第十二話 地上を翔ける星の名は
クリスティン・ベイオルフは孤独な戦いを強いられていた。
彼は、ティータ・ディングランツに対して、その身を焦がすほどの恋愛感情を抱いているわけではない。
ただ、愛さなければならないと思っているのだ。
人として、裏切りは恥ずべきことだ。
騎士として、困難には立ち向かわねばならない。
男として、女のために戦わなければならない。
ここで逃げること以上に失う名誉などあるものか。
旗色が悪いからと言って、か弱い少女一人を放り出して逃げ出すような男に何ができる?
しかし、その程度の単純な理屈が、彼の実家には通じない。
助力を要請しても「縁を切れ、お家を危険に晒すな」と冷たく突き放されるだけ。
頑として己を曲げないクリスティンに、父は言った。
そこまでいうのなら、自らが先陣を切って戦え、と。
勝負に勝てば、リゲル・アドモスを排除し、あの放蕩公爵の面子を潰すことができる。
勝負に負ければ、クリスティンに潔く身を退かせられる。
どちらに転んでもベイオルフ家には都合が良い。
老獪と言えば聞こえが良いかも知れないが、それはクリスティンをいたく失望させる命令だった。
いいだろう。
ならば戦ってやる。
もはや実家には何の期待もしない。
自分が貴族の範を示してやる。
頼りになるのは、彼のパートナーだけ。
いまだ人間の軍門に降る気配を見せぬ、小さくも誇り高きサラブレッド。
しかし、それは他の何よりも彼の愛馬にふさわしかった。
--
――リュヴァイツ辺境伯家 上屋敷――
リュヴァイツ辺境伯ベルナールの持ち馬、リトルファヴニールが決勝進出を決めたのは、王都大賞典を二週間後に控えた日の第八レースだった。
最近王都に出回るようになった競馬新聞とやらの記事に目を通し、その内容にベルナールは胸をなでおろす。
「やれやれ、これでなんとか面目がたったわい」
「おめでとうございます。閣下」
リトルファヴニールは牝馬と見紛うばかりの小柄。サラブレッドでありながら、馬体重はアベル種と同程度。しかし、気性には大きな問題を抱えていた。
先のレースでは騎手を振り落とし、サラブレッドでありながら惨敗している。
しかし、ならばと、スズカの主戦騎手であったクリスティン・ベイオルフが名乗り出たのだ。結果、天才は見事に荒馬を乗りこなし、滑り込みで決勝進出を決めたのである。
「あれも良い馬ですよ。いままでは良い騎手に巡り会えなかっただけでしょう」
すでに決勝進出を決めている優勝候補の一頭セラフィエルの馬主にして騎手、ディアネイラ・ヴァルトブルクが世辞を述べる。
そして、「これで役者が揃いましたね」と不敵に笑った。
「ベイオルフ伯爵には大きな借りを作ってしまったな」
「結果さえ出れば伯爵家の名声も上がります。お互い様なのでは?」
「結果さえ出れば、な……」
ベルナールにとっては大きな賭けだった。
嫡子に怪我をさせていたら、伯爵家との関係も悪化していたかもしれない。
「クリスティンも引くに引けますまい。
なんでも、あの男に決闘を申し込んだとか……」
彼も腹に据えかねていた。それはリゲル・アドモスやディングランツ公爵に向けてではなく、不甲斐ない大人たちに対する反発でもある。
最低でもサラブレッドに乗らねば、スズカには勝てない。
ゆえに癖馬リトルファヴニールの騎手を自ら願い出たのだ。
「まったく……
若いやつは向こう見ずだのう。
こちらは貴族なのだか大上段に構えておけばよかろうのに」
「あまり放置していれば取り返しの付かないことになりましょう」
「そんなことは王家に言え……
もとはといえばあのバカに鈴を付けておかぬからこういうことになる」
いかに手におえぬとはいえ、王族を放置したのがそもそもの失態である。
家など持たせずに王城で飼い殺しにしておけば、家臣が苦労することもなかったのだ。
「イレーネがいくら有能でも小娘一人に丸投げしておけばこうなることは自明だろうに……
あれもなまじ優秀なのが問題だ。周囲の期待に応えることが必ずしもよいこととは限らん。
人間はすぐに調子に乗るからな。ゴブリンよりも度し難い」
期待に応えれば、次からはそこが基準になり、ますます窮屈な思いをすることになる。
過ぎたるは及ばざるが如しだと、ベルナールは愚痴をこぼす。
「お偉いさんのご意向など、話半分に聞いておけば良いのさ。
……ま、しばらくは静養させてやれ。
悪いようにはせん。少し時間はかかるかもしれんが、あのスズカという馬も必ず取り返してやる」
ベルナールの言葉には嘘はない。
彼は、自分が凡人だと知っている。
ゆえに鮮やかな一本勝ちなど狙ったりはしない。
寝技に持ち込み、じわりじわりと確実に自分のペースに引きずり込むのだ。
「ところで、彼はどうしています?」
「ナイトハルトか……
あいつもまだあがくつもりだよ。
どうやらガキどもの尻拭いをするのが、儂の役目のようだ」
その時、執務室の扉を叩くものがあった。
執事がうやうやしくも足早に近づいてきて、ベルナールに耳打ちする。
「なんだと!? すぐにお通しせよ」
どうやら来客のようだ。
しかし、このリュヴァイツ辺境伯ベルナールを慌てさせる程の人物とは誰なのか?
やがて車椅子を転がしながら、その男はやってきた。
「……ジークフリート殿! いやはや、いつ王都にお越しで?」
「ついさっきだよ。
陛下から一度顔を出せとご下命を受けた以上、参勤せぬわけにもいかんだろ?」
一代で貴族にのし上がった英雄卿ジークフリート・クロウフォーガン准男爵。
矍鑠とした老人ではあるが、ベルナールが最後に会った三年前にくらべれば衰えは否めない。
「ご子息には会われんのですか?」
「忙しそうだからな、今は……
そちらの方は、もしやディアネイラ・ヴァルトブルク子爵かな?
噂通り、いや噂以上にお美しい方だ」
「お会いできて光栄です。英雄卿」
クロウフォーガン准男爵は、王都の然るべき場所に滞在するらしい。
準男爵にもかかわらお忍びで出歩かねばならぬのは、彼くらいだ。
「例の件について、ずいぶんと骨を折ってくれたそうだな?」
「骨折りというほどのことではありませんぞ?
儂はいくつかの書類に署名をしただけですからな……」
「つまりそれだけの仕事を卿の配下がやってくれているということだろう。
頭が下がる思いだよ」
やはり親子だ。
ただ身分に媚びへつらうのではなく、敬意を表し方を熟知している。
「彼らを褒めるのも、責任を取るのも儂の仕事です。
軍師殿は策を授けてくださればよいのですよ。
むろん、地位が欲しいとおっしゃるのであればいつでも椅子をご用意しますが?」
「そんなに私を早死にさせたいのかね?」
英雄は愉快そうに笑った。
お互いに勝手知ったる仲である。
知己を得られればとディアネイラは思ったが、今日のところは退散したほうがいいかも知れない。
「閣下、私は席をはずたほうがよいですか?」
ベルナールが常芳の顔色を伺うが、英雄卿は上機嫌に笑う。
「別に構いませんぞ?
聞かれて困る話はいたしません。
まぁ、年寄り同士の話でございますので、若者にとってそう面白い話ではないかもしれませんが」
ベルナールが顎をしゃくると、秘書官が図面を広げた。
王都競馬場の走路の設計図だ。
「今後、何百年も続いていく伝統となる。しっかりと造ってもらいたいものだね」
「ずいぶん途方もない未来を見ておられることだ」
「我が子らが忠勤を尽くす国なのだ。
そのくらいの繁栄を夢見てもよかろう?」
「かなり難しいコースだと、軍の騎兵隊もうなっておったとか……」
「図面をみるだけでそれがわかるなら、なかなか優秀なようだな」
「みな注目しておるようですよ。王都大賞典」
「観客には、楽しんでもらえばそれでよい。
卿が考えねばならんのは国策だ。
騎兵の時代は直に終わる」
「さよう。
しかし、物資の輸送や、情報の伝達に馬匹はより重要なものとなりましょうな」
いずれはこの世界でも内燃機関が発明されるだろうが、常芳はそこまで歴史の針を勧めてやる気はない。
発展途上国への技術援助と同じで、身の丈にあっていなければ技術は人を不幸にするだけだということを彼はよく知っているのだ。
「それで、頼みがいくつかあるのだが……」
それほど無茶なことは言ってこないだろうと確信しつつも、「自分にできることなら」と前置きをした上でベルナールは承諾した。
「まず、今日連れてきたサラブレッドを一頭登録していただきたい。
サンディ・サイレンス卿の名前でな……」
無論、この男が何の策も携えずに王都に出てくるわけがないのだが……
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スズカの調教役を降ろされたレオンハルトは、居候先のリュヴァイツ辺境伯の下屋敷で馬の世話をして過ごしていた。
心穏やかなわけでもないが、腐っているわけでもない。
厩仕事など、騎士見習い以来だ。思い返せば、見習い時代の自分は世話をすることよりも、如何に馬を自在に操るのかばかり考えていた。
ナイトハルト・クロウフォーガンに比べれば、自分はずいぶんと雑に馬を扱っていたような気もする。
いくら丁寧にやっても彼と同じような仕上がりにはならないのだ。
ただ、あの美しい栗毛の仕上がりは、日本製のグルーミングセットや馬用のシャンプーという文明の利器の威力だということを、レオンハルトは知らないのだが、なんとか彼の技術に近づこうとレオンハルトは初心に返って努力を始めたところだった。
レオンハルトは、セドリックが王都に連れてきたサラブレッドについて毛色や流星の形、骨格の構造、蹄の角度まで全て記憶している。しかし、その日、スズカと入れ替わりで馬房に入った馬は、彼の記憶にはなかった。
「サラブレッド………もう一頭いたのか?」
良い馬だということはひと目でわかった。
青鹿毛に、鼻梁にまで流れる形の良い流星。
馬体はやや薄いが、前後のバランスは美しいほどに取れている。
何より、その目の輝きがレオンハルトを惹きつけた。
「良い馬だな」
若いサラブレッドは人懐っこい性格のようで馬房から首を出す。
「スズカの兄弟にあたります。
さすがにこれは差し上げるわけには参りませんが……」
と、セドリックはやや冗談めかして、青鹿毛を紹介してくれた。
以前スズカに兄弟がいたら欲しいと言ったのが伝わったのだろうか?
しかし、「お金がない奴は馬を買ってはならない」という彼の言葉を今のレオンハルトは痛感している。
金がなければ馬一頭すら守れないのだ。
「これもレースに出すのですか?」
「はい。王都大賞典に出すために連れてまいりました」
「スズカにも勝てますか?」
「騎手の腕、如何でしょうな」
決勝進出を決めた馬はもう十頭を超える。
連盟の推薦があれば予選は免除されるが、いまから準決勝に出るとなるとかなりギリギリだ。たとえスズカと同格であったとしても、リゲル・アドモスに勝つのは難しい。
「騎手はだれが?」
「手の空いている方が一人おられるでしょう?」
クリスティン・ベイオルフか?
たしかに一番有利な騎手ではあるだろう。
しかし、かれはリュヴァイツ辺境伯の持ち馬、リトルファヴニールで決勝進出を決めたばかりだ。
「どうです?
乗ってみませんかな?」
「僕が乗ると彼が怒ります。馬が怪我をするとね……」
他の馬術競技ならばともかく、流石にレースとなるとレオンハルトでは勝てる気はしない。
「全力疾走でないのなら問題はございませんよ。
馬が怪我をしやすいのは前足ですが、坂路であれば……」
セドリックは視線を外に向ける。
郊外の丘陵へ向かって真っ直ぐに伸びるのは、出来上がったばかりの訓練用の坂路である。
「さほど追い込まなくても、後ろ足と心肺機能を鍛えられます」
「なるほど……
しかし、僕を乗せてあれを登れるかな?」
リュヴァイツ辺境伯は数年後サラブレッドが増えたときのことを見越している。
しかし、今、あのコースを上りきれる馬はいない。
持久力に優れたアベル種ですら途中で失速し、立ち止まってしまうほどの急勾配であり、現段階では無用の長物といえる先行投資だった。
「まぁ、ものは試しか……」
レオンハルトは青鹿毛に馬装を整え、その鞍にまたがった。
思っていたより安定感があり、ゆっくりとした駆歩はスズカに比べればやや落ち着いている。騎手の意を汲んで歩いてくれる。
ただ、走路へと入ると、レオンハルトは青鹿毛から気炎が立ち上るのを感じた。
この見上げるほどの上り坂に臨んでも、彼は尻込みするどころか闘志を燃やしているのだ。いかに走るのが好きな動物だと言っても、人を乗せ、鞭に打たれ、限界まで走らされることを好む馬はそういない。
しかし、この青鹿毛はその例外とも言える一頭だった。まるで、獲物を狙う猟犬の如く、ただ騎手の合図を待っている。
合図を受けると、一度だけ小さな嘶きの声を上げ、青鹿毛は駆け出した。
徐々にスピードを上がると、レオンハルトは昂揚と共に臍を噛んだ。
「――こいつッ!」
強靭な後肢が生み出すのは、まるで異次元の推進力。
柳のようにしなやかに地面を掴み、青竹のように弾み、前へと進んでいく。
人並外れた膂力を持つはずのレオンハルトが御しきれない。新兵のように無様にしがみついているだけで精一杯だ。
走ることが好きでたまらない。
それはいかなる伯楽の手であろうと、どうにも矯正できぬこの馬の悪癖だった。
走る喜びに比べれば鞭打たれることも、己の蹄が裂けることすら苦ではない。
彼にとって屈辱とは、ただ同族の後塵を拝することのみ。
人の指示に従って走ることで、自分がより速くなることを賢い彼は知っていた。
重いものを背負えば、力がつく。
急な坂道を登れば、速さが身につく。
そして、人は自分に知恵を与えてくれる。
それが如何に己を異質たらしめ、孤独たらしめるかも自覚していた。
ただそれのみに特化してしまえば、生き物として脆弱になっていくことすら察していたのかもしれない。
だが、それでも構いはしない。
走ればあの見果てぬ丘の向こうへ行けるのだから。
誰も見たことのない景色にたどり着けるのだから。
そして、全速力で走った時の流れる景色ほど、この世に美しいものはないと彼は確信していた。
走ることが彼のすべてなのだ。
「……一体、なんなんだ? こいつは……」
その純粋なまでの在り方を、鞍上のレオンハルトは思い知った。
手綱から伝わるのは、何一つ混じり気のない闘争心。
馬は後ろから迫りくる捕食者から逃れるために進化した動物のはず。だが、彼は前しか見ていない。
ただ、前へ、前へ、前へ、前へ!
まるで空へと昇るように、青鹿毛は坂を駆け上がっていく。
坂の頂にたどり着いたのち、ようやく青鹿毛は歩調を緩める。
そして、まだ走り足りないとばかりに自らゆっくりと坂を下るのだ。
「いかがでしたかな?」
セドリックが問う。
いかがだと?
答えはわかっているだろうに……
湯立つほどの汗をかきつつも、荒くなった呼吸はほんのわずかな時間で元に戻っていた。
「…………こいつは、本当に馬なんですか?」
「おやおや、鹿に見えますかな?」
「ご冗談を……」
問うまでもない。レオンハルトもすでに確信している。
こいつこそ、最高の優駿。完成された競走馬。
そして究極のサラブレッドだ。
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装鞍所の前でクリスティンは、ナイトハルト・クロウフォーガンと二週間ぶりに再会した。
「実家に逃げ帰ったんだと思ってましたよ。ハルトさん」
「そりゃあ逃げ帰りたくもなるね。
ディングランツ家にそこまでの義理はないし、ここにいたって打つ手なしだったんだから」
クリスティンは不満を顔に出しつつもそれを言葉にしようとは思わない。
公爵家に裏切られてまでクロウフォーガン家にはティータを助ける義理はない。
クリスティン自身も実家から言われたことである。
「そっちこそ、リゲル・アドモスに決闘を申し込んだんだって?」
しかしクリスティン自身は手袋を投げつけてしまった以上、もう後には退けない。
決着を付けなければならない。
もちろん負ける気もない。
いま彼女の味方になってあげられるのは自分だけなのだ。
「仕方ないじゃないですか。
みんな頼りないんですから……」
リトルファヴニールは、まるでその闘争心が乗り移ったようにハルトを威嚇してくる。調教後にかかわらず力が有り余っているようだ。
ハルトは困ったように肩をすくめた。
「私も卿に苦情を言いに来たんだ。
せっかく策を講じたのに、勝手に一人で勝負を始めてしまったから予定が台無しだ」
「予定?」
そこへレオンハルトが一頭の馬を曳いてくる。
リトルファヴニールほど小柄ではないが、細身の青鹿毛馬だ。
「こいつを取りに行ってたんだ。
本来なら卿に乗ってもらう予定だったがな」
そこまで速いというのだろうか?
あのスズカやセラフィエルよりも……
「速いんですか?」
「ああ。なんでもこいつだけは譲ってはくれんらしい」
曳き手を取るレオンハルトが自信に満ち溢れた様子で応える。
なるほど考えてみれば当然だ。
真打ちが手元にあからこそ、二番手三番手を譲渡することができる。
では騎手は、誰だ?
ふとクリスティンはハルトの様子が以前と代わっていることに気づく。
厩務員が馬に乗ることはよくあるので、騎手以外でも拍車を履いていることは珍しくないのだが……
「ハルトさん? 少し痩せました?」
「絞ったんだよ。こいつに乗るためにな……」
以前のハルトの体重は58キロ。
それを今は、54キロにまで絞っている。決勝当日までにはせめてあと2キロは絞りたい。
あとは、せめて自分に競馬学校の一年生ぐらいの技術と体力があればいいのだが……
「ハルトさんが乗るんですか?」
「他にいない」
「まったく、なんて羨ましいやつだ」
「ふざけんな。マジしんどいんだぞ……」
毎週レースがある騎手は、節制によって50キロ前後の体重を維持している。
しかし、ハルトは減量と体力トレーニング、スキルの習得を同時にやらねばならない。
ハルトがやっているのはほとんどボクサーの減量なのだ。
ここ二週間、ハルトは自分の肉体をいじめぬいていた。
筋肉をつけながら体重を落とすため、食卓からは炭水化物が消えた。
いくら体育会系ではないとはいえ、その努力を全て無意味なものにはしたくない。
「じゃあな。決勝で会おう。クリスティン」
決勝への切符はあとわずか。
ここまでやって負けてやる気などさらさらない。
今から決勝に出るとすれば、次のレースに勝たねばならない。
だがそれが決して不可能ではないと思っているから、踏み出したのだ。
「安心しろよ。ナイトハルト。こいつなら誰が乗っても勝てるさ」
「だからこそ怪我でもさせたらそれこそ取り返しがつかないんだよ!」
こいつに乗るのに必要なのは、おそらく努力ではない。
万一のとき、末代までA級戦犯扱いされる覚悟が必要だ。
その爆発物処理を任されているようなストレスに比べれば、肉体的な苦痛など大したことではないとすら思える。
「何なら僕が乗っても……」
「絶対にやめろ」
騎手は、俺しかいないのだ。
その矜持を胸に、ハルトは鞍上に上がる。
その瞬間、ナイトハルト・クロウフォーガンは非公式ながら、その青鹿毛の二人目の主戦騎手となった。
決勝戦は、一週間後だ。
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王都競馬場を緑に囲まれた自然豊かな場所の真ん中にある。
宙に浮く気球から王都競馬場を俯瞰すると、すこし捻じ曲げたゼムクリップのような形をしていることがわかるだろう。
大賞典決勝では大外回りのコースが使用される。
スタートからは長い直線が続くので内枠だから有利であるということはない。
ただし、400メートル地点から1000メートル地点にかけては高低差10メートルの上り坂が待ち構えている。そこからは下り坂になるのだが、調子に乗ってスピードを出せば罠に嵌り、ゴール前の直線で失速する。
もちろんその設計にはこちらの世界の人々にとって知られざる意図があるのだが……
「ああ、これ絶対にオヤジの差金だ。
なにが、全部息子に任せるだ。完全に自分が裏で糸引いてるじゃねーか」
「あら? 気づかれたのですか……」
もはやいつどこからかぐやの声がしようとハルトは驚かない。
「このコースを見て、気が付かんわけがないだろ!」
常芳の目的はこの国に競馬を根付かせることではない。
おそらく、このときのための仕込みだ。
すべては、彼にこのコースを走らせるため。
その執念たるや最早常軌を逸している。
「てめぇの道楽のために、隠し子の俺にここまでやらせるか……」
「良いではないですか、お館様の余命はそう長くはございません。
残りの余生は好きにさせてあげても……
あの方が天命を全うされたら、今度はハルト様が好きになさればよろしいのです」
ハルトには別にやりたいことはない。
分相応の人生を送るつもりだ。
しかし、そんなコトを口にすれば、今回のように望んでいない仕事をやらされるのがオチである。
「………今はただ、このレースに勝ちたいよ」
「それでようございます。
では、ご武運を……」
かぐやが消えるのとほぼ同時に、ディアネイラから声をかけられた。
キュロットパンツ姿も実に似合っている。
「誰と話していたんだ?」
「……知らない人です」
「ほう? 卿は知らない人と異国の言葉で話せるのか?
私はてっきり君は馬の言葉が話せるのかと思ったぞ?」
どうやら、かぐやの姿は見られていないが、日本語で話していたのが少し聞かれていたらしい。
「……勘弁して下さいよ。発走前に」
「そうか、ならゴールしたあとで尋ねるとしよう。
一緒に食事にでも行かないか?
私に勝ったらおごってやる。私が勝ったら卿のおごりだ」
まるでノムさんばりの心理作戦である。
どうやら勝つためなら何でもやる人らしい。
まぁ「二人きりで」とは一言も言っていないから、どうせ家族・友人同伴でというオチだろう。
「考えときます。
そんなことより勝つ気でいるんですか? あのリゲル・アドモスに……」
「あいつはまったく問題ない。
ただスズカに勝てるかどうかはわからん。彼の潜在能力次第だ。
卿はどうだ? 勝算なく出てきたわけでもなかろう?」
「まぁね」
パドックから馬たちが返ってくる。
『やってまいりました!
本日のメインイベント! 第一回王都大賞典です!
さて、我が国最速の栄冠は一体どの馬の頭上に輝くのか!?』
ここ一ヶ月の広報の努力もあり、競馬はすっかりと王都に定着していた。
かつて古代帝国で行われていた剣奴同士の殺し合いよりも、遥かに経済的で、平和的で、生産的な見世物である。
貴族たちの真剣勝負の場であり、庶民たちの娯楽だ。
馬が走れば、馬券が飛び交い、酒が売れ、穀物が売れ、経済が回る。
中にはギャンブルに依存する者もいるかもしれないが、いま王都に仕事はいくらでもある。
必死に走る馬の姿に、人々は英雄の姿を幻視する。
たとえ馬で破産しても、そこまで惚れ込んだものであればこそ、馬を恨むことはできないのだ。
その最強の馬を決めるための祭典が、今、開幕する。
『さぁ、いよいよ、本馬場入場です!!
まずは1番スズカ。
危なげなく決勝に進出してまいりました。
鞍上をリゲル・アドモスに変えたことが果たして功を奏するか!』
陣営に波乱があったことはすでに貴族たちにとっては周知の事実。
ティータ・ディングランツへの同情から、スズカを応援する者はいない。
しかし、雲上人のお家事情など知ったことではない庶民にとって、スズカの人気はいまだ根強い。この日も単勝1.8倍の一番人気だった。
ディングランツ公爵は、その日、馬主席にいた。
挨拶に来るものはいるが、談笑をしようとする者はいない。
どの貴族も、冒険者の小娘を左右に侍らせてレースを観戦する様を眉をしかめながら遠巻きに見ているだけだった。
「お館様」
「おお、イレーネか。
もう良いのか? 体の具合は……」
「はい。一月近くもお休みをいただければ十分でございます」
もっとも戻ってきたところで、公爵家に自分の居場所などないのかも知れないが。
「それより、お館様はこのような催しはあまりお好きではないと思っておりましたが?」
公爵は豪笑する。
走路では、クリスティンが輪乗りを始めたところだった。
『そして、天才クリスティン・ベイオルフを鞍上に迎えて覚醒か!?
5番、リトルファヴニール!!』
鞍替えしたとは言え、クリスティンはいまだにディングランツ家のために勝利を捧げるつもりでいるらしい。
「男児に生まれて馬が好きでないはずがないだろう!
しかも、ベイオルフ家の小倅が小癪にも婿殿に挑戦状を叩きつけてきよった。
実に興の乗る催しだ!
男児たるもの、戦わねばならんからな!
ワッハッハッハ!!」
イレーネはそれを否定したりはしない。
自分の価値観が普遍の真理だと言うつもりもない。
しかし、あまりの感性の違いにめまいを憶える。
「お館様は、本当にあの男を、当家に婿として迎えられるおつもりですか?」
「真の勇者であれば、吝かではない。
このレースの優勝者には一代限りとはいえ、女王陛下から直々に騎士の称号が与えられるという」
平民だからといって差別する気などさらさらない。
その功績がある者を潔く認められるのも貴族の度量だろう。
ただし、それは他人の功を横取りしたものでなければの話だが……
「わかっていよう?
戦いとは博打であり、冒険だ。
そして、勝者こそが勇者であり、結果こそが正義だ。
それに比べれば王侯貴族の伝統など守るべき価値もない!」
『スズカへの雪辱なるか? 7番、セラフィエル!
鞍上は紅一点、ディアネイラ・ヴァルトブルク!』
「戦わぬ者には未来はない」
その言葉を聞いたとき、イレーネの打ち拉がれる。
自分一人が戦い、果てるのならそれでいい。
しかし、巻き込まれた者たちはどうなる?
支えてきた家臣たちを裏切るつもりなのか?
騎士や貴族は力なきものを守るためにいるのではないのか?
もうこの人にはついていけない。
そう決心したとき、背後からしわがれた声がした。
「………ならば、公爵閣下……
一つ、賭けをいたしませんかな?」
---
『あーっと! ゼッケン18番!
騎手を振り落としています!? 大丈夫でしょうか?』
どよめく会場の声など最早どうでもいい。
輪乗りの最中にハルトがダートに振り落とされると、レオンハルトが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫か? ナイトハルト」
「……大丈夫だ。
スズカで落馬には慣れてる。
しかし、くそ、本気で根に持ってんな。こいつ……」
我慢すれば起き上がれないこともないが、強烈な背負投げを食らったようなものだ。
「急になんでだ?
調教で僕が乗ったときは優等生だったぞ」
「私が乗ってると思うように走れないからだ!」
「体重は君の方がずっと軽いはずだろう?」
「先週の準決勝では抑えたからな。
こいつはそれを憶えている」
彼は走ることが好きで好きでたまらない。
次のレースが楽しみでたまらない。
その彼からラストスパートの機会を取り上げるということは、眼の前でデザートを取り上げらるようなものなのだ。
青鹿毛は、耳をくたりとさせ乗り手に対する不平不満を主張していた。
「あ~、それでふてくされてるってわけか……
難儀なやつだなぁ」
「こいつにはレース外の事情まではわからんからな」
先週は楽に勝てたレースだから、ハルトはあえて全力は出さなかった。
怪我でもされたら、関係者各位に申し訳がない。
練習嫌いなサラブレッドであれば喜んでいたのかもしれないが、彼は特殊なのだ。
しかも、そのとてつもなく高い学習能力が災いしていた。
今、ハルトは騎手として彼にまったく信用されてないのだ。
「せっかくの大舞台なのに、なぜいつもの騎手が乗ってくれないのかと抗議してやがるんだよ。こいつは……」
「いつもの騎手?」
「………とある経験ゆたかでレベルのたけぇ人だ」
付け焼き刃のハルトの技術など、トップジョッキーとは比べるべくもない。
「じゃあそいつを連れてくればよかったんじゃないのか?」
「簡単に連れてこれたら苦労はしないよ」
というか、そもそもなんでこいつが異世界なんかに来ているのか?
勝手に連れてきて日本競馬界は今とんでもない事態になっているのではないか?
「一番いい馬を頼む」と言われたとしても連れてくるか、常識的に考えて。
もちろんこれも高薙常芳から引き継いだ遺産の一つには違いない。
しかし、まさか、あの日弘前弁護士から渡された遺産目録にこんなものが入っていたとは……
あれに目を通していなかったのハルトにとっての最大の失策だった。
「大丈夫さ。
そんなに走るのが好きな馬なら、ゲートに収まりさえすれば落ち着くよ」
レオンハルトはずいぶんと彼に気に入られたようだった。
二人の間には速くも不思議な信頼関係のようなものが構築されている。
暴れ馬をなだめる彼の姿はまるで、馬の愚痴を聞いてやっているようだ。
「知らないってのは羨ましいな。つくづく……」
「なんのことだよ?」
レオンハルトの補助を受けてハルトは再び鞍上に這い上がる。
スズカの鞍上から、リゲル・アドモスがあざ笑った。
「おいおい。
それ、鐙の位置が高すぎるんじゃないのか?」
「………ほっといてくれ」
この男と交わす言葉などハルトにはない。
言いたいことは結果で語ればよいのだ。
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「レオンハルト!」
ハルトたちを見送ったレオンハルトを一般観覧席から呼び止めたのは、幼き主君だった。
警備上問題ではないかと思ったが、傍らにはセドリックがいる。護衛としては十分だろう。
「ティータ様?
馬主席にはいらっしゃらなかったのですか?」
「私はもうスズカの馬主ではありませんから」
自信なさげなティータを励ますようにレオンハルトは言った。
「スズカの馬主はティータ様です。
それを証明するために、あいつはレースに出る決心をしたんですよ」
「でも先程、落馬していたみたいですが……」
「大丈夫、レース中でなければ問題ありません。
それにあいつは落馬には慣れてますから」
なんとも不安になる励ましだ。
ティータでさえ落馬したことはほとんどないのに……
「でも、レースに勝ったってスズカをお父様から取り戻せるかどうかは……」
「取り戻せますよ。そのための手は打っております」
自信たっぷりなまでの老執事の言葉に、レオンハルトとティータは顔を見合わせる。
「お二人とも、我が主が稀代の策士であるということをお忘れですか?」
レオンハルトはスズカを取り戻す策については何も考えていなかった。
ただ、あの忌々しいリゲル・アドモスの面子を潰してやりたかった。
そして、純粋に『サンディ・サイレンスの最高傑作』とやらの真の実力を見たい一心で協力していたにすぎない。
その役目は、たった今終えたと言っていい。
あとはレースの観客になるだけだ。
「それ一体どのような策ですか?」
「それはいずれわかること……
いまはサラブレッドたちの真剣勝負をお楽しみくださいませ」
あの軍師殿があるというからにはなにか策があるのだろう。
自分たちが詮索してもなにか事態が動くわけではない。
レオンハルトはセドリックの意を汲んで話題を変えることにした。
「レースの展開はどうなります?」
「そうですな。
まず、スズカが逃げ、レースを引っ張るでしょう。
あの馬はスピードを長く持続することに長けています。
スタミナに優れ、闘争心の強いリトルファヴニールがそれを追う。
セラフィエルはその二頭を中盤から狙う形になるかと……。
そして他の馬は残念ながら、実力的に論ずるに及びません」
「そう……なのですか?
サラブレッドは皆速いのだと思っていましたが……」
「他の種に比べれば格段に速うございます。
しかし、サラブレッド同士のレースを経験し、その限界を知る騎手は、何人おられますかな?」
クリスティンはスズカに乗り、その能力を知っている。
ディアネイラはそのスズカとあえて初戦でぶつかることで経験を積んだ。
リゲル・アドモスはそれを知らずとも、異能の力によって、その能力を限界まで引き出すことができる。
しかし、他は実力の劣る在来種としか戦っていないのだ。
「……では、あの黒い馬は、えっと……何といいましたか?」
「メテオスティールでございます。姫様」
「メテオスティール?」
「古代語で『流星の鉄』という意味だとか……
しかし、あの馬も主導権争いに加わることはございません」