬史に革命を起こす。

 そして、ティアマルト大陸において、その革命の兆しを誰よりも早く察知したのは、『銀の茨』ディアネイラ・ヴァルトブルクだった。


 彼女は驚愕していた。

 己の前に出た騎手が披露するのはあまりにも奇妙な騎乗法。

 不自然なまでに高い鐙の位置。(たてがみ)の中から前を覗き込み、馬の背中にうずくまるようにしゃがみこんで、窮屈そうなほど膝を折りたたんでいる。

 いまごろ客席では嘲笑の的になっているかもしれない。

 しかし、彼女は持ち前の優れた洞察力でその騎乗法の合理性を即座に理解する。

 風の抵抗を受けない低い姿勢。上下、前後、左右に激しく動く鞍の上で、空中を滑るように移動する不動の重心。

 それは鍛え抜かれた下半身とバランス感覚があってこその芸当だ。

 そして、ただの思いつきではなく、この世界の何処かですでに完成した騎乗技術だということをディアネイラは確信した。

 騎士の技ではない。騎兵の技でもない。むろん曲芸でもない。

 あれはおそらく、サラブレッドを速く走らせることのみに特化した騎手の奥義だ。

 騎乗技術だけで人馬一体の神業がなされていることにディアネイラは感動すら覚えていた。


「主役はあくまでも馬。騎手はただ脇役に徹するのみ、か……

 やってくれたな、クロウフォーガン」


 先を行かれた。

 いや、すでにはるか先を行っているのか?

 彼は間違いなく、このレースのためだけに相当な修練を積んできたはず。

 ならば追わぬ訳にはいかない。

 今更、鐙革の長さは変えられない。

 しかし、その理屈は理解できる。あの奥義を体現するのだ。


「いいだろう。ならば今はその後塵、甘んじて受けてやる!」


 ディアネイラは青鹿毛の真後ろにつける。

 そしては前を走るナイトハルト・クロウフォーガンの動きを観察し、そして、学習した。

 奴の重心の位置、体の動き、一挙手一投足を我が物にする。

 最後の最後でそれに追いつき、差し切るために。

 使えるものは何でも使う。盗めるものは何でも盗む。

 悪く思うなよ。レースは速いもの勝ちだ。


「安心しろ、セラフィエル。最後に勝つのはお前だ!」


 天才には決して努力が不要なわけではない。

 決して傲慢なわけでもない。

 彼らには、ただ勝利への最短経路が見えているのだ。

 ディアネイラ・ヴァルトブルクは紛れもないその一人だった。


--


「ほほう。さすがは銀の茨……」

「あの乗り方は?」

「モンキー乗りという騎乗法でございます。

 ハルト様はこの一ヶ月、あれの特訓に血道を上げていたのですが……」


 それをこの僅かな時間に習得されては、立つ瀬がない。

 レース後、ハルトはそのことを知って絶望を覚えるかもしれない。

 

「やはり、生まれ持った素質の違いというものは、理不尽なもの。

 しかし、そうでなくては競馬は面白くない」


 この大賞典の仕掛け人の一人あろう老執事セドリックは、主君の奮戦を他人事のように笑ってみているだけだった。


---


 先頭を走るスズカは3コーナーへ差し掛かっていた。

 スズカというサラブレッドは、リゲル・アドモスが今までに乗った馬の中で最高の名馬だ。

 どの馬よりも速く、驚くことにその速度を持続できる。

 策を弄する必要などないはずだった。

 しかし、すぐ後方を駆ける馬蹄の音はいつまでたっても聞こえてくる。


『先頭のスズカを、リトルファヴニールが追走します!』


 一方、クリスティンは、自分とファヴニールの体の小ささを最大限に生かして、スズカを追いかけていた。体の小さな自分たちは長い芝も、上り坂ものともしない。

 そしてスズカを風よけに利用すれば、体力を温存できる。

 クリスティンは、長期戦に備えて獲物を見据えていた。

 酷い乗り方だ。いくら、スズカであっても、騎手に馬の能力を最大限に出し切る力があっても、あんな乗り方で最後まで保つはずがない。


「くそ、しつこいやつだ!」


 リゲルが吐き捨てる。

 だが、まぁいい。

 俺は、まだ能力を使っていない。

 このコーナーの中腹からは下り坂だ。重力が味方となる。

 そこから能力を使えば誰もついてこれない。


 この世には神代の異能と呼ばれる能力を有する者たちがいる。

 人々が神に等しい力と技術を有していた時代の残滓。

 彼らはその力を使って時の権力者に取り入り、教会に聖者として祭り上げられ、あるいは異端者として迫害を受けてきた。


 リゲル・アドモス――

 彼には、触れた獣を意のままに操る異能があった。

 それを使えば、いかなる猛獣でも操ることができた。

 いかなる駄馬でも走らせることができた。

 しかし、それを口外したことはない。

 大陸中央では、それほどまでに教会の監視の目が厳しい。奇跡などそう簡単に衆目にさらせるものではない。

 また、獣の意思を完全に奪い、その潜在能力を発揮させるには、彼自身も相応の魔力を消耗するのだ。

 故に獣の本能を利用する。

 肉食獣であれば、より強大な獣の幻を見せれば従わせることができる。

 草食動物である馬ならば、捕食動物に追われる幻を見せれば、容易に限界を越えさせることができる。

 これほどの名馬であれば、どれほどの力を発揮できるか期待に胸を膨らませてはいた。

 あいにくそれを実践する機会は得られなかったが、それでも彼には確信だけはあったのだ。


「一分だ。一分間の間、俺はスズカの能力を最大限に発揮させることができる!」


 それは能力を擁さぬ人間には理解できない感覚だった。

 優れた弓兵が狙った場所に矢を命中させられるように、能力を使ったときに起きる結果を確信できる。それは彼にとっては自明の理。

 そうでなければ勇者になどなれはしない。

 一分間。すなわち、このままトップを維持し、ラスト5ハロンの地点でこの能力を使えば、あとは小細工など必要はない。

 スズカは我を忘れて走り続ける。

 負けるはずがない。

 リゲル・アドモスのゴールは目前の4コーナーにあるのだ。


---


『ハルトさま、スズカがスパートを掛けました』


 イヤホンからかぐやの声がする。

 ハルトの体内時計などアテになるわけがない。

 イカサマではあるが、ペース配分は外部にまかせるしかないのだ。

 すでに、スズカのスパートに釣られて馬群は動き出している。


「わかっている。想定どおりだろ?」

『はい。

 たとえ20馬身離れていても、メテオならば上がり3ハロンで巻き返せます』

「こいつが俺を信用してそこまで我慢してくれるかが問題なんだが……」


 だんだん抑制が効かなくなっている。

 そもそもプロの騎手でさえ操るのに難儀する競走馬を素人にどうせよというのだ?


『なんとか抑えてくださいませ。

 下り坂でペースを上げれば、流石に彼でも最後まで脚が持ちません』

「気安く言うなよ。

 つーか、あんなお荷物を乗せて好走できるようなら、本番にはこいつじゃなくてスズカを出したほうがいいぞ」

『スズカも良い馬ですわ。

 いまからでもデビューさせれば、そのうち重賞の一つぐらい勝ってくれるかもしれませんわね』

「そんな資質があるならなんで連れてきた?」

『今日この日のため、といえばご理解いただけますか?』


 つまり、噛ませ犬である。

 それほどまでに常芳のメテオスティールにかける期待は大きい。

 

「だったら何故俺を乗せるのかと問いたい。主戦騎手を連れてこい」

『弘法は筆を選ばずと申しますので……

 メテオに筆下ろしをさせてもらえるなんて、日本中の騎手が羨まけしからんはずですわ』

「――ッ! 妙な例えを使うなッ! 俺を事故らせたいのか?」


 スズカとリトルファヴニールはいまだ遥か前方。

 しかし、そのペースについていけない馬たちが徐々に落ちてきた。

 メテオスティールは馬群を内へ内へと切り込みながら躱していく。


「なるほど、ここがあの有名な偽りの直線ってやつか……」


 4コーナーを曲がったはずなのにゴールが見えない。

 およそ650メートル続く偽りの直線が待ち構えている。

 脚に絡みつく長い芝と上り坂で体力を消耗し、下り坂で下手にスピードを上げてしまった馬は、ここに仕掛けられた罠に落ちてしまうのだ。

 偽りの直線を走りきってもさらに533メートルのホームストレッチが待ち構えている。

 そして、設計者が仕掛けた罠の最初の犠牲者となったのは、馬群の先駆けを担っていたリゲル・アドモスだった。


「ぐっ!」


 屈辱の誤算だった。

 彼の能力は、持続時間が長い分、自身の魔力の消耗も激しい。

 馬と一緒に走っているのと同じなのだ。

 そして、精神の乱れは魔力の乱れに影響する。

 偽りの直線を越え、ホームストレッチに入ったとき、ゴールのあまりの遠さに気を失いそうになったリゲル・アドモスは自身の異能による干渉を乱してしまったのだ。

 なんたる不覚。

 後続に大差をつけているのならまだいい。

 しかし、すぐ後ろにリトルファヴニールが迫っている。

 その小さな体に、ステイヤーとして十分な才覚を秘めた青毛は、最後の直線を走る脚をまだ残していた。


「いけ! ファヴニール!」


 レースを支配した反逆の小公子は、栗毛の逃げ馬に肉薄する。


「く、くそがっ!」


 その瞬間、リゲルは敗北を確信した。並の馬ならこれで終わりだ。

 幻が消えれば、馬が走る理由がない。

 だが、第二の誤算がそこにあった。

 彼らは走るために生まれてきた生き物。走ることだけが彼らの存在証明である。

 故に、スズカにとって、そのリゲル・アドモスの干渉などは問題ではなかったのである。


 背後から追ってきた獣の気配。

 それは、この小さなライバルのものだったと確信した。

 そして、自分に並び立つ存在に歓喜し、そして、自らの意思で疾走をやめないという決を下す。

 否、決断など不要だ。もとより迷いなどない。

 限界まで走れるのは望むところ。彼もまた純粋なるサラブレッドなのだ。

 

『さぁ! 王都大賞典もいよいよクライマックス!

 ほぼ同時に入ってきたのはやはりこの二頭!

 スズカとリトルファヴニールだ!!』


 一番人気のスズカと、その愛馬を奪われ同情票が集まった天才クリスティン・ベイオルフの一騎打ちである。

 サラブレッド同士のデッドヒートに、スタンドを埋め尽くした観衆が地鳴りのような叫びを上げる。

 もはや馬群は遥か後方。英雄の登場を皆が予感していた。

 しかし……


『後方の馬群を抜け出てどんどん差を詰めてくる馬がいるぞ!

 ゼッケン7番、セラフィエルだ!!』


 ディアネイラはナイトハルト・クロウフォーガンの後方から、その一挙手一投足を観察していた。

 カーブを曲がりながら外周りで追い越すのではなく、先行馬の隙きをついて内へ切り込む技術を目の当たりにした。

 そしてその瞬間、彼女はハルトの極端な前傾姿勢を見て、モンキー乗りのもう一つの利点に気づいたのだ。

 サラブレッドは首を激しく上下させて走る。

 ならばその動きに合わせ、人の手で鬣を引き絞り、首を押し込んでやればどうなるか?

 鞭を使う以外の方法で、馬に合図を伝えることができる。

 そして、最後のコーナー――

 ディアネイラは偽りの直線からホームストレッチに入る最終カーブでその技をも盗み、メテオスティールを出し抜いたのである。

 内に切り込むと同時に、遠心力を利用し、メテオスティールの馬体を外へ押しのけ、自分は最小限の労力でコーナーを攻略する。

 間髪入れず一つ二つと鞭を入れると、セラフィエルはこれまでで最高の加速でを見せた。

 レース中に身に着けた付け焼き刃の技術ではある。しかし、その天才ゆえの技の冴えは、セラフィエルにさらなる翼を与えていた。

 満を持しての銀の茨の登場に、観衆の声援は沸きたつ。


『先頭の二頭にセラフィエルが迫る! 三つ巴の大接戦だ!』


---


「やられたっ!!」


 トップジョッキーのパフォーマンスと比肩すれば、ハルトはそれをマスターしたとはお世辞にも言い難い。

 しかし、最初は鐙の上に立つことすら出来なかった彼にとって、この一ヶ月の肉体改造と猛特訓の末に習得した騎乗技術は、彼が戦場に立つために最低限必要不可欠な自信を与えていた。

 あの銀の茨姫はそれをほんの数十秒間の勝負の最中に模倣し、越えていった。

 技術の差ではない。努力の差でもない。

 脚さばきだけをみて剣の奥義に気づくようなもの。

 天才はいる。悔しいが……

 しかも貪欲なまでにその進化を止めない。

 凡人があがいてあれをどうせよというのか?

 そのあまりの天稟に差に、絶望すらしそうになる。 

 もし、条件が同じであれば……


 ハルトは呼吸を整える。

 落ち着け、まだ負けたわけじゃない。

 自分が今立っている場所を考えれば、なにが五分なものか。

 俺は今、いかなる存在の鞍上にいると思っているのか?


 先程の衝突は、メテオスティールの逆鱗に触れていた。

 もはや安全装置の外れたロケットだ。

 それでも彼はまだ行かない。

 待つことを知っているのだ。

 メテオの両耳はその指示を待ちかねているかのようにハルトの方を向いていた。

 ここで行かなければ彼との関係は絶望的なものになるだろう。


「わかっている。

 お前は、まだ俺を認めていない。

 そうだろうな。お前は自分を鞭打てない騎手を相棒とは認めない。

 ……でもな、自分が何者なのか、お前が一番わかってないんだ。

 日本競馬界の至宝だぞ?

 本来なら俺みたいな素人が触っていいもんじゃないんだ」


 しかし、そんなことはメテオスティールには関係ない。

 ボクの背に乗ったのなら、お前はもうボクの騎手だ。恐れることなど許さない。

 ハルトにはメテオがそう言っているような気がした。


「そもそも、あの女、頭絶対におかしいだろ?

 怪我したらどうするんだよ? なぁ……」


 その言葉が通じる由もない。

 ゆえに、メテオスティールは応えた。「ボクの知ったことか」と。


 ハルトもわかっている。

 ただ走るために生まれてきたメテオにとって人間が与えた称号など何の意味もない。

 彼に必要なのは、飼葉と寝床とターフだけなのだ。

 ハルトは呼吸を整え、一度だけ、鞭を振るう。

 身の程をわきまえぬ暴挙だと十分に理解しながら……


 このメテオスティールであれば、どんな騎手が乗っても勝てる。

 ただし、条件がある。

 彼に乗って敗北することだけは許されない。

 そして、勝負に臆することはなおさら許されない。

 鞍上に逃げ場などない。進むか、落ちるかだ。


「この直線はお前だけのものだ。存分に喰らい尽くせ」


 鞭は一打。

 ただその一打で、限界まで引き絞った弓に番えられた矢の如く、流星はターフを飛翔する。

サブタイの元ネタは、某有名作品のオマージュです。


「天才はいる。悔しいが」 出典:2011年JRAのCM トウカイテイオー編より


帰省しますので、次の投下は翌年1月3日12:00を予定しております。

皆様良いお年をお迎えくださいませ。

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