第九話 ゼロから始める出来レース
嵐のような夜が明けた。
あの後、ディングランツ家で何が話し合われたのかは、部外者であるハルトが知る由もないし、興味もない。
話し合いは深夜まで続いたらしいが、生き物相手の仕事を休むことはできない。
ハルトが馬房の掃除を終えたところで、レオンハルトがスズカの朝の調教を終えて戻ってくる。
昨夜のことを語りたがらないということは、レオンハルトにとってあまり愉快な話ではなかったらしい。ハルトはスズカを洗いながら、障りのなさそうなことだけさりげなく問うことにした。
「この世界では竜に乗れるんだな」
「知らなかったのか?
南方大陸には竜を操る術があるという話さ。
まぁ、馬を飼うよりも遥かに費用がかかるだろうが……」
牧草や飼料用の雑穀は比較的どこででも手に入る。
しかし、大型の肉食獣を飼うのは大変だろう。都市で毎日肉を食べられるのは金持ちだけだし、農村にとって羊や豚の肉は、冬を越すための蓄えだ。
動物園のライオンは一日に5キロの肉を食べるという。体重1トンはあろうかという飛竜であれば、その数倍は必要になるかもしれない。
「その費用は、ディングランツ家が支払うのか? それとも王城が?」
「わからん。
公爵様は軍事利用できれば国益になるなどと、軍人たちを説得するつもりらしいが……」
苦し紛れにしか聞こえない。軍事の専門家ならその程度のことはすでに考えているだろう。
研究させたうえで非効率という結論が出たから運用されていないのだ。
その程度のことは容易に想像がつく。
「宙に浮くだけなら浮遊の魔術がある。
数十、数百と編成できるのなら話は別だが、ドレイク一頭で戦況を覆すことはできんよ。
渡り鳥のように長い距離が飛べるというわけではないしな。
幸い冒険者組合には捕獲した魔獣用の頑丈な檻があり、しばらくはそこで預かってもらえるそうだが、もちろんタダではない。組合に手間賃と危険手当を支払い、餌代も公爵家持ちだ」
イレーネもさぞ頭を抱えているだろう。
当主がこんなことをしているから、ディングランツ公爵家には金が無いのである。
「肉食だから、飼い方をしくじると死傷者が出るかもしれんな」
「大丈夫なのか?
餌が足りずに厩舎が襲われたりするのがゴメンなんだが……」
「ないとは言い切れん……と、僕は反対した」
そんな面倒な王族であれば、王城が疎遠になるのも当然だ。
女王にしても、親族の我儘であるからこそ賛同してやることはできないだろう。
「よほどの好事家の諸侯でもなければドレイクなど飼おうとは思わないだろうな」
「卿の姉上でもか? 何やら興味がおありだったようだが?」
「勘弁しろ。いくら家を出たからって、実家の家臣たちに恨まれたくはない。
君のところだってそうだろう?」
いくら資産家でもトラやライオンを飼育しようとは思う者は稀だ。
せっかく空を飛べる騎獣だというのに、まるで不良債権のババ抜き合戦である。
「まぁ、ウチも金はないよ。
サラブレッドなら出せるが、それを金貨に変えることができるのはイレーネだけだ」
実際は彼女だけということはない。
他の取引相手に乗り換えればいいだけの話だ。
つまり、クロウフォーガン家はまだディングランツ家に義理立てするという意思表示である。
「………それを聞いて安心したよ。
君は味方でいてくれるんだな?」
「もちろん。
スズカに可能性を見出したのは、ティータ様と、卿と、そしてイレーネの手柄だ。
乗り馬にしていた私の手柄ではないさ」
レオンハルトは苦笑いする。
ハルトはスズカの実力を知っていた。
スズカの馬房と餌を管理しているのはハルトだ。スズカを常に万全のコンディションでレースに送り出しているのは、ハルトの功績であることは疑いようもない。
ハルトにしてみればJRAが一般公開している資料に基づいて馬の世話をしているだけだが、素人であるからこそ手抜きがない。
そもそもこの世界の人間の馬の世話は、雑すぎる。餌にしても一日一日体重を測り、与えるということをしない。
刈り取ってきた牧草を桶に詰め込んで与えるのが一般的だ。
人間にすら栄養学という概念すらまだ未発達なのだから仕方がないのかもしれないが、最大の原因は、この世界は馬社会だからだろう。
この世界の一般的な人々にとって、馬とは走る芸術ではなく、少々雑に扱っても働いてくれる家畜なのだ。
「ディングランツ家には今後も協力するつもりだ。
だが、主導権があの公爵様に握られるというのなら話は別だぞ?
ウチも冒険はできないからな」
レオンハルトたちを信頼はしているが、釘は差しておかねばならない。
豪放磊落といえば言葉はいいが、あれは甘い顔をすればつけあがるタイプだ。
たとえ後世、歴史家から漢の高祖・劉邦のごとく語られたとしても、今クロウフォーガン家がお近づきになってやる必要はない。
「わかっている。それだけはイレーネが全力で阻止する。
だから、彼女は当分、公爵様にかかりきりになる。
レースについては僕たちだけですすめることになるが……」
「大会の運営を連盟に引き継がせておいて正解だったな」
その大仕事を放棄するのはイレーネにとって苦渋の決断だっただろう。
厄介者がかえってこなければ、彼女にはこの国出始めて近代競馬を企画運営したという輝かしいキャリアが積みあがるはずだったのだ。
そして、そんな苦労をしらない招かれざる客がやってきた。
「………やぁ、御両人。何の話をしているんだい?」
若々しい声の主は、公爵閣下が婿養子として大見得を切ったリゲル・アドモスだ。
色気づいた連れの女冒険者二人は、貴族の屋敷に滞在するには少々憚られる格好だ。
そこに人間的な魅力を感じなくなったのは、ハルトの感性もだいぶ貴族になってしまったからだろう。
レオンハルトが露骨に不快感を顕にしたが、ハルトは第一印象だけで人品を適切に判断できるほど自分を聡明だとは思っていない。
「レースの事さ。こちらからも質問したい。
卿は、正式にディングランツ家の家臣となられたのか?」
「いいや」
「なら言えない。
部外者には重要な情報は教えてやれない。
家の名誉をかけた真剣勝負だからな」
もし、あの放蕩公爵がリゲル・アドモスに勝手に略式でも剣を与えていれば、家臣ということになる。
しかし、もし「家臣になった」と答えたら、ハルトは「新参者であれば馬術指南役の指示に従え」と言うつもりだった。
はいと答えてもいいえと答えても、展開は同じ。
勇者にはふさわしい二択である。
「悪く思わんでくれ。
卿だって、仲間でない者に仕事の情報を教えたりしたら信用を失うだろ?」
「まぁな。しかし、そう邪見にしなくてもいいだろう?」
邪見という以前に身分が違う。
ならば、とハルトは情報をあえて教えてやることにする。こういう下手に好奇心の強い相手こそ、欺瞞情報を流す絶好の相手だからだ。
「なら質問には答えようか? 重要なことは教えてやれないが……」
「もしかして、ディングランツ家から出場する馬は、巷で話題のスズカか?」
「そりゃあ愚問というやつだ」
「乗り手は決まっているのかい?」
「クリスティン・ベイオルフ。名前ぐらい聞いているだろ?」
「噂の天才少年か……」
すでに四戦四勝無敗。
馬が良いということもあるが、若干十歳でサラブレッドを乗りこなせるのは彼の才能であり、絶対に負けが許されない勝者総取り競走で勝たせ続ける仕事は紛れもない一流ジョッキーの証である。
レオンハルトでさえも今更自分のほうがふさわしいなどという気はない。
しかし……
「俺の腕前を試してみないか?」
「は?」
ハルトは一瞬、彼が冗談で言っているのかどうか判断が着かなかった。
どうやら相当な自信家のようだ。
「俺の腕を試してみてくれ」
「それは王都大賞典に出場したいということか?」
「そうだ」
「出場条件は読んでいるか?」
「いいや」
レオンハルトが鼻白む。
ルールブックぐらい読めというのは、正論だろう。
「八百長を禁じるため、王都大賞典には出走馬は一門から一頭しかだせないんだ」
「ならば、俺をそのスズカとやらに乗せてみろ、今の騎手よりもきっと速い!」
「何を言い出すんだこいつは……」
「それには及ばん」
「なぜだ?」
「図体がでかいからだ。態度もな……」
レオンハルトが挑発すると、二人はまるでゴング前のボクサーの如く無言でにらみ合いを始めた。
ハルトが慌てて割って入る。
「まぁ、待て、レオンハルト!
リゲル・アドモス、君もだ。
遠路はるばる公爵家の結束を乱しに来られたのか?」
「リゲルの腕が、あんな子供より下だっていうの!?」
「貴族だからって、平民より優秀だとは限らないわ。勝負させてみなさいよ!」
取り巻きの女冒険者が気色ばむと、リゲルは悪びれもせず肩をすくめる。
下手におべっか使いがいるとタチが悪い。
しかし、女にモテたことのない自分がそれを揶揄しても負け惜しみにしか聞こえないので、ハルトは女どもは相手にしないことにした。
ハルトは所詮、村人Aだ。
勇者様にとって有益な情報をくれてやるだけだ。
わざわざ勇者様ごときに対抗してやる必要などない。
「……誤解しないでくれ。
レオンハルトは、卿を見下しているわけではない。
卿を無能だと決めつけるわけではないし、身分も全く関係がない。
実績を出しているクリスティンを差し置いて、他人を乗せるわけにはいかないだろ?
卿のようにスズカの騎手に立候補してきた乗り手は何人かいるが、すべてお断りした。
理由は3つある」
自薦他薦の騎手たちを断るのに何度も述べた口実だ。
「まず、1つ。
襲歩競走において体が小さいというのは、ひと目で分かる才能だ。
体の大きな騎手はそれだけ馬に負担がかかるのは自明だろ?
そして、2つ目。
レースは、よーいドンで始まるわけではない。
馬と騎手を選んだ時点で競争はもう始まっているのさ。
スズカという若い馬をここまで育てたのは、クリスティンの実力であり、手柄だ。
たとえ卿の方が腕が上だったとしても、これまでのクリスティンの手柄を取り上げる訳にはいかないし、今更乗り手を代えたら訓練を最初からやり直さなければならない」
リゲルから反論がないことを見計らいハルトは止めの3つ目を告げる。
「そして3つ目だ。
そもそも、卿の目的は、ご自分の腕前を披露することだろう?
ならば、すでに実力を証明された馬に乗っても、その目的は達成できないのではないか?
下手をすれば、公爵に取り入ってクリスティンの手柄を横取りしたなどと噂されるかもしれない。
それは卿にとって不本意なはずだろ」
「なるほど、確かにもっともな言い分だ
……まぁ、ダメでもともとで聞いてみただけだけどな」
レオンハルトは、今にも飛びかかりそうだ。
ダメでもともとで貴族にケンカを売らないでほしい。刃傷沙汰は御免だ。
「理解してくれて嬉しいよ。
王都大賞典に出場したいのであれば、予選ステークスを勝ち上がる必要がある」
「予選?」
「予選に出場するだけなら平民でも外国人でも可能だよ。
賭け金は出走者が積まなきゃいけないけどね。
レースに10頭出場すれば、賭け金が10倍になって返ってくるしくみだ。
それを二回勝ち抜けば、準決勝進出が決定する」
連盟の推薦があれば予選は免除され、準決勝からエントリーできる。
スズカの場合は実績は十分なので、予選に出場することはない。
「ま、早い話が篩がけだ。
準決勝からは、上位入賞者に連盟から賞金が支払われる。
公爵様の馬主の紹介を頼んでみてもいいかもしれないが、自分の目で良い馬を見つけ、予選から勝ち上がっていくのも実力の証明になるんじゃないかな?
今、大賞典の噂を聞きつけて馬商人たちが続々と王都にやってきているから……」
働き者には、自分の能力を自覚するまで働いて貰うに限る。
自分の無力を自覚できたならそれでいいし、自覚できなかったら遠くに行ってもらおう。
ハルトはプライドの高さを見込んで、もう一押し挑発しておくことにした。
「野心があるのは結構だが、慣例破りをするのなら、実力の劣る馬を勝たせるぐらいのことをしてもらわないと周囲は納得しない。
まだ無名だったスズカの能力を見抜いたのは、ここにいるレオンハルトだよ。
名を上げたいのなら、他人の功を横取りするのではなく、一から自力で成し遂げることだ。
たとえ決勝まで勝ち上がれなくても、相応の実力を示したのなら、卿を雇ってもっとよい馬に乗せてみたいという馬主もでてくるだろう」
「なるほどな。よくわかった」
「ご健闘をお祈りする」
よほど自信があるのか、勇者リゲル・アドモスは不敵な笑みを浮かべて踵を返した。
取り巻きの女たちが不満そうに、それに付き従う。
勇敢なる挑戦者を侮辱するほど、レオンハルトも野暮ではない。
というより、ハルトの弁論にやや溜飲が下がり、ようやく貴族の余裕というものを取り戻したらしい。
「……うまく厄介払いしたな」
「厄介払いじゃないさ。
公爵家の客人にそんなことができるわけないだろ」
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「私たちの目的は優勝することではありません。
王都大賞典を成功させることです。
もちろんスズカが優勝すれば一番良いですが、いちばん大切なことはサラブレッド競走の素晴らしさを皆さんに知ってもらうことでしょう?」
小公女ティータ・ディングランツから漲るのは、まさに女王の風格。
ディフェンディング・チャンピオンの貫禄だ。
「おっしゃるとおりです。ティータ様。
しかし、ご心配には及びません。
競馬に絶対はありませんが、たぶん勝てるでしょう。
他のチームにはクリスティンはいませんからね……」
実のところハルトもスズカの勝利は確信している。
この世界にはまだ騎手という職業はない。
大人が乗れば斤量は最低でも60キロを超えるが、小柄なクリスティンは40キロに満たない。重量が20キロも違えば、大きすぎるハンデだ。
クリスティンと同じぐらい馬術に長じている子供はまずいないだろう。
そして、その技術の向上は、ストップウォッチで――この世界ではオーバーテクノロジーなので秘密裏にではるが――計測したタイムに如実に現れている。
現役の競走馬と比較しても遜色のないタイムだ。これまでのレースがスズカの全力だと思ってくれたなら、確実に勝てる。
急ピッチで建設が進む王都競馬場。
決勝に向けて芝を育成中のため、王都大賞典予選はダートコースで行われている。距離は1600メートル。
ここで2勝した馬から勝ち上がり、決勝に進むことができる。
予選レースに出場する馬の大半はアベル種と呼ばれる西方の馬で、スズカが現れるまでは大陸最速と言われた軽種だ。
第3レースでは、セドリックが領地から連れてきた一頭が出てくる。
アベル種の中にあって、一回り大きく筋骨隆々としたサラブレッドが、軍務卿ロンデンベルク伯爵によって、ゲオルグと名付けられた鹿毛・7歳の牡馬。もちろん、一番人気。
ホークウィードで生産された生え抜きのサラブレッドだ。驚くべきことにサイアーラインをたどると20世紀のクラシック三冠馬に到達する。
日本では外国産種牡馬に駆逐された血統なのだが、クロウフォーガン領では数十年前から馬好きの常芳が趣味で集めたスターホースの子孫が生産されている。
おかげで、最早日本では幻となった血統が揃っていたりするのだ。
名馬の子だからといって才能を受け継いでいるとはかぎらないが、合理的理由もある。
地球とは違い遠方から新たな種馬を連れてくることが容易ではないこの世界では、近親血統ばかりを集めてしまう方が、はるかに問題なのだ。
「さぁ、スタートしました! 順調な滑り出しですが、ああっと、速くも一頭抜け出した」
サラブレッドはゲートがスタートの合図であることを本能的に知っているのかもしれない。
ゲオルグだけが騎手が指示するより速く、見事なスタートを決める。
「先頭は6番ゲオルグ。ひときわ大きい馬体。
一気にトップを取りました。2位との差は2馬身、3馬身、4馬身!
どんどん差が開いていく!
後続を大きく引き離す!
今ようやく二番手、9番オリオンビー、11番カーマインが続きます!」
実況も熟れてきて、これぞ競馬という形ができあがっている。
「………速いな」
「他に比べりゃね。
真の実力はサラブレッド同士で走らせてみないとわからないよ」
ゲオルグの場合、調教法も完全にクロウフォーガン家の手前味噌だ。
七歳馬にしてデビュー戦。
それでも余裕で勝てる。それがサラブレッドのポテンシャルである。
「今一着でゴールイン! ゲオルグ圧勝!
やはり、サラブレッドは圧倒的! スズカだけではなかった!!」
タイムは日本のダートレースと比べても、平凡以下。
他が弱すぎて全力を出すまでもないレースだったのでハルトには評価の仕様がない。
しかし、生粋の軍人であるロンデンベルク伯爵はご満悦だった。馬主席から丁重に退席し、お供を連れて勇戦した愛馬と家臣をねぎらいに向かう。
「おめでとうございます、閣下!」
「いやはや、すごい馬ですな」
「うむ。実に、良い買い物をした」
一番の馬ではないかもしれない。しかし、他の馬たちに比べて、サラブレッドは圧倒的に速い。しかも、あれだけのスピードで走ってまだ余力がある。
それこそがこの国の軍人にとっては何よりも喜ばしい事実なのだ。
「実に良い馬だ。
神経質と言われていたが、こやつの力はそれを補って余りある!
これこそ私が求めいていた種馬だ」
「おっしゃる通りでございます!
このゲオルグの種から、より優れた軍馬を育成できるでしょう。
従来の軽種と掛け合わせれば、軽騎兵の機動力向上も期待できますし、重種と掛け合わせれば力と速さを併せ持つ馬車馬を作り出しせるかもしれません」
国力が豊かになれば馬の役割も代わってくる。
一騎当千の勇者が敵陣に切り込む時代は終わりつつあるのだ。
馬匹の改良は軍人たちにとって急務であった。
「実に楽しみですな!!
なにより、これ一頭持っているだけで、これからは馬商人どもに足元を見られません!
安馬を高値で売りつけにきたら、名馬の何たるかを見せつけてやれば良い」
軍人たちは豪笑する。
日本では馬は所詮、経済動物。
たとえGⅠ馬だろうが継承種牡馬の産駒が結果を残さねば、その血脈は絶えてしまう。
しかし、こちらの世界では、レースに一番になれなくても、馬は最も優れた移動手段であり、貴重な労働力であり、人間の大切なパートナーだ。
究極の一頭は必要ない。
彼の血はサラブレッドではなくなってしまうかもしれないが、子孫を残すチャンスに恵まれたということはゲオルグにとってよいことだろう。
生き物は、子孫を残すことができれば勝利といえるのだから……
「やれやれ、あやつも子供だのう」
そんな軍務卿を見下ろせる位置にいるのは、リュヴァイツ辺境伯である。
若い側近たちを引き連れ、馬主席からレースを俯瞰していた。
「閣下。お言葉ですが、大事なことは人物として魅力的かどうかだと思います」
「若造が……知ったふうな口をきくでない。
あまり度が過ぎると増長しておると顰蹙を買うぞ」
「肝に銘じます。
……ところで閣下の馬は、まだ出場されないのですか?」
「まだ騎手が見つからんのだ。
他の馬より一回り小さいくせに、気性は人一倍荒くてのう。
まぁ、この分じゃあ、大賞典には間に合わんかもなぁ……」
「閣下は、ずいぶんとのんびりなさっておられるのですね」
「走り出した馬車にはなんとか乗ることができた。
目的は達成しておる。もう焦る必要はない。あとは全て家臣に任せるだけだ」
家臣に好きにやらせ、結果を出した者を褒めるだけで良い。
まさに、理想的なまでの無能な怠け者。統治者のお手本のような人物であるとハルトは彼を評価し、それは自他とも認めるところであった。
若い秘書官が尋ねる。
「その目的とは?」
「何だと思う?」
彼にも、若くして俊英とうたわれ、辺境伯の秘書官という地位を勝ち取った自負がある。主君に問われ、わからないと応えることは自身の矜持が許さない。
「国威発揚と経済の活性化だと考えます」
「外れてはおらんが漠然としすぎておる。もう少し知恵を使ってみよ」
ティータが歓声を上げる。
「当たりました!」
「お、馬連だから12倍ですね。おめでとうございます」
八百長防止のため、調教師や厩務員が馬券を買うことは禁止されているが、馬主が買うことは禁止されていない。
「このウマレンとかフクショウというのはなんなのですか?」
「単勝は1着の馬番号を当てるだけですが、複勝は、1着と2着の組み合わせを当てます。
そして、馬連は、1着と2着の馬番号を当てるんです。
馬連が一番当てるのが難しく、配当金も高くなります」
「理屈はわかりますが、ちょっとややこしいですわ。なんでこんなことをするんです?」
「一番人気の馬が強すぎると、単勝馬券ばかり買われて元返しなっちゃいますからね。
純粋にその馬を応援している人たちならそれでいいかもしれませんが、ギャンブル好きな人にとっては面白くないでしょうし、なにより主催者が収益を得られません。
馬の世話をするには、人材が必要です。
そして人を雇うのにはやはりお金が必要になりますから……」
馬券の売り上げと配当金の計算式については、算学の専門家に研究させる必要がある。
消費者に馬をよく知ってもらうために、競馬新聞を発行すると、今までほとんど日の目を浴びなかった活版印刷という技術が威力を発揮する。
競馬はあらゆる専門家の技術や知識が必要となる、まさに公共事業だ。
「……でナイトハルト。
貴様は答えはわかったか?」
どうやらハルトも研修中の側近の一人にカウントされているらしい。
側近たちが答えられなかったので、ハルトにお鉢が回ってきた。
自分が答えを出せなくても誰も困らない質問には正直に「わかりません」と答えておきたい。
しかし、それが許されるのは、最初の一手でアホの子を演じることに成功した賢明な連中だ。
しかたがない。
辺境伯の目的はおそらく、国家戦略レベルの話なのだろう。
国威発揚と経済の活性化が外れてはいないのなら、それを具体的に言ってみればいい。
「まず、いろんな人に仕事を与えられるという大きな利点があります。
単に単純労働を割り振るのではなく、一等賞になるという極めて単純な目標に向かってそれぞれの技術を磨いていくために、徒弟制度の中で厳格な秩序ができあがる。
人々を熱狂させる力で、畜産学の研究も活発になり富国強兵にもつながるでしょう」
「どのような経緯で富国強兵を達成するか、より具体的に言ってみよ」
「馬の主食は牧草。
栄養を補うために燕麦、大麦なども与えます。
私は、おやつとしてニンジンやリンゴ、ハチミツなども与えていますが……
牧草の中で馬の食いつきが最もよいとされるのはウマゴヤシです。
これは、クローバーやレンゲソウと同じマメ科の植物ですので、土を豊かにします。
燕麦や大麦も、比較的寒冷地でも育つ救荒作物。
さらに、馬はそれらを食って毎日出すモノを出します。
飼育し、繁殖させるには広大な土地が必要となり。
そして、その広大な土地に点在する開拓村に物資を輸送するのはやはり馬です」
家畜の飼料や、家畜が出す厩肥を輸送するものはもちろん馬だ。
田畑が広がれば、街道の整備にも今以上に投資がなされるだろう。
「人々が馬を買い求めるようになれば、人の活動領域が広くなり、食料生産量も上がる。
食い物は国力です。あればあるほど人を養える。
余った穀物は家畜に食わせれば良い。
家畜が増えれば、その世話をするのに人手が必要になる。
さらに、その人々を教育しなければいけなくなりますので……」
「……ふむ。40点と言っておこう」
なかなか満点はもらえないものだ。
他人に完璧を期待する方も理不尽だが。
「貴様の言ったことは間違ってはおらん。
加えて補足すれば、だ。
たいていの庶民は自分の衣食住が満たされたらそれ以上働こうとは思わん。
それ以上の働きをするよう庶民に啓蒙するには、手本がなくてはならん」
辺境伯はウィナーズサークルに立つ、サラブレッドを指さして言った。
「あれは速く走るために生まれてきた馬だろう?
そういう馬を選んで、交配させ、淘汰し、作り出されたからだと貴様の父上から聞いておる」
「はい。間違っておりません」
「必要以上に頑張るなど、効率性から考えれば甚だ無駄なことだ。
競走で一番になったって、馬にとっては餌が増えるわけでもない。
しかし、美味い飯を食いたい。美味い酒を飲みたい。速い馬を育てたい。立派な城を作りたい。美しい美術品を作りたい。
人々のそんな思いを吸い上げて国は栄えてゆくのだよ。
たかが馬のお祭りのため、人は甲斐甲斐しく働き、英雄の登場に熱狂し、友と酒を酌み交わし、夜を語り明かす」
黒毛和牛が味覚で人を楽しませるために品種改良された牛なら、サラブレッドはレースで人を楽しませるために品種改良された馬。
どちらも人間のエゴが生み出した家畜だという点では変わりはない。
しかし、調教師、厩務員、装蹄師、レース場を作る土建屋の親父、落書きのような仕様書だけで発馬機を制作してくれた町工場の職人、大会を盛り上げてくれるスタッフ、日増しにスキルを上げていく実況アナウンサー、楽隊、イベントコンパニオンの女の子。
ここでは人間が馬に仕事を与えるのではない。目につくだけでもこれだけの人間が馬に仕事を与えられている。
「国には英雄が必要なのだよ。
人間が英雄であれば、かならずどこかで不平不満が聞こえてくるが、物言わぬ馬が主役だとどんなプライドの高い男も自ずから脇役に徹するのだ」
たしかに、馬がちやほやされていても、それに嫉妬して脚を引っ張ろうとする馬鹿はいない。
「よく覚えておけ。
国の豊かさとは、保有する金貨の枚数ではない。
人々の仕事に対する情熱の総和だ」
どんな理由であれ人が誠実に働けば、信用が創造され、経済が回る。
競馬による経済効果ではなく、馬という家畜を最大限に利用した経世済民。
さすがは政治貴族といったところだろう。
「………さすがにそこまでは考えておりませんでした。
そこまで回答できて100点ですか……」
「いや。そこまで実現できて100点だ。理屈だけでは50点だな。
しかし、貴様はこうやって道半ばまでは実現はしておる。大したものだよ」
「実現したのはイレーネの手腕でしょう。
私は自分が周囲の顰蹙を買わぬよう、できるだけ多くの人間を巻き込んで利益を享受させてしまえなどと不埒なことを思いついただけですから……」
みんなが期待通り働いてくれただけなのだ。
実際ハルトは何もしていない。
「さーて、次は本日注目のレースです。
ゼッケン1番はスズカ!! 言わずとしれたサラブレッド第一号!
エフテンマーグの馬術大会に彗星の如く現れ、四戦四勝無敗の強さを誇っています!
騎手は天才クリスティン・ベイオルフ」
クリスティンが輪乗りを始めると、黄色い歓声が飛ぶ。
美少年騎手は保護欲を唆るのか年上のお姉さまがたに大人気だ。
そればかりはティータも不本意そうだったが……
「そして、注目は、8番セラフィエル!!
先のゲオルグ同じくサンディ・サイレンス男爵より、ヴァルトブルク子爵家に譲渡された期待のサラブレッドです。
本日がデビュー戦ですが、大胆不敵にも、いきなり不敗の王者に挑んでまいりました。
騎手は、オーナーであるディアネイラ・ヴァルトブルク子爵その人です!!」
こちらも女性に大人気だ。
ディアネイラは、女性騎士を目指す若い子たちのカリスマ的存在でもあるらしい。
もちろん美人だから男性にも人気があるが……
もしも願いがかなうなら、俺は君の馬になりたい。
そういう覚悟が完了している人たちの気配がある。まぁ、封建社会だからいいのだろう。
セラフィエルはたしかに良血統で実績もあるが、鞍上のディアネイラがわずか一週間でサラブレッドの特性を把握したとは考えられない。
馬術に長けているとしても競走馬のジョッキーとしては素人も同然。やはりスズカのほうが優勢だろう。
それを理解できないディアネイラでもないはずであるが……
「なんでいきなりぶつけてきたんだろうな?」
「どうせ、いつかはぶつかる。ならば今ぶつかって実力差を図るべき。
自他の戦力を把握できなければ、決戦には望めない……というのがあの人の持論だからな」
負けることを恐れていない。
なんとも勇敢なことだ。
あの美貌でそれができれば人気の高さもうなずける。
「つまり、決勝では勝つつもりなのか?」
「姉上は稀代の負けず嫌いだからな。
悔しいが、騎乗技術も僕以上だよ」
馬に関しては嘘を言わないということがレオンハルトの心情らしい。
仮にも公爵家の指南役の彼にそこまでいわせるというとは、実際、ディアネイラの腕は確かなのだろう。
ティータは、それ以外の出場馬をオペラグラスを覗き込んでいる。
「アベル種は世間で言われているほど、速くはないのですね」
たしかに、サラブレッドに比べると走りに力がない。
「大草原を何日もかけて旅するのなら、あれはとても良い馬ですよ。
しかし、さすがにこの距離でサラブレッドの相手は無理でしょう」
近年の研究では遺伝子と馬の距離適性の相関性が認められている。
日本のサラブレッドは約半分が中距離が得意であるが、クォーターホースには短距離向きが多く、アラブ種は長距離向きが多いらしい。細身の体型から察するに、アベル種という馬もおそらく長距離型だろう。
中距離型同士の掛け合わせでは、中距離型が50%、短距離型と長距離型がそれぞれ25%の確率で生まれてくるが、長距離型同士の掛け合わせでは突然変異でないかぎり長距離型しか生まれない。
つまり、アベル種は1600メートルのダートには間違いなく向いていないのだ。
「まぁ、この国まではるばるやってくるアベル種には、さほどの良馬はいませんよ。
馬産地では二束三文の安馬です」
レオンハルトは悪辣に言うが、その事情は察するに余りある。
旅には危険がつきものだ。高額な馬を仕入れて輸送中に何かあったら、馬商人は破産するしかない。
そもそも、安く仕入れて、手間暇をかけて運び、高く売るのが商売の基本だ。
ハルトも日本で結果を出せなかったサラブレッドを仕入れてきてさばいたのだから、人のことは言えない。
「さぁ、各馬ゲートに収まりました」
12頭のうち、8頭がアベル種。そのうちの一頭11番のノーザンクロスの鞍上が、スズカの騎手に自薦してきたリゲル・アドモスだったということを、ハルトはスタート直前に知った。
「一斉にスタート!!
先頭は11番ノーザンクロスだ!! 先頭集団を引き連れてコーナーに突入します」
序盤先頭を取ったのはノーザンクロス。鞍上はリゲル・アドモス。
アルベル種の中にも速い馬がいてもおかしくはない。
しかし、その現象はあまりに異質だった。
「………なんだあれは?」
「ああ、あれは予想以上に……」
ひどすぎる。
乗馬の初心者であるハルトにも、乗り方が上手い奴はひと目で分かる。
上級者は重心が安定し、膝を柔らかく使って衝撃を殺し、馬本来の走りを邪魔しない。
ディアネイラやクリスティンの騎乗がそれだ。
「……あれでなぜ、走る?」
天神乗りなのはまだいい。
問題は馬との呼吸は合っていないということだ。その重心は馬が一歩を蹴るたびに激しく上下している。なのに、ノーザンクロスはまるで何かに取り憑かれたように、馬群の最前列にいた。
あれでスピードが出るということがハルトには理解できない。
「………魔術だな」
「魔術?」
「系統はわからんが獣を意のままに操る類の術だ。通常は怯える馬を落ち着かせるのに使うのだが……」
「大丈夫なのか?」
「なわけがない。
馬本来の能力を限界を越えて引き出している。
通常のアベル種ならスタミナ切れを起こすペースだ」
見るに堪えないと、レオンハルトは激昂して立ち上がり、叫んだ。
「何をしている! 姉上! クリスティン!!
さっさと、とどめを刺せ!!」
大歓声にかき消されたその叫びが、二人に聞こえたとは思えない。
しかし、それに応えるように最後の直線に入ると、二頭はならんでノーザンクロスを抜き去った。